世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」で知られる岐阜県北西部の白川郷であるが、中世の大野郡白川郷は現在の白川村だけでなく高山市荘川町なども含まれた。戦国時代の白川郷には、帰雲城という城郭が存在した。この城は大地震による山崩れで、跡形もなく一瞬にして消滅してしまった。このため、帰雲城やその城下町がどこに存在したかも分からず、「幻の城」や「日本のポンペイ」などと称される。古くからの地名では帰雲といったが、江戸時代初期には保木脇(ほきわき)と呼ばれるようになった。「ほき」とは崖(ほき)または歩危(ほき)から転じた断崖を表す古語で、東京都小金井市の国分寺崖線の「はけ」や、徳島県三好市・吉野川市の大歩危・小歩危の「ぼけ」と語源が同じである。地震により地形が一変した様子を伝える地名である。かつては、保木脇の背後(西方)にある標高2059mの三方崩山(さんぽうくずれやま)を帰雲山と呼んでいた。名前の由来は「流れる雲は常にこの山頂に至りもと来た空に帰る」ためという。しかし、近年では庄川対岸(東方)の山腹に崩壊跡を残す標高1622mの山を帰雲山と呼ぶようになった。この山の高さ1000mから1450m辺りが天正地震の崩落箇所で、崩れた山肌がえぐれて白くなっている。天正13年(1585年)11月29日の深夜、東海・北陸・近畿におよぶ広範囲な地域を天正地震と呼ばれる巨大地震が襲った。震源は飛騨とみられ、推定マグニチュードは7.8程度、最大震度は7だったと考えられる。活断層による直下型の地震だったようである。被害は、飛騨・越中・加賀・越前・美濃・尾張・伊勢・近江・若狭・山城・大和などにおよんでいる。また、若狭湾、伊勢湾では津波の被害も受けた。この地震は、中部地方の3つの大きな断層が連動した非常に珍しい地震で、養老ー桑名ー四日市断層帯、阿寺断層帯、庄川断層帯といった活断層が一度に活動したため、被害範囲が広がった。この天正地震では、近江長浜城(滋賀県長浜市)が全壊して山内一豊(かずとよ)の娘・与祢(よね)が乳母とともに命を落とし、越中木舟城(富山県高岡市)も全壊して城主・前田秀継(ひでつぐ)夫妻が圧死したほか、美濃大垣城(大垣市)、尾張蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)、伊勢長島城(三重県桑名市)が全壊するなど、多くの城郭が被害を受けている。本願寺11世法主・顕如(けんにょ)の右筆であった宇野主水(うのもんど)が記す『顕如上人貝塚御座所日記』には、帰雲城の様子が次のように記されている。「飛州ノ帰雲ト云在所ハ、内嶋ト云奉公衆アル所ナリ、地震ニ山ヲユリクツシ、山河多セカレテ、内嶋ノ在所へ大洪水ハセ入テ、内嶋一類・地下人ニイタルマテ、不残(のこらず)死タル也、他国へ行タルモノ四人ノコリテ、ナクナク在所へ帰タル由申訖、彼在所ハコトコトク淵ニナリタル也」とある。このように同時代の史料にも伝聞ではあるが帰雲城の惨状が記されており、広く世間を震撼させた出来事だったことが分かる。また、これには「十一日、夜九半時(深夜1時頃)地震、此比ヒカリ物飛ミタル衆多之、廿九日、夜四半時(夜23時頃)大地震」ともある。29日の大地震よりも前の11日にも地震があり、「ヒカリ物」を目撃した人々が多くいたとのことだが、これは地震の前兆現象とされるいわゆる「地震光」と考えられる。帰雲山は天正地震によって2つに割れて崩れた。この地震によって山体崩壊が起きて、崩落した土砂により帰雲城と城下町の全てが一瞬にして埋没してしまい、城主やその家族、家臣、領民らの全員が生き埋めとなり命を落とした。他国に出掛けていた4人のみが生き残ったという。
