犬山城(いぬやまじょう)

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現存する天守が木曽川を見下ろす国宝の城

犬山城の複合式望楼型天守
犬山城の複合式望楼型天守

国宝の犬山城は、天守が現存する12城のうちの1つで、3層4階地下2階の小振りな天守は、南面東端と西面北端に単層の付櫓が付属し、入母屋の上に望楼をあげる複合式望楼型天守という古い様式となる。現存する天守が建てられた年代については、天文期説や慶長期説などあるが、現在の姿になったのは成瀬正成(まさなり)が改修した元和3年(1617年)頃である。犬山城は背後に木曽川が流れ、河川と急峻な崖によって守られる、いわゆる「後ろ堅固」な平山城である。木曽川に面する三方を断崖とした丘陵に本丸を置き、大手道の東側に杉の丸、桐の丸、松の丸を、大手道の西側に樅(もみ)の丸をそれぞれ階段状に連ねて配置し、内堀をめぐらしている。その南側に三の丸を置き、さらに城下町も取り込んだ惣構えの構造であった。木曽川を眼下に見下ろす天守は、唐の詩人李白(りはく)が「朝(あした)に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日にして還る、両岸の猿声啼きやまざるに、軽舟すでに過ぐ万重の山」と叙した長江沿いの景観に似ることから、江戸時代の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)は白帝城と雅称した。犬山城は明治時代に廃城となり競売に出された。諸櫓や城門は処分されたが、天守は大きすぎて買い手がつかず県の所有として残った。その後、明治24年(1891年)東海地方に日本史上最大の直下型地震といわれる濃尾地震が発生、犬山城の天守は半壊し、付櫓や城門なども倒壊した。この地震による被害は大きく、災害復旧をおこなう愛知県は犬山城の修復までは手が回らなかった。取り壊しが検討されたが、住民や旧家臣団を中心に保存の声が上がったため、元城主である成瀬正肥(まさみつ)に犬山城の修復と保存を条件に、天守と城地を無償譲渡した。ここに全国でも例を見ない個人所有の城が誕生した。その後、犬山城は成瀬氏が代々所有してきたが、平成16年(2004年)財団法人犬山城白帝文庫が設立され、この財団が犬山城を所有・管理することとなった。往時、犬山城には14基の櫓が存在しており、本丸に2層の弓矢櫓、小銃櫓、大砲櫓、単層の千貫櫓、多聞櫓があり、杉の丸に2層の御成櫓、器械櫓、樅の丸に2層の屏風櫓、桐の丸に2層の道具櫓、宗門櫓、松の丸に2層の未申櫓、辰巳櫓、それ以外に2層の川端丑寅櫓、単層の井戸櫓があった。このうち、宗門櫓が江南市の個人宅に移築され現存しているという。瑞泉寺(犬山市犬山瑞泉寺)には犬山城の搦手門である内田御門が移築され現存している。他にも、黒門が徳林寺(大口町余野)に、矢来門が専修院(扶桑町)に、松の丸門が淨蓮寺(一宮市千秋町)に、松の丸裏門が常満寺(犬山市犬山西古券)に移築現存する。一方、本丸にある本丸門(鉄門)は模擬櫓門であり、小銃櫓跡にある櫓(永勝庵)も模擬櫓で、当時の建物とは一切関係ない。天文6年(1537年)織田信長の叔父である織田与次郎信康(のぶやす)が、木ノ下城(犬山市犬山愛宕)を廃して、現在の犬山城の南西の丘陵である三光寺山に築城したのが犬山城の始まりである。天文16年(1547年)信康が斎藤道三(どうさん)との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死すると、嫡子の十郎左衛門信清(のぶきよ)が跡を継ぐ。信清は信長の従兄弟にあたるが、永禄元年(1558年)浮野の戦いでの恩賞に不満があり、木曽川対岸の美濃鵜沼城(岐阜県各務原市)の大沢治郎左衛門正秀(まさひで)と示し合わせ、信長にことごとく反目していた。一説には軽海の戦いで弟の勘解由左衛門信益(のぶます)を戦死させた恨みともいう。そして、ついに美濃国を治める戦国大名の斎藤龍興(たつおき)とも手を結んだ。

