聚楽第(じゅらくだい)

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天下に威勢を誇示した関白豊臣家の洛中の城郭

聚楽第の城址碑
聚楽第の城址碑

聚楽第は豊臣秀吉が平安京の大内裏(だいだいり)跡地に築かせた城郭である。本来は関白の政庁であり邸宅であったが、豊臣家の威信を示すものとして、白亜の天守を持ち、深い水堀を巡らした城郭構えであった。多くの史料には聚楽城と記され、聚楽屋敷、聚楽亭という記述も見られる。桃山時代の『聚楽第図屏風』には、天守などの建築物が建ち並び、石垣に囲まれた本丸が描かれている。聚楽第は本丸を中心に、北ノ丸、西ノ丸、南二ノ丸という曲輪が築かれたと推定されている。東は堀川が外堀的な存在であったと考えられるが、西堀川通自体は城外で、通りの西側に沿って石垣が連なっていた様子が屏風絵や諸記録から分かる。そして、天守が本丸の北西隅にあったことは、ほぼ確実である。聚楽第の天守は白漆喰総塗籠造りの最初の天守であった。この白亜の天守は、豊臣秀次(ひでつぐ)に属した山内一豊(かずとよ)が遠江掛川城(静岡県掛川市)の天守を造営する際、これに倣うなど、近世城郭における主流となっていく。聚楽第の本丸推定地南端の発掘調査により、本丸の石垣とみられる遺構が発見された。この石垣は高さ約80cmで、40cmから50cmの石が2段に積まれていた。また北側の1箇所では施設跡と考えられる柱穴も発見され、周辺では金箔を施した瓦の破片3個も見つかった。聚楽第の実態について詳しいことは分かっていないが、これまでに北ノ丸の石垣や大量の金箔瓦が出土している。松林寺(京都市上京区分銅町)のある分銅町は、この一帯が聚楽第の分銅堀という外堀であったことから付けられた町名だといわれる。松林寺のある場所は何らかの理由で堀が半分しか埋められず、そこだけ周囲から約3m窪んでいる。なお、梅雨ノ井(京都市上京区松屋町)は聚楽第内にあった井戸で、秀吉がお茶の水を汲んだという伝説が残る。他に、大徳寺(京都市北区)の唐門(国宝)、妙覚寺(京都市上京区下清蔵口町)の大門、醍醐寺三宝院庭園(京都市伏見区醍醐東大路町)の藤戸石が聚楽第の遺構とされる。天正11年(1583年)山崎宝寺城(大山崎町)にいた羽柴秀吉は、大坂石山に天下の新城を起工し、天正13年(1585年)関白職に任ぜられた。秀吉は始め平氏を称していた。その後、関白に就任するにあたり、前関白である近衛前久(このえさきひさ)の猶子となって藤原氏に改めている。秀吉は朝廷との対応や、関白として天下に号令を下す必要から、洛中に居所を必要とした。このため、天正14年(1586年)大坂築城と並行して、御所の西方に強大かつ豪華な聚楽第の築城を始める。同年3月3日、上洛した秀吉は、普請現場を視察、畿内・四国・東国から木材・石材の調達と、京都の町衆たちにも普請分担を命じた。二条立売通の町衆らは「聚楽城東之土塀築き入用之土砂」が未進(みしん)であった。そこで秀吉は、未進分の「御城東土台へい土」4763荷を弁ずるよう町衆らに命じている。なお、この年に豊臣の氏を下賜され、太政大臣に就任、豊臣政権を確立した。天正15年(1587年)3月に入ると聚楽第の工事は進み、『多聞院日記』に「内野御庭ノ用トテ、在家ノ植木庭ノ石取ニ奉行人下云々」とあるように、庭園に用いる石組・植木を奉行人に命じて洛中洛外より集めさせた。同年9月18日、秀吉は摂津大坂城(大阪府大阪市)から聚楽第に移り、翌天正16年(1588年)には後陽成(ごようぜい)天皇の聚楽第行幸(ぎょうこう)がおこなわれ、豪華絢爛な前代未聞の盛儀が挙行された。これによって関白秀吉は、天子に並ぶほどの権威があることを諸大名をはじめ天下に誇示し、天下統一に向けて全国の大名の服従を図ろうとしたのである。

