石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)

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小田原城攻略のため豊臣秀吉によって築かれた戦国時代終焉の城

現存する南曲輪の石垣の隅角部
現存する南曲輪の石垣の隅角部

箱根山外輪山の東端にある標高262mの石垣山は、小田原城から早川を隔てて南西約3kmの場所にある。かつては笠懸山、松山、西ノ高山などと呼ばれていたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏の小田原城(小田原市城山)を攻略する際、総石垣造りの城郭を築いたことから石垣山と呼ばれるようになった。講談などによって一般に知られる秀吉の一夜城というと、小田原城の前方の山頂に、骨組みに和紙を貼って白壁に見たてた張ぼて状の城を一晩で構えて、翌朝これを見た北条一族は「これほどの城を一夜にして築く秀吉にはかなわない」と戦意を失い降参するというものである。しかし、城跡に残される累々と積まれた石垣や、多くの礎石群を見れば、実際には本格的に築城された城郭であり、一夜にして造られたものでないことが分かる。天正18年(1590年)6月に徳川家康の家臣である榊原康政(やすまさ)が大坂城留守役の加藤清正(きよまさ)へ宛てた書状には、石垣山城の様子として「上様の御陣城は、高山の頂上に十丈余に石垣を築き、上は雲を穿ち、箱根連山は放(敵)城を直下に御覧られ候、御屋形の造の様子は広大で野を分けて成る。凡(およ)そ聚楽・大坂にも劣らずがたしと相見え候。其の外、一手一手(諸将)陣城を構え、天主・矢倉は白壁が天を輝し、陣屋陣屋は悉く土を塗り籠め」とあり、天守建築や諸櫓、数奇屋までも造られていることが分かる。この石垣山城は延べ3〜4万人を動員し、天正18年(1590年)4月から6月までの約80日間を費やして、昼夜を問わぬ突貫工事で構築された。この城は単なる小田原城の付城というだけでなく、関白秀吉の武威を内外に誇示するとともに、長期戦に備えた本格的な城郭であったといえる。さらに、この城は笠懸山の樹木に隠して築城し、完成後に周囲の木々を一斉に伐採したため、小田原城からは一夜にして城が出現したかのように見えた。これは、秀吉の強大な実力を見せつけ、北条氏の戦闘意欲を失わせる効果を狙ったもので、一夜城という名もこれに由来している。秀吉時代の城というと、摂津大坂城(大阪府大阪市)や山城伏見城(京都府京都市伏見区桃山町)が現在では原型を留めておらず、京都聚楽第(京都府京都市上京区)や山城淀古城(京都府京都市伏見区納所北城堀)が完全に消滅している現在、秀吉の築城様式を伝えるのは肥前名護屋城(佐賀県唐津市)とこの石垣山城くらいしか残っていないため、貴重な遺構と言える。悌郭式山城の石垣山城は、石垣や天守、櫓を備えた本格的な近世城郭であり、この石積みは近江の穴太衆と呼ばれる石工集団による野面積みで、関東で最初に造られた総石垣の城であった。安政2年(1855年)の安政大地震と、大正12年(1923年)の関東大震災により大部分の石垣が崩壊したが、現在も石垣山城の規模や構造を確認することができる。南北方向に走る尾根を主軸に、最高地点に本丸(本城曲輪)と天守台を設け、北東に二の丸(馬屋曲輪)、井戸曲輪、三の丸(北曲輪)を配置し、南西に西曲輪(山里曲輪)と大堀切を隔てて出城を構え、南東には南曲輪等の小規模な曲輪群が存在した。城内最大の曲輪である本丸の南西隅には天守台跡が残る。この天守台は石蔵(地階)をもち、5層天守が造営されたという。天守台跡は大幅に崩れているため、形状や規模は分からないが、享保5年(1720年)に作成された『太閤御陣城相州石垣山古城跡図』によれば、総石垣の天守台は、高さ8間(約15m)、平面12間(約22m)と記されている。天守台には多くの瓦片が散乱しているが、この瓦片を科学分析した結果、早川の河原床の土を焼いた現地調達だったことが判明している。

