長谷堂城(はせどうじょう)

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慶長出羽合戦で直江兼続の山形侵攻を阻止した最上氏の軍事拠点

山頂主郭部に建つ長谷堂城址碑
山頂主郭部に建つ長谷堂城址碑

山形盆地の南西端に位置する長谷堂城は、標高227m、比高85mの小さな独立丘陵に築かれた中世の山城で、古くから天然の要害であった。山の形から亀ヶ城とも呼ばれたが、中腹には長谷堂城の名前の由来となった最上三十三観音の長谷堂観音が鎮座する。長谷堂城は、山形城(山形市霞城町)から南西に約6kmの位置にあり、山形城を本拠とする最上氏にとって重要な支城の一つであった。この長谷堂城は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いと同時期に発生した長谷堂城の戦いの舞台として有名である。直江山城守兼続(かねつぐ)率いる上杉氏の大軍を迎え撃ち、山形城の最後の防衛線としてこれを守り抜いた。南北が約650m、東西が約400mという細長い小山を削平して、山頂の主郭、二ノ郭、斜面に無数に築かれた帯曲輪などからなる。主郭は南北70m、東西50mほどの規模で、二ノ郭は南北80m、東西30mほどであった。現在は集落と水田に囲まれて、城山または館山と呼ばれている。この城山全体が長谷堂城跡公園となっており、山頂の主郭跡からは直江兼続が本陣を置いた菅沢(すげさわ)山が見渡せる。兼続は菅沢山の沢泉寺を本陣とし、沢泉寺の境内に陣屋を置いた。長谷堂城への登城口は、北東麓の八幡崎口、東麓の内町口(大手門口)、南東麓の観音坂口(搦手門口)、西麓の湯田口の4ヶ所が存在した。大手筋と想定される東麓には根小屋(のちに武家屋敷)が構えられ、その外側に町屋が存在した。八幡崎口の駐車場近くには水堀跡が発掘再現されている。長谷堂城は南の本沢川を天然の外堀とし、長谷堂城の周囲には本沢川から導水した内堀と土塁をぐるりと巡らせ、東側は町屋も囲むように一部が二重堀となっており、惣構えの構造になっていたと推定される。城山の北方には百目鬼(どめき)温泉があり、その途中には長谷堂城の戦いで戦死した兵士を弔った石仏群や、上杉軍の上泉主水の死を悼んだ主水塚などがある。古く朴ノ木屋敷と呼ばれたこの一帯は長谷堂城の戦いの激戦地で、上杉軍と長谷堂城から出撃した最上軍がこの場所で死闘を繰り広げた。この戦いで、上杉氏の武将である上泉主水泰綱(やすつな)が討死を遂げている。合戦後、村人たちは上泉主水をはじめ、両軍の戦死者約2百余人を埋葬し、主水塚と名付けて供養を続けてきた。長谷堂城の特徴である細長い削平地が段々に連なる帯曲輪群は、上杉軍本陣である菅沢山の正面に位置しており、上杉軍を意識して造成されたと考えられている。他にも、尾根筋に攻め上がる敵兵を食い止めるための二重横堀や、横矢掛り、枡形虎口、喰違い虎口などの設備が築かれた。この地に城砦が築かれた時期は明らかではないが、永正11年(1514年)陸奥梁川城(福島県伊達市)を本拠とする伊達稙宗(たねむね)が山形に侵攻した際、山形城の最上義定(よしさだ)を中心に、天童氏、清水氏、延沢氏といった最上氏の有力支族や、寒河江氏などが連合して長谷堂城で伊達軍と戦っている。このとき最上軍は楯岡氏、長瀞氏、山辺式部、吉河兵部など1千人が討ち取られ、長谷堂城は陥落、伊達氏の重臣である小梁川親朝(こやながわちかとも)が占拠した長谷堂城に駐留した。このため、最上義定は山形城を放棄して中野城(山形市大字中野)に難を逃れている。小梁川氏は伊達持宗(もちむね)の三男である中務少輔盛宗(もりむね)を祖としており、小梁川親朝は盛宗の子である。翌永正12年(1515年)最上義定に伊達稙宗の妹が嫁ぐことで和議が成立すると、小梁川親朝は長谷堂城から撤兵した。このときの記録が長谷堂城の文献における初見であり、少なくともそれ以前より砦などの軍事施設が存在したものと考えられる。

