徳島市西部に位置する一宮城は、東竜王山(標高408m)から北東に延びた枝尾根の先端にある山城で、最高所となる本丸は標高144m、麓からの比高が約120mの山嶺に築かれている。北は吉野川の支流・鮎喰川(あくいがわ)、東は船戸川、園瀬川が天然の濠となり、背後には四国山地が控える。城域は東西800m、南北500mの規模で築かれており、徳島県内で最大級の山城である。一宮城は北城と南城の二城からなる。南側の北城は、本丸、小倉丸、椎丸(しいのまる)、水ノ手丸で構成され、貯水池を囲むように馬蹄形に配置されている。北側の南城は、明神丸(二の丸)、才蔵丸(三の丸)等で構成され、本丸の北東に位置する。これら北城・南城から西方に離れて西の丸台という小さな曲輪群も存在する。文化14年(1817年)の『一宮城古城跡書』によると、主要な曲輪が6つ、小規模なものまで含めると13もの曲輪があった。登城口から最初に到達する主要曲輪は才蔵丸で、明神丸から続く尾根を堀切で断って堀底道とし、才蔵丸を孤立した曲輪としている。隣の明神丸では集会所跡が見つかり、周囲を一周する帯曲輪が取り巻いている。一宮城で特徴的となる天守台のような石垣は、本丸の周囲を固める石垣と虎口である。一宮城の虎口は全て平入りで、枡形や喰違のような虎口は見当たらない。野面積みの本丸石垣は蜂須賀家政(はちすかいえまさ)時代のものと考えられ、角石に立石を用いるなど近世城郭の初期段階の特徴を示す。これらの石垣は、徳島県下では、池田城(三好市)と同規模で、徳島城(徳島市徳島町)に次ぐ大規模なものとなる。本丸の形状は直角三角形に近く、天守台はないが東西四間、南北六間の御殿の礎石が確認され、山城の本丸に御殿を置く例は全国でも珍しい。本丸の東側に虎口が設けられ、そこには櫓門が建てられていた。本丸西側は一段低く釜床跡があり炊事場の曲輪であった。本丸の南側を防御する細長い小倉丸は、曲輪の西面に高さ約2mの土塁が50m以上続いている。この土塁の北隅には櫓台が突き出ている。土塁の外側には通路を兼ねた横堀が巡る。北城の谷部には、土手で堰き止めて飲料水を蓄える大きな貯水池が造られた。貯水池から流れ落ちる蔭滝(いんだき)という滝があり、現在は鎖を伝って下りる岩場になっている。山中には他にも、倉庫跡、畑跡、新正屋敷跡、小曲輪などが残る。倉庫跡は2か所あり、「ヤケムギ」という場所では、雨の後などに炭化麦が出土した。本丸から北東方向に約600mの山麓部には、御殿居(里城)と呼ばれる居館推定地がある。標高18mで、南北約140m、東西約130mの規模と考えられ、郭内には寄神社が鎮座する。「御土居」「おうまや」等の地名も残る。一般的に阿波一宮は大麻比古神社(鳴門市)だが、現在の一宮城跡の麓にある一宮神社に比定される天石門別八倉比売神社が当初の阿波一宮であった。この阿波一宮の大宮司であった一宮氏は、古代の粟国造(あわくにのみやつこ)家の流れを汲み、一宮神社の神官職を世襲しながら一宮の地頭職も相伝していたようである。この一宮氏は「成」を通字とした。鎌倉時代初期、阿波国守護は宇多源氏佐々木氏であった。しかし佐々木氏は、承久3年(1221年)承久の乱で宮方に味方して没落し、鎌倉幕府方で活躍した甲斐源氏小笠原氏が阿波国守護に任じられた。初代当主となる小笠原長清(ながきよ)から始まり、2代・長経(ながつね)の長男・長忠(ながただ)も阿波国守護となるが、次男・長房(ながふさ)に守護職を譲って信濃に帰国した。この小笠原長房が阿波小笠原氏の祖となり、阿波守護家として鎌倉時代末期まで続き、阿波国内に小笠原一族が繁栄した。
