寿能城(じゅのうじょう)

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巨大な見沼を天然の外堀として築城された太田資正の四男である潮田資忠の居城

寿能城本丸跡に残る物見塚跡
寿能城本丸跡に残る物見塚跡

かつて、武蔵国に存在した見沼(みぬま)とは、現在の埼玉県さいたま市、川口市に跨った巨大な沼である。沼の周囲は42kmほどあり、面積は12平方kmで、諏訪湖(14平方km)よりやや小さく、山中湖(6平方km)の2倍の大きさという。この沼には水の神様である竜神様が住んでいるとされ、尊敬の念である「御沼」から「見沼」になったという説もある。東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社である大宮氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)は、見沼の畔に立ち、見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられている。現在の神池は見沼の名残である。沼岸の氷川神社、中山神社こと中氷川神社(さいたま市見沼区中川)、氷川女体神社(さいたま市緑区)の氷川三社は、かつて一体の氷川神社を形成していたという説がある。氷川神社の社伝によれば、第5代天皇の孝昭(こうしょう)天皇3年4月に創建されたとする。これは紀元前5世紀にあたる。第12代天皇の景行(けいこう)天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って氷川神社へ詣でたところ、足で立てるようになったという伝説が残されている。このことから、この地域を「足立」と称するようになったという。江戸時代になると、8代将軍徳川吉宗(よしむね)の命により井沢弥惣兵衛為永(ためなが)が新田開発をおこない、見沼は広大な水田に変わり、現在でも「見沼たんぼ」と呼ばれている。戦国時代末期、潮田資忠(うしおだすけただ)の居城であった足立郡大宮の寿能城は、見沼に面する舌状台地の突端に立地していた。西方が台地と地続きであったため空堀を穿ち、他の三方は見沼の湿地帯に囲まれており、天然の要害に守られた平山城であった。城域は東西約872m、南北約436mの規模を誇っており、戦前までは南西に3.6mもの大きな土塁が残っていたが、戦時中に高射砲陣地を構築するため雑木林が伐採され、土塁や堀跡もすべて破壊されて、荒れ果てたという。現在は宅地化のために遺構のほとんどを失っている。寿能公園は寿能城の本丸跡といわれ、公園内に存在する物見塚跡とは物見櫓の櫓台跡のことである。この物見塚跡には、元文3年(1738年)古河藩の家老であり、潮田資忠の6代子孫にあたる潮田勘右衛門資方(すけかた)が、潮田家遺臣の北沢甚之丞(じんのじょう)に命じて、資忠父子の霊を勧請して建てさせた墓碑が残っている。「潮田出羽守源資忠之墓」と刻まれた墓では、毎年4月18日の資忠父子の命日に墓祭を続けてきたという。寿能公園一帯は、かつて氷川神社、大宮公園(さいたま市大宮区高鼻町)から続く松林におおわれた緑豊かな地域であったが、県営寿能住宅の造成などで松林が切り開かれ、住宅地に変貌している。また、少し離れた寿能交番の横には、「壽能城址」の石碑が存在する。そして、享保12年(1727年)に開削された見沼代用水路西縁(にしべり)を隔てた大宮第二公園に寿能城の出丸跡がある。出丸跡は見沼用水にかかる潮田橋からひょうたん池までの東方に突出した小高い所で、土塁や堀跡が存在するなど、このあたりはいくぶん中世の城址らしい雰囲気が残っている。潮田橋の名は、寿能城主である潮田資忠またはその一族に因むと思われる。大手門は大宮北中学校(さいたま市大宮区寿能町)のあたりにあったという。大宮区役所の脇にある倉屋敷稲荷神社(さいたま市大宮区仲町)は、寿能城の倉屋敷に由来し、寛永5年(1628年)江戸幕府が中山道を現在地に付け替えたとき、道筋にあった社を玉龍山宗金寺の境内に遷座したものである。ちなみに、宗金寺は明治初期に廃寺となっている。