数奇な運命をたどった帰雲城には、複数の謎めいた伝説が残されている。そのひとつが「死に脈」である。天正13年(1585年)11月のこと、内ヶ島(うちがしま)氏に仕える医師・下方卦庵(したかたけいあん)は、毎月7日に登城して人々の診察をしていた。この月も帰雲城内で診察するが、城主を始めとする全員が、身体に異常はないが、脈だけが死ぬ直前の「死に脈」であった。これは何か災いが起こると直感した卦庵は、全員に避難を促したが相手にされなかった。翌日、城下町の領民までも皆が「死に脈」だったが、遠方から来た患者は正常な脈であった。城下町に居てはいけないと確信した卦庵は、逃げるように叫ぶが誰からも信じてもらえなかった。やむなく卦庵は家族を連れて白川街道を北に向かった。荻町の人々の脈は正常で、鳩谷、飯島の人々を診ても異常はなかった。それから内ヶ戸、椿原(つばきばら)と進み、芦倉(あしくら)に到着した深夜に大地震が発生した。卦庵は芦倉に定住しており、下方氏は明治時代まで医師として続いたという。岐阜県が発表している過去の地震災害資料によれば、江戸時代の善光寺地震(1847年)、安政地震(1855年)でも保木脇で山崩れが発生して死者が出たと記録されている。帰雲城は、白川郷の合掌造り集落から南方約8kmの保木脇の帰雲山の中腹にあったとされる。しかし、調査を続けているものの、帰雲城がどこに存在したのか、現在もその場所を特定できていない。白川郷を流れる庄川の東岸なのか、西岸なのかさえも長く論争が続いた。しかし、帰雲城が築かれた場所は、少なくとも天正地震によって土砂で埋まった約1km四方の範囲内であることだけは確実である。国道156号線脇の帰雲山の崩壊跡を背景とする場所に「帰雲城趾」と刻まれた石碑が建てられている。ここは地勢や堆積土砂等から帰雲城跡の推定地とされる場所である。近くの建設会社の社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、この城址碑の近くには、その霊を慰めるための帰り雲神社や観音像などが整備された。延享3年(1746年)飛騨の地役人・上村木曽右衛門満義(みつよし)が書いた地誌『飛騨国中案内』に、帰雲城のあった場所として「往昔は帰雲、其(その)後は帰山なり、に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」との記述がある。帰雲川原とは、城址碑の場所を含む東西300m、南北600mにわたる範囲である。帰雲川原の西部の高台(標高622m)には、堀切や竪堀の跡が確認できる小規模な砦のような場所が見つかっている。『顕如上人貝塚御座所日記』にあった「内ヶ島氏の在所は大洪水が流入して」と「在所はことごとく淵になっている」の内容から、帰雲城は高所には築かれていなかったと考えられる。また、内ヶ島氏の縁戚に当たる美濃国郡上の領主・遠藤氏の文献に、帰雲城は「屋形上下」という表現があることから、一般的な山城のように山麓の居館と山上の詰の城のセットであった可能性がある。土砂に押し潰された際、宴会の準備をしていたとされるので居館側で被害に遭ったことになる。白川郷を本拠として勢力を誇った戦国大名の内ヶ島氏は、元々は足利将軍家に近侍する奉公衆の家柄であった。室町幕府8代将軍・足利義政(よしまさ)の命を受けた内ヶ島上野介為氏(ためうじ)は、寛正元年(1460年)白川郷に入って向牧戸城(高山市荘川町牧戸)を構築、寛正5年(1464年)頃に北方へ進出して帰雲城を築城した。一説に、内ヶ島為氏が飛騨に入ったのは、室町幕府の財源確保のためであったという。白川郷を含む飛騨地方は金銀などの鉱物資源に恵まれた鉱山地帯であった。