美濃と尾張の国境線である木曽川に面した犬山城は、美濃勢にとって尾張攻略の強力な橋頭堡となりうる。信長は丹羽長秀(にわながひで)に東美濃方面の攻略を任せ、長秀がまず取り組んだのが犬山城の調略であった。永禄7年(1564年)信清の家老で、黒田城主の和田新介定利(さだとし)と、於久地城主の中嶋豊後守が丹羽長秀に内通を約束、このため犬山城は目立った抵抗もできず信長軍に落とされる。織田信清は武田氏を頼って甲斐国に逃れ、その後は犬山鉄斎と称した。これにより、織田信長の尾張統一は完成する。犬山城は一門衆の柘植与一(ともかず)に与えられた。柘植与一とは、『織田系図』などでは織田信康の六男、『尾濃葉栗見聞集』では織田信清の弟である信益の六男となっている。しかし、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの当時から、織田信清とは絶縁関係であった。『織田系図』には、諱として与一と載せられているが、通称が誤り伝えられたものかも知れない。その後、犬山城の城主はめまぐるしく交代した。元亀元年(1570年)信長の乳兄弟であった池田勝三郎恒興(つねおき)が、姉川の戦いの戦功により、1万貫の領地と犬山城を与えられて城主になるが、天正9年(1581年)織田源三郎信房(のぶふさ)に代わった。織田信房とは、武田家で人質となっていた信長の五男坊丸である。初め、美濃岩村城(岐阜県恵那市)の女城主であったお艶(つや)のもとに養子に出した。お艶は信長の叔母で、坊丸に岩村遠山家を嗣がせるためである。ところが、岩村城が武田軍に攻略され、坊丸は甲斐に送られた。天正9年(1581年)武田家が滅亡する前に、武田勝頼(かつより)によって信長のもとに送り返され、犬山城主となっている。天正10年(1582年)本能寺の変で信房が長兄の織田信忠(のぶただ)と共に討死すると、犬山城は信長の次男で清洲城主の織田信雄(のぶかつ)によって支配され、中川勘右衛門定成(さだなり)が城代を務めた。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉方の軍勢が伊勢国に向けて出陣、これを受けて中川定成は、犬山城の守備を叔父であり瑞泉寺の住職である清蔵主(せいぞうす)とわずかな守備兵に委ねて伊勢に入った。犬山城の手薄な守りを知った大垣城主の池田恒興は、旧知の住民らの手を借りて、一夜にして犬山城を落としてしまう。この時の犬山城は、まだ三光寺山にあったと『犬山里語記』にあり、現在の天守がある場所には白山神社が鎮座していた。主戦場である清蔵主の討死の地には、榎が植えられたと伝わり、現在も成長した大榎と石碑を見ることができる。犬山城の急変を知った中川定成は、犬山に向かう途中の美濃池尻堤(大垣市)で、池田恒興に味方する池尻平左衛門によって闇討ちされた。犬山城には羽柴秀吉が大坂より着陣して、小牧山城(小牧市)に陣を構える織田信雄・徳川家康連合軍と対峙した。仏ケ根の戦いで池田恒興、森長可(ながよし)が討死したのち、戦闘は膠着状態が続いたため、秀吉は加藤光泰(みつやす)に犬山城代を命じて、一旦軍勢を引き揚げた。秀吉と信雄が和睦すると、尾張国は引き続き信雄が領有することとなり、犬山城には武田五郎三郎清利(きよとし)が城代として入城、天正15年(1587年)からは土方勘兵衛雄久(かつひさ)が城代を務めた。天正18年(1590年)信雄が秀吉の勘気に触れて改易された後、尾張国は羽柴秀次(ひでつぐ)が引き継いだ。犬山城には、秀次の実父である三好武蔵守吉房(よしふさ)が入り、天正19年(1591年)より吉房の次男の羽柴秀勝(ひでかつ)、文禄元年(1592年)より吉房の従兄弟の三輪吉高(みわよしたか)が入封している。

