辛垣城(からかいじょう)

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峻険な地形を活かした連郭式山城で、武蔵西部に栄えた名族・三田氏終焉の地

激しく破壊された山頂の本郭
激しく破壊された山頂の本郭

JR青梅線の二俣尾(ふたまたお)駅の北方に、標高457m、比高223mの屹立(きつりつ)した辛垣山が存在する。この山頂付近を中心に連郭式山城の辛垣城が築かれていた。辛垣山の北西には標高503mの雷電山が聳え、そこを起点として南東方向に延びる山稜を雷電尾根と呼ぶ。雷電尾根は多摩川河岸に沿って延び、JR青梅線の宮ノ平駅の北方、矢倉台(標高380m)あたりに至るまで標高400m〜500m程で稜線の高度は比較的揃っている。辛垣山は雷電尾根の稜線上に位置する。山稜は矢倉台から東方に向かって徐々に高度を下げ、やがて青梅丘陵と呼ばれる丘陵となって青梅市街北方に達している。この尾根道を青梅丘陵ハイキングコースという。雷電尾根一帯は風雨による侵食を受けやすい地質であり、辛垣山の山頂部にみられるような鋭く尖った残丘状の地形や、山麓から山腹にかけての鋭く食い込んだ侵食谷など、複雑な地形となっている。このように辛垣城は、極めて要害の地に占地された城であることが分かり、三田氏の本城である勝沼城(青梅市東青梅)に対して、最終決戦のための、いわゆる「詰の城」としての性格が強い。『武蔵名勝図会』の二俣尾村古城跡の記述には「石垣所々にあり、北小曾木村界の方は、近年石灰に焼きだす灰石ゆえに谷々所々を崩して今は残れる石垣少し」と、かつては辛垣城に石垣が存在していた事が分かる。また、江戸時代から石灰の採掘が盛んにおこなわれている事も分かり、この採掘は大正時代まで続いている。そのため、辛垣山は頂上付近がえぐり取られ、まるで火山の火口の様になってしまった。山頂部には辛垣城の中心となる本郭があった。規模は東西約30m、南北約85mと大きな曲輪であったが、原形が失なわれるほど激しく破壊され、土塁・櫓台・虎口といった防御施設の有無も分からない。昭和44年(1969年)の発掘調査により、青磁・染付・黄瀬戸・天目等の高級陶磁器の破片や、酒沸かし用の小鍋や古銭などが出土しており、上級武士の生活の場として使用されていた事が分かる。本郭の周囲には切岸による腰曲輪が設けられ、急斜面になっている。山頂部から一段下がって東西に連なる雷電尾根が通過し、それ以外にも数本の支尾根が派生しており、南西に向かって延びる南西尾根、真南に向かう南方尾根、北方の小曾木谷へ向かう北方尾根で、これら交通路の確保と警護のために大小上下の差を設け、中腹あたりに十数郭を構えている。南方尾根のやや凹んだ山腹には馬洗場(ばせんば)と呼ばれる東西約22m、南北約55mの大きい削平地があり、その一隅には外枡形的な機能を持つ石垣の虎口が残っているという。辛垣山から南東約400mの峰続きの桝形山にも、桝形山城(青梅市二俣尾)が存在する。4箇所の曲輪跡が発見されており、城の遺構が300m程の長さに渡って残存し、南北に枡形虎口が存在する。この山城は辛垣城の前哨陣地であったと考えられる。辛垣山の南方尾根と、その東方にある桝形山城が占地する尾根に挟まれてできた深い侵食谷を辛沢(からさわ)と呼ぶ。三田氏の菩提寺である海禅寺(青梅市二俣尾)の境内には、三田氏の墓という4基の宝篋印塔がある。それには三田家の三つ巴紋が刻まれているが、墓の主は分かっていない。また海禅寺の裏手に、最後の当主である三田綱秀(つなひで)の首塚と伝えられる五輪塔もあり、三田居鳴(いなり)と呼ばれている。辛垣城跡から西に軍畑(いくさばた)・西木戸、南に西城(にしじょう)、東に桝形山・物見山・矢倉台、その麓に矢櫃・楯の沢など、城郭に関する地名があり、戦死者を埋めて築いたと伝えられる鎧塚(よろいづか)もJR青梅線の軍畑駅の近くに残されている。

