花隈城は、兵庫湊に面して突き出た台地に築城されており、西側および南側(海側)は海食崖を天然の要害とし、その裾部を西国街道が通じていた。城域は東西約350m、南北約200mの規模を誇り、本丸の北西隅に天守、南東隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町のある近世城郭の形態を示していた。
天正2年(1574年)織田信長の命により摂津有岡城主の荒木摂津守村重(むらしげ)が築城した花隈城は、敵対関係にあった西国の毛利氏と摂津石山本願寺(大阪府大阪市中央区)の海上交通の遮断と、西国街道の押さえとして重要な城であった。当時、荒木村重は信長から摂津一国(大阪府北部・兵庫県南東部)の大名として、石山本願寺の寺領を除いたおよそ35万石を与えられ、織田家臣団において頭角を現していた。これには逸話があり、元亀4年(1573年)摂津池田氏の配下であった荒木村重が近江国大津ではじめて信長と対面して帰順を申し出たとき、信長は忠誠心を試すように太刀を抜いて饅頭を突き刺して突き出した。周囲の者は青ざめたが、22歳だった村重は臆するどころか手も使わず、剣先の出ている饅頭を大口を開けてて平らげた。それを見ていた信長は、村重の豪胆さに大きな声を上げて笑い、「日本一の器量なり」と褒めたうえで摂津一国を任せたという。
天正6年(1578年)荒木村重は石山本願寺に物資を供給しているという謀反の疑いがかけられた。信長は信じることなく弁明の機会を与えたが、信長の成敗を恐れた村重は有岡城(伊丹市)に籠城して、足利義昭(よしあき)、毛利輝元(てるもと)、石山本願寺に通じたとされている。しかし最近の研究によると、村重は大坂方面指令官の地位を佐久間信盛(のぶもり)に奪われ、同じく中国方面指令官の地位も羽柴秀吉に奪われた。自らの将来に悲観した村重は、信長に従うよりも毛利氏に与したほうが自分を生かせると判断し、一か八かの賭けに出て謀反に踏み切ったという説が有力視されている。鞆幕府の足利義昭は、以前より側近で奉公衆の小林家孝(いえたか)を花熊城に派遣しており、毛利家と手を結び、信長に叛旗を翻すように説得していた。また、石山本願寺の顕如(けんにょ)も村重に対して起請文を発している。この天正6年(1578年)10月17日付の起請文には「摂津の国の議は申すに及ばず、お望みの国々右に申す如く、知行方当寺より裁判し、寺記法度に候へども、公議(足利義昭)ならびに芸州(毛利輝元)へ申し対せらるご忠節の議に候間、存分に任せられる様、随分才覚せしむべし」とある。この荒木村重の謀反を受けて、花隈城の荒木志摩守元清(もときよ)、大河原具雅(おおがわらともまさ)、尼崎城(尼崎市)の荒木村次(むらつぐ)、高槻城(大阪府高槻市)の高山右近重友(しげとも)、茨木城(大阪府茨木市)の中川瀬兵衛清秀(きよひで)、大和田城(大阪府大阪市西淀川区)の阿部仁右衛門、多田城(川西市)の塩川国満(くにみつ)など、摂津国の諸城もこれに呼応した。石山本願寺・毛利家・足利将軍家に加えて、摂津国内の助力を得られることから、総合的に判断して謀反を決意したと考えられる。このときの花隈城は、毛利方から播磨三木城(三木市)の別所長治(ながはる)への救援物資運搬の重要な拠点として機能していた。村重の謀反は、天正6年(1578年)10月21日とされるが、実際にはそれ以前から動きがあった。『左京亮入道隆佐記』によると、9月下旬から10月中旬にかけて福富秀勝(ひでかつ)、佐久間信盛、堀秀政(ひでまさ)、矢部兼定(さだのり)が説得のために村重を訪れたようだが、応じることはなかった。そして、『信長公記』によると、10月21日に信長の耳に入った。信じることができなかった信長は、糾問使として明智光秀(みつひで)、松井友閑(ゆうかん)、万見重元(まんみしげもと)を派遣したがやはり応じなかった。