神辺城(かんなべじょう)

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神辺合戦において山名理興が大内勢を相手に6年におよび戦い続けた備後の主城

二之丸から二番櫓方面の眺め
二之丸から二番櫓方面の眺め

神辺平野の南東に位置する神辺は、中世から近世初期にかけては神辺城を中心とする城下町で栄えたが、神辺城の最後の城主である水野勝成(かつなり)が福山に居城を移すと、江戸幕府の参勤交代のための交通路の整備により宿場町として生まれ変わった。近世の山陽道は46宿から成り、神辺宿は今津宿(福山市今津町)と備中の高屋宿(岡山県井原市)との間の宿として発展した。山陽道は神辺宿に入ると屈曲して進む。江戸時代の宿場町にも関わらず街道が屈曲しているのは、この地がかつての城下町であり、敵が攻め寄せてきた時の防御のためである。備後の主城であった神辺城は、神辺平野を見下ろす標高133m、比高115mの黄葉山(こうようざん)に築かれていた。JR福塩線の神辺駅からちょうど東方に見える山である。現在、城跡を含む黄葉山と日笠山の間の峡谷一帯が吉野山公園として整備されている。神辺城は黄葉山の山頂部の甲之丸(本丸)を中心として、西と北へ伸びた尾根上に曲輪が連なる連郭式山城である。曲輪は25箇所が確認され、北麓には城主の居館と城下町が2重の水堀に囲まれて存在した。黄葉山の北麓に鎮座する天別豊姫神社(福山市神辺町)の東側に城主の居館があったという。最終的には総石垣造りの近世城郭として整備されており、山上には天守を始めとして多数の櫓が林立していた。これら天守や櫓・城門などの建物は、福山城(福山市丸之内)の築城の際に水野勝成によって解体され、石垣も含めてほとんどが福山城に移されたという。そのため山上部に残される遺構は、曲輪跡や部分的な石垣、堀切、井戸などのみである。石垣はほとんど残されていないが、甲之丸の南側面に石垣がまとまって露出する。南東背後の尾根を切断する毛抜堀と呼ばれる堀切は、大規模に岩盤を断ち切り、竪堀も長く伸びる。また、西尾根の先端には放射線状に畝状竪堀群が残っている。発掘調査によって山上の主郭部に礎石建物の存在が明らかとなり、3期にわたる改築の跡があったという。平野部の発掘調査では水堀の石垣などが出土している。最高所の甲之丸に3層の天守一番櫓、2層の玉櫓、2層の塩櫓が置かれ、西尾根方面の一段下がった曲輪に2層の人質櫓、二之丸に3層の乾(いぬい)櫓、さらに段々と下がりながら3層の二番櫓、2層の三番櫓、2層の四番櫓が置かれていた。三番櫓と四番櫓の境には鐘掛松という松の木があり、この松に鐘を吊り下げて時を告げたという。甲之丸から北尾根方面の一段下がった曲輪に2層の荒布(あらめ)櫓、さらに下段に3層の鬼門櫓があった。西尾根と北尾根の間の谷筋に枡形、甲之丸から南東の毛抜堀を挟んだ日笠之丸に2層の鹿角菜(ふのり)櫓、北麓の城下町の西端に2層の櫛形(くしがた)櫓があった。これらの櫓は、ほとんどが福山城に移築されたようで、福山城には同名の櫓が存在した。これらの櫓は明治初期に全て撤去されてしまったため、神辺城からの移築である確認はできないが、45基の櫓を持つ福山城が築城開始からわずか3年程で完成していることを考えると、神辺城からの移築により工期を短縮した可能性がある。また、福山城には望楼型や層塔型の櫓が混在し、統一感がみられないことからも移築された櫓が多く存在したようである。現存する神辺城の建築遺構としては、実相寺(福山市北吉津町)の山門が神辺城からの移築城門で、明王院(福山市草戸町)の書院・庫裏も神辺城から移築した建物である。神辺という地名の由来は天別豊姫神社に関係する。黄葉山は神霊が宿る山であるため、神奈備(かんなび)の山と呼ばれて地域の人々から信仰されており、この「かんなび」が「かんなべ」に転訛したのである。

