姫路城(ひめじじょう)

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羽柴秀吉が黒田官兵衛から譲り受けた中国攻めの拠点

男山から望む姫路城の連立天守群
男山から望む姫路城の連立天守群

兵庫県の播州平野中央に位置する姫路城は、全国に12ヶ所にしか存在しない現存天守を有し、松本城、犬山城、彦根城、松江城とともに国宝天守のひとつである。築城以来、戦火や破却の危機を免れてきたため、天守群を始め城郭中枢部の多くの建造物が完存し、規模だけでなく優美さからも日本一の名城といわれる。大天守、小天守、渡櫓など8棟が国宝、74棟の建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。さらに平成5年(1993年)ユネスコの世界遺産に登録された。姫路城は典型的な平山城であり、姫山(標高45.6m)に本丸と二の丸、鷺山に西の丸を設け、これらを取り巻く三の丸を内堀で囲んでいる。この区画を内堀といい、他にも水曲輪、腰曲輪、帯曲輪などがあり、これらは、いの門、ろの門など、いろは順に名付けられた城門によって細かく区切られ、姫路城の特徴である螺旋状の縄張りを形成している。現在、三の丸は広場に、出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。内堀の外周には侍屋敷で占められた中堀を、さらに中堀の外周には城下の町屋や寺町が立ち並ぶ外堀を配置している。しかも城下町を内包した惣構えの構造となり、それらを含めた梯郭式の縄張りの広さは230ヘクタールもあり、江戸時代中期には人口3万人を抱える一大城塞都市となっていた。姫路城の天守群は、五層の大天守(5層6階地下1階)と、3基の三層小天守(東小天守、西小天守、乾小天守)から構成され、天守の間を2重の渡櫓で結んだ連立式天守である。姫路城の大天守は、破風(はふ)という大小さまざまな屋根によって形づくられている。唐破風、千鳥破風、大千鳥破風など、姫路城はこの破風のデザインと配置の妙に尽きると言われている。この大天守は東西2本からなる25mの大柱で、5700トンの重量を支える構造であった。2本の大柱を中心に、主なものだけで420本の柱と270本の梁が整然と組まれ、姫路城の骨格を作り上げている。現在の姫路城の築城は、ちょうど関ヶ原合戦と大坂の役の間であったため、極めて実戦本位の造りに仕上がっている。これ以降は、元和元年(1615年)の一国一城令によって、江戸幕府の許可なく新たな築城や城の改修が出来なくなったため、江戸城や名古屋城といった天下普請を除いて、姫路城に続く規模の城郭は現れなかった。にの門西面の唐破風の上には、羽柴秀吉に姫路城を献上したことで知られる黒田官兵衛孝高(よしたか)ゆかりの十字架を焼き付けた鬼板瓦がある。黒田官兵衛はキリシタンの洗礼を受け、ドン・シメオンという洗礼名を持っていた。秀吉は姫路城を改修する時、黒田官兵衛に紋瓦を造ることを許したという。そして、官兵衛は一枚の十字架の瓦を造った。その後、姫路城を近世城郭に改修した池田輝政(てるまさ)も、この一枚の十字架の瓦を黙認して現在に残している。厳しいキリシタン禁制の時代を経て、十字架の瓦が残るのは姫路城だけである。池田氏の時代には、西国の毛利氏など豊臣恩顧の外様大名を監視するために西国探題の機能を担っており、池田一族で播磨・備前・淡路の三国を押さえていた。二の丸の三国堀という名は、これにちなんでいると言われる。本多氏の時代、藩主本多忠政(ただまさ)の嫡男である忠刻(ただとき)には、徳川家康の孫にあたる千姫が嫁いでいた。千姫はお市(織田信長の妹)の孫でもある。はじめ豊臣秀頼(ひでより)に嫁いだが、大坂の役で落城した摂津大坂城(大阪府大阪市)より助け出された。姫路城西の丸の化粧櫓は千姫の化粧料10万石で造営されたもので、もともとは鷺山と呼ばれて出城があったが、この鷺山出城を削って西の丸に整備している。