石垣山城の二の丸は、本丸に匹敵するほどの広さを持った曲輪で、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と称する湧水もあった。井戸曲輪への道の脇には櫓台跡が残っている。石垣山城の中でも井戸曲輪は、大地震にも耐え、石垣が最も良く残っている場所で、谷状地の底部から湧き出る湧水を守るためにわざわざ石垣をめぐらせており、極めて稀少な遺構である。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれる。他にも南曲輪の石垣は比較的よく残っており、南曲輪の石垣の隅角部は見所となっている。小田原征伐の当初に豊臣秀吉の本陣が置かれた箱根湯本の早雲寺(箱根町湯本)には、石垣山城で使用した元徳2年(1330年)鋳造の梵鐘が残っており、どの櫓で使用されたのか不明であるが、神奈川県の重要文化財に指定されている。この早雲寺は小田原北条氏の菩提所で、初代早雲(そううん)の遺命により2代氏綱(うじつな)が大永元年(1521年)に創建した臨済宗大徳寺派の古刹である。本堂の左から裏手にかけては墓地になっており、北条五代の墓がたたずんでいる。また、北条早雲の三男で、箱根権現別当の北条幻庵(げんあん)が造った庭園もある。石垣山城の地には、北条氏が小田原城の衛星城郭として築いた城砦が存在していた。箱根古道を監視するための笠懸山城という城で、石垣山城の南西側に存在した出城は、この北条氏の山城を改修したものであった。また、さらに昔には、北条早雲が「火牛の計」という奇策で大森氏の小田原城を攻めた際に、この笠懸山が早雲の陣所になったという。天下統一を目指す豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に鈴木孫一(まごいち)の紀伊、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国、佐々成政(さっさなりまさ)の越中を次々に平定し、天正14年(1586年)からは九州で島津義久(よしひさ)との戦いを開始している。さらに同年、海道一の弓取といわれた徳川家康が上洛して秀吉への臣従を誓い、年末には太政大臣に就任して豊臣政権を樹立した。そして、天正15年(1587年)島津氏が秀吉に降伏して九州を平定している。天正16年(1588年)聚楽第に御陽成天皇を迎え、行幸の儀が執り行なわれた。この際、秀吉は後陽成天皇が見守る中、家康をはじめとする有力諸将に、朝廷および関白秀吉への忠誠を誓わせている。このように天下統一を目前とする秀吉だが、いまだ秀吉に屈しない有力な戦国大名は、関東の北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子と、東北の伊達政宗(まさむね)であった。天正17年(1589年)北条氏は信濃の真田氏と領土紛争を起こしているが、これは秀吉の仲裁によって北条氏が上野沼田城(群馬県沼田市)を領有して沼田一帯のほとんどを北条領とするという和解案が提示された。これは秀吉とって大幅な譲歩であるが、その和解の条件として秀吉は、4代氏政か5代氏直のどちらかの上洛を要求している。この上洛には秀吉への臣従の意味が込められていた。だが、北条父子ではなく、代わりに板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を使者として送り、いったんは氏政が上洛するという返事もあったが上洛は実現しなかった。それどころか、同年に北条方で沼田城将の猪俣邦憲(くにのり)が、真田領の上野名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町)を占拠するという事件が発生した。これが口実となり、業を煮やした秀吉は北条氏に関東惣無事令違反として宣戦布告、北条氏の討伐令を全国の諸大名に通知した。北条氏も秀吉との決戦のため、家臣たちの妻子を人質として小田原城と直轄支城に集め、領内の15歳から70歳までの男子全員に総動員をかけている。