神辺城という名称は廃城後に付けられたもので、往時は村尾城と呼ばれていた。『陰徳太平記』には神辺道ノ上の城、『西備名区』には楓山城、『福山志料』には紅葉山城とある。城下に西国街道(山陽道)が通過する交通の要衝であった。神辺城は南北朝時代に築城されたといわれるが、それは神辺城の前身となる城のことで、黄葉山から北東約700mに位置する比高20mほどの古城山に存在したと考えられている。この古城山城(福山市神辺町)は高屋川に隣接する丘陵上に位置する小規模な城で、『備後古城記』によると、建武2年(1335年)備後国守護職に任ぜられた朝山次郎左衛門尉景連(かげつら)によって築かれたとされる。浅山備後守条就とする場合もある。朝山景連とは、建武の中興でいち早く後醍醐天皇に味方した忠臣で、その勲功によって備後の守護職を拝領して当地に赴任した。元々は出雲国朝山郷の豪族で、子孫には織田信長に重用された日蓮宗の僧・朝山日乗(にちじょう)がいる。延元元年(1336年)5月、浅山条就(朝山景連)は備中福山城(岡山県総社市)の福山合戦で討死したといい、弟の浅山次郎義基(よしもと)が神辺城主になったとされるが、朝山景連は備後守護を延元3年(1338年)まで務めている。正平17年(1362年)山名伊豆守時氏(ときうじ)に神辺城を攻め落とされ、浅山義基は出雲に退去している。神辺城は山名氏の城になり、山名時氏から陸奥守氏清(うじきよ)、大夫将監時清(とききよ)、宮内少輔時熙(ときひろ)、備後守氏之(うじゆき)と続いたらしい。かつて備後の守護所は、南北朝時代から安那郡神辺に置かれたとされていたが、近年の研究により否定されている。備後守護の山名氏は守護所を尾道に置いていた。元中9年(1392年)南北朝の争乱が収束した後、応永8年(1401年)山名時熙が備後守護となり、それから天文7年(1538年)に至るまで137年のあいだ山名氏が守護職を独占した。歴代の備後守護は京都、あるいは山名氏の本拠である但馬に居て、備後には守護代を派遣した。古城山の北方に「古市」という地名がある。この古市は、神辺宿の三日市、七日市に対して、より古くに開かれた市であった。三日市、七日市が神辺城の時代に開かれた市であり、古市はそれ以前の古城山城の時代の市と考えられる。黄葉山に神辺城を築城したのは、備後守護代の山名近江入道丈休(じょうきゅう)こと大橋近江守満泰(みつやす)と考えられ、それは室町時代の嘉吉3年(1443年)のこととされる。古城山城はこのとき廃城になり、神辺城の鬼門鎮守として鎌倉八幡宮が祀られた。一方で、古城山城には三吉氏一族の上利右近(あがりうこん)や、戦国期に杉原盛重(もりしげ)の家臣・長田左京亮が居城したとも伝わる。山名氏の一族である大橋満泰は、備後守護でもある山名時熙・宗全(そうぜん)父子の守護代として活躍した人物である。山名丈休というのは、嘉吉元年(1441年)に備後守護となった山名宗全の次男である近江守是豊(これとよ)とされる。宗全は山名是豊を神辺城主にしており、入道して丈休と号したという。しかし、山名是豊と大橋満泰は別人なので、このあたりの情報が錯綜しており良く分からない。享徳2年(1453年)山名丈休が没すると、山名中務少輔時豊(ときとよ)が城主となる。その後、宗全の家臣で守護代の山名忠義(ただよし)が城主となり、文明3年(1471年)山名俊豊(としとよ)が城主となる。その後、永正年中(1504-21年)山名宮内少輔忠勝(ただかつ)が城主となるが、勢力は衰退しており、周防の戦国大名である大内氏に屈している。山名忠勝は氏政(うじまさ)ともいったようである。