帰雲城の周囲には、上滝(うえたき)・落部(おちくべ)・六厩(むまい)・片野(かたの)・森茂(もりも)・天生(あもう)の6つの金山と横谷(よこたに)銀山が存在した。為氏が採掘した金銀は京都に送られ、足利義政はそれをもって銀閣寺(京都府京都市左京区)を建立したとされる。このため、帰雲城には地震による埋没に絡んで莫大な量の金銀が眠るという埋蔵金伝説も存在する。為氏は白川郷を本拠に小島郷や越中国砺波郡の五箇山も領有したとされる。応仁元年(1467年)より始まる応仁の乱の頃、正蓮寺(白川村飯島)の僧・教信(きょうしん)は還俗して三島将監と名乗る武士になった。後に正蓮寺9世となる弟の明教(みょうきょう)とともに一向宗を背景に勢力を拡大した。正蓮寺の起源は鎌倉時代にまで遡り、建長5年(1253年)親鸞(しんらん)の教えを受けた嘉念坊善俊(かねんぼうぜんしゅん)によって白川郷鳩ヶ谷(白川村鳩谷)に道場が構えられ、後に白川郷飯島に移転して正蓮寺と称した。正蓮寺を中心に飛騨の一向宗は一大勢力となり、加賀一向一揆にも派兵するなど協力をおこなっている。やがて、三島氏と領主である内ヶ島氏は対立するようになり、文明7年(1475年)内ヶ島為氏により正蓮寺は焼き討ちに遭って三島将監は討死、明教は逃亡するが卒塔婆峠で内ヶ島軍に追い付かれて自害した。その後、本願寺8世法主・蓮如(れんにょ)が仲介となって正蓮寺が内ヶ島氏の配下となる事を条件に為氏と和睦、明教の遺児である正蓮寺10世・明心(みょうしん)は、永正元年(1504年)白川郷中野(高山市荘川町中野)に正蓮寺を復興して照蓮寺に改称する。内ヶ島氏と手を組んだことにより照蓮寺の勢力は拡大した。2代当主・内ヶ島上野介雅氏(まさうじ)は一向宗の熱心な門徒となり、雅氏の娘は明心に嫁いでいる。また、本願寺に財産を納めて、本願寺のために各地の戦いに軍勢を動かした。地元に残る民謡「千本づき」の歌詞には「西の山から掘ったる金は月に2回の馬で行く」とあり、これは月2回の頻度で京都の山科本願寺(京都府京都市山科区)に黄金を納める唄だという。当時の飛騨は一向宗が盛んで、その勢力拡大に内ヶ島氏も協力していた。北陸で起きた一向一揆では、内ヶ島氏も正蓮寺の門徒衆とともに出兵しており、大永2年(1522年)越中多胡城(富山県氷見市)の戦いで本願寺から感状が発給された。この戦いでは、内ヶ島雅氏の弟・兵衛大夫氏教(うじのり)が戦死している。内ヶ島氏は帰雲城を本城として、牧戸・荻町・新渕などに支城を構えた。帰雲城が白川郷の中央に位置し、向牧戸城は白川郷の南側を、荻町城(白川村荻町)は北側を守備した。世界遺産の白川郷合掌造り集落を見下ろす城山展望台が荻町城跡で、南西隅に櫓台が残り、石垣で固めた虎口も残る。白川郷の領主である内ヶ島氏が、本城の他に7つの支城を持てたことは、相当な経済力があったことを示している。天文8年(1539年)雅氏が死去し、3代当主は兵庫助氏利(うじとし)が継いだ。しかし、天分16年(1547年)内ヶ島氏利も没してしまう。6歳にして父を失った夜叉熊は、叔父の内ヶ島豊後守の後見で成長し、元服して兵庫頭氏理(うじまさ)と名乗った。永禄12年(1569年)雅氏の子・内ヶ島道雅(どうが)という人物が美濃岐阜城(岐阜市)で織田信長と対面し、信長から軍配を賜ったという記録が残る。元亀元年(1570年)本願寺顕如は信長と全面戦争に突入、天正4年(1576年)本願寺は上杉謙信(けんしん)と同盟するが、天正6年(1578年)謙信が病没し、天正8年(1580年)顕如は11年の戦いのすえ、石山本願寺(大阪府大阪市)を退去した。