このとき秀吉は、東海道諸国や美濃・近江の軍勢は徳川家康を先鋒として東海道を東行すること、加賀・信濃・越後の北国勢は前田利家(としいえ)の指揮の下に関東北部から侵攻すること、中国・四国・伊勢・紀伊などの水軍は東海道沿岸を進むこと、という基本的戦略を立て、総勢22万人もの軍勢を動員した。天正18年(1590年)の3月29日、秀吉の軍勢は伊豆山中城(静岡県三島市)の攻撃を開始、この戦いで一柳直末(なおすえ)が討死したものの半日の戦闘で落城させている。頑強に抵抗する伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)には包囲のための最小限の兵力を残し、箱根路を押さえる鷹之巣城(箱根町)、足柄路を押さえる足柄城(南足柄市)をそれぞれ落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。一方、前田利家、上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)ら北国勢は、松井田、厩橋、箕輪、河越、鉢形、松山などの諸城を陥落させて南下、西国の水軍は伊豆半島沿岸の諸城を攻略している。そして、小田原沖の海上は水軍の大船団で埋め尽くされ、これらが兵員・物資を搬送し、海上は完全に封鎖された。その内容は、九鬼嘉隆(よしたか)の1500艘、脇坂安治(やすはる)の1200艘、来島通総(みちふさ)の500艘、長宗我部元親の2500艘、宇喜多秀家(ひでいえ)の1000艘、毛利輝元(てるもと)の5000艘などである。豊臣秀吉の本陣は、占領した箱根湯本の早雲寺に置かれ、20万を超える大軍勢で小田原城を囲んた。しかし、小田原城の堅城ぶりを見ると、力攻めは無理と判断、小田原城の西方の笠懸山に築城を開始した。さらに、別働隊を編成して、関東各地の北条氏の有力支城に派遣、これらを次々と攻略していった。この秀吉の小田原征伐の動員兵力は、北条氏政・氏直父子の想像をはるかに超えていた。かつて、上杉謙信(けんしん)や武田信玄(しんげん)を小田原城で迎え撃ち、籠城戦で退けた際は、支城からの出撃で包囲軍の兵站線を疲弊させ、撤退させることを狙った戦法であった。今回も同じ戦法により、敵の兵糧不足を待ち逆襲しようと考えていた。しかし、天下人である豊臣秀吉の圧倒的な兵力と兵站能力の前には、この戦法は全く通用しなかった。秀吉は南海道の諸将を普請の衆として、石垣山城の築城に充てた。さらに、石材・石垣調達のために穴太衆や、大工・瓦職人などの職人集団も引き連れていた。 秀吉は石垣山城に淀殿ら側室、千利休(りきゅう)、能役者らを呼び寄せ、配下の諸将にも妻子を招くことを勧めた。そして、茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたり、余裕を見せている。小田原征伐では、東北諸大名にも、秀吉への従臣の証として小田原への参陣を要請していた。この時、奥州をほぼ平定していた伊達政宗は、秀吉と北条氏の戦いを模様眺めしていたが、秀吉の強大な軍事力は侮れないことが分かると、遅れながらも慌てて小田原に参陣した。秀吉は政宗の遅参を叱責するが、死装束で謝罪する政宗の演出を見て、派手好みの秀吉は許したという。小田原の役も終わりに近づいた頃、秀吉は家康とともに石垣山城から眼下の小田原城に向かって並んで立ち小便をした。この時、秀吉は家康に「北条家を滅ぼしたら関八州を貴殿に進ぜよう」と言い、暗に家康の関東移封を申し渡した。これが世にいう「関東の連れ小便」である。6月23日になると、北国勢によって陥落させられた武蔵八王子城(東京都八王子市)から首級が多数送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが北条軍の士気低下に拍車をかけた。さらに、北条氏規(うじのり)の守備する韮山城も6月24日に開城した。

