木田余城(きだまりじょう)

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離反の疑いによって粛清した信太範宗の居城を接収した小田氏治の新たな本城

木田余城の主郭に立つ城址碑
木田余城の主郭に立つ城址碑

JR常磐線土浦駅の北方約2kmあたりが木田余城跡である。ここは霞ヶ浦北岸の標高約2mの微高地に位置し、低地との比高差は0.5m程度しかない。木田余城は、沼沢地に浮かぶ微高地を利用した戦国期の平城であった。そのため城の遺構はほとんど残されていない。木田余城跡の説明板が立つあたりが主郭跡であり、「中条(中城)」という小字を残す。城の範囲は東西約400m、南北約250mの規模で、周囲には堀があった。この辺りには、北側の「北堀」、南側の「南堀」、東側の「横沼」などの小字も残された。大手道は東に向かって開かれており、現在は農道となっている。昭和50年代後半までは、主郭の遺構の多くが残っていたという。現在は城跡をJR常磐線が縦断しており、さらに常磐線の電車を留置する土浦電留線の設置と水田の圃場整備事業に伴い主要な遺構は消滅した。木田余城跡の説明板の脇にある地下道のトンネルをくぐり抜けると、電留基地の施設の入り口に城址碑が立ち、その両脇に城主であった信太(しだ)氏の供養塔と思われる石造物がある。城址碑から線路を挟んだ反対側、西方約100mの蓮田の中に、信太八幡境内という場所があり、五輪塔3基が祀られている。これは木田余城主・信太伊勢守範宗(のりむね)と、後を追って自害した妻、息子の紀八の供養塔と伝えられる。この場所も木田余城内の一隅にあたる。信太八幡境内といわれるが神社は存在せず、宝積寺(土浦市木田余)が管理している。木田余城の周囲は広大な蓮田に囲まれている。見渡す限りの蓮田の風景だが、湿地帯の面影を色濃く残し、水堀をそのまま利用したと思われる地形も存在する。かつて、香取海(かとりのうみ)の一部であった霞ヶ浦湖岸周辺の湿地帯に浮かぶ水城の姿を偲ばせてくれる。霞ヶ浦に延びる砂洲上の集落とJR常磐線の線路が交差する第一浅間下踏切の周囲には、土塁跡と思われる墓地や、堀跡と思われる地形などが存在する。この辺りは、古絵図によると城域の北東隅にあたり、遺構である可能性は十分に考えられる。木田余城は、当初は台地上に築かれていた。木田余街道の北側、現在の土浦市木田余東台に「御りょう(ヨの下に大)」という小字があり、その坂下を「城ノ内(しろのうち)」と呼んでいる。ここも信太氏の居城であった。現在、土塁や堀跡は一切みられない。土浦市街地の北方、桜川北岸の筑波・新治(にいはり)台地の一部である木田余台は、土浦市内でも比較的古くから古墳が存在する場所である。昔ここに城があって、対岸に隣接する手野城(土浦市手野町)の方面から攻められたときに、地中より出土する板石を盾にして矢を防いだという口伝が残る。信太伊勢守範宗の時代に、より要害性の高い低湿地の木田余の地に、掘割を造って水城を築き、この新城に移ったと伝わる。『上杉家文書』の『小田みかたのちり』は、上杉謙信(けんしん)が小田城(つくば市)攻略に際して作成したもので、小田氏幕下の諸将の城と名前が記されている。これの「一、つちうら(土浦)すけのやつのかミ(菅谷摂津守)」に続く2番目に「一、きなまり(木田余)志たのいせ(信太伊勢)」とある。また、木田余城の近くからは、3千〜3千5百枚(約11kg)の埋蔵銭が出土した。木田余の埋蔵銭は、判別できた銭の年代や土器の特徴から、15世紀末から16世紀初頭頃の室町時代に埋められたものと考えられている。これらの銭は、中世の物価から見てもかなりの大金であった。木田余城主の信太氏は、信太郡の荘園である信太庄の庄司として常陸国に下向したのが始まりとされる。信太郡の成立は、奈良時代初期の『常陸国風土記』本文には残されていないが逸文にある。

