春日山城(かすがやまじょう)

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戦国の世に関東一円から北陸地方にかけて覇を唱えた軍神・上杉謙信の居城

本丸から堀切を隔てた天守台
本丸から堀切を隔てた天守台

高田平野(頸城平野)の北西に位置し、標高189m、比高150mの独立峰である春日山は、北方に日本海を望み、北東に越後府中こと直江津、南東に高田城下など、高田平野を一望できる。戦国時代には、越後の龍こと上杉謙信(けんしん)の本拠である春日山城として整備され、北陸地方屈指の城郭として名を馳せた。東西700m、南北800mの山城域を中心に、周囲3km内に出城群が取り囲む。春日山は鉢ヶ峰ともいうため、春日山城は別名として鉢ヶ峰城とも呼ばれた。春日山の名は、天徳2年(958年)鉢ヶ峰山頂に創建された春日神社に由来する。当時の越後国司である藤原朝臣為信(ためのぶ)が藤原氏の氏神である春日大社(奈良県奈良市)の分霊を勧請して、貞治元年(1362年)越後国守護職で越後上杉氏初代当主の上杉憲栄(のりよし)が春日山城を築城する際、鎮守の神として城の北西に遷して祀ったという。永徳元年(1381年)越後守護代で三条長尾氏初代当主の長尾高景(たかかげ)が春日山城の改修に際し、春日神社を現在地(上越市春日)に遷座させ、春日山城鬼門鎮護の神、春日山城総鎮守の神社とした。日本五大山城のひとつにも数えられる春日山城は、難攻不落の天然の要害で、広大な縄張りは全山におよぶ。山頂の本丸から始まり、天守台、護摩堂、諏訪堂、毘沙門堂、御花畑、二の丸、帯郭、三の丸、上杉三郎景虎屋敷、米蔵、甘粕近江守屋敷、井戸曲輪、鐘楼、上田政景屋敷、上杉景勝屋敷、南二の丸、柿崎和泉守屋敷、宇佐美駿河守屋敷、鬼小島弥太郎屋敷、南三の丸、直江屋敷、中城、カラメ手、右近畑、御屋敷、政所、老母屋敷、馬場曲輪など、多数の曲輪跡や重臣たちの屋敷跡群が残る。本丸と天守台は、春日山城の「お天上(てんじょう)」と呼ばれ、本丸から堀切を隔てた天守台には、掘立柱の柱穴が整然と20箇所も見つかり、重層の天守に相当する建物が築かれていたと想定される。瓦の採取例がないことから、屋根は柿(こけら)葺か木賊(とくさ)葺であったと考えられる。昭和6年(1931年)に復元された毘沙門堂には、約50cmの青銅製の毘沙門天の尊像が安置されている。毘沙門天は謙信が信仰した悪魔を降す神で、謙信は自軍を降魔(ごうま)の軍隊とみなして、「毘」の旗を陣頭にかざした。また、事あるときには、この堂前で諸将に誓いを立てさせたという。毘沙門天の化身と称した謙信は、私利私欲の戦はせず、常に正義のための戦を貫いた。尊像は、謙信の跡を継いだ上杉景勝(かげかつ)の時代に会津を経て米沢に移ったが、嘉永2年(1849年)の火災で被害を受けた。昭和3年(1928年)東京美術学校に修理を依頼し、名匠・高村光雲(こううん)が修理した。その際、分身が作られ、尊像の欠け損じたのを胎内に納めて、この祠堂に奉安された。謙信が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのは護摩堂である。これらは、謙信が真言密教を深く信仰していたことを物語っている。直江屋敷の上段に位置するのが御花畑で、城内のお堂に献ずる花や薬草が植えられていたといわれる。二の丸は、本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城(みじょう)と呼ばれる曲輪群の東裾を取り巻くように造られた曲輪で、実城とともに春日山城の中心地区である。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている配置は、本丸の警護として構築されたことを示す。古桧図には、御二階や台所と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っている。天正元年(1573年)実城、二曲輪(二の丸)、三曲輪(三の丸)の塀普請を河隅忠清(かわすみただきよ)と庄田隼人に命じたという記録が残っている。

