石山城(いしやまじょう)

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戦国の大悪人と呼ばれて恐れられた梟雄・宇喜多直家の本城

石山城の本丸付近に立つ石碑
石山城の本丸付近に立つ石碑

中世の岡山には、旭川河口部の広大な沖積平野である大洲原(おおずはら)の中央に「石山」という丘があり、東隣に「岡山」、北西側に「天神山」という丘陵が並んでいた。これら標高20mに満たない3つの丘のうち、真ん中の石山には、かつて石山城が存在した。現在の老人ホーム「丸の内ヒルズ」の建つ高台のあたりである。丸の内ヒルズの駐車場入り口には「宇喜多氏築城以前岡山城本丸址」と刻まれた石碑が立つ。この高台から東の岡山を望むと、岡山城の天守が細長く見える。岡山城天守は南北方向から見るとどっしりした容姿であるが、東西方向から見ると半分以下の細身になる。石山に築かれた石山城には、南北朝期の築城伝承や、応仁元年(1467年)松田一族による築城の可能性もあるが史料面で定かではない。通説では金光備前(かなみつびぜん)が築いた城砦を起原とし、2代城主の金光宗高(むねたか)の時代に戦国大名・宇喜多直家(なおいえ)に引き継がれた。直家の居城の名称が石山城であったか岡山城であったかは史料的には不明であるが、近世岡山城と区別するため地名から石山城とする。その後、近世岡山城の築城の際、石山城は岡山城の一部として取り込まれたため、往時の状態は把握できない。初期の石山城は、石山の麓に居館が構えられ、背後の頂部一帯に逃げ込み用の曲輪が築かれた有事龍城型の城郭であったと考えられる。金光宗高の時代になると、備前でも本格的な戦国乱世になっているので、石山の頂部一帯の曲輪にも恒久的な城郭施設の整備が図られていたと推定される。宇喜多直家の石山城は、金光宗高の小城郭を取り壊し、約2年の歳月を費やして戦国大名の居城にふさわしい大城郭を新たに築いた。現在、旧本丸跡と伝えられる石山東端の頂上を本丸にして、丘陵の頂部から腹部および麓一帯に曲輪を構えた平山城と推定される。この石山城の縄張りや城郭構造は判然としないが、宇喜多直家の持ち城であった沼城(岡山市東区沼)の縄張りや富山(とみやま)城(岡山市北区矢坂東町)の発掘調査の結果から、東西に延びた丘陵の東側の頂部に設けた本丸を中心として、尾根筋に従って西へ大手曲輪・二の丸、東側面に三の丸の中心郭を構え、その周辺に付属する郭を配した連郭式の縄張りであったと想定される。従って、近世岡山城の二の丸内郭(西の郭)跡が石山城の本丸跡にあたり、岡山城西の丸跡が石山城二の丸跡で、石山門付近が大手であったと考えられる。城郭構造は地形部分が石垣築城であり、上部施設が土蔵造りの建物と土塀による近世城郭の建築物と同様な状態であり、居館(御殿)も中心郭内に伴っていたと推定されるが、本格的な天守を備えていたかどうかは不明である。また、麓一帯に家臣団の屋敷や商人・職人の家屋を集めた本格的な城下町を伴うもので、その一部が建設工事に伴う発掘調査で検出されており、この城下町は今日の市街地の礎をなすものであった。石山の東隣りの岡山は、金光氏の時代には城域外で、南麓から地続きの平地一帯に岡山寺、蓮昌寺の古刹や三社明神の社があったが、直家の石山城の整備に伴って移転させられ、出丸等の外郭に組み込まれている。宇喜多直家は、峻瞼で難攻不落な山城を避けて、沖積平野の低丘陵な立地を選んでおり、戦闘を意識した戦術的・戦略的な要因よりも、領国統治の政治的・経済的な要因を優先するなど、近世城郭につながる先進性が窺えるものであった。この石山城の築城伝承としては、南北朝時代の正平年間(1346-70年)村上源氏雅兼流を称した南朝の功臣・名和(なわ)伯耆守長年(ながとし)の一族である上神(うえかみ)太郎兵衛尉高直(たかなお)が知られる。