山名氏政は備後守護家の山名氏一族とされているが、確実な史料で裏付けることはできない。ただ、山名氏の系図のひとつに、山名時義(ときよし)の三男・氏之の系統が神辺城に拠り、その曾孫に氏政の名がある。天文7年(1538年)神辺城主・山名忠勝が出雲の戦国大名・尼子氏に与したことから、大内義隆(よしたか)の命を受けた山手銀山(やまてぎんざん)城(福山市山手町)の杉原宮内少輔理興(ただおき)が神辺城を攻撃している。杉原理興を先鋒として安芸の有力国人である毛利元就(もとなり)の軍勢5千騎が山名氏の軍勢3千5百騎と決戦におよび山名忠勝を敗走させた。この功により神辺城は杉原理興に与えられ、理興は山名氏の名跡を継いで山名豊後守理興と名乗ったとされていた。しかし、山名理興が杉原姓であった一次史料は見つかっておらず、文献に杉原姓で記されているのは江戸時代中期に成立した軍記物の『安西軍策』や『陰徳太平記』からである。また、古文書からも山名理興は、天文7年(1538年)以前から備後南部を支配していたことが窺え、その系譜については不明であるものの、山名氏一族であった可能性が高いと考えられるようになった。山手銀山城主であった件も杉原姓であることが前提なので、近年では否定的である。いずれにしても、山名理興によって神辺城は堅固に改修され、城下町の整備もおこなわれた。備後北部の内陸の諸郡を内郡(うちごおり)と呼ぶのに対して、備後南部の瀬戸内海沿岸に近い諸郡を外郡(そとごおり)と呼んだ。山名理興は大内義隆のもとで備後半国の外郡を支配下に置いている。しかし、天文11年(1542年)大内・毛利連合軍が尼子晴久(はるひさ)の居城である出雲月山富田城(島根県安来市)を攻めて大敗すると、山名理興は他の国人衆らとともに尼子方に寝返っている。こうして神辺城は、尼子氏の備後における橋頭堡となった。山名理興は配下の国人衆を被官化して領内を掌握しており、その勢力範囲は備後の南半分と備中の一部を含めた計5郡におよんだ。大内義隆は山名理興の寝返りを捨てておく訳にはいかず、翌天文12年(1543年)6月、家臣の弘中隆包(ひろなかたかかね)と毛利元就に山名氏の追討を命じた。これによって備後に侵攻した大内軍は、備後国内における山名氏の支城を次々に落としていく。10月には尼子軍が山名氏の救援に来ているが、大内軍に撃退されている。勢いに乗った大内軍は山名理興の籠る神辺城まで押し寄せたが、外郡でも有数の要害であった神辺城が容易に落城することはなく、持久戦となった。天文13年(1544年)になると尼子軍が再び救援に来ており、3月は甲奴郡田総、7月は双三郡布野、10月は豊田郡の高山城(三原市本郷)に進出したが、いずれも成果を挙げることはできなかった。天文15年(1546年)から天文16年(1547年)にかけて、大内軍は手城島城(福山市東手城町)や明智山城(福山市大門町)を落としている。この時の大内軍は沼隈郡鞆に本陣を置いていた。天文16年(1547年)12月、尼子軍は再び国境まで救援に来ているが、大内軍の小原隆言(おはらたかのぶ)が退けている。これにより外郡だけでなく内郡も大内軍の勢力下となった。山名氏の猛将である杉原盛重の奮戦もあって、神辺城は落城に至っていないものの完全に孤立した。天文17年(1548年)6月に大内軍は神辺城の固屋口(こやぐち)に総攻撃を仕掛けている。これに対して、山名理興は神辺城に籠城して大内軍を迎え撃った。『陰徳太平記』によると、この時の大内軍は陶晴賢(すえはるかた)、毛利元就、平賀隆宗(たかむね)ら1万余騎で、対する神辺城の城兵は1千から1千5百であった。

