唐津城(からつじょう)

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寺沢志摩守広高によって築かれた12万3千石の居城で、豊臣政権による築城説もある城

唐津城跡の模擬天守と涼所櫓
唐津城跡の模擬天守と涼所櫓

唐津市街の北部に位置し、松浦川河口の西岸、唐津湾に突き出た満島山(まんとうさん)に唐津城跡が存在する。古来より松浦川の河口部は、雄大な水面を湛え「唐の津」として栄えた場所である。慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて寺沢志摩守広高(ひろたか)によって築かれた唐津城は、満島山上に本丸が配され、その西側に二ノ丸と三ノ丸、三ノ丸の南側に外曲輪が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面していることから海城ともいわれ、現存する総石垣が、まるで海に浮かぶ要塞のように見える。また、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えたことから別名を舞鶴城という。本丸部は、本丸、二ノ曲輪、腰曲輪、下曲輪からなる。本丸には天守台、化粧櫓、亀頭櫓、一の門、西門、北門などがあり、二ノ曲輪には総締門、本丸井戸など、腰曲輪には涼所櫓、水手門、坂口門など、下曲輪には船入門などがあった。本丸に天守台は造られたが、天守は築かれなかった。築城当初は天守が存在していたという説もあるが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在は記されておらず、寺沢広高の跡を継いで2代藩主となった兵庫頭堅高(かたたか)が、正保2年(1645年)から正保3年(1646年)頃に描かせた絵図も天守台のみで天守は存在しない。当初は名護屋城(唐津市鎮西町)の5層天守を移築する計画もあったが、江戸幕府に遠慮して取り止めになったと伝わる。昭和41年(1966年)天守台の上に文化観光施設として鉄筋コンクリートによる模擬天守が建てられた。天守の記録がないため『肥前名護屋城図屏風』の名護屋城天守をモデルにしたという。二ノ曲輪の総締門は枡形虎口になっており、門の礎石が4つ残されている。二ノ丸には二ノ丸御殿(藩庁御殿)が造営され、三ノ丸は侍屋敷となり、外曲輪には町人が居住して町奉行所が置かれた。現在、本丸跡は舞鶴公園となり、二ノ丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校(唐津市東城内)が建ち、その他の二ノ丸・三ノ丸・外曲輪跡は市街化している。唐津築城の際、松浦川の流路を変更し、東唐津側と地続きであった満島山を切り離して松浦川の河口とした。また、旧川筋を堀に活用し、二ノ丸と三ノ丸の境界とした。この堀は二ノ門堀と呼ばれる。二ノ門堀の西側には時の太鼓とか鐘撞堂と呼ばれる櫓があった。現在、時の太鼓(唐津市北城内)が再現されている。三ノ丸の南東隅には、見張りや防御のために三ノ丸辰巳櫓(唐津市大名小路)という単層櫓が存在した。正保年間(1644-48年)の『正保絵図』に描かれており、築城当時から築かれていたことがわかる。明治の廃藩後に解体されたが、石垣を修復したうえで、平成5年(1993年)に復元された。唐津城は、九州の諸大名の助力を得て築城しており、柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地が堀の名に残された。このうちの肥後堀と呼ばれた堀は、三ノ丸と外曲輪の間に掘られたもので、唐津市役所(唐津市西城内)南の石垣に沿って長さ約300m、幅20mから25mの規模があった。現在、肥後堀の一部が復元されている。南城内児童公園(唐津市南城内)には、享和元年(1801年)に水野氏時代の藩校・経誼館(けいぎかん)の中門として建築され、小笠原氏時代の藩校・志道館(しどうかん)の中門に引き継がれた四脚門が移築現存している。松浦川の東岸には、長さ約4.5km、幅約500mにわたり約100万本のクロマツが植生する景勝地が広がる。このクロマツは、慶長年間(1596-1615年)寺沢広高が潮風や飛砂から農地を守るために植林したもので、「虹の松原」と呼ばれ、国の特別名勝に指定されている。