小笠原長房の四男・宮内大輔長宗(ながむね)、または長房の子・小笠原長久(ながひさ)の四男・宮内大輔長宗は、一宮神社大宮司である一宮宗成(むねなり)を攻め滅ぼし、南北朝時代初期となる延元3年(1338年)一宮神社の裏山に一宮城を築いて移り住んだ。後に長宗(またはその子)は一宮氏を称し、一宮大宮司職も兼ねたといわれる。しかし『一宮系図』によれば、長宗のところに「一宮宮内大輔へ宗成より祭官伝神相伝之」と注記されており、長宗から後の一宮氏が小笠原氏の通字「長」ではなく、一宮宗成以前の「成」の字を継承していることから、長宗は比較的穏やかに一宮大宮司職と地頭職を譲り受け、一宮氏を襲封した可能性が高いと考えられる。建武3年(1336年)足利尊氏(たかうじ)が九州へ落ちる際、細川和氏(かずうじ)・頼春(よりはる)兄弟を四国へ派遣した。一宮長宗は南朝に属したため、北朝の阿波国守護職・細川氏と戦っている。正平5年(1350年)長宗は病没し、子の宮内大甫成宗(なりむね)が家督を継いで一宮城主となった。細川頼春の長男・頼之(よりゆき)は一宮城に攻め入って麓周辺を焼き払った。その後も両者は度々戦ったが、南朝の勢力が衰退すると、正平17年(1362年)一宮成宗は細川頼之に降伏し、成宗は息子の一宮成行(なりゆき)に家督を譲って隠居している。一宮成行は北朝に属し、細川氏の被官となった。一宮氏は、それまで城主が大宮司職を兼ねていたが、一宮成行の代になり城主と祭官を分け、下一宮を城主分として長男の宮内少輔成良(なりよし)に、上一宮を神領分(神領村の由来)として次男の弾正忠成直(なりなお)に与えた。細川頼之は室町幕府の2代管領となり、阿波・伊予・備後・讃岐・土佐の守護職も兼務し、幕政を主導した。その後、細川氏の記録の中に一宮城主一宮氏が度々登場しており、細川氏の有力被官であったことが窺える。一宮成良の後も、長門守成光(なりみつ)、民部少輔成永(なりなが)、宮内大輔成義(なりよし)、和泉守成房(なりふさ)、長門守成祐(なりすけ)と「成」の通字を継承した。戦国時代になると細川氏に代わり、その被官であった三好氏が勢力を拡大し、阿波を始めとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、ついには三好政権を築くに至る。三好氏も阿波小笠原氏の庶流であり、一宮氏と同族である。一宮氏は三好氏と姻戚関係を結び、一宮城主として3千貫を領するなど、三好氏に属しながらも独立性の高い有力国衆であった。戦国後期の当主は一宮成祐で、諱は成助・成相・成佐・成資・成介とも書き、天下人・三好長慶(ながよし)の妹を妻とした。天文22年(1553年)阿波国守護の細川氏之(うじゆき)が、長慶の弟・三好実休(じっきゅう)の軍勢に包囲され自害した。守護所である勝瑞城(藍住町)は実休が奪取した。これに激怒した細川氏家臣の久米義広(よしひろ)らが挙兵し、実休の妹婿に当たる一宮成祐を標的として、一宮城に夜討ちを仕掛けて城内に突入した。麓の里城にいた成祐は窮地に陥るが、重臣の森備前守が居館を囲む大竹藪の中に成祐を押し入れて難を逃れたという。永禄5年(1562年)3月、和泉国の久米田の戦いに一宮成祐も従軍するが、総大将の三好実休が戦死するという三好軍の敗戦になった。その混乱の中で、成祐は森備前守に指揮を執らせて堺まで見事な退陣ぶりを見せたという。その後、実休の長男・三好長治(ながはる)が阿波・讃岐・淡路の3か国を支配し、畿内で戦う三好三人衆を助けて、織田信長に対抗している。ところが、三好長治の暴政は酷く、阿波一国の支配さえ喪失しかねない状態にまで悪化した。