姫路城の天守が置かれている姫山は、奈良時代初期に編纂された播磨国風土記によると日女道丘(ひめじおか)と呼ばれていた。中世になると姫道山(ひめじやま)といい、麓の村を姫道村といった。姫道は姫路とも書いたので、姫山が姫路という地名の起源とされている。そして中世の姫道山の山上には、天台宗寺院である称名寺が存在した。元弘3年(1333年)播磨国佐用荘の地頭であった赤松円心(えんしん)こと赤松則村(のりむら)は、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子である護良(もりなが)親王の令旨を受けて、反鎌倉幕府勢力として挙兵する。赤松円心は姫道山に仮の砦を築き、一族の小寺頼季(こでらよりすえ)に守備させたという。この時代には寺院に防備を施して一時的に城郭として利用する例が多いので、姫道山の砦も山上の称名寺を利用したものと考えられる。この元弘の乱において、赤松円心は六波羅探題の軍勢を相手に大いに活躍し、鎌倉幕府滅亡に貢献した。しかし、後醍醐天皇の建武の新政においては恩賞も少なく、与えられたばかりの播磨国守護職を解任されるなど優遇されなかった。これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局派に敗れた結果といわれる。建武元年(1334年)護良親王が失脚すると、新政における赤松円心の立場は失われた。その後、足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇に反旗を翻すと、赤松円心は足利側に味方、京都方面から進撃してきた新田義貞(よしさだ)を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を播磨国赤松の白旗城(赤穂郡上郡町)でくい止め、ついに撃退した。足利尊氏は官軍を破り、京都に入って光明(こうみょう)天皇を擁立する。一方、後醍醐天皇は吉野に遷幸して朝廷は分裂、それぞれ正当性を主張した。これにより南北朝時代が始まる。貞和2年(1346年)赤松円心の次男である赤松貞範(さだのり)が、南朝方に備えるために姫道山に城郭を築いた。この城は姫山の城と呼ばれ、小さな居館の周囲に堀や柵を巡らせ、木戸を設けただけのものと考えられているが、現在の備前丸、天守曲輪あたりに築かれたこの城館が姫路城の始まりとされる。赤松貞範の築城年代については、姫山の土中に埋もれていた板碑に「貞和二年」の年号と、一結衆などの銘が刻まれていたことから、赤松貞範が築城の際に称名寺を山麓に移し、山上にあった墓碑を取り除き、その供養のために建てた板碑と解釈され、古文書類に記載されている「貞和の頃」、「貞和年中」、「貞和二年」といった築城年を裏付ける唯一の遺物としている。この板碑は、姫山から移転した称名寺である現在の正明寺(姫路市五軒邸)の境内に存在する。貞和5年(1349年)赤松貞範が床山城(場所不明)に移ると、姫路城には目代として守護代の小寺相模守頼季を置いた。以後、小寺氏が姫路城の目代を世襲している。室町幕府における赤松氏は、京極氏、一色氏、山名氏とともに四職となって幕政に参画、赤松円心が足利尊氏から授けられた播磨国守護職に加え、円心の長男の範資(のりすけ)に摂津国、次男の貞範に美作国、三男の則祐(のりすけ)に備前国の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となった。ところが、嘉吉元年(1441年)赤松満祐(みつすけ)・教康(のりやす)父子は、結城合戦の祝勝会と称して室町幕府第6代将軍である足利義教(よしのり)を京の自邸に招き暗殺した。いわゆる嘉吉の乱である。赤松一族は将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去、播磨国に戻って守りを固めた。しかし、山名持豊(もちとよ)を中心とした幕府軍の追討を受け、赤松満祐・教康父子は敗れて自害した。これにより播磨国守護職は山名持豊に与えられる。

