河越館(かわごえやかた)

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約5か月におよぶ武蔵平一揆の乱で中核として戦って陥落した河越氏累代の居館

河越館跡の石碑と西側の土塁
河越館跡の石碑と西側の土塁

河越館の遺跡は、現在の川越市街地の北西、入間川西岸に接する平地にあり、土塁および空堀跡が一部現存している。昭和46年(1971年)から昭和50年(1975年)にかけての川越市教育委員会による発掘調査の結果、遺跡は平安時代末期から南北朝時代にかけての関東武士の中世城館としてきわめて重要であるとして、昭和59年(1984年)に国の史跡に指定され、平成21年(2009年)には河越館跡史跡公園として整備されている。なお、館跡の南側は常楽寺の境内が占めている。『新編武蔵風土記稿』の上戸村常楽寺の項に「この寺、川越城の旧跡なり、又大道寺駿河守(政繁)砦の跡なりとも云ふ」とある。また同項でみられる挿絵では、四方を土塁で囲み、その東側に位置する常楽寺の北側には、三重の土塁が複雑に存在している。しかし、現在では、西側から北側にかけて鉤形にめぐる土塁と、東側の土塁の一部しかみられない。土塁の高さは1mから2.5mである。弥生時代から中世に至るまで、この地域一帯には南に延びる入間川の氾濫原を利用した大集落が広がっており、館はこの地域のほぼ北隅に立地している。そして河越館の北東の外堀は、かつては入間川に繋がっていたと考えられる。この館の成立は、桓武平氏の秩父氏から独立した河越氏が11世紀末から12世紀の初期に、入間川南東部に広がる条里の遺構に合わせて初めて2町四方に縄張りしたものと考えられてきた。しかし、館の南方約500mに位置する霞ヶ関遺跡、あるいは十数次におよぶ館跡の調査により、この地域を支配していた在来豪族と秩父一族とが結びつき、当地域一帯の経済的背景を基盤として館が発展したと考えるのが妥当であるという。現在までに館跡周囲の発掘調査が実施された結果、館の本体と考えられるものは、南北が約300m、東西はそれより小さく約240mの長方形の規模であったとされている。調査によって発掘された遺構は、堀、井戸、柱穴群、住居跡、溝、集石群など、古墳時代から戦国期に渡るもので、決して一時期のものではない。中世の防御を主とした「城」としての館であると同時に、古代からの「生活の場」でもあったことが窺える。また館の縄張りは拡張されたり、縮小されたりしており、館の成立から終末まで同一形態を保っていた訳ではないことが分かる。この館の領域を決定する最大の目安は、現存する土塁と堀の位置の相互関係である。こうして得られた結果は、『新編武蔵風土記稿』に記述されている常楽寺の絵図にほぼ合致している。井戸は53基も発掘されており、最古のものは古墳時代後期であるが、大部分は平安時代から戦国期に至るものであった。館周辺の竪穴式住居跡は平安時代後半で姿を消し、その後は高床住居の柱穴が数多く発掘されている。現在、河越館跡史跡公園には発掘調査に基づいて、河越氏時代の堀、井戸、塚状遺構が復元され、掘立柱建物跡の一部と山内上杉氏時代の堀跡を平面表示している。河越の地には、鎌倉幕府の有力御家人として名高い河越氏が城館を構えていた。桓武平氏流の平良文(よしふみ)を祖とし、坂東八平氏のひとつである秩父氏の嫡系にあたる河越氏は、武蔵国留守所惣検校職を相伝しており、この職務は守護代や目代に相当する重席であった。このため、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、鎌倉幕府の武蔵国政庁としても機能した。平安時代後期、秩父重隆(しげたか)または嫡子の能隆(よしたか)が河越の地に移り、在地豪族と結合して河越氏を興したと考えられている。河越氏は重隆を祖としており、その後は能隆、重頼(しげより)、重時(しげとき)、泰重(やすしげ)、経重(つねしげ)、宗重(むねしげ)と続いていく。

