飯田城(いいだじょう)

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明治時代まで続いた下伊那地方の代表的な城郭

現存する桜丸御門(赤門)
現存する桜丸御門(赤門)

飯田城は、東側に天竜川が流れ、その支流である松川と野底川に南北を挟まれた河岸段丘の先端部を利用して築かれており、西側の丘陵地を大手に開いた築城には最適な要害の地であった。段丘が岬状に突き出た東側先端に山伏丸を置き、西に向かって本丸、二の丸、出丸、桜丸、三の丸と直線的に6つの曲輪が配置された連郭式の平山城である。それぞれの曲輪の虎口には枡形が設置され、城の北と南側には天然の断崖をもち、崖下にも水堀が構えられていた。築城前に山伏の修行所があったことに由来する山伏丸の跡には、ホテル三宜亭本館が建つ。そして、本丸のあった場所には長姫(おさひめ)神社や柳田國男館、日夏耿之介記念館などになり、城跡は徹底的に破壊されている。長姫神社裏側には江戸期の絵図にも描かれている石積土塁がわずかに残る。また本丸と二の丸の間には巨大な堀切が存在するが、もともと各曲輪間には堀切があったようで、ほとんどが埋め立てられ、この部分のみが残っている。二の丸は飯田市美術博物館、飯田消費生活センターなどになっており、美術博物館の建設に伴う発掘調査で二の丸大通り跡、御用水跡、石組竪穴跡等が発見され、美術博物館の敷地内に本来の位置とは異なるが復元されている。飯田市松尾久井の民家に移築現存する二の丸御門は、出丸から土橋を渡った二の丸の入口(美術博物館の西端)に存在した櫓門で、両側に四間ずつの門長屋があるので八間門と呼ばれる。この城門は文禄年間(1592-96年)の築造と推定され、現存する飯田城の建築物としては最も古いものである。美術博物館の手前の道を降ると水の手御門の石垣が両側に存在する。水の手御門は毛利氏、京極氏時代の大手口であり、小笠原氏入封時に搦手口に変更された。現在、石垣の上には民家が載っているが、この巨石は尾科(おじな)の文吾(ぶんご)が運んだという伝説で知られる。出丸に追手町小学校、桜丸に飯田合同庁舎、三の丸に飯田市立中央図書館が建てられた。飯田合同庁舎前に移築保存されている桜丸御門は、飯田城の桜丸にあった薬医門形式の城門で、門全体が紅殻で赤く塗ってあるため赤門と呼ばれる。宝暦4年(1754年)に造られており、藩主と領民の対面所として用いられた。ちなみに桜丸とは、脇坂氏時代に多くの桜の木が植えられたことに由来し、他にも桜御門が経蔵寺(飯田市上郷)に移築現存している。JR飯田駅の南側には飯田城外堀跡がある。これは脇坂氏時代に造られた惣堀跡で、飯田城の西側台地に計画的に整備された城下町を全長2.3kmの空堀と土塁でとり囲み、4つの出入口には木戸や枡形を設けていた。天守を持たなかった飯田城であるが、現在の松本城(松本市)の大天守はもともと飯田城の天守であり、小笠原秀政(ひでまさ)が松本へ移封の際に移したという説もある。

