亀山城(かめやまじょう)

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北勢最大勢力であった関五家の宗家累代の居城

天守台上に建つ単層の多門櫓
天守台上に建つ単層の多門櫓

東海道の宿駅である亀山には新城と古城の2つの亀山城が存在した。新城とは現在に残る近世亀山城のことで、西から東に向かって西出丸、本丸、二之丸、東三之丸が連郭式に連なり、その南西側に西之丸を配置した平山城である。江戸末期には、三重櫓、楠門脇櫓、石坂脇櫓、向屋敷櫓、神戸櫓、太鼓櫓、関見櫓など17基の櫓と9棟の城門が存在し、これら白い城壁が連なる景観から姫垣を意味する粉(ふん)ちょう城とも呼ばれた。一方の古城とは豪族関氏によって若山の丘陵地に築かれたもので、丹陵城ともいう。しかし正確な城域は特定できていない。亀山古城を現在の位置に移したのは岡本宗憲(そうけん)とされるが、『九々五集(くくごしゅう)』によると関氏の時代に既に移されていたという。明治になると亀山城のほとんどの建築物は破却され、現在では天守台、多門櫓などが残るに過ぎない。城跡には亀山神社、亀山西小学校、亀山市役所などが設けられ、近年になって二之丸北側に存在した二之丸帯曲輪と埋門、土塀などが復元された。現存する単層の多門櫓は、平面がL字型となる東西八間(15.8m)、南北六間(10.9m)の木造平屋建入母屋造で、平成25年(2013年)明治期改修の下見板張りから江戸末期の白漆喰大壁造りに復原整備された。かつて亀山城にも天守はあった。寛永9年(1632年)三宅康盛(やすもり)が藩主のときに、江戸幕府は堀尾忠晴(ただはる)に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を修築するように命じたが、忠晴は間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊してしまった。しかも解体した天守の復旧を幕府に禁じられてしまう。副天守をともなう3層の天守が、1万石の小大名には不釣合いと見なされたようである。寛永13年(1636年)本多俊次(としつぐ)が亀山に入封すると、本丸北側に天守代用の三重櫓を築造、正保年間(1644-48年)天守台には今に残る多門櫓を建てるなど、亀山城の大改修をおこなっている。亀山城の本丸御殿は徳川将軍家の宿館として利用されたため、藩主の居館は二之丸に設置、亀山藩の政庁である居(い)屋敷(御殿)と別棟の向(むかい)屋敷からなる。この二之丸居屋敷の式台と大書院が遍照寺(亀山市西町)の本堂として移築現存している。遍照寺は鐘楼門の坂の下に本堂があるため、「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹である。西之丸跡には亀山藩の加藤内膳家の屋敷表門である長屋門と、これに土塀で連なる土蔵が現存している。加藤家は江戸時代後期の亀山藩主石川氏の家老職を務めた家であった。文化9年(1812年)二之丸御殿が焼失した時は、藩主の仮御殿に使用されたほどの屋敷である。宿場町の亀山宿は東海道の要衝であったため、亀山藩主の板倉重常(しげつね)によって東海道筋に番所として江戸口門、京口門が設けられた。江戸口門は、延宝元年(1673年)亀山宿東町に築造され、堀と土塁に囲まれた内部は枡形を形成、櫓や番所が置かれており小城郭の体をなしていた。京口門は、寛文12年(1672年)亀山宿西端の固めとして竜川左岸の崖上に築かれた。石垣に冠木門、棟門、白壁の番所を構えた壮麗な姿は、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた。安藤広重(ひろしげ)の代表作『東海道五十三次』の「亀山(雪晴)」はこの京口門を描いたものである。これらは城下入口の番所としてだけでなく、亀山城の城門の一つでもあった。現在では全てが取り払われて説明板が立つのみである。一方の「過ぎたるもの」の伊勢屋蘇鉄とは、亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあった蘇鉄の名木で、近年になって県道拡幅工事のため撤去され、亀山市文化会館の玄関前に移植されている。

