金山城(かなやまじょう)

[MENU]

上杉謙信、武田信玄、北条氏康ら、戦国の名将の攻撃に耐えた難攻不落の名城

大規模で複雑な構造の大手虎口
大規模で複雑な構造の大手虎口

群馬県太田市の中央にそびえる金山は、標高239mの独立峰で、かつて山頂を中心に金山城が築かれていた。戦国時代の上野国は、北から上杉謙信(けんしん)、南から北条氏康(うじやす)、西から武田信玄(しんげん)、東から佐竹義重(よししげ)の脅威にさらされ、金山城も十数回もの攻撃を受けたが一度も落城することなく、関東七名城に数えられている。連郭式山城となる金山城は、山頂の実城(みじょう)を中心として、四方に延びる尾根上の西城、北城(坂中城、北曲輪)、八王子山の砦といった4つの城域から構成される。また、山麓にも城主や家臣団の居館・屋敷があり、根小屋を形成していたと考えられる。さらに金山城の周囲には、丸山、矢田堀、下小林、大島、鳥山、由良などの支城を配置していた。実城地区は、天主曲輪、二ノ丸、三ノ丸、御台所曲輪、南曲輪などの曲輪群と、これを取り巻く腰曲輪などから構成される。実城地区に隣接して、馬場曲輪、馬場下曲輪、物見台、鍛冶曲輪、南東曲輪、北東曲輪が存在する。天主曲輪の北西の角には、金山城最大の石垣が現存しており、隅櫓形式の建造物が存在した。現在、天主曲輪跡には新田義貞(よしさだ)を祀った新田神社が鎮座する。実城地区には、日ノ池、月ノ池といわれる2つの大きな池があり、全国的にもこのように大規模な池が山城の山頂付近にある例は稀という。金山城で特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東地方の城郭には、本格的な石垣は存在しないとされてきた城郭史の定説が、金山城跡の発掘調査で覆された。石垣に使用される石材は総じて小さいもので、石垣の勾配はほとんどなく、垂直的に積み上げている。石垣の高さは1.5m〜2m前後のものが多い。それ以上高く積む場合は2段目を後ろへ下げ、犬走りを設けて、雛壇状に積み上げている。この金山自体が「金山石」と呼ばれる加工しやすい凝灰岩でできていたため、石材は豊富に確保できたのである。この石垣は曲輪や土塁の崩壊を防ぐために積まれたものが多く、近世城郭のように石垣の上に天守や櫓などの建物を乗せる構造にはなっていない。金山には多くの遺構が存在するが、その周囲にも遺構は残る。大光院(太田市金山町)の裏手には金山城の西山の砦とされる土塁や堀があり、一説には大光院そのものが中世の城館跡であるという。また、八瀬川から分かれ高山神社の南を流れる濠は、金山城の大手外堀というのが定説である。搦手とされる長手の谷の外側には、地元でスナラ土手(スナナン土手)と呼ばれる土塁の跡が残る。現在、金山山頂を中心とする尾根部分と、北城、八王子山の砦、大手の士屋敷を含む97.8haが国の史跡に指定されている。南北朝時代の建武3年(1336年)の文書に、下野国佐野の佐野義綱(よしつな)が足利方の小俣少輔次郎に属して、新田荘に攻め込み、新田方の新田城を攻め落としたという記録がある。この頃、新田義貞は越前金ヶ崎城(福井県敦賀市)に拠って戦っており、新田氏の留守部隊が新田城に立て籠もっていたと考えられる。この新田城が新田荘のどこにあったのか不明であるが、金山のどこかに設けた臨時の防備施設とする説がある。しかし、今のところ金山城跡の発掘調査では、この時代の城に関わる遺構・遺物は発見されていない。一般的に金山城は、文明元年(1469年)新田一族であった岩松家純(いえずみ)によって築城されたとする。岩松氏は新田荘岩松郷(太田市岩松町)を名字の地とする一族で、足利義純(よしずみ)と新田義兼(よしかね)の娘との間に生まれた岩松時兼(ときかね)を祖とする。