天正4年(1576年)三好長治は阿波守護家の細川真之(さねゆき)を討伐するため那東郡荒田野へ出陣するが、細川真之に応じて一宮成祐、伊沢頼俊(よりとし)らが反旗を翻し、三好軍の背後を襲った。三好軍は撤退して今切城(徳島市春日)に籠るが、一宮氏・伊沢氏ら反三好勢力は2千の軍勢で包囲、3日間の攻防戦の末、今切城から脱出した三好長治を追い詰めて自害させた。変報に接した三好方の矢野国村(くにむら)は、天正5年(1577年)3月に伊沢頼俊に奇襲をかけて討ち取っている。孤立状態となった一宮成祐は、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に援軍を依頼、これを受けた元親は、同年(1577年)春頃に阿波に侵攻して池田城を奪取した。同年(1577年)9月に勝瑞城に向けて進軍した一宮成祐は、帰路に横合いから攻撃してきた淡路衆を撃破している。三好氏家臣の篠原自遁(じとん)は雑賀衆の援軍を受けて7千の兵で一宮城を攻撃した。この時、一宮成祐は一宮城を放棄して山間部の焼山寺(神山町下分地中)に逃れた。阿波三好家の滅亡により、天正6年(1578年)1月、三好実休の次男である十河存保(そごうまさやす)が擁立されて勝瑞城に入り、阿波三好氏の当主となった。天正7年(1579年)12月、矢野国村ら三好氏重臣たちが岩倉城(美馬市)で岩倉衆の奇襲を受けて討死すると、一宮成祐は一宮城への復帰を果たしている。天正8年(1580年)正月、一宮成祐が十河存保の重臣を調略すると、身の危険を感じた十河存保が讃岐十河城(香川県高松市)に逃れたため、成祐は念願の勝瑞城の城主となった。同年(1580年)11月頃、摂津石山本願寺(大阪府大阪市)を退去した残党が、雑賀衆や淡路衆と共に勝瑞城を占拠して一宮城を包囲した。これは長宗我部勢が駆け付けたため難を逃れたが、天正9年(1581年)1月には十河存保が勝瑞城への復帰を果たしている。この頃、長宗我部氏の勢力拡大を良しとしない織田信長が元親に臣従を迫るが、元親はこの要求を拒絶した。こうして信長と元親は敵対関係になる。同年(1581年)7月、十河存保は雑賀衆や淡路衆の支援を受けて一宮城を攻撃するも、一宮成祐がよく防いで落とせず、9月に久武親直(ひさたけちかなお)率いる長宗我部軍2万が到来すると、十河氏は囲みを解いて退却した。このように一宮成祐は、長宗我部氏の支援を受けながら十河存保との争奪戦を繰り返している。天正10年(1582年)5月、織田信長から四国征伐の命を受けた三男・信孝(のぶたか)は、摂津国住吉に着陣して出港の準備を進め、丹波長秀(にわながひで)と津田信澄(のぶずみ)は摂津国大坂、蜂谷頼隆(はちやよりたか)は和泉国岸和田に軍勢を集結させた。先発隊の三好笑岩(しょうがん)は勝瑞城に到着しており、既に一宮城や夷山城(徳島市八万町)を攻略していた。総勢1万4千の本隊は、6月2日に四国に向かって出発する予定であった。ところが、この6月2日に本能寺の変が起きた。三好笑岩ら織田軍は阿波から撤退、これを好機と捉えた長宗我部元親は2万3千の軍勢で阿波に侵攻し、中富川の戦いで十河存保を破って阿波一国を平定している。一宮成祐はこの戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、元親のもとに成祐が三好笑岩と通じていたとの通報が入った。11月7日に元親は恩賞の打合せと偽って一宮成祐を夷山城に招いた。成祐は数名の部下を引き連れて夷山城に向ったが、その途中で長宗我部氏家臣の畑弥助の部隊が成祐を襲った。一旦は逃げたが追い詰められて自害した。この時、弟の主計頭成時(なりとき)・和泉守成次(なりつぐ)、叔父の成胤(なりたね)・成季(なりすえ)も討死している。
