関東平野の北限に位置する常陸太田市は、茨城県の北東部に位置し、北側を福島県に接する。その常陸太田市の南部、JR水郡線常陸太田支線の終点・常陸太田駅から北方へ約1.7kmの鯨ヶ丘と称される台地に常陸太田城が存在した。久慈川支流の源氏川と谷津川に挟まれた標高38mの細長い台地上に築かれた太田城は、南北最大980m、東西最大510mの広範囲におよぶ連郭式平山城である。久慈川流域で最大の平地を押さえる台地に立地し、古くからの交通の要衝でもあった。平安時代から戦国時代末期までの約460年間、常陸国の大部分を治めた常陸源氏・佐竹氏の本城となる大規模城郭であった。東・西・南の台地下は湿地帯に囲まれた要害であったが、北側が台地続きとなり弱点となった。そのため、15世紀半ばから16世紀初頭まで佐竹氏は太田城の退去と奪還を繰り返した。しかし、永正元年(1504年)15代当主・佐竹義舜(よしきよ)の太田城奪還を最後に太田城からの退去は見られなくなる。周囲の支城群の整備によって、本城と一体化した防衛体制が構築されたと考えられる。太田城の周囲には数多くの城館が確認されており、太田城の北東約1kmの瑞龍台地(常陸太田市瑞龍町)だけでも今宮館跡、小野崎城跡、八百岐館跡、小野館跡などが存在した。関東七名城のひとつに数えられた太田城であったが、現在は市街地になっているため遺構はほとんど残っていない。現在の太田小学校の校庭あたりが西本曲輪(本丸西郭)で、その東側が東本曲輪(本丸東郭)であった。本曲輪の南にある若宮八幡宮(常陸太田市宮本町)から南側に二曲輪(二の丸)が広がり、本曲輪の北側に三曲輪(三の丸)があった。さらに北の太田第一高等学校(常陸太田市栄町)の敷地が北曲輪(北郭)となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉の怒りに触れて改易となった織田信雄(のぶかつ)は、佐竹氏の預かりとなり太田城の北曲輪を宛がわれたという。三曲輪の西側の帰願寺(常陸太田市栄町)の場所に出城の駒柵(駒作砦)が置かれた。鯨ヶ丘全域に渡る惣構を持ち、大手が南側、搦手は北側にあったとされる。太田小学校の敷地内には「舞鶴城趾」の石碑がある。佐竹氏の初代城主が入城する際、太田城の上空を鶴が舞ったことから舞鶴城という別名を持つ。若宮八幡宮の境内には「大田故城阯記」の石碑が建てられている。若宮八幡宮の創建は応永年間(1394-1428年)で、山内上杉家から入嗣した12代当主・佐竹義人(よしひと)が鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)より勧請し、太田城中に祀ったことが起源となる。宝永4年(1707年)太田藩主・中山信敏(のぶとし)により現在の場所へ移されたという。太田藩という藩は正式には存在せず、あくまでも水戸藩から与えられていた知行地である。水戸藩附家老の中山信敏が、宝永4年(1707年)松岡2万石から太田2万5千石に知行替えとなり、享和3年(1803年)中山家が再び松岡に知行替えとなるまでの約100年は太田藩と呼ばれ、半独立性が認められていた。太田小学校の校舎西方(三曲輪の西端)に櫓台跡、帰願寺境内にも櫓台跡が確認できる。太田小学校の北東に接する日本たばこ産業の太田倉庫跡地の発掘調査により、16世紀後半の太田城の堀跡が複数検出された。堀跡のひとつは規模の大きなもので、南端から北に38mほど延びて西側に90度曲がり、西に40mほど延びて北側に90度曲がり、再び北に61mほど延びて西側に90度曲がり、西に18mほど延びて西端に至るというクランク状であった。全長203m、堀幅は約8m、深さ約4.7mとなり、堀底は鋭い薬研堀を呈する。この堀は近世の絵図には描かれておらず、三曲輪は東西に区画されていたことが分かる。
