川越は、古代には「河肥」、中世には「河越」という文字が使われ、近世に至って「川越」となった。これは徳川の「川」をいただいて、徐々に「川越」という字が使われるようになったという説が有力である。そして、「世に小京都(しょうきょうと)は数あれど、小江戸(こえど)は川越ばかりなり」と謳われたところである。河越城は武蔵野台地の北東端に位置しており、入間川が城の西から北にかけて大きく曲がって流れている。北に赤間川(新河岸川)、東に伊佐沼を擁し、南は遊女川(よながわ)の泥湿地となり要害の地であった。またここは、遠方から渡ってくる雁が、この地に来て初めて鳴くといわれており、「三芳野の里」として歌枕に名高い所でもある。城内の三芳野神社に「初雁の杉」があって、毎年同じ時期に北から初雁が飛来し、杉の真上で三声鳴き、三度回って南に飛び去ったという。このため、河越城の別名として初雁城とも呼ばれる。近世川越城の本丸跡には現在も本丸御殿の一部が残り、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館となり、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっている。現存する本丸殿舎としては、土佐高知城(高知県高知市)と川越城の2ヶ所だけとなるが、川越城の建物で現存しているのは玄関部分と大広間の一部、移築復元された家老詰所のみである。しかし、この本丸御殿は松平大和守家の時代のうち、川越城主としては最高石高である17万石当時の遺構であり、唐破風の大玄関には霧よけがつき、その前には櫛形塀を構え、三十三間の瓦葺きの屋根がみられる。内部は36畳敷の大広間をはじめとして9つの部屋に区切られている。光西寺(川越市小仙波町)に現存する『本丸御殿平面図』によると、家老詰所は本丸御殿の奥に存在し、土塀で囲まれた家老職の居所であり、全国的にも貴重な遺構となる。明治6年(1873年)現在のふじみ野市に移築されて民家の母屋として使用されていたが、現在地に再度移築された。天神曲輪にあった三芳野神社は平安時代初期の創建とされ、河越城の築城後は城の守護神として祀られる。河越城内のため警護が厳しく、一般の参詣は難しかった。この地は童謡「通りゃんせ」の発祥地といい、三芳野神社への参詣の様子が歌われたものと伝えられる。近世になっても川越城に天守は造られず、中曲輪の東に2層の太鼓櫓、二の丸の北東に2層の菱櫓、本丸の北西に2層の虎櫓、南西に3層の富士見櫓があり、城内で一番の高所にあった富士見櫓が天守の代用となっていた。なお、戦国期の富士見櫓は井楼矢倉であったらしい。中ノ門堀は川越城の城内に現存する唯一の堀跡で、西大手門から城内に攻め込んだ敵兵を想定して造られており、中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて本丸に直進できないように工夫されている。榮林寺(川越市末広町)の山門は、川越城の二の丸にあった蓮池門(れんちもん)を、明治2年(1869年)の版籍奉還後に移築したものといわれている。蓮池門は、本丸からみて北東の鬼門に位置し、城内の死者を送り出す際は蓮池門を使用していたという。川越城の地は、城下町の北東端を占めているため、町屋は西大手、南大手に広がっている。川越のシンボル「時の鐘」は、寛永年間(1624-44年)に、川越藩主酒井讃岐守忠勝(ただかつ)によって最初に建てられたものである。また、家康の謀臣で黒衣の宰相(さいしょう)と呼ばれた南光坊天海(てんかい)が第27世住職を務めたことで有名な城下の喜多院(川越市小仙波町)には、寛永16年(1639年)に江戸城(東京都千代田区)の紅葉山御殿の別殿を移築したという客殿(徳川家光誕生の間)、書院(春日局化粧の間)、庫裏が現存している。
河越の地には、鎌倉幕府の有力御家人として名高い河越氏が館を構えていた。坂東八平氏のひとつである秩父氏の嫡系にあたる河越氏は、武蔵国留守所惣検校職を相伝しており、この職務は守護代や目代に相当する重席であった。このため、河越館(川越市上戸)は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで栄華を誇った河越氏であったが、河越直重(なおしげ)を中心とする武蔵平一揆は、関東地方を統治する鎌倉府と対立する。河越氏一族は初代関東管領の山内上杉憲顕(のりあき)に対抗して、応安元年(1368年)河越館を中心に武蔵平一揆の乱を起こしており、この河越合戦により滅びている。寛正3年(1462年)室町幕府8代将軍の足利義政(よしまさ)は、扇谷上杉持朝(もちとも)に河越庄と、兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)として相武の欠所地を宛がった。当時、扇谷上杉氏は、関東管領の山内上杉房顕(ふさあき)と連合して、古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)を相手に、北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していた。