寿能城跡の近くには、縄文時代から平安時代にかけての寿能遺跡(さいたま市大宮区寿能町)があり、昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)にかけて発掘調査がおこなわれ、台地の縁辺部から低地に向って伸びた杭列と木道の遺構や、丸木舟・櫂など河川や低湿地の利用を伺わせる遺物などが出土している。見沼の縄文時代は、縄文海進(じょうもんかいしん)という海水面の上昇によって、東京湾の海水が入り込む入江であった。このため、この地の周辺には貝塚が点在している。その後、東京湾から切り離されて、弥生時代から江戸時代初期までは大きな沼地および湿地帯となった。寿能城跡から南方にある黒塚山大黒院(さいたま市大宮区堀の内町)のあたりは、足立ヶ原の鬼女伝説の地である。平安時代末期、寿能城跡のあたり一帯は足立ヶ原と呼ばれる荒野で、そこに1軒の宿があり、老婆と娘の2人が住んでいた。ある晩、1人の旅人が宿泊した際、老婆は「この戸の奥は絶対に見てはいけない」と言い残して出かけた。旅人は興味に駆られて戸を開けると、たくさんの骸骨が山になっており、驚いた旅人は気絶してしまったという。帰ってきた娘が旅人を介抱し、人を殺しては食べてしまう老婆の悪行を詫び、旅人を逃がした。この旅人は「足立ヶ原に鬼婆が出る」と吹聴したため噂は広まった。諸国行脚をしていた熊野那智権現の阿闍梨祐慶(あじゃりゆうけい)は、この噂を聞きつけて鬼婆の退治に向かった。祐慶は武蔵坊弁慶(べんけい)の師匠であるという。そして、祐慶は強力な法力で鬼婆を打ち負かし、鬼婆は石となった。祐慶は塚を築き、この石を埋めて供養し、これが黒塚と呼ばれるようになった。また裕慶は、この黒塚の近くに庵を結んで東光坊と名付けた。『新編武蔵風土記稿』では「祐慶が東国足立ヶ原で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号した」とあり、『江戸名所図会』にも、黒塚から「南の方、百歩ばかりを隔てて東光坊の旧跡あり」とある。この東光坊は後に東光寺となり、江戸時代の中山道の整備にともなって、さいたま市大宮区宮町に移転、跡地には大黒院が建てられた。現在、黒塚は削平されて宅地になっている。天文15年(1546年)扇谷上杉上杉朝定(ともさだ)が北条氏康(うじやす)との河越夜戦で討死、これにより扇谷上杉氏が滅亡すると、扇谷上杉家の家臣であった太田氏は戦国大名として独立することになる。天文16年(1547年)太田家当主の信濃守資顕(すけあき)が没すると、家督は弟の美濃守資正(すけまさ)が継いだ。戦国時代末期の関東で、太田三楽斎として知られる太田資正である。岩付城主となった反北条の資正であったが、孤立無援の状況であった。さらに、親北条の家臣の一部が離脱し、松山城(吉見町)を任せていた上田朝直(ともなお)も北条氏に寝返り、北条氏康に岩付城(さいたま市岩槻区)を囲まれると、天文17年(1548年)資正は北条氏に降った。北条氏康は資正が太田道灌(どうかん)の末裔であることに配慮して、長男の太田資房(すけふさ)に氏康の娘(長林院)を嫁がせ、さらに「氏」の字を与えるなど厚遇した。太田資房は氏資(うじすけ)と改めている。こうして名門太田氏は、およそ12年間、北条氏康の配下として行動する。しかし、永禄3年(1560年)越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が大軍を率いて関東に侵攻してくると、太田資正は反北条の姿勢を明らかにした。次男の梶原政景(まさかげ)とともに相模小田原城(神奈川県小田原市)攻めの先鋒を務めて活躍している。この戦いにより太田氏は版図を広げ、松山城周辺に加えて、入間郡東部、足立郡全域、埼玉郡南部と広大な領地となった。

