飯盛山城(いいもりやまじょう)

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鎌倉時代から南北朝時代に活躍した豪族足助氏の本城

飯盛山城居館跡の土塁
飯盛山城居館跡の土塁

中世の山城が発掘調査の結果に基づいて復元されている真弓山の足助城、そのすぐ西側に標高254mの飯盛山がある。ここには12世紀後半にこの地の豪族である足助氏によって築城された飯盛山城が存在した。飯盛山城は、飯盛山の山頂一帯に築かれた山城で、頂上の主郭部は3段の曲輪から構成されており、他にも大小の曲輪群が尾根筋に配置されていた。現在でも山頂部を中心に曲輪跡が確認できる。飯盛山の山腹にある曹洞宗の飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)は、かつての足助氏の居館跡であり、周囲を土塁に囲まれている。特に山門近くには往時の土塁がそのまま残されており、かなりの規模である。かつての足助の地は、東美濃、信濃、尾張および三河を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった。この地域を守るために非常に多くの城砦が築かれている。鎌倉時代から南北朝時代に活躍した豪族足助氏は、飯盛山城を本城として、真弓山城(豊田市足助町真弓)、大観音城(豊田市足助町岩崎)、城山城(豊田市足助町城山)、成瀬城(豊田市足助町成瀬)、黍生城(豊田市井ノ口町)、臼木ヶ峯城(豊田市岩神町)といった城砦を配置した。これら7つの城砦は足助七屋敷と呼ばれる。また、南北朝の動乱によって、南朝に与した足助氏が没落すると、代わって足助鈴木氏が勢力を拡大して足助地方を支配する。足助鈴木氏は足助城(真弓山城)と飯盛山城を併用して本拠にしたとも言われるが、本城である足助城と、八桑城(豊田市新盛町)、安代城(豊田市富岡町)、浅谷城(豊田市山谷町)、大沼城(豊田市大沼町)、阿須利城(場所不明)、田代城(豊田市下山田代町)といった有力支城を足助七城と呼んだ。この足助七屋敷と足助七城がしばしば混同されるようである。香積寺にある豊栄稲荷の脇から、飯盛山の山頂へ通じる小道を登ると、山中に歴代住職の墓や十六羅漢の石仏のほか、足助城主であった足助鈴木氏5代の墓が存在する。さらに進むと、二条良基(よしもと)の装束塚とともに、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔が建てられている。山頂近くには平安時代の末法思想を背景として、仏教経典や鏡、刀子、仏具などを地中に埋納した経塚も存在する。飯盛山の山麓一帯の渓谷は、東海地方随一の景勝地として名高い香嵐渓であり、紅葉やカタクリの花などが有名である。香嵐渓とは、香積寺の「香」と、渓谷に発する嵐気の「嵐」をとって命名されたという。有名なモミジは、寛永11年(1634年)香積寺の第11世住職であった参栄本秀禅師が、般若心経を1巻唱えるごとに1本のモミジの苗を手植えして、巴川沿いの参道に数百本のモミジを育てたのが始まりである。その後、大正末期から昭和にかけて、足助の住民総出で大量に植え増され、京都の嵐山に匹敵する紅葉の名所を作り出すことに成功している。飯盛山から北西の方角にある足助八幡宮は、白鳳3年(663年)の創建とかなり古い。その縁起によると、むかし本宮山に猿形、鹿形、鬼形の怪奇な三異体が住んでいたという。やがて猿形は猿投山に移って猿投明神となり、鹿形は本宮山に留まって砥鹿明神となり、鬼形は飯盛山に移って善征鬼と称した。飯盛山の善征鬼は熊野本宮から来たといい、やがて土地の神の娘と夫婦になり、子を儲けて死んだ。そして、息子たちが飯盛山上に善征鬼を祀ったものが八幡宮の起源であるという。この本宮山に住んでいた三異体とは行者のようで、怪奇な姿で畏れられながらも、各地に散って布教していく様子が窺える。飯盛山の山頂近くにある経塚もこうした行者のおこなった痕跡であると考えられている。