福万谷から中津浦へ続く道を長宗我部越(ごえ)という。中津浦の井上家では長宗我部軍が屋敷の前を通って山越えをした伝承が代々語り継がれる。長宗我部軍は雲水庵の前を通り、井上家から南西の山沿いの細い道を進み、山越えをして福万谷へ出て福万寺を焼いた。驚いた一宮勢は迎え撃とうとしたが、福万谷と柿谷の間にある血凝谷(ちこりだに)で壊滅したと伝えられる。一宮長門守の弟・主計正成良(なりなが)という人物が夷山西方の樵谷で戦死したとも伝わる。当初より元親の誘いを怪しむ家臣もおり、一宮成祐に取り止めるよう申し入れたが、成祐は逃げる準備だけはしておくよう告げて出発していた。結果、成祐らが謀殺されると、弟の成孝(なりたか)を始めとする一宮一族はすぐに阿波を脱出することができた。長宗我部元親は後の憂いを無くすために新開道善(しんがいどうぜん)、細川真之など味方であった阿波の武将を次々と殺害している。『神領村誌』によれば、神領の谷地方では旧暦の「大の月」のお籠りの夜は、外で馬の轡(くつわ)のジャンジャンと鳴る音が聞こえても、決して外を覗いてはいけないと伝えている。それは一宮城主・一宮長門守の亡霊である夜行(やぎょう)さんが首切れ馬に乗って高根の悲願寺(神山町神領高根)に参っているのだという。夜行さんは一つ目で髭の生えた鬼の妖怪として、今も徳島県で語り継がれている。長宗我部元親は反秀吉の態度を取っていたが、天正13年(1585年)3月の羽柴秀吉による紀伊征伐の際、四国統一を果たした元親は重臣の谷忠澄(ただずみ)を使者として、秀吉に和睦を申し入れた。しかし秀吉は、土佐を安堵する代わりに、阿波・讃岐・伊予の3国を差し出すよう命じた。元親はこれに承服できず、領内の防備を固め、特に畿内に近い阿波に主力軍を投入している。接収した一宮城には新たに南城を増築し、最高所となる北城に谷忠澄を、新造の南城に江村親俊(えむらちかとし)を配備した。同年(1585年)6月、秀吉は羽柴秀長(ひでなが)を総大将として四国征伐の軍を興した。阿波・讃岐・伊予の3方面から11万以上の大軍が長宗我部軍に襲い掛かった。この戦いで勝敗の帰趨を決したのが一宮城をめぐる攻防戦であった。一宮城には周辺の地侍層も動員して9千人で籠城していた。対する羽柴秀長は鮎喰川を挟んだ辰ヶ山に陣を構え、5万余で一宮城を包囲した。城内の士気は高く、長期戦の様相を呈した。このため秀長は、坑道を掘って城内の水源を断ち、城を掘り崩す奇策を立てると、城方は動揺して7月中旬に開城した。一宮城を退去した谷忠澄は、長宗我部元親を説得して、ついに降伏させている。秀吉に従臣した元親は、土佐一国のみを安堵された。同年(1585年)9月、阿波には秀吉の命により蜂須賀家政が18万6千石で封ぜられ、阿波国主として一宮城を居城とした。現在の石垣を巡らせた遺構はこの時に大幅改修したものである。かつて一宮城を脱出した一宮成孝は讃岐国水主に逃れたが、天正14年(1586年)嫡子・小笠原光信(みつのぶ)が蜂須賀家政に召し出され、一宮村に200石を与えられて一宮神社の神職として再興した。その後、蜂須賀氏の縁戚である小倉小笠原氏と同姓であることを憚って、小笠原から笠原に改姓したという。蜂須賀家政は、天正14年(1586年)に徳島城を築いて移ると、阿波国内にあった9つの中世城郭を改修して阿波九城(あわくじょう)と称する徳島城の支城として整備した。一宮城も阿波九城のひとつとして家臣である益田持正(もちまさ)が城主を務めたが、元和元年(1615年)江戸幕府による一国一城令を受けて、寛永15年(1638年)に廃城となった。(2022.06.12)