八戸城(はちのへじょう)

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盛岡藩の盛岡南部氏から派生した八戸藩の八戸南部氏9代200年の居城

南部会館に現存する角御殿表門
南部会館に現存する角御殿表門

八戸城は、馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城された。JR本八戸駅の南側にある比高10mほどの三八城(みやぎ)山という台地が城跡で、現在は三八城神社、三八城公園として整備されている。南方の城下町から見ると梯郭式の平城だが、北側と西側が急崖となる。八戸城は本丸と二の丸の2郭で構成されており、現在の内丸と呼ばれる範囲が本丸・二の丸跡にあたる。南部会館の前から本八戸駅南口に至る道路は、本丸と二の丸を区切る内堀跡である。また、南部会館の南側から東にぐるりと回って北側(本八戸駅南口)、さらに三八城公園と八戸市庁の外側を西に回って南部会館まで外堀が一周しており、城域を水堀と土塁が2重に囲んでいた。市庁前ロータリーあたりに枡形門形式の大手御門が設置され、搦手門は北側に存在した。弘化4年(1847年)頃の『八戸城絵図』を見ると、外堀のラインが現在の道路とほぼ一致していることが分かる。本丸は城域の北西端に位置し、その規模は東西約150m、南北約200mであった。現在の三八城神社の付近に御殿が存在した。御殿は八戸藩の役所と藩主の執務場所、居間等の奥部分で構成され、八戸城で最も重要な建築物であった。文政12年(1829年)新御殿が建築された際に、奥部分が大きく拡張された。御殿の北側には御花畑、米蔵があり、南側には書院庭、武具を収納する土蔵があった。そして、八戸城に天守は存在しなかった。三八城神社にある大きな岩は、弁慶石と呼ばれ、岩の所々が足形のように窪んでおり、力自慢の武蔵坊弁慶がしるした足型といわれる。この地方には、源九郎判官義経(よしつね)が平泉を脱出し、北へ向かったという伝説があり、八戸市内には義経の北行にまつわる多くの地名や品々が残されている。義経が高館の御所(八戸市河原木)から見渡して、馬淵川の東の野原を京ヶ原と名付け、京ヶ原の北の州先を京ヶ崎と名付けている。それが三八城山であった。明治27年(1894年)に作られた『八戸実地明細絵図』には、市立八戸小学校の前身である八戸尋常高等小学校が描かれており、この校地は現在の市庁舎別館一帯であるが、小学校の校庭に現在の市立図書館の前身である「書籍縦覧所」が描かれている。この2階建て寄棟造の建物が、明治7年(1874年)八戸城の物見櫓を移築したものであるが、現存していない。二の丸は本丸の東側から南側を囲むように配置されており、角御殿(すみごてん)、藩校、馬屋が置かれ、おがみ神社、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺(ぶざんじ)、八幡宮があった。他にも、中里家、逸見家、船越家など藩主一族や重臣の屋敷地があった。南部会館のあたりには角御殿という藩邸が存在した。現在は角御殿表門が南部会館に現存している。寛政4年(1792年)御者頭(おものがしら)の煙山(けむやま)治部右衛門が大手門近くの角御殿への居住を命じられ、「場所柄相応」の門と玄関を建てるよう指示された。御者頭とは武官で2番目の地位である。表門は5年後に建てられ、その時の寛政9年(1797年)の棟札が残されている。昭和53年(1978年)積雪のために表門が倒壊したとき、毘沙門天像が門の冠木の中央から発見された。像高3.6cmと小さく精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあるため創建時のものである。門の構造は棟門(むなもん)で、通常は2本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるが、この門は4本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に2本の支柱を取付けるという特異な構造であった。昭和55年(1980年)創建当時の姿に復原された。