久慈川の中流・下流域一帯は、古代大和朝廷の支配下において久自(くじ)国であったと考えられ、大化元年(645年)大化改新後の令制国である常陸国の成立により久自国は久慈郡となった。養老5年(721年)の『常陸国風土記』には、久慈郡の由来が記載されている。それによると、郡家の南に鯨(くじら)に似た小さな丘があるため、倭武天皇(やまとたけるのみこと)が久慈と名付けたという。これは4世紀頃の話になるため久自国の時代である。久慈郡の郡家は久米郷の長者屋敷遺跡(常陸太田市大里町)に比定される。長者伝説の残る場所は、古代官衙があった可能性が高いという。この郡家からは東であるが、鯨に似た小さな丘とは太田城が築かれる鯨ヶ丘の台地という説もある。久慈郡は、平安時代末期までに佐都東(さととう)郡・佐都西(さとさい)郡・久慈東郡・久慈西郡に分割され、多珂郡・那珂東郡・那珂西郡を併せて奥七郡と称した。江戸時代になると佐都東郡・佐都西郡・久慈東郡が統合され久慈郡となり、久慈西郡のみ那珂郡に編入される。太田城の起源は明らかでないが、天仁2年(1109年)鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)の玄孫・藤原通延(みちのぶ)が佐都西郡太田郷の地頭に任ぜられ、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりとされる。この秀郷流藤原氏である太田大夫通延の後は、佐都荒大夫通成(みちなり)、新大夫通盛(みちもり)と続いた。長承年間(1132-35年)頃、新羅三郎義光(よしみつ)の直系の孫である源昌義(まさよし)が、父・義業(よしなり)から相続した佐都西郡佐竹郷に土着して佐竹冠者と称したのが佐竹氏の始まりである。この初代当主・佐竹昌義は、佐竹郷の馬坂城(常陸太田市天神林町)を根拠に常陸北部に勢力拡大を図った。昌義の四男・隆義(たかよし)が家督を相続すると、太田城主・藤原通盛を服属させて小野崎に移し、小野崎氏と名乗らせた。そして接収した太田城に佐竹氏の本拠を移している。位置関係としては、太田郷の南西隣に佐竹郷、太田郷の北隣に佐都郷があり、佐都郷の西部に小野崎邑(常陸太田市瑞龍町)があった。佐竹隆義は常陸平氏や奥州藤原氏との姻戚関係を背景に常陸国内で勢力を拡大、保元・平治の乱で平清盛(きよもり)に味方して平家政権により常陸介に補任された。治承4年(1180年)8月、源頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵すると常陸国内の諸豪族は頼朝に応じたが、佐竹氏は平家との関係から頼朝の招きに応じなかった。同年10月、富士川の戦いで平家を敗走させた頼朝は、佐竹氏討伐のため軍勢を返して常陸に進軍する。佐竹昌義の長男・義政(忠義)は縁者である上総広常(かずさひろつね)を通じて頼朝への服属を申し出たが、頼朝の命を受けていた広常にその場で殺害された。忠義の弟である2代当主の佐竹隆義は京都で大番役を務めており不在で、隆義の三男・秀義(ひでよし)が金砂城(常陸太田市上宮河内町)に立て籠って寄手に備えた。『吾妻鏡』には「城より飛び来る矢石(しせき)、多くもつて御方(みかた)の壮士に中(あた)る。御方より射るところの矢は、はなはだ山岳の上におよびがたし」とあり、佐竹軍の放つ矢石により大きな被害を受けて苦戦した。そこで上総広常は、秀義の叔父・佐竹義季(よしすえ)を調略して金砂城を落としている。広常は佐竹秀義の逃亡した金砂城を焼き払ったのち、秀義の行方を探したが、深山に入って花園城(北茨城市)に落ちたとの風聞があるだけであった。佐竹一族が本城の太田城でなく金砂城に籠城したことからも、太田城は戦闘用の城郭ではなく領内統治のための政庁であったと考えられる。