長谷堂城が本格的に改修されたのは、文禄3年(1594年)頃の最上氏家臣の志村伊豆守光安(あきやす)が城主であった時と考えられる。この志村光安は長谷堂城の戦いで活躍するのだが、そもそも光安の本貫地はどのあたりであったのか、長谷堂城主に就任する以前、どこを知行地としていたのかを知るための一次史料はなく、『奥羽永慶軍記』を始めとした軍記物に頼るしかない。慶長3年(1598年)越後国の上杉景勝(かげかつ)は、陸奥国の会津若松に移封となり、加えて旧領である佐渡国、出羽国の庄内地方の支配も認められ、合計120万石を領する大大名となった。山形24万石の最上義光は、仇敵の上杉氏に南と西から挟まれてしまい、逆に上杉景勝にとっては最上氏に領土を分断されており、ここに両者の激突は避けられない状況になった。豊臣秀吉が死去すると、上杉景勝が徳川家康との直接対決を意識して軍備増強を始めたため、慶長5年(1600年)家康は会津征伐を決定し、豊臣政権の諸大名を引き連れて大坂を出陣、同時に最上義光には米沢口、伊達政宗(まさむね)には信夫口、佐竹義宣(よしのぶ)には仙道口、前田利長(としなが)には津川口からの侵攻を命じ、家康本隊は白河口から上杉領への攻撃を予定していた。しかし、大坂で石田三成(みつなり)が挙兵したため、下野国小山まで進軍していた家康は会津征伐を中止し、最上義光、伊達政宗、結城秀康(ひでやす)らに上杉景勝の牽制を命じて軍勢を引き返した。南部利直(としなお)、秋田実季(さねすえ)、戸沢政盛(まさもり)および出羽北部の諸将は、会津征伐に備えて山形城に集結していたが、家康の軍勢が去ると、慌てて自領へ引き上げていった。上杉領に先制攻撃を仕掛けていた伊達政宗も、孤立を恐れて撤退、上杉氏と和睦することに成功している。総兵力が7千にすぎない最上義光も、単独で上杉氏と戦うことに勝算はないため、嫡子の義康(よしやす)を人質として送る等の条件で上杉氏に山形へ出兵しないよう要請するが、義光が秋田実季と結んで、庄内地方の志駄義秀(しだよしひで)の守る東禅寺城(山形県酒田市)を攻略しようとしていたことが露見して和睦は認められなかった。上杉景勝は直江兼続に2万5千余の軍勢を預け、最上義光の討滅を命じた。「出羽の関ヶ原」ともいわれる慶長出羽合戦の幕開けである。米沢を発った上杉軍の本隊は萩野中山口に、各支隊は小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲中山口に分かれて進軍した。同時に庄内方面からも志駄義秀、下吉忠(しもよしただ)が3千5百の軍勢で最上領に侵攻する。これら各部隊は各地の城砦を攻め潰し、最終的に最上氏の本拠である山形城を包囲する計画であった。直江兼続が率いる本隊2万余は、江口五兵衛光清(あききよ)・小吉時直(こきちときなお)父子および300の城兵が籠城する畑谷城(山辺町)に迫った。最上義光は兵力分散を防ぎ、山形城、長谷堂城、上山城(上山市)の3拠点の守備を固めるため、それ以外の城砦を放棄する「明け逃げ」の戦法を採用していた。しかし、江口五兵衛は撤退命令には従わず迎撃、激しい抵抗のすえ、上杉軍に死傷者1千人もの被害を与えて全員玉砕した。この戦いで、傾奇御免の前田慶次郎利貞(としさだ)は朱槍を振るって活躍している。この朱槍には逸話があり、上杉家が家康との決戦に備えて準備していた頃、前田慶次が親友の直江兼続のため会津若松城(福島県会津若松市)に参陣した。この時、慶次は皆朱の槍を携えて、「大ふへん者」と大書した旗指物を背にしていた。上杉家では、朱槍は特に武勇が優れている証として、主君から許された者のみが持つことができた。

