笠間城(かさまじょう)

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茨城県では唯一となる石垣造りの城で、山城として幕末まで使用され続けた城

最高所の天守曲輪に至る石垣
最高所の天守曲輪に至る石垣

笠間市は関東地方の北東部、茨城県の中央部に位置し、周囲を八溝山(やみぞさん)系・筑波山系の山々に囲まれて、水戸市に隣接する。笠間市の北部にある笠間城跡は、西麓に笠間盆地を見下ろす標高207mの佐白山(さしろさん)の山頂部を中心に展開しており、複雑に入り込む浸食谷により形成された尾根を巧みに利用した山城である。平城が主流となる江戸時代においても、幕末まで山城を使い続けたという点で全国的にも希少な近世城郭であった。また、関東地方には珍しく石垣を使用した城であり、茨城県で本格的な石垣が築かれた城としては唯一の例であった。笠間城の縄張りは江戸時代の複数の絵図で確認することができる。山頂の天守曲輪から、本丸、二の丸、帯曲輪、的場丸(千人溜り)を配置し、各曲輪には白壁の塀を廻らせ、城内の要所には天守櫓(天守)、八幡台(はちまんだい)櫓、宍ヶ崎(ししがさき)櫓といった3基の2層櫓を配置していた。慶長期(1596-1615年)の絵図に、3層天守が描かれているものが1枚だけ存在するが、この絵図は正確な描写でなく、象徴的に3層天守が描かれたようで、天守は一貫して2層だったと考えられる。また、正保期(1644-48年)の井上正利(まさとし)の藩主時代には本丸南西隅にも2層の隅櫓が存在したことが絵図から確認できる。蒲生郷成(さとなり)によって整備された天守曲輪跡では、残存状況の良い石垣が確認でき、山頂の天守台には天守櫓を転用した佐志能(さしのう)神社拝殿が鎮座する。明治3年(1870年)知藩事が「此迄東櫓(天守櫓)ト唱ヘ候所へ其旧材ヲ用ヒ佐志能神社ヲ復古仕度候」と明治新政府に願い出て、天守櫓の旧材を用いて佐志能神社を再建したとされる。小山工業高等専門学校の調査により、蒲生郷成によって建てられた天守は、慶安2年(1649年)井上正利によって新しく建て替えられた事が分かった。この天守櫓は桁行6間、梁間5間の規模であったが、明治時代まで存続しており、佐志能神社拝殿を造る際、天守台に建っていた天守櫓の2階部分を取り払い、1階部分の前面(西側)と背面(東側)を切り詰めて3間、5間に減築したものであった。天守櫓は解体も移築も大きな改造もされず、多くの部材がそのまま残されて、かなり傷んではいるが佐志能神社拝殿として残存している貴重なものである。小山高専によると、この佐志能神社拝殿を基に天守櫓が復原できる可能性はあるという。備中松山城(岡山県高梁市)の天守は一部が朽ち果て、当初材は3割しか使われていないが、現存天守であり重要文化財に指定されている。笠間城の天守櫓も、復原できれば13基目の現存天守になるかも知れない。かつて、本丸には御殿や、東櫓門、裏門、玄関門などの城門、本丸西端に宍ヶ崎櫓、南端の土塁上に八幡台櫓が置かれた。本丸の南西側には土塁が配され、特に鍵型に残存する土塁は大規模な高土塁である。この土塁上に八幡台櫓の礎石が残る。寛永9年(1632年)から正保2年(1645年)頃、八幡台櫓を浅野長直(ながなお)が修復したとも伝わるが、絵図上での初見は正保期(1644-48年)となる。明治9年(1876年)八幡台櫓は城下の真浄寺(笠間市笠間)に移築されて現存しており、真浄寺の七面堂として七面大明神、三十番神、鬼子母神の三尊神が奉祀されている。小山高専の調査によると、八幡台櫓には当初材が概ね使用されており、正面の入母屋造の向拝と背面の切妻造の平屋の棟が追加されたものの大幅な改造はされておらず、典型的な層塔型の2層2階櫓であった。本丸北側の二の丸には二ノ門、二の丸西側の帯曲輪には中ノ門が置かれ、的場丸の先には大手橋と枡形を伴う大手門が構えられた。

