鹿島城(かしまじょう)

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剣の聖地・鹿島に築かれた常陸平氏大掾氏の有力支族である鹿島氏の累代の居城

本丸を南北に区画する空堀跡
本丸を南北に区画する空堀跡

江戸時代、全国で「お伊勢参り」と呼ばれる伊勢神宮(三重県伊勢市)への参拝の旅が大流行した。そして関東以北の人は、お伊勢参りの帰りに東国三社と称される鹿島神宮(鹿嶋市宮中)、香取神宮(千葉県香取市香取)、息栖(いきす)神社(神栖市息栖)の三社にお参りする下三宮参り(お伊勢参りの禊の三社参り)という習慣があったとされる。古代のこの地は、東国の蝦夷(えみし)という先住民族と対峙するヤマト王権側の支配地だった。なかでも最前線は鹿島神宮の地で、その先は蝦夷の支配地域だったとされている。ヤマト王権は東北地方を中心に強大な勢力を持った蝦夷に苦戦を強いられた。当時の鹿島神宮と香取神宮は、蝦夷征討における重要な軍事拠点であり輸送拠点であった。鹿島神宮の社殿が北を向いていることも、蝦夷の侵攻を意識しての配置といわれる。そして、蝦夷征討が進むにつれて、東北各地に鹿島・香取の両神宮が分祠されていった。下総国一之宮である香取神宮は、神武天皇18年(紀元前643年)創建と伝えられる全国有数の古社である。日本神話において天照大神(あまてらすおおかみ)の命で葦原中国に下り、大国主(おおくにぬし)の国譲りの際に活躍する経津主神(ふつぬし)を祭神とすることで知られる。現在の本殿と楼門は、元禄13年(1700年)江戸幕府5代将軍の徳川綱吉(つなよし)によって造営されたものである。常陸国一之宮である鹿島神宮は、神武天皇元年(紀元前660年)の創建と伝えられ、香取神宮よりも更に古い。経津主神とともに葦原中国に下り、大国主に対して国譲りの談判をおこなった建御雷神(たけみかづち)が祀られている。現在の本殿は、元和5年(1619年)2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)が寄進したものだが、もともと慶長10年(1605年)に初代将軍の徳川家康が寄進した本殿があったので、これを遷して奥宮としている。鹿島神宮の建御雷神と香取神宮の経津主神はともに武神であるため、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。鹿島神宮と香取神宮は古来より一対の関係にあり、その神威は武家の世となった中世以降も続き、歴代の武家政権から武神として崇敬された。平安時代の『延喜式』神名帳で、「神宮」の称号で記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであり、それは明治時代まで続いた。また、鹿島神宮と香取神宮は、それぞれ常陸国鹿島郡と下総国香取郡を神郡(しんぐん)、すなわち一郡全体を神社領とすることが定められていた。神郡を有した神社の例は少ない。鹿島神宮の西側には、連郭式平山城の巨大な鹿島城が築かれていた。鹿島神宮のある台地の西端にあたり、本丸跡で標高37m、比高30m程の高さがあり、西側と北側は低地となる。広大な本丸跡は鹿島城山公園として整備されており、周囲には土塁跡が残る。本丸の東側に土橋が架かる虎口があり、その左右両側に深さ10m、幅20m近くある大きな空堀跡が残っている。本丸の周辺には数段の腰曲輪があり、かつては西麓から北麓に掛けて水堀があったとされる。また、空堀で隔てられた南側の二の丸跡は茨城県立鹿島高等学校の敷地となる。室町時代後期、鹿島義幹(よしもと)による鹿島城の大拡張が知られ、城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮の二の鳥居のあたりまであったという。二の丸と三の丸の南側、鹿島小学校の北東の交差点あたりに大手門があったと伝わる。この地は、太平洋から霞ヶ浦、北浦方面への湖上水運の要衝であり、この水運を押さえることによる収入は、鹿島氏の経済力を支えたと考えられる。