逸文とは、原本は現在に伝わっていないが、他の書物などに引用されて断片的に伝わる文章のことである。飛鳥時代の白雉4年(653年)小山上(しょうせんじょう)の位にあった物部河内(もののべのかわち)と、大乙上(だいおつじょう)の物部会津(あいづ)らが、坂東惣領の高向大夫(たかむこのまえつきみ)に要請し、筑波・茨城両郡の700戸を分けて信太郡を設置したという。この信太郡の名称は、古代の信太国(しだのくに)に由来する。大塚古墳1号墳(美浦村)には、蝦夷(えみし)の征討へ赴いた黒坂命(くろさかのみこと)が葬られているとの伝承がある。この黒坂命は多(おお)氏の一族といわれる武人であるが、『常陸国風土記』にしか登場しない。現在の美浦村から霞ヶ浦を渡って石岡方面に進み、蝦夷を成敗しながら陸奥まで征服していったと考えられる。蝦夷との戦いに勝利した黒坂命は、凱旋の途上、多珂郡の角枯之山(つのかれのやま)に至ったところで病没した。それゆえ、角枯山を改めて黒前山(くろさきのやま)と名付けた。黒坂命の棺を乗せた車は黒前山を発ち、日高見国(ひたかみのくに)へ向かったが、葬列の飾り物は、赤い旗や青い旗がとりどりに翻り、雲の如く虹の如くに野を照らして、行く先々の道を輝かせたものである。それを見た人々は「赤幡垂(あかはたしだ)る国」といい、後に改めて信太国といった。黒前山は現在の日立市十王町黒坂にある竪破山(たつわれさん)のことである。この竪破山で亡くなった黒坂命の葬儀の列が向かったのが日高見国で、この地は現在の美浦村あたりといわれており、その後に蝦夷征伐が進むと日高見国は徐々に北へ移動して、岩手県の北上川流域になり、北海道の日高地方に移っていったのではないかとも考えられている。木田余城主である信太氏は紀氏の後裔といわれ、11世紀頃には河内国に拠点を置いていたという。仁平元年(1151年)平忠盛(ただもり)の妻・藤原宗子(池禅尼)は、常陸国信太郡西条を美福門院(びふくもんいん)に寄進して信太庄を立荘した。信太庄は、現在の土浦市南部、つくば市東南部、稲敷郡西部(阿見町、美浦村、牛久市東部、江戸崎町の大部分)が荘域に含まれ、北は桜川を境に南野庄と接する。そして、信太庄の庄司として紀貞頼(きのさだより)が常陸に下向し、信太郡下高津に居館を構えた。八郎貞頼の子・太郎頼康(よりやす)は信太氏を称している。養和元年(1181年)源頼朝(よりとも)の叔父で、信太庄を本拠とする志田義広(しだよしひろ)が頼朝に挙兵する野木宮合戦が起きたが、この反乱に信太庄司頼康は参加していなかった。藤原北家の流れをくむ八田知家(はったともいえ)は野木宮合戦の恩賞として信太庄、南野庄を賜り、常陸南部に進出した。『吾妻鏡』によると、文治4年(1188年)常陸守護・八田知家の郎従・庄司太郎が大内裏夜行番を怠けて投獄され、知家が脱獄させたと記されている。この庄司太郎とは信太頼康のこととされ、この記事から信太氏が八田氏の被官になっていることが分かる。八田知家の長男・知重(ともしげ)は小田氏を名乗った。小田知重の頃は、下野紀氏である益子氏系の今泉氏が小田氏の有力家臣で、これに並ぶ存在が信太氏であった。時代は下って、嘉元4年(1306年)小田氏5代当主・宗知(むねとも)が没した際、その後継をめぐって息子達が対立した。今泉氏は弟の手野知貞(てのともさだ)を、信太忠貞(たださだ)は兄の小田貞宗(さだむね)を支援し、結果、貞宗が6代当主になったことで、信太忠貞が小田氏の執事を務めることになる。しかし、この家督争いによって小田氏は常陸守護を取り上げられた。