三田氏の本城である勝沼城から辛垣城までは、雷電尾根による連絡路で繋がれていたという。その尾根道の中間には連絡路を守備する矢倉台(青梅市黒沢)という場所があり、ここに三田氏の見張りが置かれたといわれる。矢倉台といっても、いわゆる櫓があった訳でなく、中世では山上の地を物見などの意味を含めて矢倉といったようである。その麓には楯の城(青梅市日向和田)という支城がある。軍畑には西木戸という地名が伝わり、ここに辛垣城の西の関門があったと推定されている。この西木戸付近でも戦闘がおこなわれたらしく、軍畑(軍端)という地名はその名残りとされる。地元には軍畑の西木戸に対して、宮ノ平の楯の城を東木戸と称する伝承がある。楯の城は西木戸と共に辛垣城の麓を通過する街道を封鎖するための城砦であったと考えられる。楯の城跡の近くの明白(めいばく)院(青梅市日向和田)は、海禅寺7世の天江東岳(てんこうとうがく)を開山、野口秀房(ひでふさ)を開基として、天正年間(1573-92年)に創立された。『武蔵名勝図会』には「永禄の初めに、三田氏亡びけり、然るに田辺清右衛門尉惟良(これよし)というひとは、武田家の士なるが、天正十年甲州没落後ここ(楯の城)へ来たりて、氏照の旗下に属して居住す」とある。明白院の山門は、三田氏の滅亡後に楯の城に居住した田辺惟良・平四郎父子の屋敷にあったもので、孫の宇太夫の頃に移築した楯の城の城門と伝えている。対北条氏の最前線に位置していた三田氏は、永禄4年(1561年)上杉政虎(まさとら)の関東撤退後すぐに北条氏の標的となり、三田綱秀の配下にあった金子氏や宮寺氏に対して北条氏の離反工作がおこなわれていた。こうした北条氏の攻勢に対し、三田氏も上杉氏へ頻繁に連絡して、救援および指示を求めたと考えられる。その間の史料として、7月3日付の下野の国衆・那須修理大夫資胤(すけたね)宛の上杉政虎の書状がある。年号は記されていないが、政虎の名は永禄4年(1561年)3月からで、12月には13代将軍・足利義輝(よしてる)から偏諱を受けて輝虎(てるとら)と改めているので、永禄4年(1561年)の越後へ帰った直後の書状と認められる。この書状により、勝沼口に「地利」を構えて備えを堅固にしたことが分かる。地利とは、地の利を取るの意味で、要害すなわち城砦を指す。この地利とはどの城であったのか諸説ある。勝沼城では小規模で不安なため辛垣城とする説、上杉方が築城に加わった可能性もあるのに辛垣城では防御構造が古く、永禄4年のものとは考えられないため勝沼城とする説などである。その勝沼城の遺構も、のちに北条氏によって徹底的に改修されているので、三田氏の時代がどうであったのか分からない。3代当主・北条氏康(うじやす)は三男・氏照(うじてる)に三田氏討伐を命じた。北条氏照は軍勢を滝山城(八王子市)から多摩川南岸に沿って遡らせ、三田綱秀の籠る辛垣城へ攻め寄せた。その結果は綱秀の敗退であり、青梅地方は北条氏の支配下に置かれたのである。三田氏の滅亡後も一族や家臣が多く生き残っているため、北条氏による離反工作が盛んにおこなわれ、三田氏の抵抗する戦力が削がれていったと考えられる。永禄4年(1561年)から永禄5年(1562年)の三田氏の没落に近い時期には、師岡山城守将景(まさかげ)は既に北条氏に従っていたと考えられる。この時期の三田氏の家中では、上杉氏と北条氏のどちらに従うかの内紛があったと思われ、師岡氏だけでなく三田氏一族の中にも北条氏に従った者がいたようである。永禄4年(1561年)の那須氏への書状の後、しばらくは勝沼周辺に関する記録はない。