天正17年(1589年)聚楽第の表門にあたる南鉄門に、2つの落首が貼り出されるという大事件が発生した。この落首は、方広寺(京都市東山区)大仏殿の建立や淀殿の懐妊、佐々成政(さっさなりまさ)の切腹などを揶揄するものであったため、秀吉の逆鱗に触れた。怒り狂った秀吉は、警備を担当していた番衆17人を処刑するが、初日に鼻を削ぎ落とし、2日目に耳を切り落とし、3日目に逆さ磔にして殺すという残忍なものであった。さらに犯人が天満本願寺(大阪府大阪市)に逃げ込んだとされ、秀吉は本願寺顕如(けんにょ)に引き渡しを要求した。本願寺側は尾藤道休(どうきゅう)という牢人と、それを匿った願得寺顕悟(けんご)の2名を事件に関係ある者として自害させ、その首を秀吉に差し出した。しかし、それだけでは収まらず、天満の町人63人が捕らえられて京都六条河原で磔にされ、道休の居住していた町が2つ焼き払われた。問題となった落首のひとつは「大仏のくどく(功徳)もあれや鑓かたな(槍刀)、くぎかすがいはこだから(子宝)めぐむ」というもので、そのころ秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩をおこなっており、この刀狩政策は批判されていたという。そして、刀狩による大仏建立の功徳によって淀殿が懐妊したのだと皮肉が込められ、秀吉の子種によるものではないことを示唆している。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの書いた『日本史』にも「多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、と密に信じていた」とあるので、当時から淀殿の懐妊は驚きと疑念をもって迎えられていたらしい。そしてフロイスは「笑うべきことだ」と記している。これに対して秀吉は、同年(1589年)鶴松が生まれる1週間ほど前に、実子誕生の前祝いとして「金賦り(きんくばり)」という演出を盛大におこない、悪い噂の払拭と人気回復を図っている。聚楽第南二ノ丸の馬場で、諸大名や公家、寺社などに金銀を大量に配った。史料によって異なるが、『甫庵太閤記』によると金6千枚、銀2万2千枚という。金銀は聚楽第の建物に入りきらないため、馬場に積み上げられたと伝わる。南二ノ丸跡付近には金馬場町という町名があり、南二ノ丸には馬場があったと推測されるが、その馬場で金賦りをしたことが町名の由来と考えられる。当初、鶴松は「捨て子は元気に育つ」という故事から、棄(すて)と名付けられた。もうひとつの落首は「ささたへて茶々生いしげる内野原、今日(京)はけいせい(傾城)香をきそいける」である。「ささたへて」の「ささ」は佐々成政のことである。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは上杉景勝(かげかつ)への備えのために越中を動けず秀吉と戦うことができなかったが、この不戦が幸いして秀吉に越中一国を安堵された。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起こると、佐々成政は徳川家康に加担、再び秀吉に敵対して能登国に攻め込んだ。しかし、秀吉と家康の間で和議が成立すると進退窮まり、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を越えて遠江国浜松へ踏破するという壮挙を成し遂げた。世にいう「さらさら越え」である。しかし、家康から快い返事を得ることができず、天正13年(1585年)秀吉に越中富山城(富山県富山市)を10万の大軍で包囲されて降伏した。佐々成政は一命を助けられたばかりか、御伽衆として秀吉の側に置かれ、天正15年(1587年)には肥後一国を与えられた。これには北政所の助命嘆願があったためといわれる。成政は北政所に感謝の意を込めて旧領越中の立山に自生する珍しい「黒百合」を献上した。

