掛川城(かけがわじょう)

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山内一豊と千代によって初めて天守が築かれた東海道の名城

木造で復元された掛川城の天守
木造で復元された掛川城の天守

掛川城は、遠江国佐野(さや)郡掛川に存在した梯郭式の平山城で、東遠江の中心に位置した。標高56mの丘陵最頂部に天守丸を置き、その脇に腰曲輪、前面に本丸、東側に二の丸と三の丸、西側に中の丸、南側に松尾曲輪、北側に侍屋敷の竹の丸を配している。掛川城の北側を乾堀、本丸の南側を松尾池という水堀で囲み、本丸虎口を三日月堀、十露盤(そろばん)堀で守り、南を流れる逆川(さかがわ)を外堀として取り込み、惣構えで城下町を囲んでいた。近年、掛川城には天守が再建され、この複合式初期望楼型3層4階の天守は戦後初の木造復元天守である。掛川城の天守は、慶長元年(1596年)山内一豊(かずとよ)によって初めて築かれた。この天守は、3層目に高欄の付いた白漆喰総塗籠のものであったようで、その外観から「東海の名城」と讃えられた。しかし、東海地方は地震の多い場所で、慶長9年(1604年)の地震で天守は大破するが、元和7年(1621年)松平定綱(さだつな)によって再建された。さらに、宝永2年(1705年)の地震で再び大破した。このときも天守は再建されている。幕末の安政元年(1854年)に起きた安政東海地震で掛川城は大きな被害を受け、天守も半壊の状態となった。このときは天守台まで崩壊したため、幕末の混乱のなかで天守は取り壊され、そのまま再建されることはなかった。このように掛川城には、山内一豊が創建した天守、松平定綱が再建した天守、幕末に倒壊した天守の3つが存在したことになる。このうち記録からその形状が分かるのは、定綱の天守と、幕末の天守である。正保元年(1644年)江戸幕府から提出を命じられた『正保城絵図』には定綱の天守が描かれており、白漆喰総塗籠の望楼型天守の3層目に高欄が付き、2層目の屋根は唐破風となっている。また、天守台石垣には平屋の櫓が付いている。嘉永4年(1851年)天守台北側の石垣と芝土手が崩壊し、その修理のために幕府に提出した『御天守台石垣芝土手崩所絵図』には幕末の天守が描かれており、2層目に唐破風という点は同じだが、3層目の高欄はなく、2層と3層目が下見板張りとなる層塔型天守であった。他に安政東海地震での被害状況を示した『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』にも幕末の天守が描かれている。掛川城の天守を復元するにあたり、どの時代の天守を復元するかが問題となったが、山内一豊が創建した天守と決まった。しかし、一豊の天守については資料も少なく、復元は困難であった。そこで、一豊が土佐高知城(高知県高知市)の天守を建てるにあたって、「遠州懸川の天守之とおり」と指示したことが『御築城記』に記載されていることから、逆に高知城天守を参考にすることとなった。現存する高知城天守は、江戸時代末期の再建ではあるが、創建当初の天守を忠実に復興したとされるため、一豊が創建した当時の姿に近いものであると考えられている。資料不足による推定部分も少なくないが、平成5年(1993年)復元天守は完成した。天守本体は大きくないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せている。また、掛川城には黒土塁に囲まれた二の丸御殿が現存しており、国の重要文化財に指定されている。御殿が現存するのは武蔵川越城(埼玉県川越市)、山城二条城(京都府京都市)、土佐高知城(高知県高知市)と掛川城の全国で4ヶ所のみである。この御殿は、文久元年(1861年)太田資功(すけかつ)によって安政東海地震で倒壊した二の丸御殿を再建したものである。書院造の御殿は、公的式典の場、藩政の役所、城主の公邸としての機能を併せ持つ施設であった。

