広島城(ひろしまじょう)

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中国地方9か国112万石の太守であった毛利輝元が広島湾頭に築いた毛利家の新たな本城

広島城の5層5階外観復元天守
広島城の5層5階外観復元天守

広島城は、広島湾頭に形成された太田川河口部のデルタ地帯(三角州)に築城された連郭梯郭複合式平城である。江戸時代の広島城は、内堀・中堀・外堀の3重の堀をめぐらし、西側の太田川と、東側の京橋川を天然の堀とする広大な城域を持っていた。本丸と二の丸の周囲を内堀がめぐり、その外側を囲む凹字型の三の丸の周囲を中堀がめぐり、その外側を囲む4つの外郭の周囲を外堀がめぐっていた。本丸は上段と下段に分けられている。本丸上段は、広島城の中核となる区画で、大小天守群が北西角にそびえる。往時の天守は5層5階の複合連結式望楼型天守で、5層の大天守を中心に、3層の南小天守と東小天守を渡櫓で連結させたものであったが、小天守は明治になって撤去されている。また、上段一帯には広島藩の役所と藩主の住居を兼ねた本丸御殿があった。書院造りの本丸御殿は、表御殿・中奥・奥向に分かれていた。本丸上段の南側階段を下ると、本丸下段が広がる。江戸時代には馬場が設けられ、周囲には土蔵が並んでいた。裏御門は本丸の東側に設けられた櫓門で、中御門は本丸の南側に設けられた櫓門である。これらの現存する櫓台石垣の間に門扉があり、その上部には渡櫓が築かれていた。中御門と二の丸は土橋で連結されている。二の丸は本丸の南方にある小さな曲輪で、馬出しと呼ばれる構造になっている。これは天正末期(16世紀末)の毛利氏時代に築造されたもので、全国の近世城郭の中でも特異な配置であり、広島城の特徴となっている。馬出しは出入口に築かれた区画のことを指し、出入口を守り、また外部へ出撃する際の拠点としての役割を持つ。二の丸には、太鼓櫓・多聞櫓・平櫓および表御門が存在した。これらの建物は、柱が露出した真壁造で、非常に古風な外観であった。太鼓櫓は2層櫓で2階部分に時を告げる太鼓が置かれ、藩士の出仕合図などに使用されていた。多聞櫓は太鼓櫓と平櫓を結ぶ横に長い櫓で、総延長が35間(約63m)あった。平櫓は1階建ての櫓で、表御門と多聞櫓を結ぶ。表御門は二の丸の入口にあたる櫓門で、御門橋は内堀に架かる表御門へ連結する木橋である。昭和6年(1931年)に大天守が国宝に指定された。この当時、江戸時代から残っていた建物は、本丸の大天守と東走櫓、中御門、裏御門の一部、二の丸の表御門、太鼓櫓、多聞櫓の東半分などであった。しかし、太平洋戦争末期においてアメリカ軍のB-29(エノラ・ゲイ)は、昭和20年(1945年)8月6日に原子爆弾リトルボーイを軍都広島に投下した。爆心地は広島城から南西約1kmの地点であり、広島城の天守は原爆の爆風と衝撃波で倒壊、櫓や城門もほとんどが焼失してしまった。現在の天守は、昭和33年(1958年)に再建された鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である。また、平成3年(1991年)表御門と御門橋が、平成6年(1994年)太鼓櫓・多聞櫓・平櫓が復元された。現在、広島城内の建物で現存しているものは極めて少ない。多家神社(府中町)にある校倉(あぜくら)造りの宝蔵は、広島城三の丸の稲荷社にあったもので、江戸時代初期の元和年間(1615-24年)浅野氏が入封した時に建立されたものといわれる。日本に残存する校倉は30余棟で、いずれも校子(あぜこ)が三角に削られたものであるが、この多家神社の校倉は、校子組手が四角と極めて異例である。また、修道中学校・高等学校(広島市中区南千田西町)には、広島城三の丸にあった藩校「学問所」の土蔵(修道学問所之蔵)が移築現存する。原爆の爆風にも耐えたもので、縦6m、横4m、高さ6mの2階建てである。広島城の本丸・二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、中堀と外堀は消滅した。