この金砂城の戦いで佐竹氏は没落、所領は没収されて頼朝幕下の諸将に充行われた。佐都西郡の郡地頭職は佐伯実盛(さえきさねもり)が得たと考えられる。文治5年(1189年)奥州征伐途上の頼朝が宇都宮を出立する際、馳せ参じた3代当主・佐竹秀義は許されて御家人となったので、秀義は9年間も花園山に閉塞していた。この時、頼朝から「月印五本骨軍扇」を授けられ、これが佐竹氏の家紋の由来と伝えられる。『吾妻鏡』によると、この頃の清和源氏の旗は直白(ひたしろ)という白旗であったが、同じ源氏の佐竹秀義に白旗を掲げることを許さず、持っていた五本骨月丸軍扇を授けて佐竹氏の白旗に付けさせたという。秀義の服属により本領は安堵されたとみられるが、奥七郡には鎌倉幕府により郡地頭が設置され、佐竹氏は低迷期を迎えている。建保元年(1213年)和田義盛(よしもり)の乱の勲功として佐都東郡・佐都西郡の地頭職は佐伯実盛の甥の伊賀光季(いがみつすえ)に与えられた。佐都東郡は、弘安8年(1285年)の霜月騒動の後に北条得宗領となったようで、佐都西郡も同様と考えられるが詳細は不明である。寛元3年(1245年)4代当主・佐竹義重(よししげ)が常陸介に任官して家格を回復、鎌倉時代末期には奥七郡に勢力を伸ばしていたと考えられる。元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅びると、8代当主・佐竹貞義(さだよし)は同じ源氏の出身である足利尊氏(たかうじ)に味方して、有力な足利党となった。建武2年(1335年)中先代の乱でも、尊氏の弟・足利直義(ただよし)を支援して奮戦した。尊氏は、貞義の次男・義篤(よしあつ)、七男・師義(もろよし)らが足利氏に従って、遠く摂津や筑前にまで転戦した功を認め、建武2年(1335年)小田氏に替えて佐竹貞義を常陸国守護職に任命した。これ以後、常陸守護は佐竹氏が世襲していく。一方、中先代の乱における武蔵国鶴見での戦いで貞義の五男・義直(よしなお)が戦死、翌建武3年(1336年)瓜連城(那珂市)の戦いでも六男・義冬(よしふゆ)が戦死するなど、一族から多くの犠牲者を出している。佐竹師義は京都扶持衆、つまり室町将軍の直臣となり、尊氏から所領として山入邑(常陸太田市国安町)を与えられ、山入氏の祖となった。文和4年(1355年)3月11日の『佐竹義篤譲状』によれば、9代当主・佐竹義篤の嫡子・義香(よしか)に本拠地である「常陸国佐都西郡内太田郷」などが譲与され、この譲状によって南北朝時代の佐竹氏の所領は、太田郷を中心とした奥七郡、さらには陸奥・越中・加賀などに所領が散在していた事が分かる。応永14年(1407年)11代当主・佐竹義盛(よしもり)は男子に恵まれず死去したため、常陸守護代で佐竹家宿老の小野崎通綱(みちつな)が3代鎌倉公方・足利満兼(みつかね)の裁可を得て、関東管領・山内上杉憲定(のりさだ)の次男・龍保丸(りゅうほまる)を義盛の婿養子として迎えた。12代当主・佐竹義人である。しかし、佐竹師義の子・山入与義(ともよし)ら佐竹一門は、源氏の名門である佐竹家に藤原姓の養子が入る事に反発し、義盛の弟・義有(よしあり)を擁立、佐竹宗家と庶子家で武力衝突に至った。山入一揆や山入の乱、佐竹百年の乱ともいわれる内乱の始まりである。この戦いは鎌倉公方や室町幕府を巻き込みながら約100年にもおよんだ。佐竹宗家側は、12代義人、13代義俊(よしとし)、14代義治(よしはる)、15代義舜まで4代にわたる。一方の山入氏は2代与義、3代祐義(すけよし)、4代義知(よしとも)、5代義真(よしざね)、6代義藤(よしふじ)、7代氏義(うじよし)の6代にわたった。