天慶3年(940年)平国香(くにか)の長男・貞盛(さだもり)は、藤原秀郷(ひでさと)らの協力を得て平将門(まさかど)を討ち、その恩賞として常陸に多くの所領を得ている。平貞盛は、弟である繁盛(しげもり)の次男・維幹(これもと)を養子にして常陸に赴任させた。これが常陸平氏の始まりである。また、平維幹をはじめ常陸平氏の惣領家が常陸大掾職を代々世襲して、大掾(だいじょう)氏を称したという。しかし、大掾氏の系図には、維幹の子である為幹(ためもと)から玄孫(やしゃご)にあたる義幹(よしもと)に至るまで常陸大掾職に任官された記述はなく、平安時代後期となる仁平元年(1151年)以降に常陸国の国衙から発給された文書においても大掾の署判は確認できない。大掾の署判が入った文書が出現するのは庶流の馬場資幹(すけもと)の大掾就任後である。従って、少なくともこの間は常陸大掾職が空席であったと考えられ、資幹より以前の常陸平氏の嫡流が大掾氏を称することは史実に合致しないとされる。嫡宗家は筑波郡多気に本拠を置いて多気(たけ)氏を称し、吉田、豊田、行方、鹿島、真壁、東条、下妻、小栗といった有力な8支族をはじめ多くの分家を輩出した。しかし、建久4年(1193年)常陸国守護職の八田知家(はったともいえ)の讒言により多気義幹は失脚、常陸平氏の一族である吉田氏庶流の馬場資幹に常陸平氏の惣領の地位が与えられた。この時に源頼朝(よりとも)からの下文によって資幹は常陸大掾職に任ぜられている。これが実際の大掾氏の成立であったと考えられる。大掾氏の一族である鹿島氏は、多気為幹の嫡子・繁幹(しげもと)の次男・清幹(きよもと)が那珂郡吉田郷にて吉田氏を称し、その吉田清幹の三男・成幹(なりもと)が鹿島郡鹿島郷に土着したことに始まる。鹿島成幹は鹿島神宮の神郡である鹿島郡の郡司であったとみられる。天仁2年(1109年)成幹は主人である新羅三郎(しんらさぶろう)こと源義光(よしみつ)から、河内源氏4代棟梁・源義忠(よしただ)の暗殺を命じられ、義忠の背後より斬りつけたが即死せず、義忠の反撃を受けて成幹も負傷した。その2日後に源義忠は出血多量で死亡している。鹿島成幹は源義光へ事の次第を報告すると、義光は負傷していた成幹に対して園城寺(滋賀県大津市)で養生するよう伝え、弟である園城寺の僧侶・快誉(かいよ)宛の書状を持たせた。ところが、その書状には口封じのために鹿島成幹を殺害するよう指示されており、成幹は快誉によって生き埋めにされ殺された。その後、成幹の三男・政幹(まさもと)が惣領として鹿島郡の郡司の地位を継いだものと考えられている。治承年間(1177-81年)鹿島政幹によって鹿島城が築かれ、以降は鹿島氏の居城となった。治承4年(1180年)から始まる治承・寿永の乱(源平合戦)では、常陸が平家の知行国であったため、鹿島政幹や多気義幹ら常陸平氏は平家方であったが、政幹は早い段階で源頼朝に味方しており、養和元年(1181年)頼朝から鹿島社惣追捕使に任じられた。南北朝時代になると、鹿島幹寛(もとひろ)・幹重(もとしげ)父子は北朝方について功績があった。正平23年(1368年)足利将軍家は鹿島氏の当主・幹重を鹿島神宮の惣大行事職に補任し、鹿島氏が代々世襲していくことになった。常陸大掾鹿島家には四宿老として、吉川(よしかわ)氏・小神野(おがみの)氏・額賀(ぬかが)氏・松本氏がいた。延徳元年(1489年)このうち鹿島神宮の神官(祝部)であった吉川氏の当主・吉川左京覚賢(あきかた)の次男として、のちに剣聖と呼ばれる塚原卜伝(ぼくでん)が生まれた。