本丸には城下に時刻を知らせた太鼓櫓が現存する。この櫓は三の丸南東の逆川に面した断崖上にあったが、昭和30年(1955年)荒和布(あらめ)櫓のあった現在の場所に移築された。太鼓櫓は『正保城絵図』に3層櫓として描かれており、天守に次ぐ大きな櫓であったが、安政東海地震の再建により、単層櫓に物見の2階部分を設けた現在の形状に変更されている。平成7年(1995年)には天守に続いて大手門も復元された。2階部分に漆喰塗籠造りで格子窓付の櫓をおき、庇屋根を付けた楼門造りの櫓門で、掛川城で最大の城門である。山内一豊が設けた大手門は安政東海地震で倒壊し、安政5年(1858年)に再建されたが、明治になって民間に払い下げられ火災に遭い焼失した。道路などの関係で実際の位置には建てることができず、やむなく北側に50mほどずらしている。また、大手門番所が現存しており、大手門の復元に伴って同所に移築した。この番所は明治になって元静岡藩士の谷庄右衛門が居住用に譲り受けたもので、大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しい。そして、大手門と大手門番所の位置関係は正しく再現されている。他にも『正保城絵図』を元に四足門(よつあしもん)が復元された。井伊直好(なおよし)が万治2年(1659年)に創建した大手二の門(玄関下御門)も油山寺(袋井市村松)の山門として移築現存しており、国の重要文化財に指定されている。また、蕗の門が円満寺(掛川市掛川)の山門として現存しており、龍雲寺(菊川市西方)の裏門も掛川城の城門が移築されたものである。応永年間(1394-1428年)掛川の小豪族である鶴見氏が築いた城砦が、掛川城の起源となる。その後、文明年間(1469-86年)駿河国守護職の今川義忠(よしただ)の命により、重臣の朝比奈備中守泰煕(やすひろ)が現在の掛川城の北東約500mにある子角山(ねずみやま)に遠江国への侵攻の足掛かりとして掛川城を築いた。現在の龍華院(掛川市掛川)のあたりを主郭とする連郭式平山城で、こちらを掛川古城と呼び区別している。今川氏親(うじちか)は宿願であった遠江平定を成し遂げており、永正5年(1508年)には正式に遠江国守護職にも補任されている。永正10年(1513年)朝比奈氏は、信濃国守護職の小笠原氏の南下に備えるため、現在の龍頭山の地に新城を築いており、掛川古城は出城として残された。そして、掛川城は今川氏の遠江支配の拠点として機能した。9代当主の今川義元(よしもと)の頃には今川氏の最盛期を築いており、所領も駿河・遠江・三河・尾張の一部にまで拡大し、尾張の織田信長を脅かせていた。ところが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討ち取られてしまう。家督を継いだ今川氏真(うじざね)は戦国大名としての器量が乏しく、父の無念を晴らすといった気概はなかった。そのため、属将であった三河国の松平元康(のちの徳川家康)の独立を許してしまう。元康は織田信長と清洲同盟を結び、三河岡崎城(愛知県岡崎市)を拠点に東に侵攻を開始した。一方、甲斐国の武田信玄(しんげん)は、相模国の北条氏、駿河国の今川氏と甲相駿三国同盟を結んでいたが、衰退の一途をたどる今川氏真に同盟の破棄を決意する。永禄11年(1568年)信玄は今川領である駿河国と遠江国を大井川を境にして家康と分け合う密約を結び、駿河国に侵攻した。今川氏の本拠である駿府は武田軍によって短期間で占拠され、今川氏真は掛川城へ逃れた。一方、遠江国には西から徳川氏が侵攻してきた。掛川城主は朝比奈泰煕から、泰能(やすよし)、泰朝(やすとも)と3代続いている。

