本宗寺(ほんしゅうじ)

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本願寺教団の一家衆寺院であり三河一向一揆の拠点

土呂八幡宮に立つ土呂御坊跡の碑
土呂八幡宮に立つ土呂御坊跡の碑

土呂八幡宮(岡崎市福岡町南御坊山)は奈良時代末期から平安時代初期ごろに創立したという古い歴史を持つが、兵火で古記録を焼失しており詳細は分からない。かつて、土呂八幡宮の神宮寺のそばに本宗寺が建てられ、堀と土塁に囲まれた東西二町、南北一町の寺域に弥陀堂、祖師堂、庫裡、鐘楼、坊舎などがあった。本宗寺が開創された時期は、文安3年(1446年)とも、応仁2年(1468年)ともいわれ、本願寺教団の拠点となった本宗寺は、土呂御坊と呼ばれており、本宗寺を中心に寺内町が形成され大いに繁栄した。この土呂寺内町の規模は大きく、往時は東西十町余(約1km)、南北八町余(約800m)もの広さにおよび、その中に1200軒ほどの民家をもった守護不入の宗教都市ができていた。現在、土呂八幡宮の一角には土呂御坊跡の碑が立っている。西三河に一向宗(浄土真宗)が根付いた理由として、一般的に知られていることは、関東から帰京途中の親鸞(しんらん)が、三河国矢作の柳堂(やなぎどう)で説法をおこない、それを聞いた諸寺院の住持が一向宗に改宗したというものである。建永2年(1207年)承元の法難によって、法然(ほうねん)が土佐国に、親鸞が越後国に、それぞれ配流となった。親鸞は流罪から5年後に赦免されたが、すぐに京都に帰ることなく常陸国に留まり、約20年のあいだ関東で布教をおこなった。そして、嘉禎元年(1235年)前後に京都に帰っているので、柳堂で説法をおこなったとすればその頃であるが、『新編岡崎市史』によると、そのような事実が存在しないことは教団の歴史家によって確定されているという。鎌倉時代の三河国矢作の地には薬師寺と呼ばれる大規模な天台宗の寺院があった。その位置は現在の矢作川の河床となっている。康元元年(1256年)親鸞の弟子である真仏(しんぶつ)、顕智(けんち)、専信(せんしん)、下人の弥太郎の4人は関東を発ち、親鸞に面会すべく上洛する。その途中、矢作の薬師寺で念仏の布教をおこなった。真仏とは、もとは椎尾弥三郎春時(はるとき)といい、常陸国の真壁庄椎尾地域に勢力を持つ豪族の出身であったが、常陸国稲田において親鸞に会い、出家して直弟となった。親鸞は帰京にあたり、下野国高田の如来堂(栃木県真岡市)の護持を真仏に委ね、貞永元年(1232年)如来堂の第2世を継承している。如来堂は発展して専修寺と呼ばれるようになり、真仏を中心に高田門徒が形成され、後に真宗高田派の本山になる。現在、真宗高田派の本山である専修寺は、三重県津市の一身田町にある。真仏たちは親鸞に面会して帰途についたが、顕智は三河に留まって念仏勧進をおこなった。その布教活動によって35人が門徒になった。この顕智は、正嘉2年(1258年)に真仏が没すると、専修寺の第3世を継ぐ人物である。三河において、顕智の布教活動に大いに助力したのが円善(えんぜん)という人物である。彼は薬師寺の説法に深い感銘を受けて高田門徒になり、出家して法を説く側にまわった。このように三河国の一向宗は実質的に円善から始まる。真仏の薬師寺での説法が、親鸞の柳堂での説法にすり替えられたのは、室町時代中期に高田派であった寺院の多くが本願寺派へ転じたことが背景にあると考えられている。本願寺派が三河国に入ったのは本願寺第8世法主の蓮如(れんにょ)のときで、巧みな布教活動により有力寺院を本願寺派へ転向させた。とりわけ、天台宗の寺院であった佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町)・野寺本證寺(安城市野寺町)・針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町)の三ヶ寺は、それぞれ200近い末寺・道場を持ち、武士・農民などの門徒は合わせて数千におよんだといわれる。