北条氏規は3代氏康(うじやす)の五男で、幼少時は今川氏の人質として駿河国の駿府で過ごした。この頃、徳川家康も駿府で人質となっていたため、氏規と家康は旧知の仲であったとされる。家康の説得を受けて投降した氏規は、北条氏政・氏直父子に降伏を勧める役割を果たしている。小田原城の北条一族と重臣たちは、徹底抗戦と降伏をめぐり議論を重ねたが結論は出なかった。現在も「いつになっても結論のでない会議」を揶揄する表現として「小田原評定」という言葉が使われる。天正18年(1590年)の6月25日、ついに石垣山城の天守以下が竣工、小田原側の樹木が一斉に伐り払われて、小田原城を見下ろすように秀吉の一夜城が忽然と姿を現わした。これを見た北条軍の士卒は、秀吉は天狗か神かと肝を潰しており、7月5日には戦闘らしい戦闘もないまま3ヶ月の籠城を解いて降伏した。一方、石垣山城が完成すると本陣としていた早雲寺の一帯に火を放ち、関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院はことごとく灰燼に帰している。北条氏の処分は、主戦派であった氏政と、弟の氏照(うじてる)は切腹、氏直は家康の娘婿であったこともあり助命され、氏規とともに高野山へ蟄居となった。JR小田原駅の東側には、北条氏政・氏照の墓所がある。氏政・氏照兄弟は、城下にある侍医の田村安栖(あんさい)邸で自刃した。両人の遺体は、当時この地にあった伝心庵に埋葬された。その後、放置されていた墓所は、稲葉氏が小田原藩主であった時代に整備されている。墓所には、氏政、氏照、氏政夫人(信玄の娘)の3基の五輪塔と墓碑1基が立つ。北条氏配下の諸将も残らず追放となり、小田原に留まることは許されなかった。ただ一家、宇野光治(みつはる)だけは「誠に由緒深き家柄」であるとして例外的に存続を許されている。宇野光治とは「ういろう」に関係する人物である。小田原は「ういろう」で有名だが、この蒸し菓子は外郎(ういろう)家でつくられており、一子相伝の外郎家は代々藤右衞門を名乗った。外郎氏の始祖は、正平23年(1368年)元から帰化した陳延祐(ちんえんゆう)である。2代目の大年宗奇(たいねんそうき)が室町幕府3代将軍の足利義満(よしみつ)の招きにより京都に移り、朝廷の典医などを務めた。この頃、丸薬の透頂香(とうちんこう)をつくり、外郎家の薬なので「ういろう」と呼ばれた。一方、宗奇はお菓子の「ういろう」も考案している。外郎氏を賞した8代将軍の足利義政(よしまさ)は、5代目の定治(さだはる)を宇野源氏の世継ぎとしたため、宇野姓を名乗っている。永正元年(1504年)北条早雲は陳外郎宇野藤右衞門定治を家臣として小田原城下に招いた。宇野光治は8代目にあたり、小田原征伐後は医薬に専心したという。豊臣秀吉は、小田原から会津黒川に向かい奥羽仕置を発令したのち、その帰路に石垣山城に入り、5日間滞在したのち京都に向かって凱旋した。石垣山城は臨時的な陣所だけではなく、秀吉の宿所としても機能していたのである。しかし、その後に秀吉が東国を訪れることは一度もなかった。石垣山城は、小田原征伐のあとは廃城になった。江戸時代になると、石垣山城跡は御留山(おとめやま)として小田原藩によって管理され、一般の立ち入りが制限された。石垣山城は歴史的な役割だけでなく、その城歴が天正18年(1590年)に限定されることから、築城史を研究する際の規準となる遺跡であり、学術的な価値が高い。このため、昭和34年(1959年)になって「石垣山」の名称で国の史跡に指定された。現在は石垣山一夜城歴史公園として史跡の保存と整備が進められている。(2012.04.26)

本丸の南西隅に残る天守台の跡
本丸の南西隅に残る天守台の跡

井戸曲輪の北面を固める石垣
井戸曲輪の北面を固める石垣

二の丸の北側に残る櫓台と石碑
二の丸の北側に残る櫓台と石碑

石垣山一夜城で使用された梵鐘
石垣山一夜城で使用された梵鐘

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