下総古河城(茨城県古河市)を拠点とする古河公方と、山内・扇谷の両上杉氏の戦いである享徳の乱は、30年近くに渡って続けられ、両上杉氏は協力して古河公方と、これを支持する関東の諸大名との戦闘を続けている。持朝は扇谷上杉領の北端の拠点とするために、太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子に河越城の構築を命じている。こうして河越城は、康正2年(1456年)に築城が始まり、翌年の長禄元年(1457年)いわゆる「道灌がかり」と呼ばれる縄張りにて完成した。この築城には逸話が残る。河越城を築こうとした場所は「七ッ釜」という底なしの湿地帯で、難工事となり土塁は完成しなかった。ある夜、沼の主である龍神が太田道真の夢枕に現れて、「明朝、最初に参った者を人身御供として差し出せば築城は成就する」と告げた。そして翌朝、道真の前に一番に現れたのは娘の世禰姫(よねひめ)であった。世禰姫は城の完成を祈りながら沼に身を投げたため、河越城は無事に完成したという。また、十方庵こと大浄敬順(たいじょうけいじゅん)の『遊歴雑記』によると、河越城の天神曲輪にある外堀の主は、ヤナという正体不明の妖怪であるという。河越城が敵兵に攻められてこの堀まで来ると、たちまち霧を吐いて雲を起こし、魔風を吹かせて四方を暗夜にしてしまう。さらに、洪水を起こして、敵兵の方向感覚を狂わせてしまうという。河越城を築いた太田道灌が、ヤナを利用して城を防衛したのだという。この話は河越城内に伝わる霧吹きの井戸にも通じている。この井戸は、敵に攻められたときに蓋を取ると、中から霧を噴き出して城を隠してしまうといわれる。このため、河越城は別名を霧隠(きりがくれ)城ともいう。井戸は移築されて、川越市立博物館の前庭に現存している。これら人身御供や霧吹きの井戸の話は、川越城七不思議のひとつに数えられる。当時の河越城は、後の本丸と二の丸を合わせた程度の規模と推定される。道真・道灌父子は、同じ長禄元年(1457年)に江戸城、岩付城(さいたま市)なども次々と完成させており、これらも古河公方に対抗する築城であった。扇谷上杉持朝が河越城の初代城主となり、道真は城代として河越城を守備、道灌は江戸城の城主として配置され、古河公方への防衛線を構築している。古河公方との戦いは続き、文正元年(1466年)河越城西方の大袋原で古河公方軍と河越城兵の豊島一族が合戦におよんでいる。以降も扇谷上杉氏が6代にわたり河越城の城主として君臨し、約80年間ものあいだ武蔵の経営を続けることになる。
文明8年(1476年)関東管領の山内上杉顕定(あきさだ)の重臣である長尾景春(かげはる)が謀反を起こすと、山内上杉軍は無残にも総崩れとなった。これを鎮めたのは扇谷上杉家の家宰であった太田道灌である。道灌は江戸城に扇谷上杉朝昌(ともまさ)、千葉自胤(よりたね)、河越城に太田図書助資忠(すけただ)、上田氏ら松山衆を入れて、自らは相模・武蔵・下総の反乱軍の城砦を次々に攻略していった。出陣の回数は、文明9年(1477年)から文明12年(1480年)までに30回以上を数え、いずれも道灌が勝利している。道灌の活躍により長尾景春の乱は鎮圧されたものの、関東管領である山内上杉氏の権威は失墜し、道灌の主君である扇谷上杉定正(さだまさ)の勢力が拡大した。この事態を憂慮した顕定は、定正に対して「道灌の才能はやがて上杉一門を危険に陥れる」と警告して、定正の猜疑心を煽った。そして、顕定の言葉を信じた定正は、文明18年(1486年)道灌を相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)に呼び寄せて謀殺してしまう。ここから山内上杉氏と扇谷上杉氏の長期にわたる内部抗争が始まる。この長享の乱は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて続き、この不毛な戦いで両上杉氏とも体力を損耗して衰退していく。この間、伊豆・相模方面では北条早雲(そううん)が勢力を拡大しており、北条氏の関東地方進出を許す結果となっている。大永元年(1521年)山内上杉憲房(のりふさ)は河越城の扇谷上杉朝興(ともおき)を攻撃しており、朝興は江戸城に逃れた。さらに、大永4年(1524年)早雲の跡を継いだ北条氏綱(うじつな)が、高縄原合戦で朝興を破り、そのまま江戸城を攻め落とした。敗れた朝興は、憲房の支配下にあった河越城に逃れて、その後は白子原合戦、蕨城(蕨市)攻略、小沢城(神奈川県川崎市)攻略などにより北条氏に反撃するが、圧倒的な組織力を誇る北条軍を突き崩すことはできなかった。天文6年(1536年)朝興が河越城で病没すると、北条氏綱は河越城攻撃のため三ツ木(狭山市)まで進出する。わずか13歳で跡を継いだ朝定(ともさだ)は、籠城策はとらず野戦での決戦を挑むが、敗れて武州松山城(吉見町)に逃れる。河越城を奪取した氏綱は、北条為昌(ためまさ)を河越城主とした。為昌は相模玉縄城主を兼務する氏綱の三男である。