鎌倉時代初期の元久2年(1205年)畠山重忠の乱により畠山重忠(しげただ)が滅ぼされると、足利義純は重忠の未亡人と婚姻し、畠山氏の旧領と名跡を継承した。これにより足利義純は畠山義純を名乗り、秩父平氏の流れである畠山氏は、河内源氏の流れである足利一門として存続した。しかし、足利義純には妻子がいた。もともと新田義兼の娘と結婚しており、2人の兄弟を儲けていたのだが、この妻子は義絶された。この兄弟が岩松時兼と田中時朝(ときとも)で、新田一族として新田荘に残った。新田義兼とその妻の新田尼はこの2人の孫を溺愛したため、新田本宗家の所領の多くを譲られて家を興している。このような経緯から、岩松氏は母系の新田一族を称した。そして、鎌倉時代後期には新田本宗家をしのぐ勢力を持つようになる。本宗家の新田義貞が鎌倉幕府打倒のために挙兵すると、岩松氏もこれに参加したが、南北朝時代には北朝方の足利氏に従っている。南朝方の新田義貞が敗死して新田本宗家が滅亡すると、岩松氏が代わって新田荘を支配し、新田岩松氏と通称された。室町時代になり足利氏の世になると、岩松氏は成立の経緯から新田一族と足利一族の立場を使い分け、対外的には足利一門としての格式を誇った。一方では新田一族の惣領職を獲得し、新田荘を中心に上野国に栄えている。岩松満国(みつくに)の後継者であった次男の満純(みつずみ)は上杉禅秀(ぜんしゅう)の娘を娶っていた。そのため、応永23年(1416年)上杉禅秀の乱が起こると、満純は岳父の上杉禅秀に味方している。しかし、武蔵入間川の戦いで鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の軍勢に敗れて捕らえられ、応永24年(1417年)鎌倉の竜ノ口で斬首された。これに対して、岩松満国は一族に罪が及ばないように、満純の嫡子である9歳の土用丸を廃嫡し、満国の五男満春(みつはる)の子である持国(もちくに)に家督を譲っている。土用丸は長楽寺(太田市世良田町)で出家して源慶(げんけい)と称し、追討を恐れて逃亡、甲斐武田氏、美濃土岐氏を経て室町幕府に保護された。家督を継いだ岩松持国は足利持氏方として活動したが、永享10年(1438年)持氏が室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)に反逆して永享の乱が起こると、幕府に保護されていた源慶は足利義教の後押しによって還俗し、岩松家純と名乗って岩松氏を興した。この家純の流れを家純の官職である治部大輔の唐名から礼部(れいぶ)家と呼ぶ。これに対して、持国の流れを持国の官職である右京大夫の唐名から京兆(けいちょう)家と呼ぶ。そして家純は武蔵国五十子に所領を持ったという。持国は永享の乱で敗北したが生き残り、永享12年(1440年)結城合戦が勃発すると、持国は結城方につき、家純は幕府方について互いに争った。嘉吉元年(1441年)結城合戦は幕府方の勝利に終わったが、嘉吉元年(1441年)後ろ盾であった足利義教が嘉吉の乱で殺害されたことで家純は勢力を失い関東を去った。享徳3年(1454年)鎌倉公方足利持氏の遺児である足利成氏(しげうじ)が幕府と対立、関東管領上杉憲忠(のりただ)を謀殺して享徳の乱が起こった。直後、岩松持国の率いる別働隊が管領屋敷を襲撃し、長尾実景(さねかげ)・景住(かげずみ)父子を殺害している。長禄2年(1458年)室町幕府は関東方面の抑えとすべく足利義教の子である政知(まさとも)を派遣、伊豆国堀越に本拠を構え堀越公方と称された。礼部家の家純はこれに従って関東に下向、いったんは京兆家を味方に付けたが、寛正2年(1461年)古河公方足利成氏に寝返ろうとした京兆家の岩松持国・次郎父子を謀殺した。

