日知屋城(ひちやじょう)

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天然の良港である細島湊の掌握のため、狭隘な柱状節理の岩盤に築かれた海城

日知屋城の中心となる主郭跡
日知屋城の中心となる主郭跡

日向市の細島港は、北を牧島山(標高112m)、南を米ノ山(標高192m)に挟まれた南北200mから300mの幅で、東西約3kmの奥行きとなる懐の深い入江を利用した天然の良港である。かつては細島湊といい、神武東征にまつわる伝承が残されるほどの古い歴史があり、大隅・薩摩方面と瀬戸内海を往還する船の中継地として美々津湊(みみつみなと)とともに栄えた。日宋・日明貿易船やポルトガル船などの外国船も寄港し、倭寇もたびたび利用していたとされる重要な湊である。沖合いの日向灘は、古くからの俗謡に「一に玄海、二に遠江、三に日向の赤江灘(日向灘)」と謡われ、日本三大灘に数えられる海上交通の難所であったが、細島湊はこうした地形のため大風や大浪の影響を受けることはなく、太古の昔から風除け、波除けの避難港として利用されていた。治承元年(1177年)の鹿ヶ谷事件で捕らえられた首謀者の僧・俊寛(しゅんかん)が鬼界ヶ島(きかいがしま)に配流される際、細島湊でいったん上陸して陸路で薩摩へ入り、再び船に乗って向かっている。細島以南の日向灘はそれほどの難所であった。日向市内のほぼ中央を東流する塩見川は櫛ノ山(標高96m)の南で海に注ぐ。この塩見川の河口東岸に築かれた日知屋城は、交通上・軍事上の要衝である細島湊を掌握するための海城である。伊勢ヶ浜に隣接し、日向灘に突出した比高30mほどのリアス状の岬に立地し、西側以外の三方は断崖の海に囲まれていた。大規模な城ではなかったが、地形的に攻めにくい要害であった。現在は伊勢ヶ浜海浜公園の一部となり公園として整備されている。城跡に隣接して古社・大御神社(日向市日知屋)が鎮座する。大御神社の創建は不明だが、古くは天照皇太神宮といい、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂に天孫降臨したのち、当地で皇祖・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を奉祀したことに始まる。柱状節理でできた狭隘な岩盤上に築かれた日知屋城は、東西約120m、南北約250mの城域で、縄張りは地形や岩盤に制約される。馬蹄形となる尾根の東西に不整形に削平された8か所の曲輪があり、要所には土塁や空堀、櫓台等の防御施設が付設されている。岬の先端と基部を堀切で断ち切り、往来を遮断した。尾根に守られた主郭は城の中心地で、ここに城主の居館が存在した。周囲には石垣も残る。東の曲輪は城主に次ぐ家臣達の屋敷が建っていたと考えられるが、一部は野営地として城兵たちも使ったようである。南側は尾根続きの石積みを伴う土塁によって守られている。西の曲輪では、城兵たちが野営の際に利用した石組みの囲炉裏跡が発見されており、現在は東屋が建てられている。周囲は海に向けて岩盤がせり出し、城の北側に舟付の曲輪がある。ここに水軍の船を係留していた。虎口跡の近くには模擬の冠木門が建つ。日知屋城には古い記録や絵図などが残っておらず、どのような城だったのか詳細は不明である。現在の地形からも大規模な建物があったとは考えられないが、発掘調査によって当時の屋敷跡とみられる建物の柱穴や石垣などが見つかっている。城内には海に面して巌窟があり、その奥に大御神社の摂社・鵜戸神社が祀られている。これは人工的に造られた洞窟といい、奥から入口を見ると「昇り龍」のように見えることで知られ、約5000年前の縄文時代に遡る龍神信仰の古代遺跡と考えられている。大御神社の社殿が建つ柱状節理の壁面には、古代シュメール文字で「ジャスラ(蛇神)」と書かれているという。また、古代メンヒル(ストーンサークル)が日知屋城内や米ノ山の山頂にあり、神々が降りてくる目印としたもので、これも縄文時代の信仰に関する遺跡という。