広島城址公園以外で確認できる遺構は、広島高等裁判所(広島市中区上八丁堀)敷地内にあった学問所の中堀土塁跡と、空鞘橋東詰南側の外郭櫓台石垣遺構(広島市中区基町)くらいである。江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、広島城の広大な城域を取り囲むように存在した櫓の数は、本丸に23基、二の丸に5基、三の丸に17基、外郭に43基で、これら88基の櫓のうち2層櫓は35基もあったという。特に西側の守りが強化されており、太田川に沿って13基の櫓が築かれて土塀で結ばれていた。このうち、現存する外郭櫓台石垣遺構は、北から数えて10番目の櫓台であり、発掘調査のうえ埋め戻されたが、今でも石垣の上端が確認できる。鎌倉時代から室町時代にかけての安芸国の守護については、明確に判明していない。甲斐武田氏が甲斐国に加えて安芸国の守護にも補任されているが、武田氏が一貫して安芸の守護であった訳ではない。延文4年(1359年)甲斐・安芸国守護職の武田信武(のぶたけ)が没すると、甲斐国守護職は長男の信成(のぶなり)が、安芸国守護職は次男の氏信(うじのぶ)がそれぞれ継承して、甲斐武田氏と安芸武田氏に分立した。しかし、応安4年(1371年)以降は、今川氏・細川氏・渋川氏・山名氏が安芸国守護職を務めており、安芸武田氏は佐東郡を中心に分郡守護として続いた。永正12年(1515年)周防・長門の戦国大名である大内義興(よしおき)に従っていた武田元繁(もとしげ)は、大内氏に反旗を翻している。これに対して大内氏は、安芸の国人領主である毛利興元(おきもと)・吉川元経(きっかわもとつね)に命じて武田氏を攻めさせた。永正13年(1516年)毛利興元が病死、幼少の幸松丸が毛利氏の跡を継ぐと、永正14年(1517年)その動揺に乗じて武田元繁は軍を起こした。幸松丸の後見役であった毛利元就(もとなり)が迎撃し、初陣ながらも有田中井手の戦いで武田元繁を討ち取った。これ以降、安芸武田氏の勢力は急速に衰える。大永3年(1523年)毛利幸松丸の死去により元就が家督を相続し、猿掛城(安芸高田市吉田町多治比)から吉田郡山城(安芸高田市吉田町吉田)に入城する。元就は大内氏と出雲の尼子氏の2大勢力に挟まれながらも次第に勢力を伸ばしていく。尼子氏に従っていた元就が大内氏の陣営に戻ると、可部(かべ)・温科(ぬくしな)・深川(ふかわ)・久村(くむら)などの所領が安堵され、広島湾頭へ南下の足がかりを得た。天文10年(1541年)大内・毛利軍が佐東銀山(さとうかなやま)城(広島市安佐南区)を攻撃し、安芸武田氏は滅亡した。武田信実(のぶざね)の遺領である緑井・温井・矢賀・中山などは、可部・温科の代所として元就に預けられ、長男・隆元(たかもと)にも大牛田(おおうした)・小牛田(こうした)が預けられており、さらに所領を拡大した。当時、佐東川(さとうがわ)と呼ばれた太田川の下流域は川ノ内といい、元就は武田氏が残した川ノ内警固衆という有力な水軍を手に入れた。当時の太田川河口域は、深い入り江に小さな島や砂洲が点在していたが、元就は広島湾頭の重要性を認識しており、川ノ内警固衆に命じてデルタ地帯の干拓を積極的におこなわせている。弘治元年(1555年)厳島の戦いに勝利した元就は、中国地方の領有化を急速に進めていった。永禄6年(1563年)毛利隆元の急逝によって、子の毛利輝元(てるもと)が11才で毛利家の家督を継ぐ。そして、元亀2年(1571年)毛利元就も死去すると、叔父の吉川元春(もとはる)・小早川隆景(たかかげ)の補佐を受け、中国地方の大部分を治める戦国大名・毛利家の基盤を引き継ぐことになる。