北政所は黒百合をたいへん喜び、この珍花を一輪挿しにして聚楽第で茶席を設け淀殿に自慢しようとした。しかし、事前にそれを知った淀殿は、この黒百合を大量に集めさせ、茶会から3日後に花供養と称する催しに北政所を招いた。そこには多くの黒百合が他の珍しくもない花と一緒に無造作に生けられた光景があった。北政所が珍花として大切にしていたことをあざ笑うかのように淀殿は黒百合をぞんざいに扱ったため、北政所は耐えがたい恥辱の矛先を佐々成政に向けて逆恨みした。成政は肥後国人一揆の鎮圧に失敗して秀吉に切腹を命じられているが、北政所の怒りが成政を失脚に追い込んだのだともいわれる。この成政の死は、内野原にある聚楽第で傾城の美女である茶々(淀殿)が権勢を増して、北政所と色香を競っていたからではないか、と批判するのが2つめの落首であった。聚楽第では、天正遣欧(けんおう)少年使節の謁見もおこなわれた。天正遣欧少年使節とは、天正10年(1582年)九州のキリシタン大名であった大友宗麟(そうりん)、大村純忠(すみただ)、有馬晴信(はるのぶ)の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で、天正18年(1590年)に帰国して、翌年に秀吉の前でジョスカン・デ・プレの西洋音楽を演奏した。天正18年(1590年)の小田原の役に際して、東国の府城である相模小田原城(神奈川県小田原市)は、全長9kmにおよぶ土塁・空堀が城下町はもとより周囲の田畑・丘までもすべて囲んでいた。秀吉の率いる西国勢は3ヶ月以上も小田原城を包囲したが、一兵もこの巨大な惣構えを突破できなかった。これに影響を受けた秀吉は、天正19年(1591年)京都の安寧楽土(あんねいらくど)という構想を基に、聚楽第を中心として洛中と洛外を全長約23kmの大土塁と堀で囲むよう命じた。この御土居(おどい)の高さは3〜6m、基底幅は9〜20m、崩壊を防ぐために上部には竹が植えられた。御土居の出入口は10ヶ所で、各出入口の木戸には番兵を置き、事が起これば早鐘が打たれた。天正19年(1591年)3歳の鶴松を失った秀吉は、甥の豊臣秀次を養嗣子として、聚楽第と黄金1万両を与えて関白職も譲った。秀吉は太閤(前関白の称号)となって、伏見城(京都市伏見区)を建てて移り、同時に肥前名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町)を拠点に朝鮮半島への侵攻を始める。こうして朝鮮出兵に専念する秀吉に代わって、秀次は聚楽第で内政をつかさどり、秀吉との二元政治になっていった。古典文学や芸能などの教養を学んでいた秀次は、朝廷との関係を円滑に進めていった。聚楽第で連歌会や茶会を開き、後陽成天皇には六国史(りっこくし)などの古書を献上している。学問好きの後陽成天皇は大いに喜び、秀次との関係者は深まっていったという。武家関白ではあったが、文化人である公家との交流を積極的におこない、文化的なものを重視していた。秀次は文官として天性の才能があり、関白には最適な人材であった。ところが、文禄2年(1593年)秀吉と淀殿との間に、2人目の実子が生まれた。後の豊臣秀頼(ひでより)である。当初は棄(捨)の反対である、拾(ひろい)と名付けた。秀吉は秀次に関白を譲ったことを後悔し始めた。そして、秀次の娘と秀頼との婚約話を持ちかけたり、日本の国を5等分して5分の4を秀次が治めて、残りの5分の1だけを秀頼に譲ってほしいと提案するなど、秀次の顔を立てる方法を模索していた。ところが、関白職を立派に務めていると自負する秀次は、秀頼に職を譲る必要はないと考え、秀吉の提案に対して返事を保留した。秀吉の実子に対する強い思いが分からなかったのである。