平安時代末期、阿波国板野郡板西の豪族で、阿波板西城(徳島県板野郡板野町)の近藤六郎周家(ちかいえ)という人物が、元暦2年(1185年)源義経(よしつね)に従い、平家追討のため讃岐国屋島への案内役として協力した。この近藤周家は『平家物語』に近藤六親家(ろくちかいえ)として登場しており、治承元年(1177年)鹿ケ谷(ししがたに)事件によって平清盛(きよもり)に処刑された西光法師(藤原師光)の六男であった。文治3年(1187年)近藤周家は信濃国伊那郡郊戸庄の地頭職に任命され、郊戸庄飯田郷に下向し、故地にちなんで板西(坂西)氏を称した。その後の坂西(ばんざい)氏の消息については不明である。鎌倉時代では、伴野庄知久郷に知久氏、郊戸庄飯田郷に地頭の阿曽沼氏の存在が知られており、坂西氏は家名断絶していたようである。南北朝初期の信濃国守護職であった小笠原貞宗(さだむね)の三男宗満(むねみつ)が飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。その後、坂西宗満の長男由政(よしまさ)が、愛宕城(飯田市愛宕町)を築いて本拠を移した。愛宕城は飯坂城ともいい、飯田城本丸跡から西に800mほどのところに愛宕稲荷神社があり、この場所に小さな愛宕城があった。そして由政が出家入道すると、家督を継いだ長男の坂西長由(ながよし)によって飯田城が築かれたという。飯田城ができる以前、この場所には真言宗山伏(修験者)の修行所があったが展望のきく要害の地であったため、坂西氏がそれまで本拠としていた愛宕城の土地と交換して築城した。このため、坂西氏時代の飯田城の主郭部は、近世飯田城では「山伏丸」と呼ばれた。ちなみに鎌倉時代の建保年間(1213-19年)に坂西長由が築城したという説もあるが、年代的に無理があると思われる。長由は若くして没したため、長男の政忠(まさただ)が弟の長国(ながくに)の後見を得て坂西氏を継いだ。応永7年(1400年)信濃国守護職の小笠原長秀(ながひで)に反発した村上満信(みつのぶ)や仁科氏を盟主とする大文字一揆、北信の国人領主たちによって大塔合戦が勃発した。坂西次郎長国は守護方として活躍したが、善光寺から塩崎城(長野市)に逃れる途中、進路を断たれて、大塔の古砦に籠城して自刃している。その後、永享12年(1440年)結城合戦では、名実ともに家督を継承した坂西政忠が、小笠原政康(まさやす)に従って出陣したことが明らかになっている。

室町時代から戦国時代にかけて、下伊那地方には多くの領主がいて、多くの城が築かれた。松尾小笠原氏の松尾城(飯田市松尾代田)、鈴岡小笠原氏の鈴岡城(飯田市駄科)、下条氏の吉岡城(下伊那郡下條村)、松岡氏の松岡城(下伊那郡高森町)、大島氏の大島城(下伊那郡松川町)、知久(ちく)氏の神之峰城(飯田市上久堅)などであり、下伊那地方の中世城館跡は約140ヶ所と言われ、坂西氏の飯田城もその1つであった。天文15年(1546年)知久頼元(よりもと)の勢力拡大により、飯田城主の坂西伊予守政之(まさゆき)は領地をめぐって知久氏と合戦になった。この戦いで坂西政之は敗れ、知久頼元によって飯田城に追い詰められるが、松尾小笠原氏、吉岡下条氏の仲介によって和睦が成立した。このとき坂西氏は、知久氏に黒田村、南条村、座光寺の上野原、飯沼の4ヶ所を割譲し、知久頼元の娘を嫡男長重(ながしげ)の室として迎えた。この後、甲斐国の武田晴信(のちの武田信玄)は、信濃国守護職の小笠原長時(ながとき)や北信濃の実力者であった村上義清(よしきよ)を越後国に敗走させ、信濃国の攻略を着実に進めて、天文23年(1554年)下伊那への侵攻を開始、まず小笠原信定(のぶさだ)の鈴岡城を攻撃した。小笠原信定は小笠原長時の弟であり、武田軍の攻撃を1か月も防いだが、ついに落城して小笠原信定は逃亡した。鈴岡城を制圧した武田晴信は、下伊那地方の豪族に帰属を求め、坂西氏、大島氏、松岡氏など多くの豪族が降伏した。しかし、知久頼元や座光寺氏らは神之峰城にて反旗を翻し、甲斐武田氏に徹底抗戦した。知久勢は秋山伯耆守信友(のぶとも)を先鋒とする武田軍を相手に善戦するが、嫡男の知久頼康(よりやす)を始め多くの家臣が討たれ、ついに神之峰城は落城し、知久頼元、座光寺貞信(さだのぶ)ら主だった武将は生け捕りとなった。知久頼元たちは河口湖に浮かぶ鵜之島に幽閉され、弘治元年(1555年)河口湖東岸の船津浜において全員処刑された。坂西政之は伊那郡代となった高遠城代の秋山信友の組下となり、信濃先方衆として軍役六十騎を勤めた。坂西政之の没後は、嫡男長重が早世していたため、孫の長忠(ながただ)が継いだ。永禄5年(1562年)坂西長忠は松尾城の小笠原信貴(のぶたか)の領地を押領し、松尾小笠原氏によって武田信玄に訴えられる。飯田城は武田軍と松尾小笠原氏に攻められ、脱出した坂西一族は木曽谷へ逃れる途中、勝負平の戦いで全滅してしまう。武田信玄は大島城とともに飯田城を重要視しており、永禄5年(1562年)秋山信友を飯田城代とし、下伊那地方の中心的な城郭として機能した。