上神高直が御野郡出石郷の石山台に、近世岡山城の前身となる石山城を築いたとされる。上神氏は、名和長年の祖父・長田行盛(ながたゆきもり)の三男・小三郎行貞(ゆきさだ)入道を祖とし、行貞の三男の子が上神高直である。その後の上神氏と石山城の関係は不明だが、松田氏家伝によれば、備前松田氏の6代当主の次男・松田元斉(もとひと)が、応仁元年(1467年)岡山城に移り住むとの記載がある。松田氏は備前西部一帯を支配する武将で、室町幕府の成立期には備前国守護職を務めたこともある。松田氏が富山城を拠点にして出石郷から鹿田荘に進出する過程で、出石郷の石山または岡山に城砦を構えて一族の者が居住した可能性はある。『吉備温故秘録(きびおんこひろく)巻之十一』によると、戦国時代の大永年間(1521-28年)には金光氏が石山城に居城したとある。しかし実際には、それ以前より金光氏が石山城を居城としていたようである。金光氏は旭川河口に近い東岸の御野・上道付近を本拠地としたと考えられる土着の国人領主で、金光備前が松田氏に属して次第に勢力を伸ばし、出石郷から鹿田荘の大半を押領して旭川西岸の石山城に本拠を移した。また、石山城に隣接する金光山岡山寺(岡山市北区丸の内)の保護もしている。金光備前は主家である松田元運(もとゆき)の娘(または姉)を正室にするなど、松田氏と親密な関係にあったようである。それとは別に、応仁元年(1467年)の年末に発生した京都相国寺合戦で、細川方の部将として従軍した松田元斉が討死していることが史料により分かっている。松田氏家伝では、元斉の妹が金光備前の室と記載されているので、元斉と金光備前は義理の兄弟となり、石山城を築城して間もなく討死した元斉の跡を継いで、金光備前が石山城主になったとも考えられる。金光備前は子に恵まれなかったため、濱野(岡山市南区浜野)の小領主・能勢頼吉(のせよりよし)の弟である与次郎宗高を養子として跡を継がせた。永禄7年(1564年)備中松山城(高梁市)を本拠とする戦国大名・三村家親(みむらいえちか)が備前に侵攻、石山城を攻撃して金光宗高を降伏させている。こうして金光氏は、三村氏の支配下に入った。三村氏が備前・美作国への攻勢を強めると、沼城を本拠とする宇喜多直家は脅威を感じ、阿波細川氏の浪人・遠藤秀清(ひできよ)・俊通(としみち)兄弟を起用して、短筒の火縄銃で三村家親を暗殺させた。これは日本最初となる鉄砲による暗殺で、宇喜多直家は毒殺・暗殺・謀殺といった非情な手段を多用した梟雄であった。宇喜多氏の出自については諸説あり、百済王族の子孫や平氏を自称しているが、一般には備前三宅氏の後裔とされる。嫡流は「宇喜多」を称し、庶流は「浮田」を称した。宇喜多直家の祖父・能家(よしいえ)は、備前守護代・浦上(うらがみ)氏の家臣で、邑久郡豊原荘の砥石城(瀬戸内市邑久町豊原)を領していた。その頃、守護代の浦上村宗(むらむね)は、備前国守護職の赤松義村(よしむら)と抗争しており、宇喜多能家は浦上氏の有力武将として大いに活躍した。大永元年(1521年)浦上村宗が赤松義村を殺害して、播磨・備前・美作を支配する戦国大名になるが、享禄4年(1531年)村宗は大物崩れ(だいもつくずれ)により討死している。ところが、天文3年(1534年)島村豊後守盛実(もりざね)が浦上村宗の遺命と称して砥石城を急襲、隠居していた宇喜多能家を襲って自害に追い込んだ。この時、当主の宇喜多興家(おきいえ)は砥石城を捨て、妻と6歳になる嫡子・八郎を連れて備後国鞆津まで逃れている。