文禄4年(1595年)豊臣秀次が失脚すると三輪吉高は犬山城を退去した。代わって、豊臣秀吉の家臣で、金切裂指物使番(きんのきりさきさしものつかいばん)を務めた石川貞清(さだきよ)が、1万2千石で入城した。秀吉の金切裂指物使番とは、金色の靡きやすく切り裂いた指物を使用した使番のことで、『武家事紀』には金切裂指物使番として貞清を含めた32名が紹介されている。貞清は信濃国木曽谷の太閤蔵入地10万石の代官も兼務しており、木曽材の伐り出し、およびその輸送路である木曽川を一元的に管理していた。そして、天正19年(1591年)文禄・慶長の役の拠点である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の普請工事を担い、文禄元年(1592年)から朝鮮出兵に従軍する。文禄4年(1595年)これらの功績により一躍12万石に加増されている。慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなると、次の天下を狙う徳川家康は、それを阻止しようとする五奉行の石田三成(みつなり)と対立、慶長4年(1599年)三成の奉行職を解任させて、近江佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居を命じている。そして、家康は摂津大坂城(大阪府大阪市)の西の丸を本拠として居座り、味方を増やすために独断で豊臣大名への加増や転封を実施した。この多数派工作によって、細川忠興(ただおき)を豊後国杵築6万石、堀尾吉晴(よしはる)を越前国府中5万石、森忠政(ただまさ)を信濃国川中島13万7千石に転封し、宗義智(よしとし)に1万石を加増している。そして、森忠政の転封により空き城となった美濃金山城(岐阜県可児市)を石川貞清に与えた。これには貞清を家康陣営に引き入れようとする意図があったものと考えられている。慶長5年(1600年)貞清は拝領した金山城の天守、御殿、諸櫓、諸城門、侍屋敷にいたるまで全てを解体し、古材を筏に組んで木曽川を下り、犬山に移築したという伝承が残る。世にいう金山越(かねやまごえ)である。伝承によると、移築されたのは天守のほか、弓矢櫓、小銃櫓、屏風櫓、道具櫓、本丸御殿、内田御門(金山城大手門)、三の丸屋敷門などで、犬山・金山(可児市兼山)の双方の古記録にも多数残されている。昭和36年(1961年)犬山城天守の解体修理における調査の結果、移築の痕跡が見あたらなかったため、天守移築説は否定されたが、金山城の発掘調査の結果により、金山城の天守台は付櫓も含めて犬山城の形状とほぼ一致することが判明しており、天守だけ移築しないということは考えにくい。森家の川中島への引っ越しには約1か月半を要し、その後に金山城の解体および運搬が可能なる訳だが、間もなく関ヶ原の戦いが勃発してしまう。この短い期間でこれほどの規模の移築を完了させるのは困難であったと考えられ、大部分は後に犬山城主となる小笠原吉次(よしつぐ)が引き続きおこなったものと思われる。これを裏付けるように、『正事記』や『犬山城主附』では吉次の時代に金山越が行われたとしている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、石田三成が毛利輝元(てるもと)を総大将として挙兵すると、石川貞清は家康の期待に反して、三成の西軍に加担した。石田三成は6千の兵を率いて垂井に進み、美濃大垣城(岐阜県大垣市)の伊藤盛正(もりまさ)を説得して開城させている。そして、清洲城(愛知県清須市)に迫るが、福島正則(まさのり)の家臣である大崎玄蕃に拒否されたため、濃尾国境を流れる木曽川で東軍を食い止めようと考えた。こうして、織田秀信(ひでのぶ)の美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)を中核に、犬山城、美濃竹鼻城(岐阜県羽島市)を結ぶ防御ラインを構築している。