城内には11棟の城門が存在したといい、東櫓門と大手門が櫓門形式であった。裏門とされる門と、どこの門か不明な門の2棟の薬医門が民家(笠間市笠間)に移築現存している。笠間城北麓に残存する坂尾の土塁は、外郭防備のための遺構で、道筋に対して直進を防ぐため喰違い虎口になっている。近世城郭として明治維新まで続いた笠間城であるが、『正保城絵図』などの江戸時代の城絵図で笠間城の範囲外となる帯曲輪の北西側の尾根筋や、的場丸北側の高台、およびその東側にも明確な城郭遺構が広域に残されており、これらの遺構は中世笠間城の痕跡であり、近世には侍屋敷や寺院に利用されたものと考えられる。また、笠間城には鎌倉時代初期の築城伝承があるが、この時代に山城を拠点とするのは不自然で、平地に居館が存在していたと考えられる。現在の笠間稲荷神社(笠間市笠間)の北側一帯にあった「麓城(ふもとじょう)」がその候補とされており、江戸時代の絵図にもその名残りがみられる。中世笠間城は平地居館から出発し、根古屋式山城を経て、南北朝時代を含む室町時代に軍事的な必要性から佐白山に拠点を移し、その原型が造られたと考えられる。そして、戦国時代に渡り長期間かけて山城が整備されていった。登城路の黒門跡近くに、巨大な「大黒石」がある。これは鎌倉時代初頭の正福寺(笠間市笠間)と徳蔵寺(城里町)の戦いの際、正福寺の僧兵が佐白山の山頂から転がした巨岩で、徳蔵寺側の僧兵に大きな被害を与えたという。佐白山には古くから正福寺があり、信仰の山として栄えていた。奈良時代、山中に僧坊が建てられ、平安時代から鎌倉時代初頭には100余房を有する大寺院にまで発展していた。正徳元年(1711年)井上氏の藩主時代に編纂された笠間城研究の基礎史料となる『笠間城記』によると、正福寺は北方の七会(ななかい)にあって300余房を有する徳蔵寺と寺領をめぐって対立し、武力衝突に発展したという。兵力に劣る正福寺の生田坊(いくたぼう)は、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市本丸町)の宇都宮頼綱(よりつな)に援軍を要請した。頼綱は、藤原宗円(そうえん)を初代とする宇都宮氏5代当主である。元久2年(1205年)頼綱は要請に応じて、甥の塩谷時朝(しおのやときとも)を将とする精兵を派遣する。宇都宮頼綱の弟・朝業(ともなり)が塩谷時朝の父で、後継者のいなかった塩谷氏5代当主・塩谷朝義(ともよし)の養子となって塩谷氏を継いでいた。その次男が時朝である。援軍である時朝の軍勢は佐白山西麓に拠点を置いて、徳蔵寺衆徒を殲滅した。さらに、取って返した宇都宮軍は、正福寺の伽藍も破却して滅ぼし、山頂の佐志能神社も遷座させている。塩谷時朝は西麓の拠点を改修し、麓城と呼ばれる居館を構えて本拠とした。そして、笠間氏を称するようになったという。しかし、元久2年(1205年)だと時朝はわずか2歳とされ、指揮を執ったのは時朝の父・朝業だったとも考えられる。これらの記述には疑問も残るが、これ以降は笠間氏が宇都宮氏に従属しつつ笠間十二郷の領主になったことは間違いない。承久元年(1219年)笠間時朝は破壊した僧坊の跡に笠間城の築城を開始して、嘉禎元年(1235年)に完成したと伝わる。しかし、山上は詰の城として用いられるのみで、普段は麓城で生活したと考えられる。正福寺を滅ぼした時朝は、その祟りに悩まされたといい、佐白山の北側に六坊(宝勝坊・秀林坊・座禅坊・松本坊・閼伽井坊・桜本坊)を再興させたという。鎌倉時代、笠間市から栃木県にかけて弥勒仏信仰が広まっていた。弥勒教会(笠間市石寺)の弥勒如来立像は像高175.2cmで、泥仏(どろぼとけ)ともいった。