生き残った持国の次男成兼(しげかね)も文明元年(1469年)に上野を追われ没落、岩松家純は52年ぶりに本領の新田荘へ復帰して、京兆家と礼部家に分裂していた岩松氏を統一した。文明元年(1469年)岩松家純は重臣の横瀬国繁(よこせくにしげ)に命じ、松陰軒西堂(しょういんけんせいどう)の縄張りにより金山城を築かせた。西堂とは長楽寺の僧であるが、岩松家の陣僧も務めていた。文明10年(1478年)太田道灌(どうかん)が金山城を訪れており、この城を天下の名城と称えている。一説に、西堂と道灌は共に足利学校(栃木県足利市)で学んだ仲という。文明8年(1476年)関東管領上杉顕定(あきさだ)に不満を抱いた長尾景春(かげはる)は古河公方と結んで、顕定に反旗を翻した。いわゆる、長尾景春の乱である。この翌年、上杉顕定は岩松家純の嫡子である明純(あきずみ)に参陣と引き換えに領土を与えると約束をしており、明純もこれに応じた。しかし、この明純の独断に家純は怒り、金山城に一族・被官を集めて神水三箇条を誓約させ、壁書の執行者として横瀬国繁を指名して明純を勘当した。この一件によって家純は古河公方の陣に加わった。また、横瀬国繁の岩松家執事としての地位が確立した。家純に勘当された明純・尚純(ひさずみ)父子は金山城を去り、上杉顕定の居城である武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に身を寄せている。しかし、家純には明純以外に子がなかったため、横瀬国繁・成繁(なりしげ)父子の奔走により、足利成氏の了解のうえで孫の尚純のみ金山城に戻した。明応3年(1494年)岩松家純は死去し、遺体は金山の麓に葬られたといわれる。絶対的な権威を持った家純が死去すると、岩松氏で内訌が起こった。当主である尚純の父で引退していた明純と、重臣の横瀬氏の対立である。明純が横瀬氏から権力奪還を図ろうとしたもので、明応4年(1495年)明純は尚純を抱き込み横瀬成繁・景繁(かげしげ)父子の守る金山城を攻めた。しかし、堅城である金山城は落城せず、足利成氏による調停が入り、尚純の子である夜叉王丸を当主とすることで決着した。明純・尚純父子の企ては失敗し、横瀬氏は幼君を擁してはいるが主家を排除し実権を握ることに成功している。この一件を「屋裏の錯乱」と呼ぶ。夜叉王丸は成人して岩松昌純(まさずみ)と名乗ったが、所詮は横瀬氏の傀儡であり、享禄2年(1529年)専横を振るう家臣の横瀬泰繁(やすしげ)を討伐しようとしたが、逆に殺害されてしまう。さらに、昌純の跡を継いだ弟の氏純(うじずみ)は自害に追い込まれた。この結果、岩松氏は完全に没落してしまい、下剋上により主家から金山城を奪うことに成功した横瀬氏は、戦国大名へと成長している。永禄元年(1558年)越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)は関東に出陣して金山城を攻めた。このとき泰繁の跡を継いだ成繁(なりしげ)は和を請い人質を差し出して景虎に属した。このため、永禄6年(1563年)金山城は武田信玄、北条氏康の軍勢に攻められている。永禄7年(1564年)13代将軍足利義輝(よしてる)は横瀬成繁を刑部大輔に任じ、御供衆に加えるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許したと伝わる。横瀬氏は新田荘横瀬郷(埼玉県深谷市横瀬)を名字の地とする武蔵七党の小野姓横山・猪股党の一族であるが、永禄8年(1565年)頃に成繁が由良(ゆら)氏に改姓してからは清和源氏新田氏流を自称した。また、上野国館林や下野国足利を領する長尾景長(かげなが)に男子がないことから、次男の顕長(あきなが)を婿として長尾氏に入れた。そして、関東の争乱は北条氏の勢力拡大により、上杉謙信には不利な状況となっていた。

