標高136mの彦根山に築かれた彦根城は、彦根山が金亀山の異名を持つことから金亀城(こんきじょう)とも呼ばれ、江戸幕府における譜代大名筆頭の井伊氏14代の居城として幕末まで続いた。現存12天守のひとつである彦根城天守は、国宝に指定された国宝5城にも数えられる。彦根山の南北に細い尾根を削平し、南から鐘の丸、太鼓丸、本丸、井戸曲輪、西の丸、出曲輪、観音台、山崎曲輪を直線的に連ねた連郭式平山城である。彦根山周囲の山裾は、緩やかな斜面を垂直に近い角度で削り取って断崖としており、この山切岸によって山上への敵の侵入を防いでいる。山下には二の丸、三の丸を輪郭式に配し、城域を内堀、中堀、外堀と三重の水堀で囲んだ惣構の城郭であった。彦根城の建築物には多くの移築伝承が残り、大津城(大津市)から移築の天守を始め、佐和山城(彦根市古沢町)から太鼓門櫓と佐和口多門櫓(非現存)、小谷城(長浜市湖北町)から西の丸三重櫓、長浜城(長浜市公園町)から天秤(てんびん)櫓、他に観音寺城(近江八幡市)からも移築されたと伝わる。建物や石材の移築・転用は費用削減と工期短縮のためにおこなわれたものと考えられる。現在、彦根城の中心となる本丸には天守しか残っていないが、かつては藩主の居館である御広間(おんひろま)や宝蔵、矢櫓、着見(つきみ)櫓なども建てられていた。牛蒡(ごぼう)積みの天守台に載せられた天守は、附櫓と多聞櫓を伴う3層3階地下1階の複合式望楼型で、比較的小ぶりではあるが、屋根には入母屋破風、切妻破風、千鳥破風、唐破風を多様に配置している。1層目の大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸となっているが、2層目と3層目には花頭窓を配し、3層目には高欄付きの廻縁を巡らせるなど、外観に重きを置き、変化に富んだ姿を見せている。その構造は、通し柱を用いず、各階ごとに積み上げていく方式を採用しており、全体として櫓の上に望楼を載せる古い形式を残している。昭和32年(1957年)から行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607年)頃であることが判明した。また、建築材を詳しく調査した結果、もともと4層5階の天守を縮小して移築したものであることも分かった。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』に「天守ハ京極(きょうごく)家ノ大津城ノ殿守(天守)也、此殿守ハ遂ニ落不申目出度殿主ノ由、家康公上意ニ依て被移候由」とある。彦根城の天守は京極高次(たかつぐ)の大津城にあった4層天守を移築したもので、大津城は関ヶ原の戦いで西軍に降伏開城しているが、天守は戦禍を免れたので「目出度(めでた)い天守」としている。「いろは松」という松並木に沿った登城道の正面に佐和口があり、その枡形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓である。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの城門の1つ。表門に通じる入口として、大手門に通じる京橋口とともに彦根城の重要な城門であった。現存する佐和口多聞櫓(重要文化財)は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に2層2階の櫓が建ち、多聞櫓に連結している。多聞櫓は佐和口の枡形を囲むように2度曲折し、中堀に向って三角と四角の狭間が交互に配置されている。この多聞櫓の右端には、かつて2層2階の櫓門が枡形を見下ろすように存在したが、明治初年に解体され、現在は石垣のみが残る。ちなみに枡形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体されており、現在の櫓は昭和35年(1960年)に復元されたコンクリート製の建物である。この非現存の多聞櫓が佐和山城から移築したものであったという。
太鼓丸に現存する天秤櫓(重要文化財)は、大手門と表門からの通路が合流する位置に築かれた櫓である。この櫓を上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2層櫓を設け、中央に門が開く構造となっている。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようで、江戸時代から天秤櫓の名がある。このような構造の櫓は全国でも他に例がないという。鐘の丸から本丸へ伸びた尾根は、天秤櫓の外側で大堀切によって断ち切られている。堀切には廊下橋が架かっていたが、廊下橋は非常時には落とし橋となり、この橋がなければ天秤櫓の高石垣を登らないと本丸に侵入できない。『井伊年譜』には、天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものであると記されている。解体修理によって、天秤櫓は移築された建物であることが判明し、「上り藤」や「三つ柏」など井伊氏とは異なる紋瓦が確認されているが、長浜城大手門と断定するには至っていない。嘉永7年(1854年)天秤櫓は大規模に修理され、建物のみならず石垣の半分が積み替えられた。