三郎景虎屋敷や米蔵などを総称して三の丸屋敷と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、景虎屋敷の東端に入口が設けられ現在も道が残っている。三郎景虎(かげとら)は、相模国小田原の北条氏康(うじやす)の七男であり、永禄12年(1569年)上杉氏と北条氏の越相同盟締結の際に人質として謙信の養子となった武将である。謙信が自らの名乗りを与えるとともに、姪である上田長尾政景(まさかげ)の娘(上杉景勝の姉)を妻として与えるなど破格の待遇を受けていたが、謙信の死後に跡目を争った御館の乱で敗れ、悲運の死を遂げた。米蔵の名が示すように、三の丸は春日山城の中核施設が置かれた場所として考えられており、城跡で最も良好に残っている土塁は、千貫門跡や大井戸などとともに見どころのひとつである。本丸の後方の一段低い場所には井戸曲輪があって、ここの大井戸は夏でも水が枯れることはない。地質学的には西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて水が湧くとのことである。井戸の中からは滑車や杓などが見つかっている。また、本丸から井戸曲輪にかけては急斜面となっており、油流しと呼ばれる。さらに裏手には御成街道と呼ばれる通路が存在する。これは、時の関白近衛前嗣(さきつぐ)が通ったことによる。謙信は2度の上洛を通じて、前嗣と親交を深めた。お互いに年も近く、酒好きだったといわれる。謙信が、後奈良天皇や正親町天皇と拝謁できたのも、前嗣の力添えによるものであった。永禄3年(1560年)前嗣は謙信の関東平定を支援するため越後府中に下向し、3年間滞在した。当時、京都に次ぐ大都市といわれて繁栄の極みにあった越後府中の文化は、前嗣の来訪によりさらに洗練された。上杉景勝屋敷とその周辺の屋敷跡は総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削平し、数段でひとつの屋敷が形成されている。春日山神社から谷愛宕(たにあたご)にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られているのとは対称的である。景勝屋敷を中心とした屋敷群が地形に逆らわず定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示している。柿崎和泉守屋敷は春日山城で最も大きな曲輪のひとつで、謙信の重臣である柿崎景家(かげいえ)の屋敷跡と伝わる。景家は春日山城の留守居役を務めるほど謙信に信頼され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは先鋒を務めて、武田軍を窮地に陥らせたことでも知られる。柿崎屋敷へは大手道から木橋を架けた南側の空堀を渡って入るように古絵図に描かれている。また、曲輪の東側を通り景勝屋敷へ続く古道も残っている。この曲輪には池か水堀があったと想定されている。南三の丸は、城の畑(じょうのはた)と呼ばれ、古くから城内と認識されてきた。土塁や堀で区画された曲輪が連なり、春日山城の重要な屋敷が集まっていたと考えられる。城の東側裾野から本丸へ至る大手道は、この曲輪に入るところに門が造られ、さらに西側の上正善寺方面に至る道にも門があり、通路以外は急な斜面を造って敵の侵入を防ぐようになっていた。この曲輪も御屋敷周辺とは異なり、自然地形を最大限に利用した古い曲輪の形態を示している。この付近から西側の屋敷は、城の外(じょうのそで)と呼ばれて城外と考えられていたようであるが、実際の城域は西側にもおよんでいる。また、南三の丸に至る大手道の一部は復元されている。大手道の中程には番所跡があり、木戸が構えられていた脇の土塁が小山のように残っている。大手道は南三の丸や柿崎屋敷など主要な曲輪を経て本丸に至る。御花畑から千貫門までの上下3段に削平された曲輪が直江氏の屋敷跡と伝わる。