嘉吉3年(1443年)吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝の勢力が後花園天皇の御所を襲撃し、三種の神器の一部を奪って比叡山へ逃れた。この禁闕(きんけつ)の変は数日で鎮圧され、天叢雲剣は取り戻したが、神爾(八尺瓊勾玉)は持ち去られてしまった。小寺藤兵衛、間島彦太郎ら赤松氏遺臣団は、室町幕府に対して赤松氏再興を条件に後南朝勢力から神璽を奪い返すことを約束する。そして、長禄元年(1457年)遺臣らは南朝の自天王と忠義王を殺害して神璽の奪還に成功、長禄2年(1458年)5歳の赤松政則(まさのり)は再興を許され、加賀半国、備前国新田庄などが与えられた。さらに、応仁元年(1467年)応仁の乱が起ると、赤松政則は東軍の細川勝元(かつもと)に属して山名一族を一掃、旧領の播磨・備前・美作を回復する。この時、赤松政則は姫路城を拠点とし、本丸、鶴見丸を修築した。文明元年(1469年)赤松政則が置塩城(姫路市夢前町)に移ると、姫路城には小寺豊職(とよもと)が入り、豊職−政隆−則職と姫路城主を歴任する。ちなみに、現在の姫路城に残る「との一門」は、赤松氏の居城である置塩城から移築したという伝承があり、板張りの壁で石落しがないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。永正16年(1519年)小寺政隆(まさたか)は御着城(姫路市御国野町)を築き、小寺則職(のりもと)の頃からこの御着城を本城としていたようで、支城となった姫路城には家老の八代道慶(どうけい)を派遣していた。姫路城の上山里曲輪に播州皿屋敷で有名なお菊井戸が存在する。これは永正年間(1504-20年)姫路城主の小寺則職を毒殺しようとした家臣の青山鉄山(てつざん)と、その探索を命じられたお菊の話で、正体が露見したお菊は家宝の10枚の皿のうち1枚を隠され、不始末を理由に責め殺されて井戸に投げ込まれた。それから毎夜、皿を数えるお菊の声が井戸から聞こえるようになったという話が残されている。また姫路市内の十二所神社にはお菊を祀ったお菊神社もある。次の小寺政職(まさもと)の代になると、主家の赤松氏は衰退し、小寺氏が独立した勢力として台頭した。この時、広峯神社の神官と目薬を売って財を成した黒田重隆(しげたか)・職隆(もとたか)父子を登用し、家老職に引き上げ、姫路城を任せている。黒田重隆は居館程度であった姫路城を中世城郭に改修した。黒田職隆の子が有名な黒田官兵衛孝高である。この頃の播磨国は東に織田氏、西に毛利氏という2大勢力に挟まれており、播磨の小大名たちは去就に悩んでいた。黒田官兵衛は織田信長の才能を高く評価しており、天正5年(1577年)信長の命で播磨国に進駐した羽柴秀吉に従い、居城の姫路城を提供して秀吉の播磨平定に尽力した。天正6年(1578年)播磨の大勢力である別所長治(ながはる)が織田氏に反旗を翻し、さらに織田家重臣で摂津国の荒木村重(むらしげ)が謀反を起こしたため、播磨は混乱を極めた。黒田官兵衛は荒木村重の説得のため摂津有岡城(伊丹市)に乗り込むが失敗、捕縛されて土牢に押し込められてしまう。それから1年後に有岡城が落城して、黒田官兵衛は救出されたが、足が不自由になっていた。天正8年(1580年)別所長治は滅び、同調して織田氏から離反した小寺氏も討伐されたが、小寺氏の家老でありながら秀吉に従った黒田官兵衛は、秀吉の与力として織田氏に仕えることになる。秀吉は中国攻めの本拠として姫路城を近世城郭に大改修、浅野長政(ながまさ)に縄張りをさせ、黒田官兵衛を普請奉行として修築を行い、天正9年(1581年)現在の大天守の位置に3層4階の天守を築いた。