3世紀末に中国で書かれた『魏志倭人伝』に登場する末廬(まつろ)国とは松浦(まつら)の地と考えられ、現在の唐津市付近と想定されている。魏(ぎ)の使者が対馬国、一大国(壱岐国)を経由して、九州で最初に上陸する地が末廬国であった。平安時代中期から戦国時代末期までの約550年間、松浦郡一帯を支配した武士団は松浦党といい、頼光(らいこう)四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)の曾孫にあたる松浦源大夫久(ひさし)を祖とする松浦源氏の一族などで、48家から50数家に別れて繁栄したという。松浦党は、源平合戦では松浦水軍として活躍し、鎌倉幕府が成立すると御家人となって所領を継承、鎌倉時代中期までは各家が独立して行動していた。ところが松浦地方は、元寇において対馬島や壱岐島と同様に蒙古軍によって殺戮され、それ以後は一族保全のため会所に集まり、評議のうえ一致団結して事にあたるようになったといわれる。唐津村の金谷をいずれの家にも属しない中立地とし、そこに松浦党唐津会所(唐津市高砂町)を設けて評議をおこない、一族の行動は票決した。松浦党は、居住する地域によって上松浦党と下松浦党に大別された。上松浦党は、波多・神田・志佐の諸氏からなり、下松浦党は、御厨・今戸・志佐・伊万里の諸氏からなる。上松浦党は「海の武士団」と呼ばれ、松浦地方を中心に大きな勢力を誇ったが、その最大勢力は岸岳城(唐津市北波多岸山)を本拠とする波多氏であった。波多氏は、松浦久の次男・源次郎持(たもつ)が波多郷を与えられ、康和4年(1102年)波多姓を称したことから始まる。天文16年(1547年)16代当主の波多壱岐守盛(さこう)が実子のないまま急死すると、有馬晴純(はるずみ)の孫・藤童丸(のちの親)を擁立する波多盛の未亡人・真芳(しんぽう)の一派と、盛の弟・波多志摩守を担ごうとした一派との間で内訌が起こった。元亀元年(1570年)藤童丸は岸岳城に復帰することができ、17代当主として家督を継承した。天正15年(1587年)豊臣秀吉による島津討伐において、波多三河守親(ちかし)は秀吉に礼を尽くしたが、出兵の命には応じなかった。この態度が秀吉の不興を招くも、龍造寺家の重臣・鍋島直茂(なおしげ)の取りなしで改易を逃れ、上松浦郡8万石を安堵された。これは秀吉が計画していた朝鮮出兵で、波多氏の力を利用しようとしていたためである。文禄元年(1592年)から始まる文禄の役では、加藤清正(きよまさ)が率いる第二軍に属し、鍋島直茂の麾下として、2千の兵を率いて朝鮮半島に渡海した。しかし、文禄3年(1594年)卑怯なふるまいがあったとして改易、徳川家康の預かりとなり常陸国筑波に配流となった。波多氏の旧領は、秀吉の寵臣である寺沢広高に与えられた。これは波多氏を首領とする上松浦党が持つ交易の利益を、豊臣政権が直接取り込むためとも考えられている。波多氏の没落に関しては、秀吉が波多親の妻・秀ノ前を望んだことが原因という話もある。名護屋在陣中の秀吉は、秀ノ前の美貌を聞きつけ、波多氏が渡海中をいいことに秀ノ前を名護屋城に伺候させようとした。再三の命令を断れず、覚悟を決めた秀ノ前が秀吉に拝謁する際、不覚にも懐剣を落としてしまった。秀吉は大いに怒り、これが波多氏の改易の一因になったともいう。女好きの秀吉は、亭主不在の妻に伺候させていたようで、鍋島直茂の妻は前髪を抜いて容貌を変えて秀吉に拝謁したと伝えられており、後藤家信(いえのぶ)の妻に関しては、名護屋へ伺候するしか方策はなく、家信が日本に戻り問題が起これば申し開きをおこない、離縁されれば再婚を取り計らうといった文書が残されている。