かつての五箇山では、合掌造り家屋の床下で塩硝(えんしょう)の生産がおこなわれていた。『善徳寺由緒略書』に、石山合戦で「五箇山塩硝玉薬(たまぐすり)御寄進これあり候事」とあり、石山本願寺に兵糧だけでなく五箇山の塩硝と玉薬も一緒に送っていた。塩硝は黒色火薬の原料で、当時の塩硝はほとんどを輸入に頼らざるを得ず、国産の塩硝は貴重であった。塩硝の製造方法は白川郷の内ヶ島氏にも伝わっていた。天正8年(1580年)信長は佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣し、越中で上杉家や越中一向一揆と戦っている。内ヶ島氏理は一向一揆と袂を分ち、佐々成政に従った。飛騨国内では、松倉城(高山市上岡本町)の姉小路自綱(よりつな)が織田家と同盟して、上杉家に従う勢力を次々と滅ぼしている。内ヶ島氏は姉小路氏と長年争っていたが、同じく織田家に従うものとして同盟を結んだ。天正10年(1582年)信長が本能寺の変で死去すると、姉小路自綱は飛騨一国を統一しており、他の独立した勢力は内ヶ島氏のみとなった。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが勃発して徳川家康・織田信雄(のぶかつ)連合軍が羽柴秀吉に戦いを挑むと、佐々成政は家康に味方し、姉小路氏と内ヶ島氏もこれに従った。ところが、家康は秀吉と和睦してしまう。天正13年(1585年)秀吉から飛騨攻略を命じられた金森長近(ながちか)は、南北2方面より白川郷に進攻、向牧戸城で合流して城攻めを開始した。内ヶ島氏理は、秀吉の大軍に攻められていた佐々成政を支援するため富山方面に出陣しており留守であったが、姉小路自綱が白川郷の防備を固めていた。この時、内ヶ島氏の家老・尾上備前守氏綱(うじつな)の頑強な抵抗により金森軍は苦戦を強いられたが、ついに向牧戸城は陥落している。この時、照蓮寺は金森氏に通じていたといい、門徒衆は全く動かなかった。その後の照蓮寺は2系統に分かれており、天正16年(1588年)金森長近に従って高山城下(高山市鉄砲町)に移転した照蓮寺と、そのまま中野に残り、昭和36年(1961年)御母衣ダム建設によって高山城二之丸跡(高山市堀端町)に移転した照蓮寺が、それぞれ現在も続いている。堀端町の照蓮寺は中野から建物を移築しており、本堂は明心が復興した永正元年(1504年)頃のもので、浄土真宗の寺院では日本最古となる。中門は天正2年(1574年)のものである。金森軍は再び二手に分かれて進軍し、姉小路氏を滅ぼして飛騨を平定する。越中から急いで帰国した氏理は、金森氏を介して秀吉に降伏した。この時、秀吉に反逆したにも関わらず、内ヶ島氏だけは帰雲城を中心とする白川郷の本領が安堵された。これは金山の開発に加え、火薬の製造という特殊な技術を持っていたからと考えられる。氏理は帰雲城に帰還し、一族・家臣も集まって、城内では予想外の寛大な処分に祝いの宴会の準備に追われていた。ところが、天正13年(1585年)11月29日の23時頃、祝宴の前夜に天正大地震が発生、庄川東岸の山が崩壊し、大量の土砂が庄川を乗り越えて、帰雲城を始め300戸以上の城下町を丸ごと飲み込んだ。『飛騨国中案内』に「城内より川東の大山崩飛て、氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし」と記録される。死者は500名を超え、生存者はおらず、この瞬間をもって約120年に渡り白川郷を治めた戦国大名・内ヶ島氏は滅亡した。内ヶ島氏の家臣・山下氏勝(うじかつ)は、荻町城にいたため生き残った。のちに尾張徳川家に仕えて、水害の多い清洲から名古屋への移転である「清洲越し」を献策した人物といわれる。尾張名古屋城(愛知県名古屋市)の金鯱には白川郷の金が多く使われたと地元には伝わる。(2025.09.27)