秩父重綱(しげつな)から家督と惣検校職を継いだ重隆は、重綱の次男であり、長男の重弘(しげひろ)は相続できなかった。重弘の嫡子である畠山重能(しげよし)はこれを不服として、久寿2年(1155年)源義平(よしひら)とともに大蔵合戦におよび、武蔵国の最大勢力であった重隆を討ち果たした。この畠山重能とは畠山重忠(しげただ)の父である。秩父重隆の嫡子である能隆は、葛貫別当を称している事から、武蔵国入間郡葛貫の葛貫牧、もしくは国衙の別当職にあったとみられる。畠山氏に父の重隆が討たれると、本拠である大蔵の地も奪われ、葛貫や河越の地に移って河越館を新たな拠点とした。永暦元年(1160年)河越能隆は開拓した所領を後白河上皇に寄進し、河越(河肥)荘の荘官となる。上皇は京都東山に新日吉社(いまひえしゃ)を祀った際、河越荘をさらに寄進しており、新日吉社領河越荘と呼ばれるようになった。現在、河越館跡より約1km西方にある上戸日枝神社(川越市上戸)が、京都より分祀された新日吉山王宮である。明治時代の神仏分離令で名を変えて現在に至るが、新日吉山王宮は河越荘の総鎮守として河越氏が崇敬したという。重隆が有していた武蔵国留守所惣検校職は、能隆が継いだという記録は見られないが、嫡子の重頼には継承されている。河越重頼の妻は、比企尼(ひきのあま)の次女(河越尼)であり、比企尼は源頼朝(よりとも)の乳母であった。永暦元年(1160年)源義朝(よしとも)の嫡男である頼朝は伊豆国に流罪となり、比企尼は治承4年(1180年)まで20年のあいだ頼朝に仕送りを続けた。頼朝は比企尼の次女を重頼の妻にすすめて結婚させ、武蔵で最も勢力のある河越氏との関係を深めた。比企氏の娘を娶った重頼も頼朝を援助している。治承4年(1180年)頼朝が伊豆国にて挙兵、河越重頼は秩父一族の畠山重忠の要請に応じ、江戸重長(しげなが)とともに平家に味方した。秩父一族は武蔵国の武士団数千騎を率いて、頼朝に味方する相模衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃しており、この衣笠城の戦いで城主の三浦義明(よしあき)を討ち取る。頼朝は石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れた。その後、安房で再挙し、勢力を回復して武蔵国に進出しており、武蔵七党をはじめとする武蔵国の中小武士団に影響力を持つ秩父一族を傘下に収めることに成功している。そして、寿永元年(1182年)源頼朝の長男である頼家(よりいえ)が生まれると、河越重頼の妻はその乳母になっている。重頼と長男の重房(しげふさ)は、寿永3年(1184年)宇治川の戦いで木曾義仲(よしなか)の軍勢を破ると、京都に入って後白河法皇の仙洞御所(せんとうごしょ)の警固にあたった。ついで、一ノ谷の戦い、屋島の戦いにも参加していることが『平家物語』に記されている。治承8年(1184年)一ノ谷の戦いにおいて重頼は、平重盛(しげもり)の子の師盛(もろもり)の首をはねて名声を轟かせた。この戦功により、重頼は伊勢国香取五ヶ郷の地頭職に任命されている。さらに、元暦元年(1184年)重頼の娘である郷御前(さとごぜん)は頼朝の媒酌によって源義経(よしつね)の正室になった。このように河越氏は鎌倉幕府の有力御家人として重用されたが、文治元年(1185年)義経が頼朝と対立して謀反を起こすと、縁戚である重頼・重房父子は連座して誅殺され、所領は没収、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移された。その後、頼朝は河越一族が義経に関与していないことを知ると、これを憐れみ、文治3年(1187年)後家となった河越尼(かわごえのあま)に河越氏の旧領である河越荘を安堵し、のちに重頼の次男である重時に継承された。