西軍の防衛拠点となった犬山城には、稲葉貞通(さだみち)・典通(のりみち)父子、稲葉方通(まさみち)、加藤貞泰(さだやす)、関一政(かずまさ)、竹中重門(しげかど)ら美濃・尾張の武将も籠城した。しかし、援軍の武将たちは東軍の井伊直政(なおまさ)に内通してしまい、岐阜城が落城すると石川貞清を残して勝手に撤収してしまった。そして、犬山城の東方の瑞泉寺に東軍の福島正則の軍勢が集結し始めると、石川貞清は単独での籠城をあきらめ、捕縛していた東軍の山村良候(よしとき)を解放、犬山城を放棄して関ヶ原本戦に向かった。空き城となった犬山城には、西軍の生熊長勝(いくまながかつ)が入城して守備している。関ヶ原本戦で石川貞清は宇喜多秀家(ひでいえ)隊の右翼にあたる口北野付近に布陣、東軍の井伊直政隊が宇喜多隊に突撃をおこなって戦端が開かれた。緒戦は西軍が有利であったが、小早川秀秋(ひであき)隊の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅する。石川貞清は犬山城に逃れ、生熊長勝と共に籠城するが、ついにあきらめて東軍に降伏開城した。石川貞清の領する犬山12万石は没収されるが、池田輝政(てるまさ)の助命嘆願や、籠城中の人質解放が評価され、貞清は黄金1千枚で助命される。その後、剃髪して宗林と号し、京に隠棲した。関ヶ原の戦いの後、桜井松平忠頼(ただより)が2万5千石で美濃国金山に転封、金山城と犬山城の守備を務めた。金山城は既に犬山への移築工事が始まっていたため、忠頼は犬山城に居城することになる。慶長6年(1601年)松平忠頼は遠江国浜松5万石に転封となり、その後、清洲城が家康の四男である松平忠吉(ただよし)に与えられ、同時に小笠原吉次が、徳川家康の命によって忠吉の付家老となり、3万5千石で犬山城を与えられた。この時代、現在の位置に天守が移され、2層から3層に改築された。また、犬山の城下町も整備され、犬山城は近世城郭へと成長している。慶長12年(1607年)松平忠吉は病没、嗣子がなく断絶したため、小笠原吉次は下総国佐倉3万石に国替えとなった。同年、徳川家康の九男である徳川義直(よしなお)が53万石で清洲城主となり、犬山城には義直の後見人である平岩親吉(ちかよし)が付家老として12万余石で入った。しかし、慶長17年(1612年)親吉は世継ぎがないまま亡くなり断絶、犬山城には城番が置かれることとなる。元和3年(1617年)同じく尾張藩付家老の成瀬正成は、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)から犬山城を拝領し、3万5千石で犬山城主となった。成瀬正成は、もとは下総国栗原4千石および甲斐国内2万石、三河国加茂郡内1万石の合計3万4千石の大名であったが、慶長15年(1610年)家康たっての依頼により、やむなく徳川義直の補佐役として陪臣になった。このため、一城を拝領して大名に準じる別格の扱いを受け、尾張藩の付家老として高禄を与えられた。以後、成瀬氏は2代正虎、3代正親、4代正幸、5代正泰、6代正典と犬山城主を世襲するとともに、尾張藩の筆頭家老を務めたが、時代が下ると完全に陪臣の扱いになってしまう。7代正寿(まさなが)や8代正住(まさずみ)のときに尾張徳川家からの独立運動が盛んとなり、同じく尾張の竹越家、紀伊の安藤家と水野家、水戸の中山家の御三家付家老五家が協力して家格向上に努めたが、徳川御三家の反対などで実現できなかった。結局、独立が認められるのは、大政奉還後の明治新政府からであり、明治2年(1869年)版籍奉還によって公式に犬山藩が成立、9代正肥が犬山藩知事に任ぜられる。しかし、2年後の明治4年(1871年)廃藩置県により犬山藩は消滅してしまう。(2004.12.30)

南面東端の単層付櫓
南面東端の単層付櫓

移築現存する内田御門
移築現存する内田御門

旧城のあった三光寺山
旧城のあった三光寺山

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