やがて毛利輝元は織田信長と対立するようになり、山陰・山陽の各方面で織田軍と戦った。しかし、天正10年(1582年)本能寺の変で信長が斃れると、備中高松城(岡山県岡山市)で羽柴秀吉と講和を結び、秀吉が信長の後継者としての地位を確立すると、輝元は秀吉に臣従、五大老のひとりとして豊臣政権を補佐した。天正16年(1588年)輝元は初めて上洛して秀吉に謁見した。その時、摂津大坂城(大阪府大阪市)や山城聚楽第(京都府京都市)を訪れている。それらの近世城郭と城下町は、一体化して領国の政治・経済の中心として機能していた。その豪壮な城郭と繁栄した城下町を目の当たりにした輝元は、山間部の山城である吉田郡山城が既に時代遅れであることを悟って、新しい城造りを決意したといわれている。中国地方9か国112万石(安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐の7か国と、伯耆・備中の半国)の太守である毛利輝元の居城にふさわしい場所として選んだのが、陸上交通・海上交通の結節点にあたり、祖父・元就が重視していた広島湾頭であった。天正17年(1589年)輝元は、太田川の下流域周辺の山々から城地を見立て、最も広い島地である五箇(ごか)に築城を開始した。この地が「広島」と名付けられたのはこの時であったともいわれる。天正19年(1591年)輝元は広島城への入城を果たしており、この頃から毛利氏の新たな政庁として機能し始める。しかし、この時はまだ本丸などの主要な部分しか出来ていなかった。軟弱地盤であったため、全ての完成まで10年の歳月を費やしている。天守の完成時期については、広島藩の地誌『芸藩通志』にも記載はなく不明であった。天正20年(1592年)常陸国水戸の佐竹義宣(よしのぶ)は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍するため、京都から肥前国名護屋(佐賀県唐津市)へ向かう際に広島を通過した。佐竹氏の家臣・平塚山城守瀧俊(たきとし)が名護屋から国元の小田野備前守に宛てた書状に、広島城の石垣や天守のことが記されていることが分かった。この書状は、4月22日に名護屋に到着した直後に書かれたとみられ、天正20年(1592年)4月上旬には天守が完成していたと考えられる。平塚瀧俊は京都から名護屋への道中について「帰国した際のみやげ話としたいが、朝鮮半島への出陣が迫り、生きて帰れる保証もないので書状で伝えることにした」としている。これによると「ひろ嶋(広島)と申所にも城御座候、森(毛利)殿の御在城にて候、これも五三年(ここ数年)の新地に候由申し候えども、更に更に見事なる地にて候、城中の普請等は聚楽(聚楽第)にも劣らさる由申し候、石垣・天守等見事なる事申すに及ばず候」とある。この『平塚瀧俊書状』は、広島城天守について記された初出史料である。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、毛利輝元は西軍の総大将になるが、大坂城から動くことなく西軍は敗北、東軍の徳川家康により毛利家の所領は周防・長門2か国の29万8千石に減封となった。慶長5年(1600年)10月、関ヶ原の戦いの論功行賞で、毛利領である安芸・備後の2か国49万8千石は福島正則(まさのり)に与えられた。福島氏入国にあたり、毛利家臣団の中には広島城の明け渡しに反対する動きもあったが、福島氏の先遣隊に明け渡された後、毛利氏は11月末までに退去したと考えられている。福島正則は広島城を本城とし、小方(おがた)城(大竹市)、三吉(みよし)城(三次市)、東城(庄原市)、鞆(とも)城(福山市鞆町)、三原城(三原市)、神辺(かんなべ)城(福山市神辺町)の6つの支城を設置し、これらに有力家臣を配置した。