次に現れる記録は、永禄5年(1562年)3月に北条氏照が下野国佐野の天徳寺宝衍(佐野房綱)に宛てた返書である。それは、上杉輝虎の佐野攻略の失敗を喜び、輝虎が再び来襲しそうなので忍の成田長泰(ながやす)と杣谷で相談したという内容である。この杣谷とは杣保(そまのほ)であると考えられ、北条氏照と成田長泰の会談の場所は勝沼城の可能性がある。氏照が杣保で会談するのであれば治安も問題ないはずで、辛垣城も落城していたのかも知れない。これ以降の永禄5年(1562年)の書状は、三田氏の時代を過去のものとする内容ばかりとなる。辛垣城の落城時期について地元の伝承では、永禄6年(1563年)とされていたが、近年に新たな史料が発見され、永禄4年(1561年)7月下旬から9月上旬までの間という説が有力になっている。北条氏政が江戸城代の太田新六郎康資(やすすけ)に宛てた書状に「唐貝山(辛垣城)を攻め落とし、高坂(埼玉県東松山市高坂)へ在陣した」と記されており、北条軍がこの書状の永禄4年(1561年)9月11日以前に辛垣城を落城させていた事が確認できる。また正法寺(埼玉県東松山市岩殿)の覚書の中にも「上杉政虎が越後に帰国した後に北条氏康が勝沼に攻め寄せ、三田弾正の城が攻め取られ、さらに松山城を攻めるため小代・高坂に百日在陣した」という記述があり『北条氏政書状』の内容を裏付けている。辛垣城の攻防戦や落城についての史料は少ない。わずかに三田氏の遺臣である谷合久信(たにあいひさのぶ)と野口秀房の2人が残したものがある。谷合氏は近江国の出身であったが、戦いに敗れて関東に下り、落魄の身を三田氏に見出されて随身したと家記に記されている。野口氏の出自は明らかでないが、三田氏譜代の臣と自書している。両方とも辛垣落城からかなりの時間を経て書かれたもので誇張が目立つ。谷合太郎重久信の手記である『日記』から確認すると、辛垣城の落城から約50年後となる慶長17年(1612年)2月の日付で次のようにある。三田氏は平将門の後裔であり、かつては関東管領・山内上杉顕定(あきさだ)の幕下で三田(青梅地方)の領主であった。永正7年(1510年)2月、顕定が越後国で討死した後、永禄4年(1561年)長尾景虎(かげとら)と北条氏康が関東を争い、景虎は小田原へ攻め入り氏康は危うかった。このとき関東の大半は景虎になびいた。これをカケトラ乱(景虎の乱)という。三田綱秀も景虎に協力して三田に住していたが、永禄6年(1563年)滝山城主・北条陸奥守氏照が三田の辛垣城へ攻め掛けた。その先手は軍畑の渡しで多摩川を渡り、檜沢(辛沢)から攻め登ってきた。員野半四郎という村山の地頭が案内者となり、赤出立で真先に城へ登ってきたが鉄砲で撃ち落された。この鉄砲は伊勢神宮の御師・竜太夫が、三田氏へ一挺献上したものである。辛垣城では三田八十騎が防戦したが、三田氏の家来・塚田又八という者が変心して城へ火を掛けたため、炎上して落城となってしまった。綱秀は「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱、アケテクヤシキ我身ナリケリ」という和歌を残している。綱秀の幼少の子息2人を谷合久信に託して、上杉顕定の文書3通を証拠として世に立てといい置き、綱秀は城から逃れて程なく岩付で自害し、その後2人の子息も病死してしまったという内容である。谷合久信は主家滅亡後に弓矢を捨てて土着し、子孫は辛垣城のあった二俣尾村の名主を代々勤めた。三田綱秀が落城後に岩付で自害というのは、岩付城(埼玉県さいたま市)の太田資正(すけまさ)を頼ったと考えられ、北側の成木から名栗谷、飯能を経由して岩付に逃れたという伝承がある。