その後、河越重時や、重頼の三男である重員(しげかず)はしばらく逼塞していたようで、記録にも表れず、元久2年(1205年)畠山重忠の乱における北条義時(よしとき)が率いる重忠討伐軍の中に、初めて重時・重員兄弟の名が確認できる。畠山重忠が滅びた後は、武蔵国は北条氏が国司となっており、河越氏は代々配下に置かれる事になる。嘉禄2年(1226年)河越重員が鎌倉幕府より武蔵国留守所惣検校職に補任され、重頼誅殺から40年を経て河越氏が復権した。しかし、本来は秩父氏および河越氏の家督であった惣検校職を、当主の重時ではなく弟の重員に与える事で河越氏の勢力分断を図っている。河越氏の家督は重時の嫡子の泰重が継ぎ、惣検校職は重員の嫡子の重資(しげすけ)が継いでいるが、その後は明確でない。文応元年(1260年)は河越荘の成立から100年目にあたり、河越経重が新日吉山王宮に梵鐘を寄進している。この梵鐘は、経重が開基となった養寿院(川越市元町)に現在も保存されている。経重の時代は主に鎌倉で活動していたため、河越館跡からは鎌倉との文化交流によって影響を受けた遺物が多く出土している。経重は武蔵国を支配する北条得宗家と密接な関係を築くことで、自立した御家人として生き残りを図った。鎌倉時代の末期、元弘3年(1333年)河越貞重(さだしげ)は足利高氏(尊氏)、赤松円心(えんしん)らの六波羅探題への攻撃を防いでいたが、六波羅探題は陥落、探題南方の北条時益(ときます)、探題北方の北条仲時(なかとき)と共に、光厳(こうごん)天皇を奉じて鎌倉へ退却する。しかし、近江国で野伏に襲われて北条時益は討死、残った北条仲時と東へ逃れるが、近江国番場で佐々木道誉(どうよ)の軍勢に行く手を阻まれて蓮華寺(滋賀県米原市)で自害した。河越貞重の死により嫡子の高重(たかしげ)は、上野国の新田義貞(よしさだ)の挙兵に加わった。入間川を越え小手指原(所沢市)に達した新田軍には武蔵七党も加わり、数十万という大軍に膨れあがった。小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いなどで桜田貞国(さだくに)、金沢貞将(さだゆき)が率いる幕府軍に勝利し、鎌倉幕府は新田軍によって滅亡した。また、文和元年(1352年)武蔵野合戦の小手指原の戦いにおいて、河越高重の嫡子である直重(なおしげ)が武蔵平一揆を率いて足利尊氏ら北朝方の先鋒を務め、足利直義(ただよし)派が加勢した新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟ら南朝方を破る。南北朝期の武蔵国では、高麗氏による八文字一揆や、別府氏の武州北白旗一揆、金子氏の武州中一揆、児玉・猪俣・村山党を含む白旗一揆などの国人一揆が成立していた。この中でも平姓秩父氏を出自とする河越・高坂・江戸氏などを中核とした武蔵平一揆は、同族的な性格の強い一揆を形成していた。その後、河越直重は東国における代表的な足利尊氏派のひとりとして、武蔵国比企郡の笛吹峠の戦いでは新田義宗を越後国に、宗良(むねよし)親王を信濃国に敗走させ、その功により文和2年(1353年)相模国守護職に任じられる。延文4年(1359年)関東管領の畠山国清(くにきよ)に従い関東勢20万余を率いて上洛した。『太平記』によると、「中ニモ河越弾正少弼ハ、余リニ風情ヲ好デ、引馬三十疋、白鞍置テ引セケルガ、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々ニ馬ノ毛ヲ染テ、皆舎人八人ニ引セタリ」と河越直重が特記されている。直重は粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む婆沙羅(ばさら)大名であり、濃紫・薄紅など様々な色に染めた30頭の馬を引き連れた豪華できらびやかな入京により、京都の人々の度肝を抜いた。