このため、上杉家古参の剛勇である水野藤兵衛、宇佐美弥五左衛門、韮塚理右衛門、藤田森右衛門が慶次に噛み付くと、朱槍は前田家伝来の槍であり、「大ふへん者」とは大武辺者という意味ではなく、新参者なので大不便者の意味であると煙に巻いた。この騒動を知った上杉景勝は、水野・宇佐美・韮塚・藤田の4名にも朱槍を許している。小滝口、大瀬口、栃窪口からの支隊は、八ッ沼(やつぬま)、左沢(あてらざわ)、鳥屋ヶ森(とやがもり)、長崎、山野辺の諸城を攻略するが、最上勢のほとんどは交戦せずに撤退している。一方、掛入石仲中山口から侵攻した横田旨俊(むねとし)、篠井泰信(しののいやすのぶ)、本村親盛(ほむらちかもり)ら4千の軍勢は、最上氏の拠点のひとつである上山城の攻略に着手した。また、庄内方面からの軍勢は、庭月、鮭延、古口、清水、野辺沢、長瀞、谷地、白岩、寒河江などの諸城を攻略しながら南下していた。そして、最上領の北に隣接する仙北地方の小野寺義道(よしみち)は、はじめ家康に従っていたが、上杉軍の快進撃に触発されて、仇敵である最上氏への攻撃に転じている。小野寺軍は合川城(秋田県湯沢市相川)を落とし、楯岡満茂(みつしげ)が守る湯沢城(秋田県湯沢市古館山)を包囲、上杉氏に呼応して最上氏を挟撃した。最上義光は、関係のよくなかった伊達政宗に対して援軍を要請しなければならないほど窮しており、最上義康を使者として伊達氏のもとに派遣している。上杉本隊は菅沢山に本陣を置き、志村光安ら1千の城兵で守備する長谷堂城に対峙する。志村光安は最上四天王のひとりに数えられる重臣で、これに成沢城主の坂光秀(さかあきひで)、天童城主の氏家光氏(うじいえあきうじ)、小国大膳などの援軍が合流した。菅沢山の上杉軍本陣の先には、最上川支流の須川が山形城への進路を阻むように流れており、その対岸には山形城から出陣した最上義光の本隊が構えていた。上杉軍が渡河を試みようとすれば、長谷堂城の部隊に挟撃される恐れがあるため、最上本隊との決戦の前に長谷堂城を攻略する必要があった。直江兼続は長谷堂城を包囲すると総攻撃を仕掛け、大手門口と八幡崎口に押し寄せた。これに対し、志村光安も城外で応戦、一進一退の攻防となり緒戦は引き分けた。一方、最上本隊から出撃した楯岡光直(みつなお)と清水義親(よしちか)が700挺の鉄砲隊を含む1千の軍勢を率い、須川を渡河して奇襲を企てたが、これは待ち伏せしていた水原親憲(すいばらちかのり)率いる鉄砲隊が撃退している。この戦いで最上軍は300名の戦死者を出した。直江兼続は再び長谷堂城へ押し寄せたが、長谷堂城を落とすことはできなかった。長谷堂城は険峻な山城という訳ではないが、なかなかの堅城であった。そして、長谷堂城から出撃した志村光安麾下の大風右衛門、横尾勘解由らが、菅沢山の麓に宿営している春日右衛門元忠(もとただ)の部隊に夜襲を仕掛け、大きな戦果をあげている。さらに、最上義光の命により、鮭延越前守秀綱(ひでつな)が旗本組100騎と足軽200を率いて、長谷堂城の守備に加わり、伊達政宗より派遣された留守政景(まさかげ)が、援軍3千を率いて須川河岸に布陣した。兼続は長谷堂城の部隊を野戦に誘い出すため、刈田狼藉をおこなった。これに対して、副将格の鮭延秀綱は、旗本組を率いて出撃、刈田をおこなう足軽たちをなぎ払い、8千の敵陣に突入してさんざん暴れまわった。時を見計らって撤退する鮭延秀綱を上杉軍は猛追するが、これを志村光安が鉄砲隊300で援護射撃し、無事に生還させている。兼続は鮭延秀綱の武勇に感心し、のちに褒美を届けたと伝えられる。

