勝沼氏館(かつぬましやかた)

[MENU]

武田家御親類衆筆頭であった勝沼氏の第館

東門と復元木橋
東門と復元木橋

勝沼氏館は甲府盆地の東、鳥居平麓を占め、笛吹川の支流である日川の断崖を利用して築かれており、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過しており、交通の要衝であった。勝沼氏は甲府盆地を一望できるこの地に館を築き、領地経営をおこない、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。館の南と西が断崖となり、二重の堀と二重の土塁で囲まれた内郭部を中心として北西部に一郭、東部に一郭あり、複数の郭からなる。館の北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷等の地名があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。現在、国指定史跡勝沼氏館跡として整備され、16世紀初頭の勝沼信友の時期の堀、土塁、木橋、建物の礎石等が復元されている。この頃には井戸がなく、代わりに石積みの水路や水溜、飲料水浄化施設が発達しているのが特色である。外郭部には掘立の中世家臣屋敷が復元されている。駐車場のそばにある勝沼氏の供養地蔵は、勝沼一族の理慶尼(りけいに)が建立したものであるが、当時のものは失われ、近年になって子孫の方によって再建されている。

永正4年(1507年)甲斐国守護職の武田信縄(のぶつな)が没すると、嫡男の信虎(のぶとら)が14歳で武田家18代当主となった。このとき、信虎の叔父である勝山城(甲府市上曾根)の油川信恵(あぶらかわのぶよし)は、郡内の小山田弥太郎らと共に反旗を翻した。翌永正5年(1508年)信虎は勝山城を奇襲して油川信恵を討ち取り、さらに小山田弥太郎をも討ち、郡内地方の反乱軍を掃討している。さらに永正7年(1510年)信虎は小山田越中守信有(のぶあり)との戦いに勝利し、妹を信有に嫁がせ小山田氏と同盟を結んだ。そんな中、信虎の弟の次郎五郎信友(のぶとも)は、郡内岩殿山城(大月市)の小山田氏の目付として、武相口の守りとして適地である勝沼の地に館を構え、勝沼氏を名乗って小山田氏の監視をおこなった。その行動は、『妙法寺記』、『甲陽軍鑑』また石橋八幡、岩殿七社権現棟礼等により知られる。信友は御親類衆の筆頭として武田軍団の一翼を担っており、信虎が戦国大名として台頭しようと苛烈な戦いに明け暮れていた時期に、不安定だった信虎の政治基盤を忠実に補佐していた。

天文4年(1535年)武田信虎と駿河国の今川氏輝(うじてる)との関係が悪化すると、両軍は富士川沿いに兵を進め、甲駿国境の巨摩郡万沢口で衝突した(万沢口合戦)。この戦いは持久戦となり、今川氏輝は姻戚関係にある相模小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏綱(うじつな)に援軍を要請し、北条・今川連合軍は2万4千の大軍で籠坂峠を越えて郡内地方の都留郡山中に押し寄せた。これを迎え撃つのは勝沼信友、小山田信有ら、わずか2千の郡内勢であった。この戦いで勝沼信友を総大将とする武田軍は山中湖畔に陣取り、北条氏綱、氏康(うじやす)父子を相手に善戦するが勝ち目はなく、勝沼信友をはじめ小山田弾正など240名が戦死してしまう。この時、都留郡全域が戦火に巻き込まれ、上吉田、下吉田は全焼したと記録されている。この敗戦で窮地に立たされた武田信虎は、同盟関係にある武蔵河越城(埼玉県川越市)の扇谷上杉朝興(ともおき)に出兵を依頼、扇谷上杉朝興もこれに応じて相模湾沿いの鵠沼、小和田、一宮、平塚、大磯などの郷村に放火して荒らしまわったため、北条軍を甲斐国から撤退させることに成功した。『妙法寺記』によると、翌天文5年(1536年)武田勢は相模国津久井の青根郷を襲って、老人や婦女子100人余りを討ち取って敗戦の恨みを晴らしたという。勝沼信友の討死により、嫡男の五郎信元(のぶもと)が勝沼氏の跡を継いだ。『甲陽軍鑑』にも勝沼殿の名がよく見受けられ、武田信玄(しんげん)の従弟にあたる勝沼信元も父同様に武田氏の親類衆筆頭として、本家に次ぐ軍事動員力を誇っていた。また武田家の重臣として武田軍団の一翼を担い、村上・小笠原軍との信濃大門峠の合戦、上杉憲政(のりまさ)との笛吹峠の合戦、長尾景虎(かげとら)との信濃海野平の合戦、信濃深志城(長野県松本市)攻略、小笠原長時(ながとき)との信濃桔梗原の合戦等、各地を転戦して戦果をあげた。ところが、永禄3年(1560年)長尾景虎の関東進攻にともない、長尾氏の調略により武蔵国秩父の藤田右衛門佐重利(しげとし)に内通したことが露見した。『甲陽軍鑑』には「甲州勝沼五郎殿御成敗の儀、前未の年より御目付の御小人頭を殊の外御馳走有故此よしを廿人衆頭より隠密に言上仕り、横目の御中間頭衆も心付て甲州恵林寺の入、中まきと云所に待て、あやしきものをとらへたれば、武蔵国藤田右衛門と云侍大将と勝沼五郎殿と内通有信玄公御出陣の御留守に甲州東部へ藤田右衛門をひき入、五郎殿甲州府中へ、なおり侯はんと有、逆心の文あらはれて、勝沼五郎殿御成敗也。其跡二百八十騎の同心被官二百騎をば、跡部大炊助に預下され、八十騎をば御舎弟信連様へ進じ置るる也。」と記される。信玄が信濃に出陣した留守を狙って、信元が信玄の本拠である躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)を乗っ取り、背後から信玄を襲う計画であったという。謀反の証拠となる文章が発見された勝沼信元は、武田信玄の命を受けた飯富昌景(まさかげ)に誅殺された。このことについて詳細は不明であるが、280騎の動員力を有する勝沼信元に対して、飯富昌景の軍勢が勝沼に押し寄せたようであり、戦闘があったのかは分からない。これにより勝沼氏は断絶、勝沼氏館はそのまま廃されたという。