直江氏は上杉謙信の父である三条長尾為景(ためかげ)の代から重臣として仕え、三島郡与板城主の直江大和守景綱(かげつな)、続いて与兵衛尉信綱(のぶつな)がここに住み、謙信の小姓であった樋口与六が、上杉景勝の時代に直江家を継いで山城守兼続(かねつぐ)と名乗り、景勝の家老として活躍した。搦め手とされる千貫門は、門が建っていた部分に現在も土塁が残っている。御屋敷は60m×110mの規模があり、城主の館跡とされ、御屋敷の上下に右近屋敷など大小の曲輪があって根小屋を形成していた。御屋敷の東方には黒金(くろがね)門跡があり、黒金門から東に降りれば、御館(上越市五智)に通じる道が延びている。現在の春日山神社の地は老母屋敷の跡で、ここで謙信は生まれた。生まれ年の庚虎にちなみ虎千代と名付けられ、その後は景虎(かげとら)、政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)を経て、不識庵(ふしきあん)謙信と号した。馬場曲輪の近くの土塁上には上杉謙信の銅像が立っている。このように春日山を中心として、約2km四方に遺構が分布している。上杉謙信の菩提所、春日山林泉寺(上越市中門前)の茅葺きの惣門は、春日山城の裏門を移築したものといわれている。曹洞宗の林泉寺は、明応6年(1497年)謙信の祖父である長尾能景(よしかげ)が父・重景(しげかげ)の17回忌にあたり、三条長尾家の菩提所として創建した。謙信は、享禄3年(1530年)越後守護代の長尾為景と虎御前(とらごぜん)の四男に生まれ、7歳から14歳まで林泉寺に預けられ、6代住職の天室光育(てんしつこういく)のもとで厳しい文武の修行を積んだ。林泉寺本堂の南方斜面には、能景・為景・謙信の3代の墓が存在する。上杉謙信は居城である春日山城の整備拡充を積極的に推進して広大な城郭としたが、現在の姿に整備したのは養子の景勝の時代と考えられている。春日山城の東裾野に広がる平坦地には、堀氏が入封してからのものであるが、総延長1.2kmにおよぶ監物堀(けんもつぼり)と呼ばれる水堀・土塁からなる総構え(そうがまえ)が築かれた。これらは、中世から近世に移行する城郭遺構であり、現在は一部が復元されている。春日山城の築城時期についてはよく分かっていないが、南北朝時代には既に存在していたようである。有力な説としては、天授6年(1380年)守護代の長尾高景が上杉憲方(のりかた)の次男・龍命丸こと上杉房方(ふさかた)を守護に迎えて上杉館(上越市東雲町)に住まわせ、自身は執事となって春日山城に入ったという。『長尾系図』には「高景、執事職として鉢峰に住す」とある。しかし、いずれの説も確証はなく、おそらく南北朝時代に越後守護であった上杉氏によって、越後府中の上杉館の詰め城として築かれたと考えられる。築城当初の春日山城は、現在ほど壮大なものではなく、山頂部の曲輪群を中心とした小規模なものであったと考えられる。春日山城を本格的な山城に改修したのは長尾為景で、永正7年(1510年)以降のことである。また、春日山城という名称が初めて文献で確認できるのは、永正10年(1513年)の『長尾為景書状』である。永正3年(1506年)父・能景の戦死によって跡を継いだ為景は、越後国守護職の上杉房能(ふさよし)と対立、房能の養子である定実(さだざね)を擁して房能に叛旗を翻した。永正4年(1507年)上杉定実・長尾為景の軍勢に拠点を急襲された上杉房能は、実兄である関東管領山内上杉顕定(あきさだ)を頼って関東へ脱出する途中、為景軍の追撃を受けて自刃する。永正6年(1509年)顕定が報復のために越後に侵攻、定実・為景らは蹴散らされ越中へと落ちていった。