細島港の高台に鎮座する鉾島神社(日向市細島)の縁起書には、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)こと後の神武天皇が東征の途中で細島湊に寄り、鉾(ほこ)を祀ったとの記録がある。細島の名称は鉾島の転訛という説もある。神武天皇は、美々津湊を出航して細島に立ち寄った。美々津から細島までは海上16kmほどである。伊勢ヶ浜から上陸し、天照大御神を奉斎する御殿(大御神社)に武運長久と航海安全を祈願して、米ノ山に登り大鯨を退治した鉾を立てた。その後、延岡を目指して出航している。現在の日向市日知屋・細島一帯は、臼杵郡内に所在した宇佐宮領の富田庄(とんだのしょう)に比定される。『宇佐大鏡』によれば、永承年間(1046-53年)日向国司・海宿禰為隆(あまのすくねためたか)が富田庄を開墾して豊前の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に寄進したという。建久8年(1197年)の『日向国図田帳』によると、宇佐宮領の臼杵郡縣(あがた)庄130町、同郡富田庄80町、那珂郡田島庄90町、諸県郡諸県庄450町は、地頭として「故勲・藤原(左)衛門尉、不知実名」と記される。この人物は伊東氏の祖である鎌倉幕府御家人の工藤祐経(すけつね)と考えられている。建久4年(1193年)富士の巻狩りの際、曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)兄弟に討たれたので、建久8年(1197年)には故人であり「故勲」となっている。工藤祐経の領地は嫡子の伊東祐時(すけとき)が受領し、伊東氏の家伝『日向記』によれば、祐時の七男・八郎九郎祐景(すけかげ)が縣庄と富田庄を領して地頭代として縣庄門川(かどがわ)に下向し、門川伊東氏の祖となっている。一方、『日向国図田帳』で宇佐宮領の臼杵郡岡富庄80町は、土持太郎宣綱(のぶつな)が弁済使(べんさいし)であった。地頭は鎌倉幕府が任命した役人で、弁済使は荘園の所有者が任命した役人である。宇佐八幡宮の日向進出によって、宇佐宮領の荘園管理のために神官の出自である土持氏が派遣されたとみられる。平安時代末期、土持信村(のぶむら)が臼杵郡司となり、土持氏は日向における荘園領主として勢力を築き、日向全域に勢力を拡大していった。信村の3代後の宣綱が土持氏興隆の祖で、その子孫が各地に展開し、縣、財部(たからべ)、大塚、清水(きよみず)、都於郡(とのこおり)、瓜生野(うりゅうの)、飫肥(おび)で勢力を持ち、土持七頭(ななかしら)と呼ばれた。日知屋城の築城年代や築城者は定かでないが、長禄元年(1457年)に伊東氏の支配下となる前は、財部土持氏の属城であった。平成元年(1989年)の発掘調査で、日知屋城跡の海に面した尾根東部の曲輪から13世紀から17世紀初頭の輸入陶磁器が出土しており、鎌倉時代にも何らかの施設が造築されていたと推定される。元弘元年(1331年)定善寺(日向市財光寺)を開山した薩摩阿闍梨日叡(にちえい)の兄・甲斐上総守が築いた「日知屋之城」というのは、日知屋城ではなく櫛ノ山の竹ノ上城(日向市日知屋)に比定されている。日知屋の甲斐殿屋敷を直末寺の本善寺(日向市日知屋)としており、竹ノ上城跡に隣接する本善寺も城域内であった可能性があるという。建武2年(1335年)足利尊氏(たかうじ)から児湯郡都於郡300町を与えられた伊東惣領家の祐持(すけもち)が鎌倉から日向に下向し、都於郡城(西都市)を築いて本拠とした。新興の日向伊東氏は、伝統的な勢力である土持氏と協力関係を築き、南北朝時代には共に北朝方として活躍している。明徳3年(1392年)南北朝の合一が実現すると、これまで北朝方として協調してきた土持氏、伊東氏、島津氏の間で日向をめぐる争いが勃発する。