文永2年(1265年)伊勢平氏の流れをくむ関左近大夫将監実忠(さねただ)によって、伊勢国鈴鹿郡若山に若山城(亀山市若山町)が築城された。これが亀山城の前身である。近世亀山城と区別するために亀山古城とも呼ばれている。関実忠の父は平盛国(もりくに)である。嘉応2年(1170年)平清盛(きよもり)の孫である平資盛(すけもり)が、摂政の藤原基房(もとふさ)の車列と行き違った際に、下馬の礼をとらない無礼から辱めを加えられた。これを聞いた清盛は、平家一門の恥辱と激怒して、300余騎の武者で藤原基房を襲わせて乱暴を加える。この殿下乗合事件は平家悪行の始まりといわれるが、原因となった資盛は父の命令によって伊勢国鈴鹿郡久我荘に配流となった。この配流先で生まれたのが盛国である。資盛が許されて帰京した後も盛国は当地に留まり、平家滅亡後は鎌倉幕府初代執権である北条時政(ときまさ)の被官になったと伝わる。しかし、関氏の出自については諸説あって定かではない。元久元年(1204年)若菜五郎盛高(もりたか)らを中心とした平家残党が、伊勢国と伊賀国で武装蜂起した。この三日平氏の乱は、京都守護の平賀朝雅(ともまさ)によって平定され、朝雅に従って活躍した平実忠は、戦功により鈴鹿郡関谷の地頭に補せられて関氏を名乗った。その後、2代盛泰(もりやす)、3代盛光(もりみつ)、4代盛勝(もりかつ)、5代盛治(もりはる)も関谷24郷の地頭になったが、鎌倉幕府に勤仕していたので、亀山城には目代を置いて領内を治めさせている。元弘3年(1333年)鎌倉幕府と主家である北条氏が滅亡すると、6代の関四朗盛政(もりまさ)は鈴鹿郡関谷の亀山城に移住した。建武2年(1335年)足利尊氏(たかうじ)が建武政権に反旗を翻して京都へ迫ったため、陸奥国の北畠顕家(あきいえ)は軍勢を率いて上洛、新田義貞(よしさだ)、楠木正成(まさしげ)とともに足利軍を破って京都より追い出した。しかし、延元元年(1336年)湊川の戦いで勝利した尊氏が京都に戻ると、後醍醐天皇は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に逃れた。足利尊氏は後醍醐天皇の代わりに光明天皇を即位させ北朝が成立する。一方、後醍醐天皇は吉野に移って南朝が成立した。いわゆる南北朝時代の到来である。延元3年(1338年)南朝方の北畠顕家は再び上洛戦を開始、北朝勢力と戦いながら京都を目指し西上した。しかし、美濃国の青野原の戦いで勝利したものの、兵力を消耗したため伊勢国に退いた。伊勢は南朝勢力が強力な土地であった。このとき関盛政は、北畠顕家に従って北朝方の有力豪族である長野氏や、雲出川にて高師泰(もろやす)の軍勢と戦ったという。正平5年(1350年)北朝の伊勢国守護職である高師秋(もろあき)が長野城(津市)を攻めた際、南朝の伊勢国司北畠顕能(あきよし)が救援に駆けつけて、高氏をさんざんに破った。高師秋はたまらず近江国への脱出を図ったが、鈴鹿山麓で関盛政に捕らえられて殺されている。この頃、盛政は軍功によって鈴鹿郡、河曲(かわわ)郡の2郡を与えられた。盛政には5人の男子がおり、正平22年(1367年)長男・盛澄(もりずみ)を沢城(鈴鹿市飯野寺家町)、次男・盛門(もりかど)を国府(こう)城(鈴鹿市国府町)、四男・盛宗(もりむね)を鹿伏兎(かぶと)城(亀山市加太市場)、五男・政実(まさざね)を峯城(亀山市川崎町)に配置、それぞれ神戸氏、国府氏、鹿伏兎氏、峯氏の祖となった。また三男の関盛繁(もりしげ)には、関氏を継がせて亀山城に据えた。関一党は北勢随一の豪族に成長していき、亀山城はこれら関五家の宗家の居城として機能した。