『海禅寺古過去帳』によると、落城から7か月後の「十月十三日武州岩付に於て生害七十三歳」とある。三田氏の没落を物語るもうひとつの史料は、野口刑部少輔秀房の書き残した位牌の裏書きである。秀房は三田領内の三大寺(海禅寺・天寧寺・金剛寺)に、それぞれ旧主・三田氏の位牌を奉納している。それは表に「将門平親王朝臣三田代々尊霊」とあり、裏に朱漆で次のようなことが秀房の自筆で記されている。平親王が御輿を立てられた所は、山中の棚澤村(奥多摩町)である。ここに将門をお祀りした神社が造ってあり、三田氏先代から今に至るまで、敬(うやま)って拝礼していた。そもそも三田氏の先祖・将門から、74代までは何の煩いもなかった。しかし、永禄6年(1563年)弾正少弼綱秀は逝去(永禄六年癸亥歳弾正少弼綱秀御他界)し、子供たち3人もその後に滅亡、幾万人という侍衆や臣下などまでみな絶え果ててしまった。御譜代の野口ばかりが89歳まで命を保っている。後の世の覚えのために、位牌を菩提所の海禅寺に立て奉るとある。寛永4年(1627年)丁卯8月15日の日付で、野口刑部少輔秀房松月の署名と花押も添えられている。しかし「御滅亡幾万人侍衆臣下等迄悉絶果」とは誇張が激しい。海禅寺の過去帳によれば、秀房はこれを書いた2年後の寛永6年(1629年)に91歳の長寿で卒している。逆算すると辛垣落城の当時は25歳の若武者であったことになる。野口秀房は三田氏の滅亡後、北条氏に仕えて若干の領地を与えられ、地侍として各地の戦場に赴き功を立てたようである。三田綱秀の長男・重五郎と次男・喜蔵は病死、綱秀が岩付に連れていった三男・五郎太郎は元服前後に伊豆で自害したという。「辛垣の南の山の玉手箱、開けて悔しき我が身なりけり」の句であるが、辛垣城の南の山とは、支城とされる桝形山城のこととされ、敵に取られてほしくない軍事上の要地を取られてしまい、それが自身の滅亡に繋がってしまったという意味と考えられている。それは味方の裏切りであったかも知れず、家臣・塚田又八のことであったかも知れない。三田氏の滅亡後、旧領の大半は北条氏4代当主・氏政(うじまさ)の弟である北条氏照の支配下に入った。氏照は、永禄5年(1562年)から三田氏の旧領支配を開始し、三田氏の遺臣の多くが氏照の支配下に入った。北条氏の治政下の杣保の状況を現わすものに『清戸三番衆状』がある。杣保の地侍である三田治部少輔以下41名で清戸三番衆を編成し、二番衆と交代するよう命じた永禄7年(1564年)5月23日付の氏照の朱印状である。三田治部少輔と師岡采女佑(うねめのすけ)に宛てた内容は次のとおりである。5日の早朝に各人の在所を出発、箱根賀崎(瑞穂町箱根ヶ崎)で集合し、書立通りに到着したか点検して清戸番所(清瀬市)に行き、前任者と交代せよ。境い目にある大切な番所であるから、遅れて少しでも番所を空けた事が分かればすぐに切腹させる。この趣旨を皆によく通知して一度に全員が来るように。もし通知が届かないことがあった場合は、三田・師岡を処罰するという厳しい内容である。清戸番所は北条氏に敵対していた岩付城主・太田資正の領地に近く、重要な拠点であった。このように、三田氏の滅亡後、北条氏が三田氏一族と思われる三田治部少輔や師岡采女佑秀光(ひでみつ)を旗頭とし、地侍を再編成して軍役を課している状況が窺われる。師岡氏に伝わる家系図によれば、采女佑秀光は山城守将景の子で、後に秀光も山城守を名乗ったと伝わっている。一方、落城した辛垣城には利用価値がなかったため、北条氏によって改修されることもなく、そのまま廃城になったと考えられる。(2022.03.21)

南方尾根の馬洗場という曲輪
南方尾根の馬洗場という曲輪

三田綱秀の首塚という三田居鳴
三田綱秀の首塚という三田居鳴

辛垣城の南東約3kmの矢倉台
辛垣城の南東約3kmの矢倉台

楯の城から移築された四脚門
楯の城から移築された四脚門

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