笠間城(かさまじょう)

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関東地方では珍しい石垣の山城

天守曲輪の天守台
天守曲輪の天守台

笠間城は佐白山(さしろさん)の山頂部を中心に築かれおり、関東地方に珍しく石垣を使用した山城である。山頂の天守曲輪から、本丸、二ノ曲輪、帯曲輪、三ノ曲輪、千人溜りを配置し、各曲輪には白壁の塀をまわし、要所には殿主櫓、八幡台櫓、宍ケ崎櫓を配置していた。現在、天守曲輪には見事な天守台が残り、そこには二層の殿主櫓の廃材を利用して建てられたという佐志能神社が建つ。本丸の南端は八幡台櫓跡であり、西端は宍ケ崎櫓跡となる。二層二階の八幡台櫓は、明治13年(1880年)城下の真浄寺に移築され現存しており、他にも2つの城門が城下の民家に現存している。登山路の黒門跡近くに、巨大な「大黒石」がある。これは鎌倉時代の正福寺と徳蔵寺の戦いの際、正福寺の僧兵が佐白山の山頂から転がしたもので、徳蔵寺側の僧兵に大きな被害を与えたという。

鎌倉時代初頭、佐白山には100余房を有する正福寺があり、北方の七会(ななかい)にあって300余房を有する徳蔵寺と寺領をめぐって対立し、武力衝突に発展した。兵力に劣る正福寺側は、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)の宇都宮頼綱(よりつな)に援軍を要請した。元久2年(1205年)頼綱は要請に応じ、甥の塩谷時朝(ときとも)を将とする軍勢を送り、徳蔵寺を殲滅した。ところが宇都宮軍は、その後も帰国せず、佐白山麓に陣を構えてとどまった。不安になった正福寺側は佐白山に立てこもり、宇都宮軍に滅ぼされることになる。承久元年(1219年)塩谷時朝は、破壊した僧坊の跡に笠間城を築城して、笠間氏を称するようになったという。この伝承には疑問な点も少なくないが、南北朝時代以降、笠間氏がこの城を本拠としたことは間違いなく、時朝から17代目の綱家(つないえ)のときには、小さいながらも戦国大名の地位を占めていた。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、宇都宮氏は豊臣側につくが、笠間綱家は北条側に味方した。相模小田原城(神奈川県小田原市)が降伏開城すると、宇都宮国綱(くにつな)は秀吉の命により笠間城を攻め落とし、380年間続いた笠間氏は滅亡する。その後、宇都宮氏の家臣である玉生高宗(たまにゅうたかむね)を笠間城に置いた。文禄元年(1592年)宇都宮国綱は朝鮮出兵(文禄の役)に出陣して、増田長盛(ましたながもり)の指揮下で、釜山(プサン)において戦功をあげる。ところが、慶長2年(1597年)浅野長政(ながまさ)が実施した太閣検地の結果、宇都宮氏の所領申告に不正があったと摘発され改易となった。これは浅野長政の三男長重(ながしげ)を宇都宮氏の嗣子にという提案を宇都宮国綱が断ったためといわれる。慶長2年(1597年)慶長の役に際し、戦功によっては宇都宮氏再興を許すという秀吉の内意を受けた宇都宮国綱は、朝鮮半島に渡って必死の戦いを展開したが、秀吉の死によって再興の願いは絶たれた。

慶長3年(1598年)蒲生秀行(ひでゆき)が18万石で下野国宇都宮に封じられると、家臣の蒲生郷成(さとしげ)が笠間領3万石を与えられ、笠間城を守備する。『笠間城記』によると、郷成が天守曲輪に櫓を建てたとあり、笠間城の改修や城下町の拡充に取り組み、今に残る城郭は、このときにほぼ完成された。慶長6年(1601年)蒲生秀行は会津に60万石で転封し、笠間城には松平康重(やすしげ)が3万石で入封。その後、小笠原、松平(戸田)、永井氏を経て、元和元年(1622年)浅野長重が5万3千石で城主となるが、子の長直(ながなお)の代で播磨国赤穂に転封となった。長直の孫は『忠臣蔵』で有名な赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)である。以後、井上、松平(本庄)、井上氏を経て、延享4年(1747年)牧野貞通(さだみち)が8万石で笠間城主となり、明治まで9代続いた。(2005.01.23)

本丸の八幡台櫓跡
本丸の八幡台櫓跡

移築現存する八幡台櫓
移築現存する八幡台櫓

笠間城の移築城門
笠間城の移築城門

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