その後、宇喜多興家は備前国福岡の豪商・阿部善定(よしさだ)に庇護されると、善定の娘を側室として、忠家(ただいえ)、春家(はるいえ)を儲けた。なお、『常山紀談』では、興家は愚であったため、阿辺定善に養われて牛飼童になったとある。天文5年(1536年)興家は宇喜多家の再興など考えもせずに病没した。一方で、興家は家族を守るために愚鈍を装ったという評価もある。八郎の母は、天神山城(和気町)の浦上宗景(むねかげ)の奥方に仕え、天文12年(1543年)母の尽力により15歳になった八郎は浦上家に仕官することができた。翌年には元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗る。そして、足軽30人と300貫の領地をたまわり、最前線基地である乙子(おとご)城(岡山市東区乙子)を任された。直家が乙子城主になると、祖父・能家時代の旧臣たちが続々と帰参した。直家は領内へ敵兵の侵入を許さず、その後は敵領に侵攻していき、宗景から加増を受けて3千貫としている。それでも知行に対して兵卒が多いため兵糧が不足し、家臣たちは耕作したり、近郷に出て野盗・辻斬りなどして食いつなぎ、強固な主従関係で結ばれた家臣団が育っていった。天文20年(1551年)直家が23歳のとき、主人・浦上宗景の仲人で、亀山城主の中山備中守信正(のぶまさ)の娘と結婚し、新庄山城(岡山市東区竹原)に移った。ここから梟雄といわれる宇喜多直家の本領が発揮される。弘治2年(1556年)かつて祖父の居城であった砥石城を攻めて、城主の浮田大和守国定(くにさだ)を内通の疑いで討ち取る。永禄2年(1559年)には浦上家に対して謀叛の疑いがあるとして舅・中山信正を謀殺、同じく謀叛の疑いにより祖父の仇である高取山城(瀬戸内市邑久町東谷)の島村貫阿弥(島村盛実)を攻め殺した。浦上宗景は直家の手柄を賞して、亀山城(沼城)と砥石城および中山氏、島村氏の所領の大半を与え、直家は沼城に本拠を移した。なお、直家の妻は新庄山城で自害している。次の攻撃目標は、直家の備前西部平野への進出を妨害している松田氏配下の猛将で龍ノ口城(岡山市中区祇園)の税所元常(さいしょもとつね)であった。弟の宇喜多忠家を総大将として軍勢を龍ノ口城へ差し向けたが、元常はこれを迎え撃ち、大激戦のすえ引き分けている。正攻法での攻略は困難であった。元常は男色好みとして知られ、特に美少年には目がなかった。そこで、直家は小姓の岡清三郎を刺客として送り込んだ。ある日、元常が川で綱を引くのを見物していたとき、清三郎は川辺で笛を吹いて注意を集めた。すぐに元常の目に留まり、清三郎は龍ノ口城に呼ばれた。元常は清三郎を気に入って側に置き、清三郎を相手に酒盛りしたり、そのまま寝込んでしまうこともあった。ある日、元常は清三郎相手に酒盛りをしており、いつものように寝込んでしまった。清三郎は周りに家臣が居ないことを確認し、元常の脇差を抜き取って殺害、元常の首を切り落として直家のもとに逃げた。直家は城主不在の龍ノ口城を混乱に乗じて陥落させており、さらに余勢を駆って和田伊織の両宮山城(赤磐市)まで攻め落としている。その後、備前を脅かした三村家親を鉄砲で暗殺するのである。永禄10年(1567年)父を殺され家督を継いだ三村元親(もとちか)は、宇喜多氏への復讐のため軍勢を率いて備前に進攻し、明善寺城(岡山市中区沢田)を奪取して抑えの兵を置いた。対する直家は、三村氏に降っていた石山城の金光宗高、中島城(岡山市中区中島)の中島元行(なかしまもとゆき)、舟山城(岡山市北区原)の須々木豊前守を寝返らせることに成功し、明善寺城を包囲している。