永禄9年(1566年)由良成繁・国繁(くにしげ)父子は、謙信に叛して北条氏に寝返っている。由良氏の背反に対して金山城を報復攻撃したのは、謙信と結ぶ常陸国の佐竹義重で、北条氏康は三男の氏照(うじてる)を援軍に差し向けた。由良氏の離反は、謙信にとって関東計略の破綻を決定的にするものであった。以後、由良氏は一定の独立性を保ちながら北条方として行動しており、永禄12年(1569年)由良成繁が北条氏康の使者として上杉謙信を訪ね、越相同盟の成立に貢献している。一方、元亀3年(1572年)桐生城(桐生市)を奪うなど領土を拡大し、最盛期には新田、桐生、赤石(伊勢崎)、館林、足利までおよび東上野に君臨した。その後、北条氏と上杉謙信は再び対立関係となり、天正2年(1574年)謙信が関東へ出陣して金山城を5度に渡り攻撃したが、攻め落とすことはできず越後に兵を引き揚げている。これを最後に謙信が関東に出兵することはなかった。天正10年(1582年)武田氏を滅ぼした織田信長は、滝川一益(かずます)に上野一国と信濃国佐久・小県両郡を与えて、関東管領として厩橋城(前橋市)に入城させた。このとき、由良国繁・長尾顕長の兄弟は厩橋に出仕している。しかし、同年に信長が本能寺の変で自害すると、滝川一益は神流川の戦いで北条氏に大敗して関東を去った。こうして北条氏が関東随一の大勢力となると、今まで独立性を保ってきた由良氏に対する圧力は強くなった。天正12年(1584年)の正月、北条氏政(うじまさ)は金山城に使者を送り、年賀をかねて軍法について相談したいので小田原へ来るようにと申し入れた。国繁・顕長兄弟は何の疑いも抱かずに小田原へ赴くと、氏政・氏直(うじなお)父子によって監禁され、金山・館林両城の明け渡しを迫られたのである。しかし、兄弟がこれに応じなかったため、北条氏は実力で城を奪うべく3500騎の大軍勢を金山城に派遣した。この事態に対して金山城では、国繁・顕長兄弟の母である妙印尼(みょういんに)が孫の由良貞繁(さだしげ)を大将に据え、守りを固めて籠城した。北条氏照・氏邦(うじくに)を大将とした北条軍は利根川を押し渡り、金山城に攻め込んだ。戦闘は北西の長手口、南東の熊野口などで一斉に開始されたが、71歳の妙印尼の指揮により城兵がよく戦ったため、寄手は500余名の討死を出して退却した。金山城の善戦により北条氏は軍勢を一旦撤収するが、城下の金龍寺(太田市金山町)、足利の長林寺(栃木県足利市)の住職らの仲介によって、国繁・顕長兄弟の助命を条件に降伏させている。こうして由良国繁は金山城を明け渡して桐生に退去、長尾顕定は足利に退去した。天正13年(1585年)金山城を入手した北条氏は、北曲輪に宇津木氏久(うじひさ)、根曲輪に大井豊前守、西城に高山定重(さだしげ)など、家臣を城番として派遣しており、天正15年(1587年)清水太郎左衛門正次(まさつぐ)を500余貫で金山城主としている。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、国繁・顕長兄弟は北条氏直の命により相模小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。しかし、妙印尼は由良貞繁を大将として300の兵士を連れて、松井田城(安中市)を攻略中の前田利家(としいえ)の陣に参陣、77歳の老婆ながら豊臣軍に従軍して各地を転戦した。戦後、秀吉はこの妙印尼の功績を称え、北条方に与した国繁・顕長兄弟を許して、常陸国牛久に5400石の所領を安堵、由良氏は滅亡を免れている。なお、この朱印状は妙印尼宛てであったという。一方、難攻不落を誇った金山城は、前田利家ら北国軍を前に無血開城しており、北条氏の滅亡とともに廃城となっている。(2011.10.29)

儀式の場所でもあった日ノ池
儀式の場所でもあった日ノ池

大手虎口南上段曲輪の武器庫
大手虎口南上段曲輪の武器庫

物見台の基壇と柱穴の表示施設
物見台の基壇と柱穴の表示施設

[MENU]