柏の城(かしわのしろ)

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山内上杉氏の重臣筆頭である大石一族の居館

柏の城の西曲輪跡
柏の城の西曲輪跡

柏の城は、新河岸川の支流である柳瀬川の低湿地に突出した台地端を利用しており、柳瀬川の谷を見おろす場所に立地する。中世の地方豪族の居館として典型的な占地であり、志木館とも引又の館とも呼ばれる。『新編武蔵風土記稿』に、「長勝院(ちょうしょういん)の東の方にありて、同寺の境内へも少くかゝれり、今は畑となりしかど、虚堀のあと土手の状などわづかに残りて」とあり、その時点でも遺構の大部分は失われていたことが知られる。城主について同書は「昔大石越後守こゝに居れり、此人は小田原北条家の家人」とある。大石越後守は、多摩郡の滝山城主・大石信濃守の一族ともいわれている。『小田原編年録』に「獅子浜城(静岡県沼津市)、大石越後守此城ヲ守ル」とあり、越後守がこの城にいたことが知られるが、『小田原記』によれば、天正9年(1581年)北条・武田の和議が破れた時、この大石越後守を獅子浜城に立て籠もらせたということである。『舘村旧記』によると、志木市立志木第三小学校の運動場あたりが本曲輪であり、その東側が二曲輪、市道をはさんだ南側が三曲輪、長勝院跡あたりが西曲輪であったとされる。南から東への平地に長さ約90m、深さ約4mの大堀を構え、その南側を追手(大手)とした。現在は、ほんのわずかの土塁・空堀が残っているに過ぎない。柏の城の東側には奥州街道が通り、交通の要衝でもあった。奥州街道を南西に約5Km行くと、同じく大石氏の滝の城(所沢市)がある。滝の城とは柳瀬川を使って船で往来することも可能であった。平安時代、柏の城は郡司・藤原長勝(おさかつ)の居館であった。長勝には、「かしらなし沼」に住んでいた頭のないおろちを退治した際、清水が湧いて田んぼに変わったため、田面長者と呼ばれるようになったという民話が残っている。柏の城の西曲輪あたりは、かつて亭の台(ちんのだい)と呼ばれ、柏の城に逗留していた六歌仙・三十六歌仙の一人、在原業平(ありわらのなりひら)の座所として館が設けられていた。長勝には皐月前(さつきのまえ)という姫がいて、業平と駆け落ちを試みたが、果たせなかったという伝承がある。鎌倉時代初期、時の地頭が主君・源頼朝(よりとも)の妻・北条政子(まさこ)の安産祈祷のために長勝の霊を祀って建てた寺が長勝院であるとのこと。柏の城は、鎌倉時代中期の正応2年(1289年)二階堂土佐守が築城したとも伝わるが、詳細は不明である。室町時代中期には、木曽義仲(よしなか)の四男である四郎義宗(よしむね)にはじまる武蔵の豪族で、関東管領・山内上杉氏の重臣であった大石氏の一族の居館となる。文明18年(1486年)から翌年にかけて、関白・近衛房嗣(このえふさつぐ)の三男で、京都聖護院(しょうごいん)の門跡である道興准后(どうこうじゅごう)が関東各地を巡歴した際に記した紀行歌文集『廻国雑記(かいこくざっき)』に、「大石信濃守といへる武士の館」を訪れた記述がある。この大石信濃守とは大石顕重(あきしげ)を指すと考えられており、顕重は高月城(東京都八王子市高月町)を本城としていた。そこには「庭園に高閣あり、矢倉などを相かねて侍りけるにや、遠景すぐれて数千里の江山、眼の前に尽きぬとおもほゆ、あるじ、盃を取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに」と記され、「一閑、興に乗じてしばらく楼にのぼる、遠近の江山分れること幾州、落雁は霜に叫んで風颯々(さつさつ)、白沙翠竹斜陽に幽(かす)かなり」と詠んでおり、大石氏の居館の状況が分かる。さらに、城内の御殿の庭では蹴鞠などを催して道興を接待している。