羽柴秀吉は城の南側に大規模な城下町を形成し、姫路を播磨国の中心地とすべく整備した。この際、姫路の北側を通過していた山陽道を曲げ、姫路城下を通るように改めている。この姫路城改修の際、秀吉は石垣に使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた老婆がこれを聞き、商売道具の石臼を差し出した。秀吉はこの志に大変喜び、天守台の石垣に使った。この話は評判になり、人々が競って石を寄進したという。この石臼は、姥が石(うばがいし)と呼ばれて現存している。また、姫路城のほとんどの壁は白漆喰壁だが、ほの門の内側にある油壁は粘土に豆砂利を混ぜ、もち米のとぎ汁で固めたもので、鉄砲の弾もはじき返すほどの頑丈さである。この壁だけ時代が古く、秀吉築城時の遺構と考えられている。天正10年(1582年)羽柴秀吉が備中高松城(岡山県岡山市)を水攻めにしていたところ、本能寺の変が勃発、秀吉は高松城主清水宗治(むねはる)の切腹を条件に毛利輝元(てるもと)と講和し、全軍で京都に急行した。この中国大返しで、姫路城は中継点として重要な役割を果たしている。天正11年(1583年)天下統一を進める秀吉は大坂城を居城とし、姫路城は弟の羽柴秀長(ひでなが)に与えた。続いて、天正13年(1585年)秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)に移ると、秀吉の義兄である木下家定(いえさだ)が2万5千石で姫路城主となった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦にて、徳川家康の東軍に加わり戦功をあげた池田輝政が、三河国吉田から播磨一国52万石の大大名となって姫路城に入城する。池田輝政は家康の意を受けて、西国の豊臣恩顧の大名に備えるため、9年の歳月をかけて姫路城を大改修、五層七階の大天守の他、現在見られる大規模で堅固な城郭にした。秀吉時代の天守は解体され、乾小天守の用材として転用している。このように姫路城には西国探題としての重要な役目も課せられた。池田輝政は、次男の忠継(ただつぐ)が備前国岡山28万石、三男の忠雄(ただかつ)が淡路国洲本6万石、弟の長吉(ながよし)が因幡国鳥取6万石を領しており、一族で計92万石もの大領を有して、世に西国将軍と称される。池田氏は輝政−利隆−光政と3代続くが、元和3年(1617年)池田光政(みつまさ)が幼少のため要地を任せられず因幡国鳥取へと移封になる。代わって伊勢国桑名より本多忠政が15万石で姫路城主となった。江戸幕府は山陽道の要地を押さえる姫路城を重要視しており、本多氏のあとも、松平氏、榊原氏など徳川氏の親藩・譜代大名が次々と入れ替わり居城した。寛延2年(1749年)酒井忠恭(ただずみ)が上野国前橋から15万石で入封してからは、酒井氏が明治まで10代続く。しかし広大で豪壮な姫路城は、石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、巨額の財政赤字に苦しんだ。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず地盤沈下してしまい、天守は見事に傾いていたという。「東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか」などと歌われるありさまであった。明治元年(1868年)鳥羽・伏見の戦いにおいて、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)が老中として幕府軍に属したため、姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。姫路藩兵と新政府軍は一触即発の状態であったが、摂津国兵庫津の豪商北風正造(きたかぜしょうぞう)が仲裁に入り、15万両という巨額の献金を新政府軍側に払って戦闘を回避、姫路城は難を逃れ無血開城した。このように世界遺産の姫路城は、破壊の危機を一人の商人の私財によって免れている。(2008.11.21)

二の丸大手口を固める菱の門
二の丸大手口を固める菱の門

化粧櫓と西の丸長局(百間廊下)
化粧櫓と西の丸長局(百間廊下)

天守が置かれている姫山の全景
天守が置かれている姫山の全景

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