顕定軍は越後府中を制圧したが、顕定の越後統治は強硬でうまくいかず、国人たちの反発を買った。永正7年(1510年)体勢を立て直した為景が佐渡を経て蒲原津に上陸、このとき定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり)が為景方に寝返っており、永正8年(1511年)顕定は体制を立て直すため関東への撤退を試みたが、為景軍の追撃により長森原(南魚沼市)で戦死した。永正10年(1513年)定実は為景の傀儡であることに不満を抱いて、宇佐美房忠(ふさただ)・定満(さだみつ)父子、上条定憲、揚北衆などの勢力を糾合して春日山城を占拠し、為景に抵抗を試みたが失敗、為景の居館に一時幽閉された。天文2年(1533年)上条定憲が為景打倒の兵を挙げると、揚北衆も上条方に加わった。この戦乱では次第に為景方が不利となり、天文5年(1536年)為景は隠居を決意して、嫡子の晴景(はるかげ)に家督と守護代職を譲った。しかし、長尾晴景は病弱で、越後の戦乱を治める力に乏しく、定実を守護職に復帰させている。天文12年(1543年)林泉寺より呼び戻された虎千代は、三条城(三条市)に入り、栃尾城(長岡市)に移った。この頃から長尾景虎と名乗っている。天文13年(1544年)15歳の初陣となる栃尾城の戦いで勝利し、天文14年(1545年)黒滝城(弥彦村)の黒田秀忠(ひでただ)が起こした晴景への謀反を鎮圧、翌年に再び挙兵した黒田一族を滅ぼした。こうして景虎の名声は広まっていった。そして晴景に代わって景虎の擁立を望む声が高まり、晴景と景虎は確執を深めたが、天文17年(1548年)上杉定実の仲介で和解、景虎が晴景の養子となって家督を継ぎ、春日山城に入った。天文19年(1550年)定実が病没して越後上杉氏が断絶、室町幕府13代将軍足利義輝(よしてる)の命令で景虎が越後守護を代行した。これに不満を持った長尾政景が景虎に反乱したが、天文20年(1551年)に降伏して越後一国は統一された。天文21年(1552年)関東管領上杉憲政(のりまさ)が北条氏康に敗れて越後に亡命、天文22年(1553年)信濃国埴科郡の村上義清(よしきよ)が武田信玄に敗れて亡命してきた。武田氏討伐を決意した景虎は、自ら軍を率いて信濃に出陣、第1次川中島の戦いが起こった。こうして信玄とは、川中島で5回に渡って戦うこととなる。弘治2年(1556年)景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果て、出家するため突然出奔して高野山に向かった。その間に家臣が反旗を翻したため、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念している。景虎は北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣、永禄4年(1561年)関東管領上杉憲政を擁した10万余の大軍で、相模小田原城(神奈川県小田原市)をはじめとする諸城を攻撃した。この間、景虎は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)において山内上杉氏の家督と関東管領職を相続した。桓武平氏の流れをくむ長尾景虎は、藤原氏の流れをくむ上杉氏を相続して上杉政虎と改め、名実ともに越後国の太守となる。その後も関東・信濃・北陸の諸将からの救援要請に応じては出陣し、その武威は16ヶ国におよんだ。天正5年(1577年)手取川の戦いで織田信長の軍勢を撃破、天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったが、その6日前に春日山城内の厠で倒れ、3月13日に死去した。享年49歳、死因は脳溢血(のういっけつ)らしい。その後、御館の乱を制した景勝が上杉家を相続した。慶長3年(1598年)景勝は秀吉の命により会津へ移封になり、代わって堀秀治(ひではる)が入封したが、慶長12年(1607年)その嫡子・忠俊(ただとし)の代に福嶋城(上越市港町)に移り、春日山城は廃城となった。(2015.05.04)

復元された実城の毘沙門堂
復元された実城の毘沙門堂

井戸曲輪で水を湛える大井戸
井戸曲輪で水を湛える大井戸

見事に残る三の丸米蔵の土塁
見事に残る三の丸米蔵の土塁

移築現存する春日山城の裏門
移築現存する春日山城の裏門

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