この高閣とは、太田道灌(どうかん)の江戸城(東京都千代田区)の「静勝軒(せいしょうけん)」を意識して築いたものと考えられ、山内上杉氏の重臣であった大石顕重は、扇谷上杉氏の太田道灌と、居城の立派さを競い合ったふしがある。大石氏クラスの豪族は所領内にいくつもの城館をもっていたが、この道興が訪れた館は高月城であるとする説や、柏の城や滝の城であるとする説もあるが、最有力比定地が柏の城である。翌年、道興が再び訪れた際に大石顕重は、古河公方・足利成氏(しげうじ)と扇谷上杉顕房(あきふさ)・犬懸上杉憲秋(のりあき)の連合軍が争った分倍河原の戦い(享徳の大乱)で戦死した父・房重(ふさしげ)の三十三回忌の供養を依頼したところ、道興は冥福を祈る歌を添えた花一枝を贈っている。文明17年(1485年)から長享2年(1488年)までの間、漢詩人であり禅僧でもあった万里集九(ばんりしゅうく)は、太田道灌の招きにより江戸城に滞在していた。江戸城には「静勝軒」という望楼式の櫓建築が存在し、当時の戦闘本位の中世城郭の中で風雅と居住を兼ねた城郭として、日本城郭史において革命的な城であったといえる。この「静勝軒」は天守建築のはじまりとして他の守護・守護代クラスの武将に大きな影響を与えた。山内上杉顕定(あきさだ)は鉢形城(寄居町)に「隋意軒(ずいいけん)」を建て、道灌の父である太田道真(どうしん)は太田氏館(越生町)に「自得軒(じとくけん)」を建てた。大石顕重の子である源左衛門尉定重(さだしげ)も居館に高閣を建て、万里集九を江戸城に立ち寄った帰りに高月城に迎えて、厚く接待している。この時、城中に建てた高閣を、万里集九に依頼して「万秀斎(ばんしゅうさい)」と命名してもらった。万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』巻六の「万秀斎詩序」には、このことについて記されている。漢文を意訳すると次のようになる。武蔵国の領主の軍営には、主君を護る優れた臣下が居る。それは大石定重である。定重は木曽義仲の十世の子孫で、武蔵の二十余郡はすべて、その指令に従っている。その忠義心は太陽を貫くほど天下に行き届き、始めから終わりまで、主君に対する忠節は変わらない。大石定重は、優れた土地を武蔵野の中にはかり定め、大層厳しく砦の城壁を設けた。その後、あづま屋を建てたが、その西方には富士の千年も消えぬ積雪が見え、東方にはもやや霞が遥かに連なり、南方には平野や松原があり、涼しい風が吹き渡ると、その松風は天然自然の曲を絃のない琴で美しく奏でる。北東には湖水と2つの村があり、そのかなたに筑波の峯が朝な夕なに心地よく空に掛かって見える。昔、宋の宋子房が着色して、新しい意匠で画いた絵画は、大きく開いて其の景色を取り入れて、四方八方をすべて極めつくして描いたという。しかし今、この地はそれとは異なり、一たびすだれを捲いて眺めると、その中に十景も二十景でも、なお余り有るほどである。晋書、顧ト之伝の語にあるように「多くの谷川が争うように流れ、多くの巌が、その美しさを競っている」ようである。この描写にも、多く劣る所は無い。さて、大石定重は、仲介者を通じて、私にこの建物の名を求めてきた。そこで「万秀」と名付けた。世の中が安定して、賊に備える犬も、用がなくなって寝ていて目ざめるのは、誠に結構なことである、とある。この詩は配列の位置からみて、文明19年(1487年)の作で、文明18年(1486年)太田道灌が扇谷上杉定正(さだまさ)に暗殺され、翌年(1487年)に山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂し、両上杉家が長享の乱と呼ばれる長期間の抗争を始めた頃である。

