石山本願寺(いしやまほんがんじ)

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織田信長を11年間苦しませた一向一揆の総本山

石山本願寺推定地
石山本願寺推定地

石山本願寺は現在の大阪城公園の本丸あたりに存在した。当時の大阪は今より海が深く食い込み、城地のあたりは大阪湾に岬状に突き出した小高い丘で、築城の適地であった。また、この地は淀川と大和川を介して西国と京、奈良を結ぶ要地であり、堺にも近い。『信長公記』によると、石山本願寺の城構えは約770m×550mとあり、現在の大阪城の約88%に達するという大きさであった。この石山という地名は、ここが古代の巨大前方後円墳であったことに由来する。現在に石山本願寺の遺構は残らないが、蓮如上人の袈裟懸の松の根のみが残り、わずかに往昔を偲ぶ。

明応5年(1496年)本願寺8世法主の蓮如(れんにょ)は、摂津国東成郡生玉庄の大坂の地に山科本願寺の別院として石山御坊を建立し、一向宗の布教基地とした。一向宗とは、いうまでもなく親鸞(しんらん)上人がおこした浄土真宗のことである。別名を念仏仏教ともいい、「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも往生できるとする極めて分かりやすい教義が庶民に受け、急速に広まった。そして、蓮如の代に大いに盛んとなって、その勢力は諸大名と肩を並べるほどであった。天文元年(1532年)京の山科本願寺は、南近江守護職の六角定頼(ろっかくさだより)と法華宗徒の焼き討ちに遭い、10世法主証如(しょうにょ)こと本願寺光教(みつのり)は大坂の石山御坊に逃れ、教団の本拠として石山本願寺を造営した。証如の時代にすでに「摂州第一の名城」と謳われる程の要害堅固ぶりで、石山城とも呼ばれた。周囲に深い堀や土塁、塀で囲み、柵や逆茂木を五重にめぐらし、51もの支城を周辺の要所に構えていた。次第に寺内町も発展し、巨大な城塞都市となっていく。本願寺は全国の門徒を「講」という単位で組織化し、門徒集団の全国網を形成していた。この時代の本願寺の力は大きく、既成の封建的支配にとらわれない独特な宗教組織を確立しており、イエズス会の宣教師ガスパル・ビレラの報告書には「本願寺は日本で最も大きい宗派であり、ここの僧侶が日本の富の大部分を所有している」と書かれるほど財力を持っていた。石山本願寺を中心とした一向一揆は、これまでの価値観・世界観と対立・衝突する反権力組織として、強力な戦国大名にも匹敵する勢力になっていた。一揆といっても、軍事的に素人の農民が、鋤(すき)や鍬(くわ)を手に持ち、権力者に立ち向かったというイメージではない。とりわけ一向一揆には僧侶や農民ばかりでなく、門徒の武士、さらには在地領主などの武士集団も大勢加わっている。軍事の専門家である武士も相当数参加して、戦国大名と対等に、時には対等以上に争っていた。一揆は次第に組織化・強大化していき、やがては政治力を持つに至る。その力は大名はもちろん、室町将軍にさえ一目置かせるほどのものであった。