土持七頭は縣土持氏と財部土持氏が残り、日向北部に土持氏、中央部を伊東氏、南部に島津氏が割拠した。康正2年(1456年)財部土持高綱(たかつな)と縣土持宣綱(のぶつな)が連合して、日向伊東氏6代当主・伊東祐堯(すけたか)との戦闘におよぶも、長禄元年(1457年)小浪川(こなみがわ)の戦いに敗れ、高綱をはじめ多くの将兵が討死、財部土持氏は伊東氏の軍門に降った。『日向記』では、財部を始め、高城・日知屋・塩見・門川・新名・野別府・山陰・田代・神門の10か所の城を伊東氏が請け取ったとある。伊東祐堯は塩見川流域一帯を支配下に組み込み、日知屋城には祐堯の次男・祐邑(すけむら)を城主として入れた。日知屋城は伊東四十八城のひとつとして機能し、塩見城(日向市塩見)、門川城(門川町)とともに「日向三城」と呼ばれて重要視された。その後、伊東氏の勢力は門川まで北上し、縣土持氏と伊東氏は門川・日知屋をめぐる争奪戦を繰り返すことになる。文明16年(1484年)伊東祐堯は島津氏の内紛に介入し、島津氏11代当主の島津忠昌(ただまさ)と対立する分家の島津久逸(ひさやす)を支援して飫肥城(日南市)の新納忠続(にいろただつぐ)を攻撃する。翌文明17年(1485年)祐堯が出陣中に死去し、長男の祐国(すけくに)が家督を相続、同年に伊東祐国は弟の祐邑と共に再び飫肥城を攻撃した。その時の軍勢は「都於郡、佐土原、宮崎、木脇、八代、三納、穂北、富田、財部、高城、塩見、日知屋、門川、山陰、田代、神門、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田」の兵だったとされる。しかし、この戦いで伊東軍は多数の戦死者を出して、祐国まで討死しており、祐邑は日知屋城に敗走した。祐国の嫡子・尹祐(ただすけ)はまだ幼少であり、祐邑は伊東家の危機を回避するために、豊後の大友宗隣(そうりん)と結んで島津氏に備えようとした。ところが、この行為が家督の乗っ取りと誤解され、文明18年(1486年)伊東祐邑は日知屋城内にて惣領家の刺客により暗殺された。祐邑の死後、日知屋城は惣領家直轄の城となり、伊東氏の家臣である福永新十郎、氏本駿河守などが城番として在城し、与力である日知屋衆を率いた。祐邑の死は祟りを為して、毎夜白馬にまたがった武将の亡霊が現れ、疫病が蔓延して死者が続出したという。永正11年(1514年)細島出身の日要(にちよう)上人が非業の死を遂げた伊東祐邑の亡霊を鎮めるため、伊太郎・伊次郎兄弟に鬼面が描かれた的に破魔矢を放たせて封じた。これが鉾島神社で現在も続く「的祈念祭(まときねんさい)」の始まりという。元亀3年(1572年)11代当主・伊東義祐(よしすけ)が木崎原の戦いで島津義弘(よしひろ)に大敗すると、伊東氏は急速に衰退した。天正5年(1577年)義祐が島津氏に南から攻められると、土持氏は北から伊東氏への攻撃を強めたため、義祐は日向を逃れて豊後大友氏のもとに亡命した。天正6年(1578年)大友宗麟・義統(よしむね)父子は島津氏の北上に対抗して、伊東氏を日向に復帰させるために大軍を率いて日向へ遠征する。同年4月、大友義統は塩見川一帯まで進出、さらに南下して島津氏の勢力は耳川以南に後退した。義統は海賊衆である薬師寺兵庫守を日知屋城に在陣させ、薬師寺氏が細島湊を掌握していた。しかし、大友軍は同年11月の耳川の戦いで島津軍に大敗してしまう。日向北部まで島津氏の勢力下となり、日向三城といわれた日知屋城、塩見城、門川城にはそれぞれ、井尻祐貞(いじりすけさだ)、吉利忠澄(よしとしただずみ)、伊地知重政(いぢちしげまさ)が地頭として配置された。