その後、戦線は膠着するが、直江兼続の命により、再び長谷堂城への攻撃が始まった。長谷堂城を包囲する上杉軍の先鋒大将である上泉泰綱の陣に、大風右衛門が200の軍勢で突入、これを見ていた伊達軍も長谷堂城下まで押し出し、上泉泰綱が率いる浪人組と戦闘になった。この泰綱は剣聖と謳われた新陰流の祖である上泉伊勢守信綱(のぶつな)の嫡孫で、会津一刀流の祖として知られる剣術の達人である。上泉泰綱は大高七左衛門とともに敵中へ突っ込んでいった。しかし、泰綱配下の兵士は怖じ気づいて先鋒大将の後に続かない。これを見かねた前田慶次は、泰綱の兵士達を叱咤するが状況は変わらず、上泉泰綱を救援するため宇佐美民部ら20騎とともに伊達軍に突入した。慶次らは劣勢のなかで激しい戦闘を展開、そこへ兼続からの撤退命令が届いた。上泉泰綱はそれを承知しながら、単騎で敵陣深く突き進み、手当たり次第に敵兵を槍で突き伏せた。しかし、押し寄せる敵兵にのみ込まれ、力尽きて金原加兵衛という者に討ち取られてしまう。本陣へ戻った慶次の姿は壮絶で、鎧には矢が七、八本突き刺さり、槍は歪み、刃は欠け、人も馬も血で真っ赤に染まっていた。慶次は上泉の陣の兵士達に向かって、大将を捨て殺しにした件について罵声を浴びせたが、これに応える者はなかったという。最上軍は少ない兵力で頑強に戦い、長谷堂城を半月間にわたり死守する。この激しい攻防戦の中、会津若松城の上杉景勝より関ヶ原本戦での西軍敗北の知らせが届き、直江兼続は上杉軍の撤退を決意する。これにより攻守逆転の最上・伊達連合軍による追撃戦に変貌した。上杉軍は軍勢を13隊に分けて退却、殿軍は水原親憲と溝口左馬助であった。この時、殿軍の2隊が交互に応戦しながら撤退していく「懸かり引き戦法」で脱出を図るが、最上・伊達連合軍の追撃も激しく、たちまち苦戦に陥った。溝口左馬助は戦死し、水原親憲も負傷している。直江兼続は殿軍の救出のため富神山(とかみやま)に陣を立て、最上・伊達連合軍を迎撃した。この富神山での戦闘が今回の撤退戦で最も激しい戦いとなる。総大将である兼続がみずから最後尾を務めて、水原親憲の鉄砲隊で援護しながら脱出を図るが、最上・伊達連合軍による猛追で大乱戦となった。このとき、直江兼続は自害を覚悟したというが、前田慶次がこれを諌め、水野、宇佐美、韮塚、藤田ら上杉家朱槍四人組とともに敵軍に突入、見事な戦いぶりで敵兵を蹴散らせた。最上・伊達連合軍にもおびただしい被害が発生、先頭に立って追撃する最上義光を側近の堀喜吽(きうん)が諌めたところ、逆に臆病者と罵倒されたため、怒った喜吽が単騎で上杉軍に突撃、鉄砲隊に撃ち抜かれて戦死している。このとき義光の兜にまで銃弾が命中しており、ついに追撃を断念した。最上義光が愛用した三十八間金覆輪筋兜は、織田信長より拝領したものと伝えられ、このときの弾痕を残したまま最上義光歴史館に展示されている。最上義光の戦功を高く評価した徳川家康は、義光に庄内三郡と秋田の由利郡の33万石を加増し、57万石の大大名とした。慶長6年(1601年)長谷堂城の戦いで活躍した志村光安は、庄内に3万石を与えられ、東禅寺城主となった。そして、長谷堂城は1万3千石で坂紀伊守光秀に与えられて、平地に統治のための御殿を造ったといわれる。しかし、元和8年(1622年)最上騒動により、山形藩主の最上義俊(よしとし)が改易させられると、江戸幕府は周辺諸藩に軍勢を出させて、最上領の各城の受け取りをさせた。長谷堂城の受け取りを担当したのは、皮肉にも上杉景勝であった。接収された長谷堂城は、そのまま廃城となり破却されている。(2010.10.16)

柵列が再現された大手筋の曲輪
柵列が再現された大手筋の曲輪

八幡崎口の前に再現された水堀
八幡崎口の前に再現された水堀

上泉主水泰綱を埋葬した主水塚
上泉主水泰綱を埋葬した主水塚

菅沢山の直江山城守の本陣跡
菅沢山の直江山城守の本陣跡

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