直家は謀計を巡らせて、金光宗高に三村元親の後詰めを要請するよう指示し、救援に来る三村軍本隊を自領内に引き込み、殲滅する作戦を立てた。そして、三村軍が2万の軍勢を三方に分けて来襲すると、宇喜多軍は明善寺城を奪い返して、わずか5千の兵で三村軍に大勝した。この戦いを俗に明善寺崩れという。明善寺合戦の勝利により、金光宗高や西備前の国人領主たちは宇喜多氏に従臣して沼城に出仕した。直家は、永禄11年(1568年)に備前の名門・松田氏を攻め、松田元輝(もとてる)を討ち取って滅ぼしている。備前の統一を目論む宇喜多直家は、かねてより石山の地に目を付けており、元亀元年(1570年)金光宗高を安芸毛利氏と内通しているとの言いがかりで捕らえ、宗高の息子たちに所領を与えることを条件に石山城を明け渡すという遺言を書かせて切腹させた。そして、金光一族とその家臣は、その遺言状を見ると石山城を無血開城した。『備前軍記』には「是れも今まで金光が居たる城にて家居も狭く、家中の屋敷もすくなくて居住なりがたければ、城中ひろくおし広げ、廓を作りそへて、縄張を仕直し土居堀等築き改めらる」とある。石山城は金光氏の居城であったため狭く、岡平内を普請総奉行に任じて縄張りを拡張、城門や櫓、堀などを堅固にするなど大改修した。天正元年(1573年)直家はそれまでの沼城から石山城に移って城下町の形成をおこなった。このとき北方の山裾にあった西国街道を、石山城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前国福岡、西大寺などから商人を呼び寄せている。天正2年(1574年)室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)の調停により、宇喜多直家は毛利輝元(てるもと)と同盟を結び、備中の三村元親を攻め滅した。また、天正3年(1575年)には、主人である浦上宗景を播磨へ放逐して独立に成功、下克上により備前一国と、備中・美作・播磨の一部を支配する戦国大名に成長した。天正6年(1578年)毛利氏とともに播磨に進出し、織田信長の命により中国地方攻略に乗り出した羽柴秀吉と激戦を展開するが、さすがに信長の勢いにはかなわず、翌年(1579年)毛利氏と手を切って信長の旗下に属している。以降は備前・美作を転戦して毛利氏と戦うが、天正9年(1581年)直家は石山城で病没した。死因は「尻はす」という悪性腫瘍であったという。死の間際、直家は枕元に羽柴秀吉を呼び、再婚した妻のお福(円融院)と息子の八郎秀家(ひでいえ)を託した。女好きで有名な秀吉は、お福を気に入った。天正10年(1582年)宇喜多秀家は秀吉の仲介により、わずか10歳ながら信長から遺領相続を許されて本領を安堵された。秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が陣代として宇喜多軍を率いている。ちなみに忠家は策謀家であった兄の直家を信頼できず、直家の前に出る時は着衣の下に鎖帷子を用意するほど警戒したという逸話が残る。中国大返しの際にも、秀吉はわざわざ石山城で1泊している。お福は、幼少の秀家の将来を考えて、秀吉に従ったと考えられる。秀吉は、山崎の戦いで明智光秀(みつひで)に勝利すると、秀家を猶子とし、お福を側室にして摂津大坂城(大阪府大阪市)に呼んでいる。お福は茶々に次いで、秀吉に寵愛された側室だったようである。秀吉が天下を制すると、秀家は備前・美作・備中東半国を領国として57万4千石を知行する大大名となり、後に豊臣政権の五大老のひとりとなった。領国の拡張に伴って石山城では手狭になり、天正18年(1590年)から慶長2年(1597年)にかけて、岡山を本丸として石山城を取り込んだ岡山城を築城して本拠としている。(2016.09.26)

石山を南側から眺めたところ
石山を南側から眺めたところ

石山城跡から望む岡山城天守
石山城跡から望む岡山城天守

石山城の二の丸北側の付近
石山城の二の丸北側の付近

大手口に比定される石山門跡
大手口に比定される石山門跡

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