文正元年(1466年)文正の政変によって、室町幕府政所執事であった伊勢貞親(さだちか)が失脚、身の危険を感じた貞親は近江国に逃れた。その伊勢貞親が伊勢新九郎という若者を伴って伊勢国の亀山城に現れ、関氏10代当主の豊前守盛元(もりもと)に保護を求めたという。伊勢新九郎とは、のちに伊豆国と相模国を支配することになる北条早雲(そううん)である。関盛元は伊勢貞親らを城内に居遇させて匿った。現在、北条早雲は備中伊勢氏の出身というのが定説だが、以前は伊勢素浪人説というものが有力であった。一方で伊勢の関一族出身説も存在する。これは伊勢の豪族関氏と同族だと書かれた早雲自筆の書状が存在するためである。のちに伊勢貞親は京都に戻るが、伊勢新九郎は駿河国に向かうことになる。応仁元年(1467年)京都で応仁の乱が勃発した。関一族は急ぎ上京して細川勝元(かつもと)の東軍に味方している。関盛元と長男・盛昭(もりあき)、次男・盛秀(もりひで)、孫の盛建(もりたつ)、鹿伏兎城主の鹿伏兎定孝(さだたか)らは、備前国の松田次郎左衛門尉とともに、かつて伊勢貞親が居住した三条殿を500余の軍勢で守備していた。そこへ山名持豊(もちとよ)の西軍が大挙して襲い掛かり、松田氏は討死、関一族も支えきれず相国寺に退いた。花の御所(京都府京都市)に隣接する相国寺は東軍の本陣であり、細川勝元の家宰である安富元綱(やすとみもとつな)が総大将を務めていた。退却してきた関一族は、相国寺の東門を守備する伊勢長野氏の軍勢に合流した。相国寺を取り囲んだ西軍は猛攻を加え、一進一退の激戦が始まった。ところが、相国寺の寺僧が西軍に内応して相国寺に火を放ったため、東軍は総崩れとなり安富元綱は討死、壊滅的な敗北を喫した。西軍は討ち取った首級を8台の車に満載して西陣に運んだという。この相国寺の戦いは、これから11年間続く応仁の乱の中でもっとも激しい戦闘であった。関一族もこの戦いで盛秀、盛建をはじめ多くの将兵を失い、残兵をまとめて伊勢国に引き揚げている。戦国時代になっても伊勢国には強大な戦国大名は存在せず、桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡に北勢四十八家と言われる小領主たちが割拠しており、遠交近攻の勢力争いを続けていた。また、鈴鹿郡、河曲郡には関五家と呼ばれる関一党が、奄芸郡、安濃郡には長野氏が、一志郡以南は伊勢国司北畠氏がそれぞれ存在した。永禄10年(1567年)尾張国の織田信長は美濃国を平定、それと前後して滝川一益(かずます)に命じて北伊勢に侵攻させている。滝川一益は「進むも滝川、退くも滝川」と称された名将である。北勢の土豪たちをつぎつぎと降伏させて、桑名郡、員弁郡の攻略に成功した。同年、信長自身も北伊勢に出陣して桑名を本陣に版図を拡大するが、神戸氏の家老である山路弾正が高岡城(鈴鹿市高岡町)で徹底抗戦したため快進撃が止まった。信長は高岡城を攻めあぐねるうちに、西美濃三人衆の謀反の噂が流れ、そのまま陣払いして美濃に急行している。永禄11年(1568年)信長は4万の大軍で伊勢に来襲、再び高岡城を囲んだが、神戸勢の善戦により降すことができなかった。長期戦を嫌った信長は、神戸具盛(とももり)に三男の織田信孝(のぶたか)を養子に出して和睦した。同様に長野氏には弟の織田信包(のぶかね)を養子に出して勢力下に収めている。永録12年(1569年)信長の第3次伊勢侵攻では、亀山城の15代当主の関中務大輔盛信(もりのぶ)は叔父の関盛重(もりしげ)とともに織田軍に対して抵抗を続けたが、関一党がつぎつぎと降伏していく状況のため、関宗家もついに和睦に踏み切った。