秀吉は秀次の態度に苛立ちを募らせた。そして、後継者であるはずの秀次は疎んじられるようになる。その頃から秀次の奇行が目立ち始めたといい、妊婦の腹を切り裂いて胎児を見たなど、摂政関白に掛けて「殺生関白」と称されるような残忍な行いが噂されるようになった。『武功夜話』にも「殺生関白とて汚名天下に後の世に伝う」とある。しかし、これらは石田三成(みつなり)ら五奉行派による、秀次を陥れるための創作という説もある。文禄4年(1595年)7月3日、秀次にとって思いもよらぬことが起こった。三成らが秀次を訪ね「御謀反の子細御せんたくしたき」と告げた。秀次と反秀吉派が謀反の談合をしたという疑いをかけられたのである。秀次は身の潔白を訴えたが、疑惑は払われなかった。このころ秀次は、朝鮮出兵などにより財政難に陥っていた毛利輝元(てるもと)や細川忠興(ただおき)ら、各地の諸侯から借金の願いを受けていた。秀次はそれに応じて、聚楽第の金蔵から金を貸し付けていた。この行動が朝鮮出兵に不満をもつ諸侯に恩を売り、何かを企んでいるのではと、秀吉の猜疑心に火を付けてしまったのである。一方、謀反の疑いは、秀次を関白職から追い落とすための口実という説も有力である。7月8日、秀吉は直接釈明を聞きたいと秀次を伏見城に呼び出した。ところが、秀吉は秀次が伏見入りしても面会に応じず、三成を介して豊臣家からの追放、領地の没収、聚楽第の召し上げ、官位の剥奪を伝えてきたのである。秀次は秀吉から高野山へ出家するように命じられた。出家者に対しては現世に対する無縁の原理が働くため、それ以上の罪は問わないというのが当時の常識であった。ところが、7月15日になって、秀次に切腹を命じてきたのである。高野山の僧侶達は、秀吉の沙汰に怒り、抗議の構えさえ検討したという。だが、秀次はそうした声を退け、切腹の命を受け入れた。辞世の句は「月花を心のままに見つくしぬ、何か浮世に思ひ残さむ」である。秀次は金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町)の「柳の間」で切腹した。切腹は武士にとって名誉の死であるため、残された家族の命は守られるのが通例であった。ところが秀吉は異常な行動に出る。秀次の首は三条河原に晒され、秀次の遺児5人、妻妾など計39人が市中引き回しのうえ、その首の前で次々と処刑されたのである。しかも、屠殺と評されるほど残忍な内容であったという。その場所に遺体を埋めて「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれた。秀次の血を宿す者をすべて絶つという執念、異常な憎しみさえ感じさせる蛮行であった。その後、鴨川の氾濫などによって塚は失くなったが、慶長16年(1611年)京都の豪商である角倉了以(すみのくらりょうい)が高瀬川の開削中に「秀次悪逆塚 文禄四年七月十五日」と刻まれた石塔を発掘した。これは秀次の首が収められた「悪逆塚」の石櫃であった。豊臣秀次とその一族の命運を哀れに思った了以は、塚をもとの場所に再建して堂宇を建立、秀次の法号「瑞泉寺殿」から瑞泉寺と名付けて、秀次一族の菩提を弔った。この際、石塔の「悪逆」の2文字は削られて、その上に六角形の無縁塔を建ており、現在も瑞泉寺(京都市中京区)には豊臣秀次の墓塔(首塚)と秀次の遺児、妻妾たち39人の五輪塔が存在する。一方、秀次事件によって聚楽第は徹底的に破却され、石垣、建物は伏見城再築に転用された。西本願寺(京都市下京区)の飛雲閣(国宝)は、聚楽第にあった重層の数奇屋を移築現存したものとされる。これは西本願寺の『飛雲閣之記』に「斯飛雲閣者豊王所構、制度雄侈、初在聚楽後移于茲壮麗倍旧」とあることが根拠となる。(2004.03.12)

松林寺に残る外堀(分銅堀)跡
松林寺に残る外堀(分銅堀)跡

西本願寺に移築現存する飛雲閣
西本願寺に移築現存する飛雲閣

秀吉も使った聚楽第の梅雨ノ井
秀吉も使った聚楽第の梅雨ノ井

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