平安時代末期、尾張源氏の一流である浦野太郎重直(しげなお)が、三河国の八条院領高橋新荘の荘官職となった。この高橋新荘はのちに足助荘と呼ばれている。尾張源氏の浦野氏は、清和源氏満政(みつまさ)流を称する氏族である。浦野重直の祖父である源重実(しげざね)は、美濃国方県郡八島郷を本拠にしていた美濃源氏で、八島冠者(佐渡源太)を称して、鳥羽院武者所の四天王のひとりに数えられていた。保元元年(1156年)の保元の乱において、源重実は後白河天皇方で河内源氏の棟梁である源義朝(よしとも)に従った。この時、崇徳上皇の軍勢と後白河天皇の軍勢は京都の賀茂川を挟んで対峙、後白河天皇方の平清盛(きよもり)、源義朝、源義康(よしやす)の3隊が崇徳上皇方の拠る白河北殿へ奇襲をおこなうが鎮西八郎らに撃退され、続く白河北殿への火攻めによって何とか勝利している。平治元年(1159年)の平治の乱においても源重実は源義朝の陣営に加わり、平清盛の軍勢を相手に京都の六条河原で激戦を展開するが敗北、源義朝・頼朝(よりとも)父子とともに、わずかな人数で東国を目指して都を落ちた。しかし、美濃国において落武者狩りに遭い、源重実は自刃したと伝わる。また、源重実の三男である源重成(しげなり)は、落武者狩りから源義朝を逃がしたうえで、自らを源義朝と名乗って自刃した。このとき、相手に偽者であることが露見しないように、自分の顔面をさんざん傷つけたうえで果てたという。これら源氏の敗北によって、源重実の四男である源重遠(しげとお)は、美濃国から尾張国春日井郡浦野邑に遷された。この源重遠は浦野四郎重遠と名乗り、その後裔は尾張源氏と呼ばれて尾張国一円に栄えた。浦野氏の祖である浦野重遠の嫡男が浦野太郎重直であり、尾張国山田郡山田荘に住したことから山田重直とも名乗っている。12世紀中頃、山田重直は足助荘司に任じられ、山田重直の六男である山田重長(しげなが)が、足助の地に移って賀茂六郎足助重長を称した。この足助氏の祖となる足助重長は、この付近の最高峰である黍生(きびゅう)山に黍生城を築いて本拠とした。足助重長は鎮西八郎為朝(ためとも)の娘を娶っている。鎮西八郎こと源為朝は、源義朝の弟にあたり、子供の頃より乱暴者であったため、13歳のときに父である源為義(ためよし)に勘当されて九州に追放されている。豊後国に住んだ源為朝は、鎮西総追捕使を自称して暴れまわり、菊池氏や原田氏といった九州の豪族たちと戦って、わずか3年で九州全土を平定したという。保元の乱においては、父と共に崇徳上皇に従って、長兄の源義朝を相手に奮闘した。しかし、戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、鎮西為朝は捕らえられ、自慢の弓を射ることができないように肘を外されて伊豆大島に流刑となった。しかし、傷が癒えると鎮西為朝は再び暴れだし、伊豆七島を支配するようになっている。嘉応2年(1170年)ついに鎮西為朝追討の院宣が下り、軍船に乗った500余騎の大軍が攻め寄せたため伊豆大島の館で自害した。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったという。詳細は不明であるが、足助重長が鎮西為朝の子である大島次郎為家(ためいえ)をかくまったため、黍生城は平家方の軍勢に攻められて落城した歴史があるという。治承5年(1181年)平清盛が死去すると、源行家(ゆきいえ)の軍勢が尾張国に攻め寄せた。これに対して、平重衡(しげひら)を総大将とする、平通盛(みちもり)、平維盛(これもり)らの追討軍がこれを迎え撃った。この墨俣川合戦で源行家は惨敗しており、源行家に従った足助重長も捕虜となって殺されている。