この三城を含む地域の地頭を統括する立場にあったのが、島津氏の老中でもある宮崎地頭の上井覚兼(うわいかくけん)であった。『本藩人物誌』には日州肱屋(ひじや)地頭として井尻伊賀守祐貞が見える。天正8年(1580年)の『肥後合戦陣立日記』には「肱岡、井尻伊賀守」が見え、肱岡は肱屋(日知屋)のことと考えられる。『上井覚兼日記』によると、天正13年(1585年)4月、覚兼は吉利忠澄に誘われて三城に狩りに出かけ、14日に覚兼の射た猪に忠澄が3か所も噛まれて怪我をしたとある。天正15年(1587年)豊臣秀吉によって九州が平定されると、肥後方面軍の一番隊の武将として働いた高橋元種(もとたね)に松尾城(延岡市)、宮崎城(宮崎市)、日向三城の5城が与えられた。その後、三城を含む地域は延岡藩領となり、慶長20年(1615年)の一国一城令により日知屋城、塩見城、門川城は廃城となった。江戸時代初期、細島湊は延岡藩の管理下に置かれていたが、元禄5年(1692年)山陰・坪谷村一揆の処分として細島が天領となり、日田代官所(大分県日田市)の配下として細島に出張陣屋ができた。その後、富高代官所陣屋ができる。これは幸福神社(日向市本町)周辺が跡地となる。薩摩藩を始めとする南九州諸藩は、参勤交代に際して細島湊から大坂へ向かうという海上交通の要地であった。細島港の東側に古島という小さな島があり、地元では「黒田の家臣」と呼ばれている。文久2年(1862年)5月、この島で3人の侍の惨殺死体が発見され富高代官所に通報された。3人共に片方の手には麻縄が結われており、10か所近い深い刀傷があった。被害者1人の腹巻には、「平生心事豈有他、赤心報国唯四字(平生の心事あに他あらんや、赤心報国ただ四字のみ)」「黒田家臣・海賀直求(かいがなおもと)」と書かれていた。これから、3人は秋月藩脱藩・海賀宮門(くもん)、肥前島原出身の中村主計、但馬多気出身の千葉郁太郎と判明した。同年4月23日に京都伏見で寺田屋事件が起きていた。薩摩藩内の倒幕過激派分子が上意によって粛正された藩内抗争であったが、過激派分子に同調して寺田屋には他藩の者も多く集まっていた。投降したそれらの者は各藩に引き取られていったが、5人だけは引き取り手がなく、そのまま鹿児島まで護送されることとなった。その5人の内の3人が遺体として発見されたのであった。また、残り2人の田中河内介・磨介父子も小豆島で遺体となって発見されている。薩摩藩で引き取るとの名目で殺されたのである。3人を発見した黒木庄八は墓を立てて守り、黒木家は代々三士の墓を守り続け、現在も続いているという。明治10年(1877年)の西南戦争では、開戦当初は熊本を主戦場に激しい戦闘が続いたが、3月20日に明治政府軍が田原坂を突破すると、西郷軍は各所で敗走した。日知屋村の細島湊では、3月1日に明治政府軍の軍艦・孟春(もうしゅん)が水深測量等のため入港したのを始め、浅間(あさま)、清輝(せいき)、鳳翔(ほうしょう)といった軍艦が次々と細島に入港して西郷軍との戦場になっている。昭和20年(1945年)塩見川の南岸に位置する富高海軍航空隊基地が、鹿児島の鹿屋基地から沖縄方面へ出撃する特別攻撃隊の待機基地となったこともあり、米軍の執拗な攻撃を受けることになった。近くの大御神社も硫黄島から飛来した米軍機の攻撃を受けており、社殿には機銃掃射による被弾痕が残っている。さらには、細島港が本土決戦に備えた人間魚雷・回天(かいてん)と水上特攻艇・震洋(しんよう)の基地となっている。細島港の上空で両軍の戦闘機が撃ち合った巴戦の様子は、地元で語り草になったという。(2020.12.17)

東の曲輪跡に残る石積みと土塁
東の曲輪跡に残る石積みと土塁

岬の基部を断ち切った堀切跡
岬の基部を断ち切った堀切跡

縄文時代の龍神信仰跡の洞窟
縄文時代の龍神信仰跡の洞窟

柱状節理の奇岩と日知屋城遠景
柱状節理の奇岩と日知屋城遠景

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