これに対して、北条氏康は裏切り者である太田資正への報復のため、何度も岩付城、松山城に攻め寄せた。資正には4人の息子がおり、長男の源五郎氏資、次男の源太政景、三男の源六資武(すけたけ)、四男の源七郎資忠で、いずれも母親が異なる。長男の氏資は正室の子であったが、親北条のため資正と不仲になり、出家して道也(どうや)と名乗っている。四男の資忠の母は、大宮の在地領主である潮田氏の出身である。太田資正は潮田常陸介の妹を側室にしており、その子供である資忠も潮田常陸介の娘を正室にしているため二重の姻戚関係で結ばれていた。そして、資忠は母方の潮田家を継いで潮田出羽守資忠と名乗ることとなり、太田家から北沢宮内直信(なおのぶ)と加藤大学が家老として付けられた。永禄3年(1560年)潮田資忠は巨大な見沼を天然の外堀として寿能城を築城した。『潮田家文書』によると、永禄3年12月30日、太田資正は「大宮・浦和の宿、木崎・領家方までこれを進められ候、恐々謹言」という判物を資忠に下している。これにより、資忠は大宮・浦和・木崎・領家の一帯を領することになり、寿能城を本拠として本家である太田家を支えた。見沼を隔てた台地には、同じく永禄3年(1560年)伊達城(さいたま市見沼区大和田町)が太田家の家老である伊達与兵衛房実(ふさざね)によって築城されており、これら寿能城と伊達城は、岩付城の西方を守る支城網のひとつとして機能した。さらに南には、中丸城(さいたま市見沼区南中丸)、松野城(さいたま市見沼区御蔵)を築いて北条方に備えている。天文21年(1552年)関東管領山内上杉憲政(のりまさ)が北条氏康に敗れ、越後国に敗走した後は、太田資正が武蔵国で唯一の北条氏に抵抗する勢力になってしまった。資正は日本で初めて軍用犬を使った武将であるといわれる。岩付城で訓練した犬を松山城に置き、松山城で訓練した犬を岩付城に置く。有事の際は、その犬が伝書を入れた竹筒を運んだ。城が敵兵に包囲されても、犬であれば包囲網を突破できるため、松山城と岩付城の援軍要請の連絡のために訓練された犬が使われ、「三楽犬の入替」として知られている。北条氏康は太田氏への圧迫を強め、永禄5年(1562年)太田氏ゆかりの慈眼院(さいたま市西区水判土)を焼き討ちし、氷川神社も兵火で焼けたという。永禄7年(1564年)潮田資忠は太田資正に従って第二次国府台合戦に参陣した。資正は、上総佐貫城(千葉県富津市)の里見義弘(さとみよしひろ)とともに下総国府台城(千葉県市川市)で北条氏康・氏政(うじまさ)父子と戦った。緒戦は里見・太田連合軍が大勝し、北条方の遠山直景(なおかげ)、富永政家(まさいえ)など有力武将を討ち取るが、勝利に油断した里見・太田連合軍は兵力で圧倒する北条軍に包囲されて敗れてしまう。さらに、永禄8年(1565年)太田資正が次男の梶原政景と安房の里見氏のところへ出かけている間に、長男の太田氏資が還俗して北条氏に内応、資正の岩付城への帰城を拒んで、そのまま追放した。これを受けて、潮田資忠は長兄の氏資に従って北条氏の傘下に入り、寿能城も北条氏の支城網の中に組み込まれた。こうして北条氏に属した太田氏資であったが、永禄10年(1567年)上総国の三船山合戦(千葉県富津市)で里見義弘に敗れて討死してしまう。天正3年(1575年)頃に北条氏政の次男である国増丸が岩付城に入って太田氏の家督を継ぐが、天正10年(1582年)に早世してしまい、続いて氏政の三男・氏房(うじふさ)が太田氏資の娘を娶り、太田氏の家督を継いで岩付城主となった。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役に際して、寿能城主の潮田資忠と長男の左馬允資勝(すけかつ)は、一族・家来衆とともに小田原城に籠城している。