この弥勒如来立像の像内胸部の墨書銘に「宝治元年丁未(1247年)四月二十四日」の日付と大施主として藤原時朝の名がある。また、この仏像の右足の「ほぞ」の墨書銘に「時朝同身之弥勒」とあり、笠間時朝と同じ身長で制作されたことが分かる。笠間長門守時朝こと藤原時朝は歌人としても知られていた。当時、京都歌壇と鎌倉歌壇が有名であったが、宇都宮頼綱・塩谷朝業兄弟を中心に宇都宮歌壇が成立して世に知られていた。塩谷朝業は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝(さねとも)の和歌の師匠でもあった。笠間時朝の父・朝業が下野矢板城(栃木県矢板市)を居城としていた縁で、笠間市と矢板市は姉妹都市の関係が結ばれている。宇都宮頼綱は娘を権大納言・藤原為家(ためいえ)に嫁がせているが、出家して京都嵯峨野の小倉山麓に移り住んだ頼綱は、為家の父である歌人の藤原定家(さだいえ)に山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼した。定家は歌人の歌を色紙に書いて送っており、これが『小倉百人一首』の原型になったという。藤原為家の長男である二条家の祖・藤原為氏(ためうじ)の撰により、宇都宮一族とその関係者の詠歌を集めた私撰和歌集『新式和歌集』が編纂された。これには笠間時朝の和歌も多く収められており、宇都宮二荒山神社(栃木県宇都宮市馬場通り)へ奉納されている。笠間時朝が鹿島詣での際、歌仲間と船中で10首読んだうちのひとつが「鹿島潟、沖洲(息栖)の森のほととぎす、船をとめてぞ初音ききつる」である。他にも『新式和歌集』には、「藤原時朝あまたつくりたてまつりたる等身の泥仏をおがみ奉りて」として、浄意法師の一首が「君が身にひとしとききし仏にぞ、心のたけもあらはれにける」とある。これに対し「返事」として藤原時朝の一首が「心より心をつくるほとけにて、我身能(の)たけを知られぬる哉」とあり、等身の泥仏が登場しており当時の人々の間で知られていたことが分かる。笠間を治める時朝は公家との交わりも深く、しばしば京都に赴き、各地の寺院に奉仏・納経をおこなった。京都の三十三間堂(京都府京都市)の千手観音像(国宝)のうちの2躰の仏像が、笠間時朝の寄進によることが分かっている。建長5年(1253年)と文永元年(1264年)に寄進したもので、全1001躰のうち寄進者の名前が分かっているのはこの2躰だけという。時朝以降の笠間氏の動向については、断片的に追うことができる。建武4年(1337年)北朝方の佐竹一族である小瀬義春(おぜよしはる)が笠間城を攻めていることが『烟田時幹(かまたときもと)軍忠状写』に見られ、笠間氏が南朝方であったことが分かる。笠間城に籠城した5代当主・笠間泰朝(やすとも)は佐竹勢の撃退に成功したが、後に北朝に降っている。山上の笠間城が整備され始めるのはこの頃と考えられる。天文18年(1549年)宇都宮氏20代当主・尚綱(ひさつな)と那須高資(たかすけ)が衝突した喜連川早乙女坂の戦いでは、笠間氏からの援軍として満川忠親(みちかわただちか)らが派遣されている。宇都宮軍が那須軍の奇襲を受けて混乱する中、忠親は手勢を率いて敵陣に斬り込み、敵を7騎討ち取るなど奮戦したが討たれ、宇都宮尚綱も討死した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、18代当主・笠間綱家(つないえ)は主家である宇都宮氏と共に秀吉に応じて参陣する。しかし、理由は不明だが、相模小田原城(神奈川県小田原市)が降伏開城したのち、笠間城は宇都宮国綱(くにつな)によって攻め落とされ、約380年も続いた笠間氏は滅亡してしまう。その後、笠間城には宇都宮氏の家臣である玉生高宗(たまにゅうたかむね)が配置された。