家康は掛川城を包囲して攻めたてるが、掛川城の守りは固く、朝比奈泰朝の奮戦により半年近くの攻城戦となる。家康は掛川城攻略のために、北側にある龍尾神社(掛川市下西郷)に本陣を置き、周囲に付城などを築いて掛川城を包囲した。掛川城の天守台の脇に霧吹き井戸が現存する。この井戸には伝説があり、家康が掛川城に攻撃を仕掛けた際、井戸から霧が噴き出して城全体を覆い隠し、徳川軍の攻撃から城を守ったと伝わる。このため、掛川城は別名を雲霧城という。永禄12年(1569年)家康は激戦のすえ、掛川古城跡である子角山を奪取して本陣を移した。ところが、信玄は密約を破り、信濃国から秋山信友(のぶとも)を遠江に侵攻させたため、家康は力攻めをあきらめて今川氏真と和睦した。朝比奈泰朝は掛川城を開城し、主人の今川氏真とともに掛塚湊から船で伊豆国戸倉に移り、北条氏の庇護を受けている。掛川城は徳川氏の持ち城となり、これによって遠江一国を手中に収める。掛川城には城代として譜代の重臣である石川日向守家成(いえなり)・長門守康通(やすみち)父子を配置した。その後、家康は駿河国を領有した信玄と争うようになり、掛川城は武田氏に対する防衛の拠点となった。元亀3年(1573年)武田信玄の西上作戦においては、徳川家康は三方ヶ原の戦いで惨敗しているが、掛川城は攻撃されずに維持し続けている。天正18年(1590年)豊臣秀吉によって家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から関東に移封となると、掛川城には秀吉の直臣であった山内対馬守一豊が近江国長浜から5万1千石(のち5万9千石)で入部した。秀吉は家康を関東に封じ込め、東海道筋にその監視役として秀吉の腹心の大名を配置している。それは東から、駿河国駿府の中村一氏(かずうじ)、遠江国掛川の山内一豊、遠江国浜松の堀尾吉晴(よしはる)、三河国吉田の池田輝政(てるまさ)、三河国岡崎の田中吉政(よしまさ)であった。一豊は掛川城の大規模な修築をおこない、天守、大手門の造営など近世城郭としての体裁を整え、城下町の整備などに力を注いだ。一豊によって造られた天守は、白漆喰総塗籠の外壁を京都聚楽第(京都府京都市)に倣い、黒塗りの廻縁・高欄を摂津大坂城(大阪府大阪市)に倣ったと考えられている。山内一豊は、岩倉織田氏の家老であった山内盛豊(もりとよ)の三男として生まれる。やがて岩倉織田氏が同族の織田信長と対立すると、永禄2年(1559年)尾張岩倉城(愛知県岩倉市)は落とされ、父の盛豊は討死した。主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。こうして戦災孤児から身を興した一豊は、賢い妻の機転に助けられ豊臣大名にまで出世していた。妻の千代は、江戸時代より内助の功の理想像とされ、名馬をヘソクリで購入した話は、江戸時代の書物である『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』などに紹介されて広く知られた。一豊が織田信長に仕え始めたころは非常に貧しかった。その頃、東国一の名馬を織田家に売りに来た者があったが、高くて誰も買えなかった。一豊もこの馬を買って出世の手がかりにしたかったが、とても購入できる額ではなかった。これを聞いた千代は、夫の一大事の時に使うように持たされていた嫁入りの持参金である黄金十枚を渡して名馬を購入させた。この判断は見事に当たり、馬揃えの際に一豊の名馬が信長の目に留まり、事情を聞いた信長は関心して、「家もさぞ貧しからんに、武田、北条の家中さえ買わぬに、わが家中にて買いえたる事の神妙さよ、信長の家の恥をもすすぎ、且つは武士のたしなみ、いと深し」と言い、一豊に馬代として200石を加増したという。