このように大石氏は、当時として最高の文化を取り入れていたことが分かる。これらの史料をもとに、大石氏の館の所在地を探る試みがなされ、高月城、柏の城、滝の城、滝山城(東京都八王子市高月町)が候補となった。『梅花無尽蔵』に西方に「富士千秋之積雪」とあり、厳密には富士山は南西方向であるが、大体西方と見てよく、どれも当てはまる。東方の「煙霞眇范(えんかびょうぼう)」もどれも当てはまり、南方の「平原松原」は柏の城のみが当てはまる。北東方の「湖水双村、筑波之数峯」は、滝の城の北側全てが台地で、湖水がないため当てはまらない。柏の城は柳瀬川の低湿地は氾濫により湖水状にもなっていたようで一番近い。また、大石氏が滝山城を築くのは30年ほど後なので、総合的に柏の城が一番当てはまりそうである。一方、道興が関東にいた時期と、万里集九が関東にいた時期がほぼ同時期であるため、『廻国雑記』の「あるじ、盃を取り出して」の「あるじ」が大石顕重でなくなる可能性がある。しかし、大石定重が柏の城にいて、大石顕重が高月城にいたとみることもできる。柏の城の近くの宝幢寺(志木市柏町)は、城主・大石信濃守の子・大石四郎の屋敷跡といわれる。『新編武蔵風土記稿』の松木村(八王子市の南東)の項によれば、「大石信濃守屋敷跡、大栗川の南にあたれる山のなだれなり、信濃守は郡中滝山の城主にて、永禄のころの人なりと云」とある。この屋敷跡は、旧松木村の城山(東京都八王子市松木)に比定されており、北側に大栗川が流れる舌状丘陵上に築かれた中世土豪の居館で、現在も土塁跡や空堀跡が確認できるという。南北朝末期から台頭し、山内上杉氏に仕えて武蔵目代・守護代をつとめた大石氏は、信濃国佐久郡大石郷から上野国に移って栄えたのち武蔵国に進出したとする説と、山内上杉氏が武蔵国守護職になってから取り立てた武蔵の在地武士であったとする説がある。7代当主の大石信重(のぶしげ)は関東管領・上杉憲顕(のりあき)に仕え、延文元年(1356年)戦功によって入間・多摩両郡の柳瀬川流域を含む13郷を与えられた。武蔵国の目代に任命され、至徳元年(1384年)には浄福寺城(東京都八王子市下恩方町)を築城したとも伝えられている。系図では、石見守憲重(のりしげ)、三河守憲儀(のりよし)、源左衛門尉房重につづく11代の当主が信濃守顕重となる。大石氏の研究は数多いが、大石一族の動向や居住地など、いまだに解決されず諸説に分かれており不明な点が多い。これは、滝山城主・大石定久(さだひさ)が北条氏康(うじやす)の三男である北条氏照(うじてる)に家督を譲ったこと、小田原の役で北条氏が滅亡したこと、氏照の家臣団構成が後世に伝わらなかったことなどが理由としてあげられる。しかも、『大石系図』などの系図類は、自家を中心に記しており、誤りも多く、そこに載っている家系や略伝を全面的に信じることはできない。『新編武蔵風土記稿』の「信濃守は永禄頃の人で滝山城主」という記述にしても、信濃守を称し、永禄年間の人で滝山城主に該当する人物はいない。永禄2年(1559年)成立の『小田原衆所領役帳』の中に、「平沢金剛寺分」で六貫文の役高を有する大石信濃守が「他国衆」として載り、永禄から天正にかけて、滝山城主・北条氏照に仕えた大石信濃守が存在するが、同一人物か否か詳らかでない。大石氏は、室町時代から船木田荘と呼ばれた現在の八王子市南端一帯に勢力を伸長させたと考えられ、松木・上柚木・下柚木付近に居館を構えたと考えられる。その後、武蔵守護代として活躍する大石氏とその一族の城砦は数多い。

ちなみに、道興准后が長勝院を訪れ、業平と皐月前の話を耳にしたことから追善供養が営まれ、手向けとして挿した一本の枝が芽を出した。それが今に残るチョウショウインハタザクラであると言い伝えられている。このチョウショウインハタザクラはオシベが旗弁に変形し旗に見えることから、平成10年(1998年)学会誌をもって世界に1本の新種として認定された。天文15年(1546年)河越夜戦(かわごえよいくさ)にて主家の山内上杉憲政(のりまさ)が北条氏康に敗れ、上野平井城(群馬県藤岡市)へ逃れる。この時、大石源左衛門尉定久は北条氏に服属し、家督を氏康の三男・氏照に譲って戸倉城(東京都あきる野市)に退いた。永禄4年(1561年)上杉謙信(けんしん)の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)社参の際に、柏の城は謙信の軍勢に攻めたてられ落城したとも伝わる。現在の志木市本町六丁目の「陣場」という小字は、謙信が陣を置いた場所と伝えられている。永禄4年(1561年)から永禄10年(1567年)まで、北条氏は毎年関東に出陣してくる上杉謙信に脅かされ続けた。天正の頃(1573-90年)は定久の孫である大石越後守直久(なおひさ)が柏の城の城主であり、天正9年(1581年)から北条氏の命により、駿河獅子浜城の城代になっていたという。大石定久の嫡子である播磨守定仲(さだなか)と松田筑前守康定(やすさだ)の娘との間の長男がこの大石直久であり、嫡子の大石隼人定長(さだなが)へと続く。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、柏の城は豊臣勢に明け渡され、徳川家康の関東入封後は、家臣である福山月斎(ふくやまげっさい)が新しい地頭としてこの城地に居住している。(2002.11.09)

柏の城の本曲輪跡
柏の城の本曲輪跡

柏の城の大堀跡
柏の城の大堀跡

チョウショウインハタザクラ
チョウショウインハタザクラ

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