村重の説得をあきらめた信長は、織田信忠(のぶただ)を総大将とし、織田信雄(のぶかつ)、織田信孝(のぶたか)、明智光秀、丹羽長秀(ながひで)、滝川一益(かずます)、羽柴秀吉、佐久間信盛などに加え、北陸からも前田利家(としいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)などを動員し、荒木方の城砦を次々に降していく。村重は毛利氏からの援兵・兵糧を受け、織田軍団に頑強な抵抗を続けていたが、備前国の宇喜多直家(なおいえ)の寝返りと九鬼水軍の出現で毛利氏の援助は期待できなくなった。天正7年(1579年)9月、村重は密かに有岡城を脱出し、単身で長男の荒木村次が守る尼崎城へ移った。尼崎城には毛利家の武将である桂元将(もとまさ)が来ており、彼と連絡を取って毛利氏の援軍を催促しようとしたとされる。しかし、結果的にこの行動が有岡城と、城内の一族・家臣および、その妻子らを見捨てた卑怯で非情な行為と受け取られることになる。城主を失った有岡城は2か月余りの攻防のすえ11月に降伏開城しており、村重の老臣たちは妻子を人質にして尼崎城に赴き、村重の説得に当たった。信長からは村重が投降すれば城兵とその妻子たちの命は助けるという条件が示されていた。ところが村重は聞き入れず、失望した老臣たちは有岡城には戻らず、そのまま逐電してしまう。かくして信長による荒木一族の大虐殺が始まる。まず村重の妻子をはじめ親族・近親たち36人が捕らえられて京都に送られ、荷車で引き回されたうえ、法華宗の大寺院の近くで斬首された。さらに、家臣とその妻子122人が、村重の籠もる尼崎城の近くで磔刑に処されている。次いで軽輩とその家族512人が4つの平屋に分けられ、周囲から火をかけられて焼き殺された。その内訳は男124人、女388人であったという。こうして約700人はことごとく処刑された。宣教師ルイス・フロイスは著書の『日本史』の中で、有岡城の大虐殺を次のように記している。「大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに放火して彼ら全員を生きたまま焚(殺)した。彼らが発する悲鳴、聞こえてくる叫喚、彼らが受けているこの残忍きわまる苦しみの混乱ぶりは、かの地を恐怖で掩(おお)った。こうして多数の無実の人々が荒木の悪意と鉄よりも頑固な心のため、その忘恩と悪行の報いとして、荒木のみが受けるに価する罰を受けることになったのである。」とある。尼崎城の村重は花隈城を経由して、毛利氏を頼って尾道へ逃れた。
花隈城は、渡辺藤左衛門(根来衆)、鈴木孫市(雑賀衆)らを武将にむかえ、侍600人、雑兵1800人をもって籠城した。播磨三木城(三木市)も落城し、孤立化しても花隈城は抗戦し続けた。信長の命を受けた池田恒興(つねおき)・輝政(てるまさ)父子らは、諏訪山や大倉山を拠点に攻撃し、天正8年(1580年)ついに花隈城を落とした。大河原具雅は城兵の助命を嘆願して自刃し、これにより荒木村重討伐は収束した。恒興はこの功により、摂津国と花隈城を与えられた。しかし恒興は、花隈城を廃して新たに兵庫城(神戸市兵庫区)を築いた。江戸中期に書かれた『花熊落城記』には、恒興が花隈城を解体し、その部材を兵庫城の築城に使っていたとの記載がある。兵庫城は花隈城の石材を転用して築城したといわれており、墓石まで使用している。墓石は魂を抜けば、石材として使えるという。信長は荒木一族を見つけ次第殺害しており、天正9年(1581年)高野山金剛峰寺(和歌山県伊都郡高野町)に逃げ込んだ荒木村重の残党を匿った罪により、諸国を行脚する高野聖(こうやひじり)が捕らえられて数百人が処刑された。これは、高野山が信長の引き渡し要求を無視したうえに、信長の使者10人を殺害したためである。のちに信長の摘孫にあたる織田秀信(ひでのぶ)が、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となり、高野山に送られることになった。しかし、信長との確執が仇となり、秀信はしばらく入山が許されず、入山が許された後も冷遇されて迫害も受けた。そして、慶長10年(1605年)高野山から追放処分となっている。(2003.09.17)