花の御所(はなのごしょ)

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足利将軍家の豪華絢爛な邸宅であり室町幕府の政庁

花の御所の石碑
花の御所の石碑

御寺御所と呼ばれる大聖寺は、室町幕府3代将軍足利義満(よしみつ)が造営した花の御所の岡松殿跡である。北は上立売通、南は今出川通、東は烏丸通、西は室町通に囲まれた花の御所は、室町通側を正面としたので室町御所とも呼ばれ、8代将軍義政まで足利将軍家の邸宅であり室町幕府の政庁であった。室町幕府とは、この花の御所の造営地に由来する。義満は権力をかさに洛中の公家や武家の邸宅から名花、名木を集め、邸内の樹木苑地が美しかったことから花の御所と称された。今までに庭園の池や景石、掘などが検出され、発掘された景石は、その場所に建設されたマンションの駐車場やエントランスに保存されている。

応安元年(1368年)2代将軍足利義詮(よしあきら)が病没すると、子の義満が10歳で3代将軍に就任した。永和4年(1378年)成人した義満は花の御所を造営し、室町幕府をここに移した。武家や公家の邸宅がこの近辺に軒を並べ、特に花の御所の周辺は一色氏、細川氏、畠山氏などの有力守護大名が邸宅を構えた。義満は将軍の権力を確立するため、将軍直属の奉公衆を組織して軍事力を強化し、有力守護大名の勢力削減政策をすすめた。明徳元年(1390年)土岐氏の乱で土岐康行(ときやすゆき)を、明徳2年(1391年)明徳の乱で山名氏清(やまなうじきよ)・満幸(みつゆき)を反乱に追い込み討伐し、管領の斯波義将(しばよしまさ)を辞職に追い込む。一方、北朝の権限にも介入し、京都の警察権・裁判権を掌握する。このように室町幕府は勢力を拡大していくが、南朝の勢力低下は著しかった。北畠顕能、宗良親王、懐良親王など南朝の重鎮たちが死去し、もはや戦い続けることはできない状態であった。明徳3年(1392年)義満は大内義弘(よしひろ)を交渉役として南北朝の統一を果たし、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する事によって三種の神器が北朝へ返還された。

義満は権力の象徴として花の御所の東側に相国寺を建立した。永徳2年(1382年)に起工し、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392年)に完成する。応永元年(1394年)将軍職を子の義持(よしもち)に譲った義満は太政大臣となるが、翌応永2年(1395年)太政大臣を辞職して出家する。さらに義満は朝廷が持っていた叙任権・祭祀権・改元権などを次々に奪い、公家・寺社の権力へ介入した。応永2年(1395年)九州探題として大きな勢力となっていた今川了俊(いまがわりょうしゅん)を解任し、応永6年(1399年)応永の乱で大内義弘を反乱に追い込み討伐する。これにより足利将軍家に対抗できる勢力はなくなった。同年(1399年)相国寺の境内に七重大塔(高さ109m)という御所を見おろす日本史上最も高い塔を建てる。応永9年(1402年)明国から日本国王として認められた義満は、勘合符による勘合貿易を開始して莫大な利益を得る。このように日本国王として天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった義満だが、応永15年(1408年)突然病死してしまう。この義満の時代が室町幕府の最盛期であった。

8代将軍義政(よしまさ)の時代、足利将軍家に家督争いが発生した。もともと義政には男子がなく、弟の義視(よしみ)を還俗させて後継ぎと定めていたが、寛正6年(1465年)義尚(よしひさ)が誕生してしまう。正式な後継者は義視であったが、義政の正室であり義尚の母である日野富子(ひのとみこ)が将軍側近や山名宗全(やまなそうぜん)と結んで義尚の家督継承を画策したため、幕閣は義視派と義尚派に対立して緊迫した状況になった。文正元年(1466年)将軍側近の伊勢貞親(いせさだちか)、季瓊真蘂(きけいしんずい)は、義視を暗殺させようとするが失敗し失脚した(文正の政変)。その後、将軍家の家督争いは細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全の二人を中心に発展し、これに守護大名の家督争いが絡み複雑な構造に発展した。応仁元年(1467年)花の御所を本陣とする細川派(東軍)と、山名邸を本陣とする山名派(西軍)が衝突し、各地から守護大名が参戦した。この応仁の乱は京都を戦火に巻き込んで以後11年間続く。花の御所は応仁元年(1467年)に兵火で焼失、文明年間(1469-1487年)に再建したが再び焼失した。この争乱で室町幕府は統治能力を完全に失い、地方でも両派に分かれての戦乱が続き、戦国時代が始まることになる。(2004.03.12)

足利将軍室町第址
足利将軍室町第址

義満建立の相国寺
義満建立の相国寺

花の御所の景石
花の御所の景石

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