さらに氏綱は、宇野藤右衛門尉を小田原から河越に呼んで小代官に任じた。宇野家は「ういろう」の本舗であるから、小田原の商人達も多く移住したと思われる。天文10年(1541年)氏綱が没し、翌天文11年(1542年)為昌も23歳で病没した。河越城は為昌の死後も玉縄北条氏が管理していたようである。天文14年(1545年)扇谷上杉朝定は河越城を奪回するため、山内上杉憲政(のりまさ)、古河公方足利晴氏(はるうじ)と結んで、8万余騎の連合軍を形成して河越城に押し寄せた。山内上杉憲政は砂久保に本陣を置き、扇谷上杉朝定は東明寺付近、足利晴氏は伊佐沼付近に陣を置いて河越城を完全に包囲している。この時、河越城に籠城していた守将は北条綱成(つなしげ)で、わずか3千余騎であった。翌天文15年(1546年)救援にきた北条氏康(うじやす)の夜襲に遭い連合軍は壊滅する。世にいう「河越夜戦」である。扇谷上杉朝定は討死し、扇谷上杉家は滅亡した。この戦いにより武蔵の豪族は相次いで氏康に降伏し、北武蔵にまで北条氏の勢力が浸透した。北条氏は扇谷上杉氏の所領を直轄領に組み込むとともに、河越城代として譜代の重臣である大道寺盛昌(もりまさ)を起用した。以降は北条氏の武蔵国支配の拠点となり、河越衆と呼ばれる大道寺氏の精鋭部隊が守備した。
北条氏の有力支城となった河越城であったが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役に際し、前河越城代であり、北条氏の宿老である大道寺政繁(まさしげ)は、上野国まで出陣して上野松井田城(群馬県安中市)で豊臣軍を迎え撃つが降伏している。その後、大道寺政繁は豊臣軍に加えられて、忍城(行田市)への道案内を務め、さらに松山・鉢形・八王子と北条氏の有力支城の攻略に協力している。特に八王子城(東京都八王子市)攻めにおいては、城の搦手口を教えたり、正面から大道寺氏の軍勢を率いて猛攻を加えたり、攻城戦で最も働いたとされる。しかし、秀吉から不忠を嫌われ、河越城下の常楽寺(河越館跡)にて切腹させられている。河越城は、前田利家(としいえ)の軍勢を前に開城し、そのまま接収された。ただし、河越城の北の出城では激しい攻防戦もあったようである。北条氏の旧領を引き継いで関東に入封した徳川家康は、酒井河内守重忠(しげただ)に1万石を与えて河越城主とした。以後、江戸城の出城のごとく重要視されたため、江戸時代の川越城には、徳川の重臣や譜代大名が配置され、藩主の交代も激しく行われた。酒井重忠の後は8年間城主を欠くが、その後は酒井雅楽頭家(分家)2代、城代の相馬大膳亮義胤(よしたね)、堀田加賀守正盛(まさもり)、城代の水谷伊勢守勝隆(かつたか)、大河内松平家3代、柳沢出羽守吉保(よしやす)、秋元家4代、越前松平家7代、松井松平家2代と続いた。これら川越藩主で、江戸幕府の老中、大老、大老格の職についた大名は8名を数える。江戸時代初期の川越城の姿は、17世紀後半に制作されたと考えられる『江戸図屏風』に垣間見ることができる。屏風には川越城として、本丸と二の丸が堀で区画された2つの曲輪として描かれている。また、天神曲輪も確認でき、井楼矢倉の形状で富士見櫓も描かれている。そして、塀は草葺であった。寛永16年(1639年)島原の乱を平定して川越に入封した松平伊豆守信綱(のぶつな)の時代に、川越城は近世城郭の形態を整えた。信綱は、これまでの本丸、二の丸、三の丸、八幡曲輪、天神曲輪に加えて、田曲輪、新曲輪、外曲輪(追手曲輪・中曲輪)を増築、西大手を現在の市役所の場所に、南大手を川越第一小学校の南側に整備して、それぞれに丸馬出しと三日月堀を設けて、城域を約2倍に拡張、3基の櫓、13棟の城門を備える巨大な城郭にした。天守の代用となった富士見櫓は、基壇の高さが51尺(15.4m)で、櫓の高さも51尺(15.4m)であった。さらに、城下町を区画し、川越街道の整備、野火止用水の開削、また新河岸川の舟運も開いた。これより川越は、江戸への物資の供給地として栄え、蔵造りの町並みは小江戸と称された。なお、川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848年)時の藩主である松平大和守斉典(なりつね)が造営したもので、16棟、1025坪の規模を誇っていた。江戸時代初期の喜多院の天海大僧正と徳川家との関係から、川越は江戸時代を通じて徳川将軍家と深く強いつながりを持っていた。このため、明治新政府から見れば、川越は「徳川」そのものであった。川越藩主の松平周防守康英(やすひで)は、明治新政府に恭順を示す証として、箱館戦争に川越藩兵を派遣したり、川越城の堀の埋め立て、建物の徹底的な取り壊しと払い下げ、喜多院の縮小など、他藩にはない運命が待っていた。明治5年(1872年)川越城の建物は本丸御殿の一部を除いて破却された。残された本丸御殿の玄関と広間部分は、県庁の庁舎として利用され、その後も煙草工場や武道場、中学校の仮校舎、屋内運動場などとして使用され続けたため、奇跡的に現存できたといえる。(2004.07.04)