佐竹宗家と肩を並べるまでに成長した山入氏を筆頭とする庶子家の結束は強く、応永32年(1425年)室町幕府は佐竹義人と山入祐義を常陸半国守護として和睦を命じるが、事実上守護が分立する状態となり争いは収まらなかった。さらに、佐竹義人は長男・義俊に家督を譲っていたが、次男・実定(さねさだ)に家督を継がせようと画策し、これに山入祐義が肩入れして、享徳元年(1452年)佐竹義俊・義治父子は太田城から追放された。いわゆる佐竹五郎・六郎合戦で佐竹家の混乱は続いた。応仁元年(1467年)佐竹義俊・義治父子は太田城を奪還しているが、延徳2年(1490年)山入義藤・氏義父子が佐竹義舜を追放して太田城を乗っ取り、義藤が佐竹氏の当主に成り代わって山入氏の全盛期を築いている。文亀2年(1502年)義藤の跡を継いだ山入氏義は、佐竹宗家を滅ぼすために出陣、義舜の逃げ込んだ東金砂山を攻め立て自害寸前まで追い詰めたが、天候の急変を突かれて逆に大敗してしまう。永正元年(1504年)義舜は太田城を奪回し、山入氏義・義盛(よしもり)父子は捉えられて斬首、山入氏が滅亡して山入の乱はついに収束した。この頃から、佐竹三家と呼ばれた北家・東家・南家が順次成立している。佐竹北家は佐竹義治の四男・義信(よしのぶ)が分家したのに始まる。佐竹東家は義治の五男・政義(まさよし)を祖とし、佐竹南家は義舜の四男・佐竹義里(よしさと)を祖とする。この呼び名は、太田城のそれぞれ北・東・南側に屋敷を構えたことによる。佐竹氏が太田城を本城とした時代には佐竹西家は存在しなかった。これは太田城の西側がすぐ断崖となっており屋敷を構える場所がなかったからである。戦国時代に18代当主・佐竹義重(よししげ)は勢力を拡大していき、北上する小田原北条氏と戦い、南下する伊達政宗(まさむね)とも戦った。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、佐竹義重・義宣(よしのぶ)父子は参陣して常陸一国54万石の支配を認められた。佐竹氏は水戸城(水戸市)を攻めて江戸氏を追い払い、府中の大掾氏を滅ぼし、天正19年(1591年)南方三十三館と呼ばれる国衆を太田城に招いて謀殺し、常陸を平定した。佐竹義宣は水戸城に本城を移し、義重が太田城を隠居所として「北城様」と呼ばれた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、義重は徳川家康に従うよう説くが、義宣は石田三成(みつなり)と密約を交わすなど父子は対立した。慶長7年(1602年)佐竹氏は旗色を鮮明にしなかったため出羽国久保田20万石へ減転封となり、代わって家康の五男・武田信吉(のぶよし)が15万石で水戸に入封した。慶長8年(1603年)信吉が嗣子なく早世したため、家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)を20万石で封じ、慶長14年(1609年)家康の十一男・徳川頼房(よりふさ)を25万石で封じた。これにより徳川御三家のひとつ水戸徳川家の水戸藩が成立し、太田は水戸藩領となった。慶長20年(1615年)の一国一城令により太田城は廃城となった。しかし、城の一部は水戸藩の支庁として残された。宝永4年(1707年)水戸藩は太田城を陣屋として、附家老の中山信敏を2万5千石で配置した。享和3年(1803年)中山氏が松岡に知行替えとなった後も太田御殿と称して存続している。弘化3年(1846年)の『太田村御検地反別絵図』によると、佐竹氏時代より縮小されているが、本曲輪跡が「御殿」として踏襲されている。周囲は水堀に囲まれ、東側中央に大手門、南西にも城門があり、北東に2層櫓が置かれて、東側のみに土塀が巡っていた。二曲輪跡や三曲輪跡、駒柵跡なども佐竹氏時代の地形を残していた。この太田御殿は明治維新まで存続した。(2025.04.27)