大内軍と山名軍の兵力差は歴然であったが、山名理興は堅固な神辺城に籠城したことで守り抜いた。天文18年(1549年)2月には城麓で、6月には七日市で大きな戦いが発生したが、神辺城は持ち応えている。大内軍は大軍を遠征させており、長期滞陣になることを懸念した。同年4月、平賀隆宗の進言により、神辺城の北方にある要害山に向城を築き、この要害山城(福山市神辺町徳田)に平賀氏の手勢8百を残して大内軍の本隊は帰国した。その後も平賀隆宗と山名理興は幾度かの小規模な戦闘を繰り返していたようである。7月には平賀隆宗が陣中で病没してしまうが、残された平賀勢は弔合戦と称して城攻めを続行した。さすがの神辺城も尼子氏の援軍が来なければ、勝機を見出すことは難しい。6年以上も戦い続けた山名理興であったが、天文18年(1549)9月4日の夜、ついに神辺城を捨てて、出雲の尼子晴久を頼って逃亡している。これら一連の戦いを神辺合戦と呼ぶ。『陰徳太平記』には、長引く対陣に決着をつけるため、平賀隆宗と山名理興が弓矢の勝負をおこない、負けた理興が神辺城を明け渡したという逸話が記されているが、隆宗は先に病没しているため成り立たない。神辺城落城の報せを受けた大内義隆は、弘中隆包と青景隆著(あおかげたかあきら)を派遣して戦後処理に当たらせた。そして、神辺城の城番に青景隆著を入れ置き、備後を治めさせた。天文20年(1551年)大内義隆が陶晴賢の謀反により自害すると、この間隙を縫って毛利元就が備後に勢力を伸ばした。天文23年(1554年)毛利元就が陶晴賢と断交した際、山名理興は備後に帰国して毛利氏に従臣しており、元就から神辺城への復帰が認められている。弘治3年(1557年)山名理興は病没するが嗣子がいなかったため、元就の次男・吉川元春(きっかわもとはる)の推挙により四番家老・杉原盛重が跡を継いで神辺城主となった。これに反発して牢人となった二番家老・藤井能登守皓玄(こうげん)が、永禄12年(1569年)織田信長の支援を受けて神辺城を一時占拠する事件が起きたが、すぐに奪回されており、皓玄は備中で自刃している。杉原盛重は、戦国大名として勢力を拡大する毛利氏の一翼を担って各地を転戦し、永禄6年(1563年)伯耆尾高城(鳥取県米子市)の城主も兼ねると、神辺城は長男の元盛(もともり)、次男の景盛(かげもり)に任せた。天正9年(1581年)盛重が病没すると杉原元盛が家督を継ぐが、天正10年(1582年)杉原景盛が羽柴氏との内通を理由に兄・元盛を殺して神辺城主になっている。しかし、天正12年(1584年)杉原景盛も羽柴氏との内通を理由に吉川元長(もとなが)に誅殺された。神辺城は毛利氏の直轄となり、天正19年(1591年)からは元就の八男・毛利元康(もとやす)が城主となった。毛利元就の跡を継いだ孫の輝元(てるもと)は「神辺は郡山同前候、つねづね之大事候」と述べており、毛利氏の本拠である安芸吉田郡山城(広島県安芸高田市)と並ぶ重要拠点と位置付けていた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利輝元に代わって安芸・備後に福島正則(まさのり)が49万8千石で入封すると、神辺城を有力支城と位置付けて、筆頭家老である福島丹波守正澄(まさずみ)を3万石で配置した。元和5年(1619年)福島氏が改易されると、代わって水野勝成が神辺に10万石で入封する。「西国の鎮衛」の任務を担う勝成は、山城の神辺城は城地が狭く不便であり、過去に何度も落城した歴史があることから、新規築城を願い出て例外的に認められた。芦田川河口の常興寺山に新城を築いて移ると、約280年にわたり備後の中心であった神辺城は廃城となった。(2024.02.20)

甲之丸南側面に露出する石垣
甲之丸南側面に露出する石垣

毛抜堀と呼ばれる大きな堀切
毛抜堀と呼ばれる大きな堀切

実相寺の神辺城からの移築城門
実相寺の神辺城からの移築城門

明王院に現存する神辺城の書院
明王院に現存する神辺城の書院

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