室町時代後期になると、三河の本願寺門徒の武力の実権を掌握していたのは石川氏であった。この石川氏については『寛政重修諸家譜』によると、石川政康(まさやす)の時代は下野国に住んでおり、文安年間(1444-49年)に本願寺の蓮如が布教のため下野に来たとき、「三河は我が郷党なり、武士の大将として一方を指揮すべきものなし、願わくば三河国に来たりて我が門徒を進退すべしとなり」と政康に同行を誘ったという。政康は蓮如とともに三河に赴き、小川城(安城市小川町)を築いて本拠とし、のちに三男の源三郎親康(ちかやす)を松平氏5代当主の松平親忠(ちかただ)に出仕させて松平氏の家臣になったと伝わる。しかし、これは石川氏と本願寺との関係を誇示した伝説のようで、実際の石川氏は三河国守護職である一色氏の被官として、蓮如が三河国に来る以前より三河に存在した。石川氏は土呂の地に一族の寺として本宗寺を建て、応仁2年(1468年)三河へ下向した蓮如に石川政康が本宗寺を寄進、蓮如の子である本願寺第9世法主の実如(じつにょ)の四男実円(じつえん)が住職を務め、本願寺法主の一族が住持する一家衆(いっけしゅう)寺院として全国の本願寺教団の諸寺院の中でも格別の寺となった。本宗寺は簡単に攻め落とされないよう要害の地に建てられており、御堂山と呼ばれる丘の上に伽藍があった。その寺域は御堂山(対屋)から御坊山(清水)を経て狐崎(上地)まであった。『土呂山畠今昔実録』によると三方に湖があって、残りの一方には大きな堀が造られたという。徳川家康の父である松平広忠(ひろただ)は、一向宗の寺院に「不入」という治外法権の特権を与えている。この特権を認めてくれる限り、門徒衆は領主である松平氏に敵意を抱かなかった。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで駿河国の今川義元(よしもと)が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏の属将であった松平元康(もとやす)は独立の道をさぐり、永禄5年(1562年)信長と軍事同盟(清洲同盟)を締結した。元康は三河統一へ向けて行動し、今川勢とそれに与する土豪の一掃に挑んだ。その表れとして、永禄6年(1563年)今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して、松平家康と改めている。そして、この年に三河一向一揆が勃発するのだが、この状況で門徒衆に挙兵されては困るため、家康は門徒衆をなだめるために旧知である専福寺(岡崎市祐金町)の祐欽(ゆうきん)と娘婿の善秀(ぜんしゅう)によって調停をおこなわせたが失敗している。三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、それを阻もうとする門徒衆が、松平一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものが三河一向一揆であり、家康が戦国大名として領国支配を達成するためには避けては通れないものであったといえる。一方、桑子明眼寺(岡崎市大和町)のような高田派の寺院は、本願寺派の諸寺とは袂を分かち一揆には加わらなかった。三河一向一揆において明眼寺は家康方に味方し、家康も明眼寺に難を避けたと伝えられる。このため、家康から「源」の一字を賜り、それまでの明眼寺を妙源寺に改めている。また、妙源寺には親鸞伝説の柳堂が存在する。正しくは太子堂というが、聖徳太子御直作の尊像を安置した太子堂の前に柳の大樹があったので柳堂と呼ばれた。文暦2年(1235年)三河国碧海郡の領主であった安藤薩摩守信平(のぶひら)は、関東より帰京する途中の親鸞を桑子城内の柳堂に招いて説法を受けた。親鸞の教えに感化された安藤信平は、武門を捨てて仏門に入り念信(ねんしん)と改名、正嘉2年(1258年)桑子城の城域に明眼寺を建立したという。