元和元年(1615年)の一国一城令により、三原城を除く5つの支城は廃城となるが、三原城のみは例外的に存続が許可されて、その後も存続している。元和3年(1617年)の暴風雨により広島城の石垣や塀、櫓などが破損しており、元和4年(1618年)正則は広島城の全体におよぶ修築をおこなった。当時、武家諸法度により、居城の修築は事前の届出が必要となっていたが、広島藩から事前の届出はなく、幕府年寄衆である本多正純(まさずみ)に事後報告だけされた。元和5年(1619年)広島城の無断修築の一件は、2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の知るところとなり、福島家の改易が決まりそうになった。しかし本多正純から、関ヶ原の戦いで徳川家に貢献した福島正則を改易すると、不安と疑念を抱いた外様大名のうち十人ばかりは徒党を組んで徳川家より離反する恐れがあると諭したため、秀忠は改易を見合わせて、広島城の本丸だけはそのまま残し置き、二の丸・三の丸・遠囲いまで全て破却し、嫡子の忠勝(ただかつ)と孫を人質として出させることで許すこととした。ところが正則は、二の丸以下を破却してしまうと広島城が裸城になってしまうため、人手不足を理由に破却をおこなわず、代わりに本丸の城壁を破却することで恭順の意を示し、これにより赦免されることを期待した。本丸北東部の崩れた石垣は、この時に取り壊した跡と考えられている。また人質の提出も反故にした。これを知った秀忠は激怒、たとえ十人の大名が反抗しようとも改易の断行を決意したという。同年6月、秀忠は諸大名を率いて京都に上り、福島忠勝を上洛させ、福島家が破却条件を履行しなかった等の理由をもって改易、安芸・備後国49万8千石を没収し、改めて信濃国高井郡と越後国魚沼郡で4万5千石(高井野藩)の捨て扶持が与えられた。このとき、正則は江戸屋敷に止め置かれていた。当時は幕府から大名の改易が命令されても、それで直ちに大名の領地と居城が幕府に移管されるものではなく、軍事的に奪取しなければならなかった。このため、幕府は広島に城地の受け取りの軍勢を派遣して芸備両国を包囲する態勢をとった。これに対し、福島家臣団は江戸にいる正則の安否が確認できず、国家老・福島丹波の指揮のもと籠城体制に入った。広島城では奉行の吉村又右衛門や大橋茂右衛門らが指揮官となり4千余人が籠城、さらに芸備両国の各支城も臨戦態勢に入り、三原城を梶田出雲、鞆城を大崎玄蕃、神辺城を福島丹波、三吉城を尾関監物、東城を長尾隼人が守備して幕府軍の侵入を阻止した。このとき、福島家臣団は申の下刻までに入城しないものは謀反とみなすと宣言しており、遠出していて間に合わなかった家臣のなかには自害するものも出たという。広島城将の吉村・大橋は鉄砲足軽百人余を率いて広島外港の音戸の瀬戸まで出向き、ここで幕府上使と会見した。吉村・大橋はたとえ将軍の命令でも、居城の留守を預かるうえは主人・福島正則の直命がなけれな城は引き渡せないと譲らなかった。幕府上使は仕方がなく江戸に使いを送って、正則直筆の開城指示の書付を取り寄せた。そして、広島藩の城将以下がこれを披見して承知し、幕府側に城を整然と引き渡した。この時、福島家臣団が取った行動は賞賛され、後に大名改易時の国元(くにもと)家臣団のとるべき行為・作法として確立された。元和5年(1619年)8月、浅野長晟(ながあきら)が安芸一国・備後半国42万6千石で入城すると、明治時代に至るまで浅野氏が12代、約250年間続いた。元治元年(1864年)第一次長州征討の際には、徳川慶勝(よしかつ)を総督とする幕府軍の本営になっている。(2019.03.22)

馬出しの機能を持った二の丸
馬出しの機能を持った二の丸

二の丸跡に復元された太鼓櫓
二の丸跡に復元された太鼓櫓

福島氏が破却したという石垣
福島氏が破却したという石垣

現存する外郭櫓台石垣遺構
現存する外郭櫓台石垣遺構

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