永禄11年(1568年)織田信長が上洛を果たすと、本願寺の宗教的権威を認めず圧力をかけた。元亀元年(1570年)11世法主顕如(けんにょ)こと本願寺光佐(みつすけ)は、石山本願寺の破却と大坂退去を要求する織田信長に抵抗して、全国各地の門徒に対し「信長との戦いに協力しない者は破門にする」という一種の恫喝によって、法敵打倒の檄を飛ばし、伊勢長島・近江・越前・加賀・紀伊雑賀などの一向一揆を蜂起させた。破門とは、本願寺の意向や指示に従わなければ、仏に見放され地獄に落ちるというもので、信者はその恐怖心にかられ、従わざるを得なかった。そして、念仏を唱えてさえいれば極楽浄土に行けるとして、死を恐れずに戦う強力な戦闘集団をつくりあげた。顕如は近江の六角氏と婚姻を結んでおり、また妻の如春尼(にょしゅんに)は甲斐の武田信玄(しんげん)の正室である三条の方と実の姉妹である。永禄10年(1567年)には越前で朝倉氏と和議を成立させており、戦国大名を連携させて、織田信長包囲網の重要な構成員でもあった。本願寺は三好三人衆や浅井氏、朝倉氏と連携しながら信長を苦戦させたため、信長は各個撃破の戦術をとった。尾張小木江城(愛知県立田村)を攻めて信長の弟信興(のぶおき)を自害させた長島門徒に対し三次におよぶ侵攻をおこない、天正2年(1574年)長島一向一揆を殲滅した。続いて、天正3年(1575年)には越前一向一揆を殲滅、石山本願寺も織田軍に包囲され籠城戦を強いられるようになる。信長によって追放された室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)は、天正4年(1576年)備後国鞆の浦に移り、毛利氏の支援によって、いわゆる鞆(とも)幕府といわれるものを成立させ、上洛の機会を虎視眈々と窺っていた。石山本願寺は、いわば鞆幕府を担ぐ毛利勢の橋頭堡的な役割を担っていた。織田軍と最前線で戦っている本願寺を支えているのは、毛利氏から送られる食糧や物資、それに根来衆や雑賀衆の武力と膨大な数の鉄砲であった。しかも、雑賀衆は紀州から難波(なにわ)口にかけての沿岸に水軍を展開して、毛利水軍の案内役を務めている。天正4年(1576年)の本願寺攻めで原田直政(なおまさ)が戦死するなど、苦戦を強いられた信長は、10ヶ所の付け城を設け、本格的な本願寺の包囲網を巡らせた。しかし、毛利氏からの救援物資は、本願寺の背後の大坂湾の水路を利用して運ばれる。同年にも毛利からの兵糧を積んだ大船団がやって来た。雑賀の水軍を併せて、その数はおよそ8百艘という。主力は瀬戸内海の能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)に本拠を置く村上水軍である。これに対する織田方の水軍はおよそ3百艘で、毛利水軍を迎え撃とうと和泉を発して木津川河口に展開した。この第一次木津川口の戦いでは、織田方は惨敗を喫した。毛利方から焙烙火矢(ほうろくひや)という火薬を使った焼夷弾を撃ち込まれ、織田方の兵船は次々に炎上し、真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)、沼間伝内、沼間伊賀守といった将兵が戦死し、船団はほぼ全滅してしまった。一方、毛利水軍に損失はなく、兵糧を本願寺に送り込むと、悠々と引き上げていった。制海権を握っている毛利・雑賀水軍はその後もしばしば兵糧を運び、本願寺の戦闘能力はいっこうに衰えることはなかった。天正5年(1576年)には雑賀一向一揆を平定、天正6年(1578年)本願寺に物資補給する毛利水軍を、織田の九鬼水軍が大砲三門を備えた鉄甲船で撃退し、大阪湾の制海権を握る。このように石山合戦は11年間にわたって攻防戦を繰り返した。

天正8年(1580年)正親町(おおぎまち)天皇から勅命が発せられ、顕如は信長と講和を結び、誓書に従い紀伊国鷺森(さぎのもり)へ退去した。しかし、長男の教如(きょうにょ)が石山本願寺から退去しなかったばかりか、諸国門徒の熱狂的な支持を頼みに籠城をはかり徹底抗戦を試みた。顕如が説得したが効果なく、教如を勘当して三男の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めた。石山本願寺は退去時の混乱で出火し、ことごとく焼亡してしまう。信長は石山本願寺の跡を「大坂之御城」として整備し、天正10年(1582年)本能寺で信長が斃れたのち、天正11年(1583年)豊臣秀吉による大規模な大坂城の築城が始められた。秀吉と交流が生じた顕如は、天正19年(1591年)京都堀川七条に膨大な寺地の寄進を受け本願寺(現在の西本願寺)を再興した。その後、慶長7年(1602年)関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は、長男教如に京都烏丸七条に寺地を寄進し東本願寺を創立させて、本願寺は東西に分裂することになる。(2004.03.11)

南無阿弥陀仏碑
南無阿弥陀仏碑

蓮如上人袈裟懸の松
蓮如上人袈裟懸の松

西本願寺大玄関
西本願寺大玄関

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