足助氏の2代当主である重秀(しげひで)は、治承年間(1177-84年)飯盛山城を築いて黍生城から居城を移した。巴川と足助川の合流点にある飯森山は天然の要害であった。現在でも地元では飯盛山を「ゴホンジョヤマ」と呼ぶことがあるが、これは「御本城山」のことである。足助氏は飯盛山城を本城として、その一族を真弓山城(足助城)、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城、臼木ヶ峯城といった城砦に配した。これら7つの城砦は足助七屋敷と呼ばれている。足助氏で特筆すべき点は、一族を挙げて一貫して勤皇思想であった点である。承久3年(1221年)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた。世にいう承久の乱である。後鳥羽上皇は執権の北条義時(よしとき)追討の宣旨を発して諸国の御家人や地頭らに協力を呼びかけた。この時、足助重秀の嫡男である足助重成(しげなり)は後鳥羽上皇の呼びかけに応じて上皇側に馳せ参じた。『吾妻鏡』や『承久記』によると、上皇挙兵の報に鎌倉の御家人たちは大いに動揺したが、北条政子(まさこ)による「皆心を一つにして聞きなさい。源頼朝公が関東に幕府を開いて以来、皆の境遇ははるかに良くなったであろう。頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深いはず。今は亡き源氏三代が築いた幕府を皆で守り抜くのです。」という有名な演説によって、北条義時を中心として御家人を結束させることに成功している。北条泰時(やすとき)を総大将とする幕府軍は、東海道、東山道、北陸道の3方面から京都に向かって攻めのぼり、最終的な兵力は19万騎に膨れ上がった。上皇側では足助氏の同族である山田重忠(しげただ)の奮戦があったものの、大敗して総崩れとなった。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、すべて謀臣の企てであったとして北条義時追討の宣旨を取り消し、藤原秀康(ひでやす)、三浦胤義(たねよし)らの逮捕を命じる宣旨を下す。後鳥羽上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは抵抗むなしく幕府軍によって滅ぼされた。そして、足助重成も幕府軍との戦いで討死したと伝えられる。また、元弘元年(1331年)後醍醐天皇が倒幕を計画していたところ、側近の吉田定房(さだふさ)がこのことを六波羅探題へ密告してしまい、鎌倉幕府に倒幕計画が発覚してしまった。身の危険を感じた後醍醐天皇は、山城国笠置山(京都府相楽郡笠置町)に逃れて挙兵する。これが鎌倉幕府滅亡につながる元弘の乱の始まりである。この笠置山に真っ先に駆けつけて後醍醐天皇に味方したのが、足助氏惣領家の7代当主であった足助次郎重範(しげのり)である。弓の名手として名高い足助重範は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じて集まった約2500名の総大将をつとめ、その勇敢な戦いぶりは『太平記』に記されている。後醍醐天皇をはじめとした籠城軍の拠る笠置山を六波羅軍が取り囲み、一の木戸付近にある仁王堂の前まで迫った。この時、木戸の上の櫓から名乗りをあげた足助重範が、十三束三伏(約160cm)の強弓で矢を放ち、幕府方の将である荒尾九郎と弥五郎の兄弟を射殺、これによって笠置山合戦の戦端が開かれた。夕刻には南都般若寺の本性房(ほんしょうぼう)という怪力の律僧が、巨岩を投げ付けて六波羅軍に甚大な被害を与えている。JR関西本線の笠置駅には、この合戦で活躍した足助重範と般若寺の本性房が奮戦している像が存在する。そして、笠置駅の東に見える山が笠置山である。籠城軍は頑強な抵抗を続けたが、圧倒的な兵力を擁した六波羅軍によって落城、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐島へ配流された。総大将の足助重範は、京都の六条河原で斬首されている。