唐津市周辺には、旗本百人切腹場所(唐津市北波多徳須恵)などの「岸岳末孫(きしたけばっそん)様」と呼ばれる石塔を祀る風習が広がっている。これは、秀吉に改易されて病死した波多親に殉死した家臣や、岸岳城が秀吉に攻められたり、残党狩りに遭ったりして死んでいった人々の墓石と伝えられている。強い恨みを持って死んだ人々の墓であるため、末孫様を蔑ろにすると恐ろしい祟りが起こるとも伝えられている。しかし実際には、岸岳城が秀吉に攻められた事実も、波多親に殉死した家臣の記録もなく、波多氏の遺臣は寺沢氏の家臣や庄屋に取り立てられた者も多く、むしろ厚遇されたようである。石塔は墓ではなく上松浦党が建てた供養塔であった。「岸岳末孫」が文献で登場するのは、18世紀後半の水野氏の時代で、唐津藩の年貢率の高さに苦しんだ領民たちに上松浦党の末孫(子孫)という意識が芽生え、「石塔がある場所は聖域なので入ることはできない、田畑も例外ではない」と主張したので、虹の松原一揆が起きた直後でもあり、唐津藩は石塔のある土地で課税を強行できなかったと考えられる。文禄4年(1595年)唐津を拝領した寺沢広高は、唐津築城までは山城停止令により岸岳城の支城である田中城(唐津市北波多田中)を本拠とした。天正2年(1574年)に開創されたという浄泰寺(唐津市弓鷹町)は、寺沢広高の菩提所である。この浄泰寺には安田作兵衛国継(くにつぐ)の墓も存在する。安田作兵衛は明智光秀(みつひで)の重臣で、明智三羽烏のひとりに数えられる。本能寺の変において、安田作兵衛は森蘭丸(らんまる)を斬り伏せて、織田信長に槍をつけ手傷を負わせるなど、最高の功名を立てた。天野源右衛門と改名した作兵衛は、流浪のすえ初代藩主・寺沢広高の客分として8千石で召し抱えられた。『翁草』によると、若き日の安田国継と寺沢広高は、どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える約束をしたとされる。慶長2年(1597年)安田作兵衛は唐津で没した。頬の出来物の悪化を苦にしての自殺という。自害した日は奇しくも織田信長の命日であり、信長の祟りと噂された。織田信長を刺したといわれる寺宝の槍は、唐津城に展示されている。秀吉の死後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで広高は東軍につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の大大名となった。そして、慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして唐津城を完成させた。唐津城跡では、江戸時代の瓦よりも古くて、名護屋城跡から出土した瓦と同じ文様をもつ瓦(名護屋城並行期の瓦)が大量に出土している。また、金箔瓦も出土している。唐津城の金箔瓦は、佐賀県内では名護屋城に次いで2例目となる。これらの事象には、2つの可能性が考えられていた。1つは、唐津城を築城する際に名護屋城の瓦を再利用したというもので、伝承として後世の記録にも多く残されている。もう1つは、慶長7年(1602年)に始まる唐津城築城より前に、この地に名護屋城に関連する施設として金箔瓦が使用された建物が建てられていたというものである。少数であるが、これを示唆する古文書も残されているという。平成23年(2011年)の発掘調査にて、本丸の南側に広がる二ノ曲輪の地下から唐津城最古の石垣が発見された。この旧石垣は南北に延びており、天守台の下に続いていた。唐津城の天守台は旧石垣を埋めたあとに築かれたことになる。これにより、当初の本丸の形が現在と全く異なっており、旧石垣を廃棄して天守台や二ノ曲輪の南側の石垣を築く等の大改修がおこなわれた事が分かった。さらに旧石垣の裏の盛土から4点の金箔瓦片が新たに出土した。