理慶尼が記した『理慶尼記』は別名『武田勝頼滅亡記』と呼ばれ、武田氏滅亡の様子を淡々と描いており、現在も大善寺(甲州市)に写本が残されている。著者の理慶尼は、勝沼信友の娘の松葉姫であり、勝沼信元の妹であった。勝沼信元には弟と子もおり、弟の信厚(のぶあつ)は上野原加藤氏を相続して加藤丹後守信原と名乗り、子の信就(のぶなり)は僧になって武田日閑と名乗り、寛永元年(1624年)相模国に信隆寺(神奈川県茅ヶ崎市)を創立している。松葉姫は兄の勝沼信元が謀反の疑いで成敗されると、嫁ぎ先の雨宮氏から離縁され、出家して理慶尼と名乗り、勝沼氏館から少し東にある大善寺の境内に小さな庵を構えて住んでいた。天正10年(1582年)織田信長の武田征伐において、武田家20代当主の武田勝頼(かつより)は戦況の悪化により居城の新府城(韮崎市)に自ら火をかけ、郡内の岩殿山城(大月市)へ退去するため東に向かった。勝頼一行は、その日のうちに理慶尼のいる勝沼の大善寺に到着した。武田一門の理慶尼は勝頼の乳母をしたことがあると伝わっている。理慶尼は勝頼、北条夫人、嫡子の信勝(のぶかつ)の3人を薬師堂に案内し、4人でこの薬師堂に宿泊したとある。そして勝頼一行は郡内に向かうが、家臣の小山田信茂(のぶしげ)が裏切り、笹子峠に兵を出して勝頼一行の郡内入りを阻む。進退の窮まった勝頼は、家臣の大半が逃げ出すなか、天目山田野を最期の地とした。織田氏の武将である滝川一益(かずます)、河尻秀隆(ひでたか)等の軍勢から逃れながら、「朧(おぼろ)なる月もほのかに雲かすみ、晴れてゆくへの西の山の端」(武田勝頼)、「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき、思いに消ゆる露の玉の緒」(北条夫人)と辞世をしたため、一族と共に自害して果てた。この時、勝頼37歳、北条夫人20歳、信勝16歳であった。これにより約500年続いた甲斐源氏嫡流の武田氏は滅亡する。また理慶尼を離縁した雨宮織部正景尚(かげひさ)も武田勝頼の自刃の際に、腹を切って殉死している。殉死した士は35人、侍女は16人であったという。武田勝頼の最期のとき、家臣の土屋惣蔵昌恒(そうぞうまさつね)は、勝頼が自害する時間を稼ぐために、狭い崖の道筋に立ち、左手に藤蔓(ふじづる)、右手に刀を持って、押し迫る織田兵を次々と斬っては谷川に蹴落とし、「土屋惣蔵片手千人斬り」の伝説をつくって殉死した。谷川は三日間鮮血に染まり、三日血川(みっかちがわ)といわれた。織田信長は勝頼の首級を前にして、「お前の父信玄には苦しめられた、お前がこうなったのは天罰である」と言ったという。一方、徳川家康は最後まで善戦した武田勢の武勇を惜しみ、武田家滅亡後に千人近い旧臣を引き取っている。(2004.09.17)

東門を守る櫓台跡
東門を守る櫓台跡

北門と枡形虎口
北門と枡形虎口

復元された家臣屋敷
復元された家臣屋敷

[MENU]