木ノ下城は、木曽川南岸の国宝犬山城から南方1kmにある犬山市役所前の愛宕神社一帯にあった。神社境内が主郭となり「木ノ下城跡」の小碑がある。その南方に二曲輪、三曲輪が構えられ、東側と北側に堀跡があり、城の規模は南北200m、東西200mほどの正方形であったといわれ、中世の城としては大きい方に属する。愛宕神社の本殿が建つ高さ3mほどの高台は、木ノ下城の主殿跡であるといわれている。境内にある古い井戸は金明水と呼ばれ、神社の南西約100mの大榎の下にある銀明水と呼ばれる井戸とともに、当時の木ノ下城域に掘られたものである。また、白巌水と彫られた手洗石が置かれているが、白巌とは木ノ下城の最後の城主である織田信康(のぶやす)の号名である。
室町時代の文明元年(1469年)尾張守護代の織田敏広(としひろ)が美濃国の斎藤氏に備えるために、於久地城主で弟の織田広近(ひろちか)に木ノ下城を築城させて守らせた。広近は、この地方の地頭職だったと考えられている。この頃は、応仁・文明の乱の最中で、山名宗全(そうぜん)が支持する斯波義廉(よしかね)と細川晴元(はるもと)が支持する斯波義敏(よしとし)が尾張国守護職をめぐって京都で争っていた。尾張国は、義廉派で下津城(稲沢市)の織田伊勢守敏広と、義敏派で清洲城(清須市)の織田大和守敏定(としさだ)が同族同士で争い、伊勢守側の織田広近は、斯波義廉を助けるために上洛することもあった。文明11年(1479年)織田敏広と織田敏定は和睦し、岩倉城(岩倉市)の織田伊勢守家と清洲城の織田大和守家で尾張国を分割統治することとなる。
長亨元年(1487年)室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ)は、近江国守護職の六角高頼(ろっかくたかより)が押領した荘園の返却命令を無視したため、全国の守護大名に六角氏討伐を命じ、自らも軍勢を率いて近江国に出陣した。世にいう「鈎(まがり)の陣」である。尾張国守護職の斯波義寛(よしひろ)に従って、岩倉城と清洲城の両織田氏の軍勢も近江国に出陣しており、このとき織田広近も従軍していた。六角高頼は本拠の近江観音寺城(滋賀県蒲生郡安土町)を捨てて甲賀郡に退却する。六角氏は甲賀忍者を使い、夜襲や放火などゲリラ戦を展開し、幕府軍を大いに悩ませた。織田広近の陣所も放火され、鷹2羽、馬3頭、武具家具などを焼く損害が出る。長亨3年(1489年)足利義尚は陣中で病没するが、甲賀忍者に刺殺されたとの俗説もある。
天文6年(1537年)織田信長の叔父にあたる織田信康は、木ノ下城の要害性が低いことを懸念して、木曽川南岸の三光寺山に犬山城(犬山市犬山北古券)を築いて移った。このため、約70年間続いた木ノ下城は廃城になる。その後、永禄7年(1564年)織田信長が犬山城に籠もる織田信清(のぶきよ)を攻める際、木ノ下城に信長が宿営したことを『武功夜話』は伝えている。真宗四ヶ寺(本龍寺、西蓮寺、圓明寺、浄誓寺)が寺内町に集まっている。これらは木ノ下城の北側の防衛のため、中世に創建されたものであるが、のちに木ノ下城が犬山城として木曽川南岸の三光寺山に移ると、この城の南の防衛拠点となった。中世の合戦において、寺は砦として利用されることが多かった。(2004.12.30)