織田信長は、伊勢国司の北畠具教(とものり)に次男の織田信雄(のぶかつ)を養子に出して和睦、これによって伊勢国の平定が完了する。亀山城の関盛信は神戸城(鈴鹿市神戸)の神戸信孝に属したが、元亀4年(1573年)信孝との不和が原因で信長の怒りを買い、蒲生賢秀(がもうかたひで)の近江日野城(滋賀県蒲生郡日野町)に幽閉された。この際、亀山城は信孝に預けられている。さらに、天正2年(1574年)第3次長島一向一揆攻めにおいて、16代当主となった関盛忠(もりただ)は、日野城主の蒲生賢秀に従って戦うが討死してしまう。天正10年(1582年)神戸信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、関盛信は許されて亀山城に復帰した。ところが同年、本能寺の変が発生する。清洲会議において、筆頭家老の柴田勝家(かついえ)は織田信長の後継者として復姓した織田信孝を推したが、羽柴秀吉はこれに反対、秀吉の推す信長の嫡孫である3歳の三法師に決まった。明智光秀(みつひで)討伐の功労者である羽柴秀吉の発言力は高まっており、これにより柴田勝家とは一触即発の関係となっていた。そして伊勢国の滝川一益も、柴田勝家、織田信孝と同盟して羽柴秀吉と敵対している。天正11年(1583年)播磨姫路城(兵庫県姫路市)の羽柴秀吉に年賀を述べるため、関盛信と次男の一政(かずまさ)が亀山城を留守にした際、関氏の家臣である岩間八左衛門の一派43名が滝川一益に内通して亀山城を占拠した。これを受けて滝川一益は、峰城にいた秀吉派の岡本宗憲を駆逐して、佐治新助益氏(ますうじ)に亀山城を守備させ羽柴軍の来襲に備えた。越前国の柴田勝家が豪雪のため身動きができないうちに滝川一益を滅ぼしておきたかった秀吉にとって、この一益の挙兵は願ってもない幸運であった。秀吉は7万5千の大軍で伊勢国に急行、羽柴秀長(ひでなが)が土岐多羅越え、三好秀次(ひでつぐ)が大君ケ畑越え、総大将の羽柴秀吉が安楽越えと、3方面から伊勢に侵入した。安楽越えの先鋒部隊は蒲生氏郷(うじさと)、関盛信・一政父子であった。羽柴秀吉の大軍は亀山城を囲んだ。佐治新助は戦上手であったが、細川忠興(ただおき)、山内一豊(かずとよ)らの猛攻によって、ついに落城した。このとき山内一豊は、亀山城の東南隅ノ櫓を奪取する際に、譜代の家臣である五藤吉兵衛為浄(ごとうきちべえためきよ)を失っている。その後、滝川一益は秀吉に降伏した。秀吉は関一政にあらためて亀山城を与え、松ケ島に入封した蒲生氏郷の与力としている。そして氏郷の麾下として九州征伐や小田原征伐を転戦した。天正18年(1590年)蒲生氏郷が会津黒川に42万石で移封になると、関一政も従って陸奥国白河に5万石を与えられている。亀山城には峰城の岡本太郎右衛門尉宗憲が2万2千石で入封した。宗憲は亀山城が狭く、損傷も激しいことから、豊臣秀吉に請い東南の丘陵に新城を築いたという。これが近世亀山城の原型である。新城は本丸、二之丸、三之丸からなり、本丸には3層の天守が設けられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、岡本宗憲は伊勢守備隊として西軍に加わるが、本戦での西軍敗報に触れると桑名で自刃、代わって関一政が3万石で旧領に入封した。慶長16年(1611年)一政が伯耆国黒坂に5万石で転封すると、伊勢亀山藩には松平忠明(ただあきら)、三宅康信(やすのぶ)、三宅康盛、本多俊次と続いた。その後も石川憲之(のりゆき)、板倉氏3代、松平乗邑(のりさと)、板倉氏2代とめまぐるしく変わり、延享元年(1744年)備中国松山から石川総慶(ふさよし)が6万石で入封すると、以後は石川氏が11代続いて明治に至る。(2007.08.06)

二之丸居屋敷の式台と大書院
二之丸居屋敷の式台と大書院

復元された二之丸帯曲輪と土塀
復元された二之丸帯曲輪と土塀

西之丸の加藤家長屋門と土蔵
西之丸の加藤家長屋門と土蔵

竜川崖上に築かれた京口門跡
竜川崖上に築かれた京口門跡

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