文禄元年(1592年)宇都宮国綱は文禄の役に出陣し(朝鮮出兵)、増田長盛(ましたながもり)の指揮下で釜山(プサン)において戦功をあげる。ところが、慶長2年(1597年)浅野長政(ながまさ)が実施した太閣検地の結果、宇都宮氏の所領申告に不正があったと摘発された。これは浅野長政の三男・長重(ながしげ)を宇都宮氏の養子とする提案を宇都宮国綱が断った恨みといわれる。宇都宮氏は所領を没収され、浅野長政が宇都宮城と笠間城を預かった。同年の慶長の役に際し、戦功によっては宇都宮氏の再興を許すという秀吉の内意を受けた宇都宮国綱は、朝鮮半島に渡って必死の戦いを展開したが、秀吉の死によって再興の願いは絶たれた。慶長3年(1598年)蒲生秀行(ひでゆき)が18万石で下野国宇都宮に封じられると、家臣の蒲生郷成が笠間3万石を与えられて笠間城を守備する。『笠間城記』によると、郷成が天守曲輪に櫓を建てたとあり、笠間城の近世城郭への改修や城下町の拡充に取り組んだ。今に残る縄張りはこのときにほぼ完成される。慶長6年(1601年)蒲生秀行は陸奥国会津に60万石で移封し、笠間城には松井松平康重(やすしげ)が3万石で入封して笠間藩を立藩した。そして、笠間城は笠間藩の藩庁として機能した。松平康重は徳川家康の落胤といわれ、康重の笠間入封は隣接する佐竹氏を意識したものと考えられる。慶長7年(1602年)5月、佐竹氏が出羽国へ移封になると、佐竹氏の本城である水戸城(水戸市)の受け渡しがおこなわれ、康重は水戸城の守備に当たった。同年7月に佐竹氏家臣の車猛虎(たけとら)が接収された水戸城奪還のため300余騎で蜂起すると、知らせを受けた康重は笠間城下の町人や近辺の庄屋・百姓にも武器を持たせて水戸に駆けつけたといわれる。康重らは一揆勢を鎮定して首謀者を処刑した。慶長13年(1608年)康重が丹波篠山藩へ移封すると、小笠原吉次(よしつぐ)が3万石で入封した。慶長14年(1609年)吉次の改易により一時は幕府領となるが、慶長17年(1612年)戸田松平康長(やすなが)が下総古河藩より3万石で入封する。元和2年(1616年)康長に代わって永井直勝(なおかつ)が3万2千石で入封、後に2万石を加増され5万2千石となる。元和8年(1622年)浅野長政の三男・長重が5万3千余石で入封し、長重の長男・長直と浅野家が2代続いた。この浅野家の時代、政務の利便性のために山麓に下屋敷(現・佐白山麓公園)が造営されるが、山城部分もそのまま維持された。正保2年(1645年)長直が播磨赤穂藩へと移封すると、井上正利が5万石で入封した。正保3年(1646年)から慶安2年(1649年)にかけて、正利は板造りの天守を白壁造りに建て替えている。また、寛文2年(1662年)笠間藩は正福寺の梵鐘を借り受け、大町にあった極楽寺(笠間市笠間)に鐘楼を設け、後に下屋敷の一角に鐘楼を移して鐘撞人3人を雇って時鐘を撞かせた。現在、下屋敷跡に安永7年(1778年)に鋳造された3代目の時鐘が保存される。井上家が2代、本庄家が2代、再び井上家が3代続き、延享4年(1747年)牧野貞通(さだみち)が8万石で入封すると、越後長岡藩の支藩として牧野家が廃藩置県まで9代続いた。牧野氏の入封により天守櫓が東櫓と呼ばれるようになったが、これは天守を持たない本藩の長岡城に遠慮したとも考えられている。小藩ながら剣術が盛んであった笠間藩は、幕末期に「西に柳川、東に笠間」と讃えられ、村上亘(わたる)や山本鉄之丞などの剣豪を輩出した。明治3年(1870年)明治新政府に笠間城の破却願いが許可されて廃城となった。天守曲輪跡には、築城前にあった佐志能神社が祀られている。(2005.01.23)

天守を減築した佐志能神社拝殿
天守を減築した佐志能神社拝殿

枡形を伴った大手門跡の石垣
枡形を伴った大手門跡の石垣

城下に移築現存する八幡台櫓
城下に移築現存する八幡台櫓

笠間城から移築された本丸裏門
笠間城から移築された本丸裏門

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