室町時代に至るまで栄華を誇った河越氏であったが、河越直重を中心とする武蔵平一揆は、関東地方を統治する鎌倉府と対立することになる。室町幕府2代将軍の足利義詮(よしあきら)、初代鎌倉公方の足利基氏(もとうじ)の兄弟は、貞治2年(1362年)畠山国清を罷免して討伐、代わって山内上杉憲顕(のりあき)を関東管領に復権させた。かつて直義派であった憲顕は、貞治2年(1363年)河越直重を相模国守護職から解任させている。これに対して河越氏は、上野・越後国守護職を解任された下野国の宇都宮氏綱(うじつな)も巻き込んで、鎌倉府に叛旗を翻す準備を密かに進めていった。足利基氏が没した後、応安元年(1368年)室町幕府3代将軍である足利義満(よしみつ)の元服の祝いと諸事報告をかねて、山内上杉憲顕が上洛した。その留守を狙って平一揆は蜂起した。いわゆる武蔵平一揆の乱の始まりである。平一揆の中核は河越氏であり、河越館を中心とした一揆軍の抵抗は頑強で、手こずった鎌倉府は関東および甲斐の国人領主を動員している。この武蔵平一揆の乱は熾烈をを極めたが、約5か月におよぶ戦闘に敗北した河越直重と一揆勢は南朝方の北畠氏を頼って伊勢国に逃れており、平安時代から約200年に渡って活躍した名門河越氏は滅びてしまう。寛正3年(1462年)室町幕府8代将軍の足利義政(よしまさ)は、扇谷上杉持朝(もちとも)に河越庄と、兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)として相武の欠所地を宛がった。その後の河越館については不明であるが、扇谷上杉氏の家臣である太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が河越城(川越市郭町)を築くまで、扇谷上杉氏が居住していたようである。『松陰私語(しょういんしご)』には、太田父子が上田・三戸(みと)・萩野谷(はぎのや)など、扇谷上杉氏ゆかりの者と数年かけて河越城を構えたとある。この時、河越館の建物を多く移築したといわれる。こうして河越城は、長禄元年(1457年)いわゆる「道灌がかり」と呼ばれる縄張りにて完成した。その後、河越館に関する記述が文献に表れるのは、文明18年(1486年)東国を訪れた聖護院門跡道興(どうこう)が河越に来ており、『廻国雑記』の中に記された「この所に常楽寺と云へる時宗の道場侍る、日中の勤聴聞のためまかりける」である。常楽寺は河越館の一隅に造営された持仏堂が基となり、時宗の道場として発展していったとされる。この記述によると、河越館の城館としての使命はすでに終わっていることが分かる。長享元年(1487年)から始まる長享の乱において、関東管領山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉氏の河越城を攻撃する前線基地として、明応6年(1497年)に河越館の地に陣所を構え、古河公方足利政氏(まさうじ)をこの上戸(うわど)陣に招いている。政氏は数か月の在陣の後に下総国古河へ帰還しているが、上戸陣はその後も7年にわたり山内上杉氏の陣所として機能した。天文15年(1546年)河越夜戦により、河越城は小田原北条氏の家臣である大道寺氏が城代を務めた。『新編武蔵風土記稿』には常楽寺に大道寺政繁(まさしげ)の砦があったことが記されており、常楽寺の砦は河越城の出城として機能していたと推測され、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐まで存続したと考えられる。豊臣軍に降伏した大道寺政繁は、秀吉の命により常楽寺で切腹している。このため、常楽寺には大道寺政繁の供養搭がある。また、河越重頼、郷御前、源義経の供養塔もある。郷御前は義経に従って奥州平泉の陸奥衣川館(岩手県西磐井郡平泉町)まで逃れ、源頼朝の軍勢に攻められて義経と4歳の娘とともに最期を遂げたと伝わる。(2012.07.29)

復元された堀、塚状遺構、井戸
復元された堀、塚状遺構、井戸

河越館の北西に残る土塁遺構
河越館の北西に残る土塁遺構

館跡の西にある上戸日枝神社
館跡の西にある上戸日枝神社

養寿院境内の河越太郎重頼の墓
養寿院境内の河越太郎重頼の墓

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