城主不在の寿能城は、潮田家家老の北沢直信と加藤大学が守備した。北沢直信は通称を甚之丞といい、太田家に代々仕えた譜代の家臣である。小田原城の籠城戦では、潮田勢は外郭の井細田口を守備したとも、四ッ門蓮沼を守備したとも伝わる。石田三成(みつなり)の軍勢の来襲により、潮田資忠・資勝父子をはじめ潮田勢37名が討死した。潮田父子の討死は4月18日で、小田原城の戦いで大名級の武将の討死は例がない。一方、寿能城にも浅野長吉(ながよし)等が率いる2万の軍勢が北上して押し寄せた。当時の城郭がそうであったように寿能城は領民の避難所となり、大宮村の農民の多くも籠城していた。北沢直信および加藤大学以下、わずかな家臣で守備する寿能城も、奮戦むなしく岩付城とともに落城して炎上、2人の家老は降伏して氷川大門に蟄居している。潮田資忠の妻と次男である勘右衛門資政(すけまさ)は常陸に逃れて、叔父の太田資武に育てられ、のちに土井利勝(としかつ)に仕える。その子孫は古河藩家老となり続いた。しかし、潮田資忠の娘である能(のう)姫や、侍女のお漣(れん)など、多くの婦女子が落城に際して見沼に投身自殺している。豊臣軍の兵士達は、寿能城の周辺で暴行・略奪行為を繰り返したようで、兵士の乱暴狼藉を禁ずることと、逃散(ちょうさん)した農民の帰還を命じた秀吉の禁制(案)が残っているという。これ以降、寿能城は利用されることなく、築城からわずか30年で廃城となった。その後、徳川家康が関東を治めると、伊達房実は徳川家に召し抱えられ、伊達城の地域に陣屋を置いて大和田を治めた。そして、加藤大学は、後に氷川神社に仕える家となった。寛永5年(1628年)関東郡代の伊奈半十郎忠治(ただはる)の命により周辺農家42軒を集めて大宮宿が起宿された。江戸初期に大宮宿を開いたのは北沢直信である。天正18年(1590年)徳川家康が関東に入部すると、北沢直信は徳川家に召し出されており、伊奈氏に従って大宮宿の新開に功をあげ、寿能の故地を与えられた。そして、これを開墾して甚之丞新田と名付けた。江戸時代において、北沢家は代々紀州徳川家の鷹場の鳥見役に任ぜられた。江戸時代、現在の埼玉県は鷹狩りが好きな家康によって長く鷹場になっていたが、5代将軍の徳川綱吉(つなよし)の生類憐令によって鷹場制度は一時中断していた。しかし、徳川吉宗が8代将軍に就くと間もなく再開され、徳川御三家には公儀鷹場が与えられ、御三家の鷹場は御留場と呼ばれた。北沢直信の子孫となる北沢次郎左衛門家の屋敷は、紀州家鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。現在、北沢家屋敷跡には大宮高島屋(さいたま市大宮区大門町)が建っており、高島屋の屋上に北沢稲荷大明神の社が祀られている。大正から昭和初期の頃、笛の上手な少女が蛍を追っていったところ、侍女風の少女が現われて、彼女に案内されてお屋敷に入った。すると、お姫様が現われて、この地で起きた悲劇を告げて「今は見沼の竜神様の力で、蛍の姿を借りて生きており、村人に供養をして欲しい」と訴えたという伝承があり、潮田資忠公の墓碑の隣に青い石の供養塔が建てられて、戦前までは4月18日に供養祭が行われていた。蛍の名所として知られた見沼の蛍は戦前までは数多く見られ、天皇陛下まで献上されていたというが、今では見られない。戦時中に寿能城跡に高射砲陣地が造られたときに、土塁などと共にこの供養塔も失われている。(2004.01.10)

寿能交番横の寿能城の城址碑
寿能交番横の寿能城の城址碑

大宮第二公園の寿能城出丸跡
大宮第二公園の寿能城出丸跡

櫓跡に祀られた潮田資忠の墓碑
櫓跡に祀られた潮田資忠の墓碑

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