旧石垣の裏から金箔瓦片が出土したことにより、旧石垣が築かれる前に、すでに金箔瓦を用いた建物が満島山に建てられいたことが明らかになった。しかも、その建物は旧石垣が築かれた時には壊されている。旧石垣は、自然石を用いた乱積みといった技術的な視点から、これが築かれた年代は、下限が慶長年間(1596-1615年)前半と考えられる。さらに、名護屋城築城が始まる天正19年(1591年)以降、唐津周辺での豊臣政権の活動が特に活発になる事から、上限は天正19年(1591年)と想定される。旧石垣を埋めた土の中から、16世紀から17世紀初頭の遺物が出土していることから、17世紀初頭以降、つまり寺沢氏の時代に旧石垣が廃棄され、埋められている。旧石垣が築かれた時期は、寺沢広高による唐津城の築城期間となる慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)までの初期段階にあたる可能性だけでなく、慶長7年(1602年)より前に築かれていた可能性も十分に考えられる。そして金箔瓦を用いた建物が、慶長7年(1602年)よりも前に建てられていた可能性はさらに高いといえる。慶長3年(1598年)の名護屋城廃城以降に、金箔瓦を用いた建物や旧石垣が築かれたのであれば、すでに唐津に入封していた寺沢広高によるもので、金箔瓦は名護屋城のものを転用したことになる。名護屋城廃城以前に、金箔瓦を用いた建物や旧石垣が築かれたのであれば、名護屋城築城または改修等に並行して、豊臣政権により満島山に唐津城の前身となる拠点が築かれていたことになる。文禄・慶長の役では、名護屋城および周囲の約130箇所におよぶ諸大名の陣屋を本営として、壱岐勝本城(長崎県壱岐市)や対馬清水山城(長崎県対馬市)を前衛の拠点、筑前名島城(福岡県福岡市)等を後詰めの拠点として連携していたことが知られる。当時の状況から、唐津にもこの連携の拠点として後詰めの城が築かれていたと考えることができる。寛永14年(1637年)島原藩の松倉勝家(かついえ)が領する肥前国の島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後国の天草諸島の領民が、過重な年貢やキリシタン迫害により大規模な一揆を起こした。天草領にある肥後富岡城(熊本県天草郡苓北町)の城代・三宅藤兵衛が唐津城に急報すると、唐津から原田嘉種(よしたね)、並河九兵衛らが兵2千余を率いて富岡城に入り、各地の一揆勢を討伐した。しかし、一揆勢は意外に強く、藤兵衛と九兵衛が討死して大敗、嘉種は富岡城に籠って防戦すると、一揆勢は包囲を解いて原城(長崎県南島原市)に入った。この島原の乱で原城に籠城した一揆勢は3万7千といわれるが、これを包囲する幕府軍は最終的に12万以上に膨れ上がった。寛永15年(1638年)2月、総攻撃の前日に佐賀藩の鍋島勝茂(かつしげ)隊が移動する一揆勢を発見して進撃を開始、諸隊もこれに続いたため予定より1日早く総攻撃が始まった。原城はついに落城して、島原の乱は収束した。寺沢堅高は今回の責任により、一時は全ての領地を没収されたが、父・広高の功績や島原の乱での富岡城を死守した軍功などから、天草領4万石の没収のみで済んだ。他には、松倉勝家が失政の責により改易のうえ斬首、一番乗りの鍋島勝茂が軍令違反で閉門など、処罰を受ける大名は多かった。正保4年(1647年)寺沢堅高は江戸藩邸で精神異常をきたして自害した。嗣子なく家名は断絶、遺領は一時幕領となった。一説に島原の乱の責任感によるものとされるが、事件から9年も経過しており、それとは無関係の自殺と見る向きもある。その後の藩主は、大久保氏2代、大給松平氏3代、土井氏4代、水野氏4代、小笠原氏6代と続き、明治維新を迎えている。(2019.03.01)

枡形となる総締門跡の石垣
枡形となる総締門跡の石垣

現存する二ノ丸御殿跡の石垣
現存する二ノ丸御殿跡の石垣

町田川に面する三ノ丸辰巳櫓
町田川に面する三ノ丸辰巳櫓

三ノ丸と外曲輪の間の肥後堀
三ノ丸と外曲輪の間の肥後堀

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