山内一豊が掛川に在城した45歳から55歳までの10年間は、一豊の人生における最大の転機であった。慶長5年(1600年)徳川家康は豊臣恩顧の大名たちを引き連れ、会津征伐に出陣した。山内一豊もこれに従軍している。しかし、下野国小山まで進軍したところ、大坂で石田三成が挙兵したという知らせが届き、小山評定を開いている。この前日、山内一豊のもとに千代からの使者が到着していた。届けられたものは、西軍に味方することを勧めた増田長盛(ながもり)と長束正家(まさいえ)の連署による書状が入った文箱と、使者である田中孫作の笠の紐に編み込んだ密書である。一豊はまず密書を読んですぐに焼き、文箱は封を切らずに家康に差し出した。家康は、何が書いてあるかも分からない文箱をそのまま差し出した一豊の潔さに、二心ない証を感じとり非常に喜んだという。さらに翌日の小山評定において、家康に従っていた諸将が去就に迷う中、山内一豊が先頭を切って家康に味方することを宣言し、人質を出して、居城の掛川城を家康に明け渡すと伝えた。おそらく千代の密書に書かれた筋書きだと思われる。この逸話は『山内一豊武功記』や『谷川七衛門覚書』に記されている。一豊と千代は豊臣秀吉の亡きあと、徳川家康に従うことで家運を開こうと考えたのである。この評定の場では、一豊の発言をきっかけに、諸将もこぞって家康に忠誠を誓い、東海道に居城を持つ大名は城を明け渡した。こうして家康は会津征伐を中止し、石田三成との決戦に向かうことに決した。関ヶ原の戦いの始まりである。掛川城とその城下町は、東海道を西上する東軍の大軍勢を迎え入れており、兵站基地として機能した。そして、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、戦場での武功の少なかった山内一豊であったが、その言動を勲功第一と高く評価し、土佐一国20万石という大幅加増で報いている。わずか200石から身を興し、土佐国の太守となった山内一豊の一生は、妻の賢い判断が効いたものであったといえる。慶長6年(1601年)下総国小南から久松松平定勝(さだかつ)が3万石で掛川城に入り、掛川藩の初代藩主となる。松平定勝は久松俊勝(としかつ)の四男で、母は於大の方であり、徳川家康の異父弟にあたる。松平定勝には定吉(さだよし)という嫡男がいた。この定吉は智勇兼備の若武者で、家臣団の信頼も厚かった。慶長8年(1603年)家康が掛川に訪れたとき、定吉は伯父に自分の技量を見てもらおうと空を飛ぶ鷺に向けて矢を放ち、見事に射落とした。その場にいた者は賞賛したが、家康は褒めるどころか定吉を戒めた。結果的に成功したからよいが、もし失敗していたら物笑いの種になるだけであり、腕に覚えがあっても、それを誇って軽率な行動をすべきではないと言うのである。その後、松平定吉は恥ずかしさのあまり自害し、定吉の後を追って家来が20数人も殉死したという。定吉とその殉死者は城外に葬られ、遠江塚(掛川市下俣)が築かれた。久松松平氏は2代で移封し、その後も掛川藩は譜代大名を中心に目まぐるしく入れ替わった。安藤直次(なおつぐ)、久松松平定綱(さだつな)、朝倉宣正(のぶまさ)、青山幸成(ゆきなり)、桜井松平氏2代、本多忠義(ただよし)、藤井松平忠晴(ただはる)、北条氏重(うじしげ)、井伊氏4代、桜井松平忠喬(ただたか)、小笠原氏3代と藩主が変わっている。延享3年(1746年)掛川藩領を中心に日本左衛門(にっぽんざえもん)らの盗賊団が跳梁したため、この失態により小笠原長恭(ながゆき)は転封を命じられ、代わって太田資俊(すけとし)が5万石で入封すると太田氏が7代続いて明治維新を迎えた。(2011.01.25)

復元された櫓門形式の大手門
復元された櫓門形式の大手門

城内に移築現存する2層の太鼓櫓
城内に移築現存する2層の太鼓櫓

現存する書院造りの二の丸御殿
現存する書院造りの二の丸御殿

移築現存する掛川城大手二の門
移築現存する掛川城大手二の門

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