門徒家臣の中でも大物は、三河の本願寺門徒の総代であった石川氏であり、当主の石川康正(やすまさ)は岡崎城代を務めていた。康正は三河一向一揆の大将分として家康に反抗したが、嫡子の数正(かずまさ)や、弟の家成(いえなり)は浄土宗に改宗して家康に従っている。永禄6年(1563年)10月下旬から始まる三河一向一揆は、永禄7年(1564年)2月28日まで続くが、永禄6年の12月に閏月があるので5ヶ月間の戦いとなる。永禄7年(1564年)1月11日と12日には上和田で激戦が展開された。11日に一揆方の8百余の兵が大久保党の籠る上和田の砦(岡崎市上和田町)を猛攻した。上和田砦は上和田城とも呼ばれ、大久保党を構成する一族の屋敷の集合体であったという。三河一向一揆に際して、大久保五郎右衛門忠俊(ただとし)の屋敷に木戸や櫓を設けるなど、彼らの屋敷を砦に改造して一揆軍と戦っている。反撃を試みた宗家の大久保忠勝(ただかつ)は一門の兵を率いて出撃したが、目を射られて退却した。大久保忠世(ただよ)も目を負傷した。忠世は軽傷であったが、忠勝は重傷であったと考えられる。以後、忠勝は戦陣で一門の兵を指揮することができなくなり、大久保一門は次代の宗家を忠世の家とした。上和田砦を守る大久保党は、一揆の兵が押し寄せてくるたびに矢倉に登って竹筒の貝を吹いた。岡崎城(岡崎市康生町)の松平家康は、その貝の音を聞く番を置いており、上和田で貝が鳴っていると報告を受けるたびに誰よりも早く上和田砦に駆けつけた。その都度、一揆方の兵は寺内に退き、家康が岡崎に戻ると再び出撃するという有様であった。上和田の砦の中には5歳の大久保平助がおり、彼は後の大久保彦左衛門忠教(ただたか)であるが、著作の『三河物語』に家康が一番に駆けつけたことが繰り返し書かれている。勝鬘寺は徳川十六神将のひとりである蜂屋半之丞貞次(さだつぐ)など100余名が籠った寺である。蜂屋氏は土岐氏の支流で、半之丞は永禄3年(1560年)の尾張丸根砦(名古屋市)攻めより、家康に従ったという。槍は白樫の三間柄に平安城長吉(へいあんじょうながよし)の四寸ほどの刃をすえたものを使い、長身で力が強く槍術に優れており、家中で一、二を争うほどの腕前である。半之丞の妻は大久保忠俊の娘であったので、三河一向一揆では義父と戦わなければならなかった。一揆に加わった家康の家臣たちは、現世限りの縁である主君よりも未来永劫の縁である阿弥陀如来を選択したのだが、忠誠心が異常に強いという三河武士特有の性格から、旧主の松平家康を目の当たりにすると躊躇した。蜂屋半之丞も12日の戦場で旧主の松平家康に遭遇している。半之丞が引き揚げようとしたとき、「蜂屋め返せ」という叫び声が聞こえた。半之丞が振り返るとそれは家康で、それまで鬼神のような働きを見せていた半之丞は槍を引きずって逃げた。再び半之丞は呼ばれたが、今度は松平金助だったので引き返し、「殿様だから逃げたのだ」と言って、たちまち槍で突き伏した。そこへ家康が「蜂屋め」と大声をあげて追いかけてきたため、またしても半之丞は振り返らずに逃げ出したという。また、一揆軍として戦っていた土屋長吉重治(しげはる)は、家康が危険にさらされているのを見ると、見過ごすことができず、みずから盾となり家康を助け、身代わりとなって死んでいる。守勢に立たされて一揆方の猛攻をかろうじてしのいだ大久保党は、13日朝に出撃して勝鬘寺を激しく攻めた。これに対して勝鬘寺を守る兵は一策を講じた。それは部隊を二手に分けて、一手を北上させて柱郷から妙国寺に進み後方を遮断、これで大久保党は上和田に戻れなくなる。