信太氏はこの頃に本拠地だった下高津から木田余に移ったとされ、信太庄司から地頭職に代わっている。小田貞宗の子・高知(たかとも)は、北条得宗家に奪われた旧領の大半を引き継いだ足利氏への対抗から南朝方に与した。後醍醐天皇より「治」の字を賜り治久(はるひさ)と名乗った。この頃、信太宗房(むねふさ)が戦国期に頭角を現す菅谷(すげのや)氏の祖である僧・禅鉄(ぜんてつ)を見出した逸話が残る。村上天皇の後胤・赤松但馬守家定(いえさだ)の次男・次郎太夫則継(のりつぐ)は、父・家定の勘気を蒙り出家して禅鉄と号したという。この他に、後醍醐天皇から離反した赤松円心(えんしん)の子・氏範(うじのり)が、父と袂を分かち南朝方に従ったが敗死、氏範の養子となっていた弟の範元(のりもと)が禅鉄を号したという話もある。禅鉄は勧進聖として回国した。延元2年(1337年)菅谷原で信太宗房が急に硯を必要とした際、通りかかった禅鉄が硯を出し、桔梗の露を集めて硯の水とした。その機転に感心した信太氏は、還俗させて主君・小田治久に引き合わせた。禅鉄は菅谷紀伊守治範(はるのり)、その嫡子は伯耆守範定(のりさだ)と名乗り、桔梗を家紋とした。そして、小田氏の家臣となり、後に菅谷範定は、8代・小田孝朝(たかとも)から「孝」の字を賜って孝定(たかさだ)と名乗ることになる。興国2年(1341年)小田治久は北朝方の高師冬(こうのもろふゆ)に降伏、小田氏の所領は没収され、信太庄も師冬の支配するところとなった。その後、小田治久・孝朝父子は足利尊氏(たかうじ)に従い、北朝方の武将として各地を転戦しており、その功績により信太庄を含む八田知家以来の旧領を取り戻すことができた。ところが小山氏の乱に際し、小田孝朝が小山若犬丸を庇護したため、嘉慶元年(1387年)鎌倉公方と佐竹氏の追討を受けて信太庄を失っている。信太庄は関東管領山内上杉氏の被官・土岐氏が支配することになった。時代は下り、12代・小田成治(しげはる)が長男の治孝(はるたか)に家督を譲るも、明応5年(1496年)これに不満を抱いた次男の顕家(あきいえ)によって13代・小田治孝は殺害された。この内訌は、信太家範(いえのり)の長男・掃部助輔範(すけのり)が三男の政治(まさはる)を擁立し、小田顕家を討ち取って終息させている。14代当主となった小田政治は、娘(または妹)を信太輔範の次男である伊勢守範宗に妻として与えた。こうして信太氏は家中に強い影響力を持った。信太輔範は木田余の城ノ内に城を築いて本拠としていた。永正13年(1516年)小田政治は、菅谷勝貞(かつさだ)に命じて信太庄上条の若泉五郎左衛門を滅ぼしており、奪取した土浦城(土浦市中央)には、信太家範の次男・治部少輔範貞(のりさだ)を配置した。この信太範貞には子がなかったため、小田政治の命により菅谷勝貞を養子としている。大永4年(1524年)信太範貞が病没すると、信太勝貞が土浦城の城主となった。その後、勝貞の活躍はめざましく、菅谷姓へ復姓している。菅谷氏は勝貞、政貞(まささだ)、範政(のりまさ)と3代にわたって土浦城の城主を務めることになる。天文12年(1543年)小田政治は宇都宮氏との戦いが激化すると、信太輔範の長男・掃部助頼範(よりのり)を田土部から坂戸城(桜川市)に移して宇都宮氏に備えた。天文14年(1545年)宇都宮勢が坂戸城に押し寄せたが、信太頼範が奮戦して撃退している。時期は不明であるが、弟の信太範宗は平地に木田余城を築いて城ノ内から本拠を移した。木田余城は霞ヶ浦に近接し、周囲が深田であることから、守り易く攻め難い地形であった。