天正10年(1582年)織田信長の武田征伐の際、伊那口には信長の長男信忠(のぶただ)が総大将として侵攻した。これに対し、滝之澤城(下伊那郡平谷村)を守備する下条信氏(のぶうじ)は織田軍の下伊那侵入をよく防いだが、内通した家老の下条氏長(うじなが)に追放された。これ以降、下伊那における武田方の抵抗はほとんどなくなってしまう。松尾城の小笠原信嶺(のぶみね)は降伏して織田軍の道案内役を務め、飯田城を守備していた保科正直(まさなお)は戦わず逃亡、坂西織部も大平方面へ逃げる途中で討ち取られた。飯田城放棄を聞いた大島城の武田信廉(のぶかど)は戦意喪失、信玄の弟という立場でありながら勝手に甲斐国に退却した。その後、武田勝頼(かつより)・信勝(のぶかつ)父子は甲斐天目山で自刃し、後から信濃国に入った信長のもとに勝頼父子の首が運ばれ、その首は飯田城下に晒された。甲斐武田氏を滅ぼした織田信長は、毛利秀頼(ひでより)に高遠城(伊那市)を与え、伊那郡を統治させた。この毛利秀頼は尾張国守護職であった斯波義統(しばよしむね)の次男で、赤母衣衆として古くから信長に仕えていた。毛利氏は内通した下条氏長を飯田城代に起用したが、同年の本能寺の変によって情勢が不安定となり、毛利秀頼は尾張国に退去、その後に下条氏長は殺害されたという。そして、天正壬午の乱によって信濃国は徳川家康の支配するところとなり、下条信氏の次男頼安(よりやす)は伊那衆をまとめ、家康に起請文を提出して帰順を誓っている。その起請文の写本は甲斐恵林寺(山梨県甲州市)に残り、片桐・飯島・中沢衆の諸士の名が見える。はじめ下条頼安を飯田城に配するが、天正15年(1587年)に伊那郡代の菅沼定利(さだとし)を知久平城(飯田市下久堅)から飯田城に移した。ところが、天正18年(1590年)天下人となった豊臣秀吉の命により、徳川家康が関東移封になると、再び毛利秀頼に伊那郡10万石と飯田城が与えられた。文禄2年(1593年)文禄の役において、毛利秀頼が肥前名護屋で病没すると、娘婿の京極高知(たかとも)が遺領のうち6万石(のちに10万石に加増)を継承し、高遠城から飯田城に入城して、近世城郭への改修と城下町の整備をおこなった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の戦功により京極高知に丹後一国が与えられると、慶長6年(1601年)飯田城には小笠原秀政が5万石で入封した。慶長18年(1613年)小笠原秀政が松本に移ると、飯田藩は一時天領となるが、元和3年(1617年)から武家第一の歌人といわれた脇坂安元(やすもと)が入封、養嗣子の安政(やすまさ)と続く。そして、寛文12年(1672年)堀親昌(ちかまさ)が下野国烏山より2万石で入封して明治維新まで堀氏が12代続いた。この堀氏の時代、毎年正月11日の具足開きの日に、山伏丸の武具庫4棟に収められた甲冑や武器を領民に公開したという。(2006.12.30)

水の手御門の石垣
水の手御門の石垣

飯田城外堀(惣堀)跡
飯田城外堀(惣堀)跡

移築現存する櫓門(二の丸御門)
移築現存する櫓門(二の丸御門)

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