このため、現在の天秤櫓の石垣は左右で積み方が異なり、右手が築城当初に越前の石工たちが築いたと伝える牛蒡積みで、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の落し積みである。本丸への最後の門となるのが現存する太鼓門櫓(重要文化財)で、南側には続櫓が付設されている。この櫓門は背面の東側の壁がない。櫓ではたいへん稀な例であり、一説には櫓の中に置かれた太鼓の音が響くための工夫とも考えられているが、明確ではない。太鼓門櫓も、築城時にほかの場所から移築された建物であった。長い間、太鼓門櫓は、彦根築城以前に彦根山に存在した彦根寺の山門を移築したものと考えられていた。彦根寺は観音信仰の古刹として高名で、彦根山に向かって西に伸びた巡礼街道は、かつて彦根寺への参拝者が後を絶たなかったことに由来する。こうした観音霊場では、古くから納札(おさめふだ)を寺の建物などに打ち付ける習わしがあった。太鼓門櫓の柱に古い釘穴がたくさん残っており、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれたようである。ところがこの説は太鼓門櫓の解体修理によって否定された。建物部材調査によって、移築前もどこかの城の城門であったことが判明、しかも規模の大きかった城門を縮小して太鼓門櫓としていたことが分かった。ただ、それがどこの城の城門だったのか分かっていない。彦根城内には、天守の他に2基の3層櫓が存在した。1基が現存する西の丸三重櫓(重要文化財)で、もう1基が明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓である。西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の北西隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた大堀切に面して構築された。堀切の底から見上げる三重櫓の高石垣は絶壁のようにそそり立っており、搦め手方面からの敵に対して侵入を阻んでいる。三重櫓には装飾的な破風などはなく、きわめて簡素で、東側と南側にそれぞれ1階の続櫓を付設している。この建物は小谷城の天守を移築したものとの伝えがあるが、柱や梁などの部材の8割近くが江戸時代後期の嘉永6年(1853年)の大修理で取り替えられており、解体修理では移築された痕跡は確認できなかった。彦根城には馬屋(重要文化財)も現存している。城内に馬屋が残るのは全国でもここだけである。また、全国的にも珍しい「登り石垣」が、城内の5か所に築かれている。登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵において、日本軍が朝鮮各地に築いた倭城(わじょう)の築城技法で、国内では例が少なく、淡路洲本城(兵庫県洲本市)や伊予松山城(愛媛県松山市)などにしか存在しない。
養老4年(720年)近江の国司であった藤原房前(ふささき)は、彦根山に亡母の供養のため彦根寺を建立した。房前の護持仏であった金色の亀に乗った一寸八分の観音像を本尊としたため、彦根山は金亀山とも呼ばれた。彦根寺の御堂は、近世彦根城の観音台のあたりに存在したと考えられる。この彦根寺は目に御利益のある観音霊場として知られ、平安時代には名刹の聞こえ高く、白河上皇をはじめ多くの都人が参拝に訪れたと文献にある。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着(れんじゃく)を解く場所があり、そこに腰掛石として露頭石がいくつかあった。この場所は現在の連着町として地名に残る。『彦根城由来記』によると、代々の古老たちは藤原氏の時代から伝わる唯一の遺物として、この露頭石が失われることを心配し、この石を腹痛石と呼び、「触ると腹が痛くなる」と言い伝えて大切に守り継いだ。現在、連着町四辻に祀られている石がそれである。豊臣政権時代、五奉行のひとりであった石田治部少輔三成(みつなり)は佐和山19万4千石の所領を与えられ、5層天守がそびえる佐和山城を居城としていた。当時、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と落首に唄われるように、石田三成の身分不相応なものとして佐和山城と家臣の島左近が挙げられている。智勇兼備の名将として世に知られた島左近清興(きよおき)は、もともと大和国を治めていた筒井氏の家臣であったが、主人と意見が合わず出奔していた。天正14年(1586年)軍勢の指揮が得意でなかった三成は、牢人していた島左近に懇願して家臣として召抱えることに成功している。当時、4万石の所領であった三成は、その半分である2万石を島左近に与え、今後加増があるたびにその半分を与えることを約束したという。しかし、島左近は主人と同等では恐れ多いということで、1万5千石にしてもらい、以降は加増を受けなかった。石田三成は豊臣政権による天下泰平を願っていたが、豊臣秀吉の死後、露骨に政権簒奪を企てる徳川家康と対立するようになる。この対立は関ヶ原の戦いに発展、慶長5年(1600年)石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍はついに関ヶ原で激突した。