『菅谷伝記』には「常陸国小田の城主は讃岐守源政治と申て、累代の弓執(ゆみとり)にて武威関東に盛(さかん)なり、幕下には信太範宗、菅谷勝貞、其外所々の城主、武備厳重也」とある。しかし、小田政治が死去し、最後の当主となる15代・小田氏治(うじはる)に代わると、信太氏を取り巻く情勢は悪化していく。永禄5年(1562年)水戸城主・江戸忠通(ただみち)との戦いで信太和泉守重成(しげなり)が討死した。重成は信太輔範の三男といわれる。永禄7年(1564年)上杉謙信との第二次山王堂合戦の敗戦において、信太頼範が主君である小田氏治を小田城から逃して自害している。頼範の戦死によって小田家中における信太氏の求心力は弱くなり、菅谷氏が台頭した。永禄7年(1564年)小田城の落城時、信太掃部助治房(はるふさ)は佐竹軍に降伏した。その後は無二の忠臣を装うが、翌年に突然夜襲をかけて小田城を奪い返した。この計画は妻子にも知らせず、息子の喜八(きはち)は父の夜襲と知らずに小田城主・佐竹義斯(よしつな)のもとに駆けつけており、佐竹軍に捕縛され太田に連行されて処刑された。この信太治房は、信太頼範の長男・掃部助範勝(のりかつ)とされるが、木田余城主の信太氏ともいわれる。信太範宗の息子・紀八(きはち)とも整合するが不明である。『菅谷伝記』などの戦記物によると、信太伊勢守範宗は小田氏治から離反を疑われ、氏治の命で菅谷氏によって手野城または土浦城で誘殺された。諸書によってその時期は異なり、天文23年(1554年)8月とも、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いの後ともされる。殺したのは菅谷勝貞説や菅谷政貞説があり、殺されたのは範宗でなく和泉守重成とする説、さらに範宗と重成を同一人物とする説など、内容が錯綜している。『烟田日記』には、永禄13年(1570年)正月、氏治が「木田余城主信田某」を土浦で殺害し、木田余城に入ったと記している。また、『佐竹旧記』の手這坂の戦いに関する史料には、「信田伊勢守」が決戦を避けて撤兵することを氏治に進言したとある。しかし氏治はそれを受け入れずに開戦、大敗を喫して小田城まで失っている。この時、信太一族も多くの戦死者を出しており、このあたりが遠因なのかも知れない。信太範宗が殺されると、木田余城は小田城を失った氏治の本城となった。昭和55年(1980年)頃、中城(主郭)より「天下一」と陽刻された16世紀後葉の和鏡が出土しており、これは小田氏治が木田余城主だった頃のものの可能性があるという。一方、重臣・信太氏の粛清は、小田家の大きな柱を失う結果となった。以後、氏治は佐竹氏の攻勢を支えきれず、天正6年(1578年)7月に佐竹氏配下の梶原政景(まさかげ)によって木田余城は落城しており、徹底的に破却されて廃城となった。江戸時代前期の17世紀中頃、土浦藩主の朽木稙綱(くつきたねつな)が木田余城跡の湮滅(いんめつ)を惜しみ、宝積寺(ほうしゃくじ)を中城跡に移転させて城跡の保存に努めた。この宝積寺とは、鎌倉時代後期の嘉元4年(1306年)小田氏5代当主・宗知によって建立されたと伝わる。明治時代の迅速図には方形の形をした寺の境内が描かれており、戦国期も方形の城館であった可能性が高い。しかし、明治28年(1895年)日本鉄道の土浦線(現在のJR常磐線)が開通して宝積寺の境内地が分断され、明治36年(1903年)汽車の石炭が飛び火して宝積寺の本堂をはじめ全ての堂宇が全焼してしまい、500mほど北方の現在地に移転している。主郭跡(本堂跡)は水田の中に名残を留めていたが、昭和59年(1984年)国鉄の電留基地が設置されることになり、木田余城跡はついに湮滅した。(2024.05.06)

電留線横の木田余城跡の説明板
電留線横の木田余城跡の説明板

主郭跡から東に伸びる大手道
主郭跡から東に伸びる大手道

信太範宗夫婦と息子の五輪塔
信太範宗夫婦と息子の五輪塔

城域北東隅の土塁と堀跡の地形
城域北東隅の土塁と堀跡の地形

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