塚原卜伝は幼名を朝孝(ともたか)という。吉川覚賢の剣友である塚原土佐守安幹(やすもと)は嫡子を失っており、吉川朝孝を養子として迎えた。このとき、塚原新右衛門高幹(たかもと)と改めた。卜伝は号であり、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする。塚原氏は鹿島氏の一族で、鹿島郡塚原の地名から塚原氏を名乗ったとされる。塚原氏は、鹿島神宮から北西に約3kmにある塚原城(鹿嶋市大字沼尾)を本拠としていた。塚原卜伝は、実父・吉川覚賢から家伝の鹿島の剣である鹿島中古流を、義父・塚原安幹から天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。永正2年(1505年)武者修行の旅に出ているが、この17歳のときに清水寺(京都府京都市)で真剣の立ち会いをおこない、相手の武士を斬り倒している。『卜伝遺訓抄』によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と記されている。20代の終わりに鹿島に戻った卜伝は、塚原安幹の勧めで松本備前守政信(まさのぶ)のもとで剣の修行に没頭した。松本備前守は鹿島氏の四宿老のひとりで、塚原卜伝の祖父にあたる吉川加賀入道から鹿島中古流を学び、さらに飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)から香取神道流を学んだとされる。飯篠家直は、古くからの剣術の流派として香取神宮と鹿島神宮の神職に伝承されていた香取の剣・鹿島の剣を基に、百般にわたる武道の原型を体系化した人物である。『直心影流伝書』によると、松本備前守は鹿島神宮に祈願して源義経(よしつね)が奉納した秘書を手に入れ、そこから新しい剣法を創出して鹿島神伝直心影流と称したといい、上泉伊勢守信綱(のぶつな)に剣を伝えたという。鹿島神宮では、松本備前守が神宮に籠って「一つの太刀」を開眼した話も伝わっている。鹿島の太刀の極意となる「一つの太刀」は松本備前守から塚原安幹へ受け継がれた。松本備前守と塚原安幹はともに飯篠家直の高弟であった。のちに塚原安幹から塚原卜伝へと「一つの太刀」が受け継がれて鹿島新当流の極意となっていった。このため、塚原卜伝の鹿島新当流、上泉伊勢守信綱の新陰流、真壁暗夜軒氏幹(うじもと)の霞流、結城政勝(まさかつ)の無変流、国井景継(くにいかげつぐ)の鹿島神流なども松本備前守から派生していった流派とされる。永正9年(1512年)鹿島景幹(かげもと)は下総米野井城(千葉県香取市小見川町)の木内右馬頭を攻めるが、敗れて討死してしまう。景幹には子がなく、弟の義幹が幼くして養子となり家督を相続した。軍記物語の『鹿島治乱記』によると、新規に召し抱えた奸臣・玉造源三が鹿島城を大拡張するなどの悪政のため、大永3年(1523年)四宿老は江戸氏・大掾氏・島崎氏らと結び鹿島義幹を廃して鹿島城から放逐した。四宿老らは先代・景幹の娘と鹿島氏の本家である大掾忠幹(ただもと)の弟・次郎を結婚させて鹿島通幹(みちもと)と名乗らせ、鹿島城を相続させた。大永4年(1524年)鹿島義幹は雪辱の軍を催すと鹿島灘を舟で押し渡り高天原に上陸、総勢7百の兵をもって鹿島城に攻め入った。これに対して鹿島城からも軍勢を繰り出して激戦となった。このとき松本備前守は、槍を合わすこと23度、高名の首25、並の追首76を取るという人間離れした戦歴を残す。