緒戦は石田三成隊、宇喜多秀家(ひでいえ)隊、大谷吉継(よしつぐ)隊、小西行長(ゆきなが)隊の奮闘により西軍優勢であったが、西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となった。そして、小早川秀秋(ひであき)や脇坂安治(やすはる)らの裏切りによって西軍は総崩れとなる。敗北を覚悟した島左近は、正面の田中吉政(よしまさ)隊、黒田長政(ながまさ)隊に突撃し、奮戦の末に敵の銃撃によって斃れたという。島左近の勇猛さは東軍諸将のあいだでも語り草となり、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても、突撃の号令を発する島左近の悪夢にうなされたと伝わる。三成は再起を期して戦場から脱出し、伊吹山中に逃れた。その後、小早川秀秋ら関ヶ原で裏切った大名たちを先鋒とする1万5千の軍勢が佐和山城を包囲した。このとき佐和山城には三成の父である石田隠岐守正継(まさつぐ)を主将に、兄の木工頭正澄(まさずみ)ら2千8百余が籠城していたという。佐和山城の守備は固く、大軍を相手に善戦するが、関ヶ原での西軍敗北を知り戦意は喪失、石田一族の自刃と引き替えに城兵を助命することで開城に合意した。しかし連絡不徹底により、田中吉政隊が城内に乱入、混乱した本丸から火の手が上がり、悲惨な落城となってしまった。その後、三成は吉政の追捕隊に捕縛され、京都の六条河原で斬首される。石田三成は処刑される時も潔い態度を崩さなかったという。
慶長6年(1601年)徳川四天王のひとりである井伊直政(なおまさ)は、関ヶ原の戦功によって石田三成の旧領である佐和山18万石を与えられ、上野高崎城(群馬県高崎市)から佐和山城に移った。しかし、佐和山城は中世的な山城で、落城により荒廃していたため、佐和山の北方にある磯山に居城を移そうと計画していた。ところが、慶長7年(1602年)井伊直政は、関ヶ原の戦いで島津勢から受けた鉄砲傷の悪化によって急逝してしまう。直政の跡は、13歳の長男・直継(なおつぐ)が継ぎ、新城の築城構想も引き継がれた。直政より後事を託された筆頭家老の木俣守勝(もりかつ)は、居城の移転計画を徳川家康に諮る。その結果、移転先は佐和山城の西方約2kmにある彦根山に決まり、慶長8年(1603年)彦根寺を山下に移して、彦根城の築城が開始された。この彦根城には、摂津大坂城(大阪府大阪市)に君臨する豊臣右大臣家と、豊臣恩顧の西国大名たちに備えるという戦略的な目的があった。水陸の交通の要衝である当地を重視するとともに、この地に残る石田色を払拭したいという江戸幕府の意向が強く働き、幕府の全面支援を得た天下普請となった。幕府は3人の公儀奉行を派遣し、近隣の伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7か国12大名に助役を命じている。この築城は豊臣家との対決に備えて完成を急ぎ、突貫工事がおこなわれた。近江の各城から多くの建築物が移築されたのはこのためである。慶長12年(1607年)天守が完成すると、井伊直継は彦根城に入城している。慶長19年(1614年)大坂冬の陣が勃発、病弱であった井伊直継に代わって庶弟の掃部頭直孝(なおたか)が参陣した。この直孝には昔から徳川家康の落胤であるという風聞があったが真偽は定かではない。井伊直孝は真田丸の戦いにおいて、軍令違反の突撃をおこない、敵の策に陥って味方に大損害を生じさせた。徳川家康から咎められたものの処罰はされず、それどころか、慶長20年(1615年)家康の命によって、兄の直継が上野国安中3万石に移され、井伊家の家督は直孝に譲られた。そして、大坂夏の陣においては藤堂高虎(たかとら)とともに先鋒を務め、敵将の木村重成(しげなり)、長宗我部盛親(もりちか)を打ち破り、「井伊の赤牛」や「夜叉掃部」と恐れられ、冬の陣での雪辱を果たした。これより江戸幕府では「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」という陣立てが慣例となる。井伊直孝はその後も加増を得て30万石+幕府御用米5万石となり、元老として幕政を主導した。このため、『井伊家系譜』では直孝が2代藩主とされており、彦根城を築城した直継の存在が消されている。井伊氏は、3代直澄(なおずみ)、4代直興(なおおき)、10代直幸(なおひで)、12代直亮(なおあき)、13代直弼(なおすけ)と大老職を群を抜いて排出し、江戸幕府の重鎮としての位置を占め続けた。なお、13代直弼が、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼で、不遇の部屋住み時代を過ごした屋敷が彦根城下に埋木舎(うもれぎのや)として現存する。明治6年(1873年)明治政府により廃城令が公布され、多くの城が失われる中、彦根城の破却も進んでいた。明治11年(1878年)彦根天守が800円で売られ、解体のための足場が組まれていたが、明治天皇が北陸巡幸で彦根に立ち寄った際、随行した大隈重信(しげのぶ)は彦根城の消失を惜しみ、天皇に奏上して保存が認められた。他にも、延宝7年(1679年)4代藩主の井伊直興により造営された槻御殿と呼ばれる彦根藩の下屋敷が、庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称して残されている。近年、表御殿が復元され、彦根城博物館として利用されている。(2010.01.01)