元弘元年(1331年)平勝親王と関白二条良基は、京都の戦乱(元弘の乱)から逃れて三河国の足助氏のもとに身を寄せ、足助郷の中之御所に仮寓している。平勝親王とは後醍醐天皇の第3皇子という。飯盛山の東方に位置する綾渡(あやど)の檀独山大悲密院(豊田市綾渡町)にて、平勝親王が7日間参籠して観音様に戦勝祈願したところ、満願の日に鳳凰が現れて数日後には天皇が京都に還幸したという知らせがあった。平勝親王は大悲密院に勅額一面と太刀一振を奉納しており、これらは現在も大切に保存されている。それ以降、この寺は大悲密院を改めて、鳳凰山平勝寺(へいしょうじ)と号するようになった。その後、平勝親王は京都に戻ったが、倒幕計画が露見して自刃したという。平勝親王が足助郷に逗留した期間に侍女として世話をしたお藤は、平勝親王の死を伝え聞くと、悲しみに耐えられず綾渡の裏谷の滝に身を投げた。綾渡の人々はこの滝をお姫滝と呼んだと伝わる。一方の二条良基は足助重範の娘である滝野との間に子供を儲けた。この子供がのちに三河国加茂郡足助庄成瀬郷に住み、成瀬三吉丸基久(もとひさ)と名乗った。成瀬基久から始まる成瀬氏は、三河国に勃興する松平氏に早くから仕え、徳川家康の時代には、尾張徳川家の付家老を務めた尾張藩犬山城主の成瀬隼人正正成(まさなり)を輩出している。戦乱が収まると二条良基も京都に戻った。二条良基は歌人としても有名で、連歌の大成者として知られる。元中5年(1388年)二条良基の死を伝え聞いた滝野は、良基の残した形見の装束を飯盛山に埋めて、その霊を慰めたと伝わる。飯盛山中には、足助重範や二条良基、滝野、成瀬基久、その子基直(もとなお)の古びた宝篋印塔や五輪塔と共に、この時の装束塚が現存している。足助重範の処刑後、足助氏の勢力はすっかり衰退してしまい、足助一族は全国に離散した。8代当主の足助重政(しげまさ)も南朝方として戦うが、興国年間(1340-46年)宗良親王と共に東国に去ったという。足助氏の痕跡は地名以外ほとんど残らず、地元においても足助重範は永らく賊軍の将として不当に扱われていたが、明治24年(1891年)になって明治天皇から正四位を、昭和8年(1933年)には従三位を贈られて名誉を回復している。足助氏の2代重秀から8代重政までが居城した飯盛山城、その飯盛山の山腹にある香積寺は、二条良基、滝野、成瀬基久、成瀬基直などの開基で、応永34年(1427年)滅亡した足助氏の菩提を弔うために足助氏の居館跡に創建された。その後、足助地方は足助鈴木氏によって支配されていく。足助城に本拠を置いた足助鈴木氏は、八桑城、安代城、浅谷(あざかい)城、大沼城、阿須利城、田代城といった足助七城と呼ばれる有力支城を中心に、多くの城砦を築いて領土を防衛した。大永5年(1525年)松平清康(きよやす)に足助を攻められると、足助鈴木氏はこれに臣従しているが、天文4年(1535年)清康が殺害されると松平氏から離反する。天文17年(1548年)から天文24年(1555年)にかけては、岡崎の今川軍とたびたび交戦している。永禄5年(1562年)から永禄8年(1565年)にかけて松平元康(のちの徳川家康)と数回にわたり戦って、再び松平氏に臣従している。このように、松平氏、今川氏などの周辺勢力に囲まれて離反帰服を繰り返しながら半独立の勢力を保ちつづけた。この足助鈴木氏は初代忠親(ただちか)、2代重政(しげまさ)、3代重直(しげなお)、4代信重(のぶしげ)、5代康重(やすしげ)と続いたが、天正18年(1590年)5代当主の鈴木康重が徳川家康に従って関東に移ったため、飯盛山城は廃城となっている。(2007.08.04)

飯盛山山頂の主郭部
飯盛山山頂の主郭部

関白二条良基の装束塚
関白二条良基の装束塚

足助鈴木氏5代の墓
足助鈴木氏5代の墓

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