この戦いには36歳の塚原卜伝も従軍し、槍合わせ9度、高名の首21、並の首7を取ったという。しかし、松本備前守は義幹方の津賀大膳との激闘のすえ同士討ちで息絶えた。この高天原合戦で敗れた鹿島義幹は、南方の鉢形野において自刃した。天文元年(1532年)塚原卜伝は2回目の廻国修行の旅から鹿島に戻り、家督を継いで塚原城主として領内経営に携わった。弘治2年(1556年)卜伝は城主の地位を養子の彦四郎幹重(みきしげ)に譲り、68歳で3回目の修行の旅に出た。このとき、13代将軍・足利義輝(よしてる)に剣術を指南し、伊勢では国司・北畠具教(とものり)に「一つの太刀」を授け、甲斐で軍師・山本勘助(かんすけ)を訪ねている。塚原卜伝の墓所(鹿嶋市大字須賀)は、塚原城の南、梅香寺跡の裏の台地の中腹にある。一方、鹿島氏は、義幹の孫である鹿島治時(うじとき)が佐竹氏の助力を得て、鹿島城を回復している。永禄12年(1569年)鹿島治時の次男・氏幹(うじもと)と三男・義清(よしきよ)が家督を巡って争い、千葉氏が支援する鹿島氏幹が家臣により暗殺されて、江戸氏が支援する鹿島義清が家督を継承した。天正9年(1581年)今度は義清が家臣に殺害される事件が起き、千葉氏一門である国分氏の支援を受けていた鹿島治時の五男・貞信(さだのぶ)と六男・清秀(きよひで)は、江戸重通(しげみち)に攻められて鹿島城を奪われた。天正10年(1582年)江戸氏は鹿島治時の七男・通晴(みちはる)を鹿島家当主に擁立した。天正14年(1586年)国分氏の支援を受けた鹿島貞信・清秀兄弟は鹿島城を奪還しており、鹿島通晴は自刃、貞信が当主となる。天正17年(1589年)貞信が死去すると、清秀が鹿島氏を継いだ。これら一連の内訌により鹿島氏の勢力は大いに衰退した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐において、佐竹義宣(よしのぶ)は小田原に参陣したが、江戸重通や常陸南部に割拠する大掾氏と配下の国人たちは参陣を見合わせた。秀吉より常陸一国の支配を認められた佐竹氏は、これを背景に常陸全域の実効支配に乗り出した。義宣の父・佐竹義重(よししげ)は、江戸重通の水戸城(水戸市)を攻略し、大掾氏の府中城(石岡市)まで攻め落とした。大掾清幹(きよもと)は自害し、大掾氏の惣領家は滅亡した。天正19年(1591年)鹿島郡・行方郡の常陸大掾系の一族を中心とした南方三十三館と称される国人たちは、新しい知行割をするという名目で佐竹氏の太田城(常陸太田市)に招かれたが、そこで佐竹義重・義宣父子により謀殺された。そして、町田備中守を大将とした佐竹軍が南下し、城主不在の諸城を次々と陥落させた。ところが、鹿島城には鹿島清秀の室を大将として一族郎党が立て籠もり、半月にわたり頑強に抵抗した。佐竹軍は攻めあぐね、大砲を撃ち込み鹿島城の城壁を破壊した上で突入し、ついに落城させたといわれる。このとき清秀の室は自害した。『傳燈山和光院過去帳』には「南方三十三館の仕置き」で佐竹氏に殺害された9氏16人の名が記述されているが、「天正十九季辛卯二月九日、於佐竹太田ニ生害ノ衆、鹿島殿父子、カミ、島崎(嶋崎)殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田(烟田)殿兄弟、アウカ(相賀)殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿、已上(以上)十六人」とあり、鹿島氏が筆頭に挙げられている。カミは、清秀の室を指すという。鹿島郡は佐竹東家の東義久(よしひさ)に与えられ、廃城となった鹿島城跡に陣屋が置かれた。佐竹氏が常陸を去ると、家康から鹿島家の再興が許され、清秀の遺児・伊勢寿丸が鹿島幹連(もとつら)と名乗り、惣大行事職に復帰して神職として続いた。(2020.11.08)

遊歩道に改変された本丸土塁
遊歩道に改変された本丸土塁

本丸虎口に穿たれた大空堀
本丸虎口に穿たれた大空堀

家康が寄進した鹿島神宮奥宮
家康が寄進した鹿島神宮奥宮

塚原城跡近くの塚原卜伝の墓
塚原城跡近くの塚原卜伝の墓

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