こうなると大久保党は、本多広孝(ひろたか)の土井城(岡崎市土井町)を目指して逃げるしかない。土井には水田が多いので、もう一手がそこに大久保党を追い込んで殲滅させるという作戦である。大久保党の危機を知った蜂屋半之丞は大久保党が全滅してしまうことを憂い、機転を利かせて馬に乗り、柱郷の中之原を走り回った。大久保党は大久保忠俊を筆頭に、弟の忠員(ただかず)、その嫡子である忠世と戦上手が揃っており、半之丞の異様な行動から妙国寺前が遮断されることを察して、迅速に撤退してしまった。勝鬘寺の一揆軍は計画どおりに出撃したが、大久保党の姿はなく作戦は失敗している。翌14日には、家康に仕える甲賀流忍者の深津九八郎、青山虎之助が上宮寺に忍び込んだ。伽藍に放火して味方を引き入れる策であったが、この作戦は失敗している。これに怒った上宮寺の兵は、捕縛した両名を斬首し、15日早朝に明眼寺に籠っている家康方の兵を攻撃した。これに対して、明眼寺の兵は早鐘をついて家康の来援を要請する。家康はすばやく矢作川を渡って、上宮寺の兵を押し返した。このとき一揆方の矢田作十郎を鉄砲で倒している。矢田作十郎は無類の勇者で、この人物を失った一揆方の損失は甚大であった。同日、刈谷城(刈谷市)の水野信元(のぶもと)は岡崎城の松平家康もとへ陣中見舞いに訪れたが、家康が上宮寺を攻めるため桑子に出陣中と聞いて明眼寺まで赴いている。家康と信元が対談していると、本宗寺の兵と、勝鬘寺の兵が大平村を通り、岡崎へ押し寄せたとの急報が入った。これに対して、家康の軍勢とともに、信元も軍勢を率いて急行した。一揆勢は800余の兵力で馬頭原から生田原に押し出し、それに対応して本多氏、吉野氏などが防衛の陣を布いて戦った。ほどなく岡崎から加勢が到着したので、この陣の崩壊はまぬがれている。家康と信元は対岸の上和田から羽根、さらに小豆坂を経て馬頭原に近づいたところ、退却してきた一揆勢が家康の先手の軍勢を見て龍泉寺の方向へ逃げた。退却が遅れた一揆勢の400〜500名は、敵軍を打ち破るか、桑谷(くわがい)に逃げるか決めかねているうちに戦闘に突入せざるをえなくなった。桑谷は龍泉寺の南東にあり、そこから山を越えると大草に出ることができる。大草城(幸田町)には一揆方の松平昌久(まさひさ)がいた。しかし、ここまで逃げ延びた兵はほとんどおらず、挟撃されて大半の兵士が死傷している。翌日、菅生川(乙川)の二瀬で首実験がおこなわれたが、その首級の数は130級という多さであった。こうして、2月28日に上和田の浄珠院(岡崎市上和田町)にて一揆方の降伏交渉がおこなわれ、家康は起請文を書いて蜂屋半之丞らに授けた。その一方で、本宗寺の教什(きょうじゅう)が家康軍に不意打ちを仕掛けたため、石川家成の軍勢が土呂寺内町の高須口から突入、本多忠勝(ただかつ)も柵を破って本宗寺の寺内町を制圧した。石川家成は門徒衆に同情的だったので、まっさきに馬で駆け寄せて寺内町の住民を逃がし、追撃もおこなわなかった。この時の兵火によって本宗寺の七堂伽藍と寺内町、土呂八幡宮のすべてが焼失している。こうして三河一向一揆は終息し、三河は真宗禁制の地となった。家康は石川数正に命じて土呂八幡宮を再建させるとともに、土呂の地に土呂城(岡崎市福岡町御堂山)を築城させた。現在、御堂山協会のある御堂山が主郭で、土呂八幡宮の北側の御坊山が副郭と伝えられる。その後、本宗寺は伊勢国で再興するが、天正11年(1583年)になると三河国で本宗寺の復興が許されており、現在は三重県松阪市と岡崎市美合町にそれぞれ本宗寺が存在する。(2008.01.02)

現存する桑子明眼寺の柳堂
現存する桑子明眼寺の柳堂

専福寺にある櫓造りの鼓楼
専福寺にある櫓造りの鼓楼

蜂屋半之丞が籠った勝鬘寺
蜂屋半之丞が籠った勝鬘寺

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