『八戸藩日記』によると、煙山治部右衛門は資金調達に苦心しながらも角御殿表門を完成させており、その後に武官最高位の御番頭(おばんがしら)に昇進している。この資料が見つかるまでは、煙山氏は分不相応な門を建てて屋敷を没収されたという伝承があったという。八戸城の東門は、根城(八戸市大字根城)から移築したという伝承があり、安政6年(1859年)に大風で倒れ、家老職の木幡(こはた)氏の屋敷門として払い下げられた。現在は史跡根城の広場の入り口に移築現存している。これら以外の遺構は、開発により破壊され、土塁や堀跡が僅かに残されるのみである。おがみ神社はもとは本丸の位置にあり、八戸藩が立藩すると二の丸の現在地に遷座され、八戸藩総鎮守および藩神として崇められた。その歴史は古く、鎌倉時代末期の正中2年(1325年)に、神職が7代目であったことから、平安時代後期にまで遡ると考えられている。この神社にも義経北行伝説が残る。義経の北の方(正室)である久我(こが)大臣の娘は、義経の北行に同行しており、北の方が亡くなって葬られたのがおがみ神社だと伝わる。その北の方が愛用した手鏡と、ここに至るまでの経緯を記した『類家稲荷大明神縁起』が、神社に所蔵されていた。ちなみに、久我大臣の娘を正室とするのは軍記物の『義経記』で、鎌倉幕府が編纂した正史の『吾妻鏡』は、河越重頼(しげより)の娘を正室としている。八戸城の城下町は、現在の八戸市中心街にあたる。寛永4年(1627年)八戸は三戸南部氏の直轄地となるが、その頃から町の整備が進められた。根城の三番堀に続いて存在した侍屋敷と、馬淵川と根城との間にあった下町という集落を南部利直(としなお)が移している。城下西側の三日町、十三日町、廿三日町には根城の商家を移して、東側の八日町、十八日町、廿八日町には新井田の商家を移した。新たに八戸藩ができると、これらの中心となる辻に高札を立てたので札の辻(ふだのつじ)と呼ばれ、現在はその標柱が立っている。八戸城の築城年代ははっきりしない。存在が確認できる最も古い記録は、慶安3年(1650年)である。八戸城の地には、前身となる中館(なかだて)という城館が存在した。建武元年(1334年)陸奥国司の代官である南部師行(もろゆき)が糠部(ぬかのぶ)郡八戸に根城を築いた。この師行が、根城南部氏の4代当主である。5代の政長(まさなが)には、長男の信政(のぶまさ)、次男の政持(まさもち)、三男の信助(のぶすけ)がおり、信政を嫡子として、政持と信助には分家を起こさせた。この信助が築いた城館が中館で、中館氏を名乗った。また、政持は新井田に新田館(にいだだて)を築いて、新田(にいだ)氏を名乗っている。『浅利六郎四郎清連注進状』の建武3年(1336年)に新田彦次郎政持の名があり、これらの城館は根城の築城とほぼ同時期に築城されて居住したと考えられる。しかし、中館の縄張りや規模については一切不明である。この根城南部氏の一族は、南北朝時代を通して南朝勢力の中核として活躍しており、本城の根城を中心に、中館および新田館の支城を連携させて、「三館一城の構え」で八戸地方を鎮めてきた。根城南部氏6代当主となった長男の信政は、後醍醐天皇の孫で、護良(もりよし)親王の子・八幡丸良尹(ながただ)王を下北半島の田名部(たなぶ)に迎えた。良尹王は信政が修築した順法寺城(むつ市城ヶ沢)を居城とし、信政の妹を妻に迎えている。天皇の血を引くこの一族は、北部王家(きたべおうけ)と尊称された。正平20年(1365年)頃、根城南部氏7代の信光(のぶみつ)は本領の甲斐国波木井に戻っていた。

正平22年(1367年)北朝方の神(かんの)大和守に波木井を攻められるが撃退し、逆に神氏の居城を攻め落とした。この戦功により後村上天皇から恩賞として甲冑一領を賜っている。これが現在、櫛引八幡宮(八戸市八幡)に奉納されている国宝「白糸威褄取(つまどり)鎧大袖付」である。櫛引八幡宮は三戸南部氏の初代光行(みつゆき)が草創した南部の総鎮守である。応永18年(1411年)秋田湊の安東庶季(もろすえ)が根城南部領の山北地方(秋田県仙北郡)に侵攻した際、三戸南部氏13代の守行(もりゆき)は根城南部氏9代の長経(ながつね)と軍議を開き、長経の弟・光経(みつつね)が先陣を務めること、守行が出陣後の領内の警固は長経がおこなうことを取り決めた。光経は櫛引八幡宮に戦勝祈願して出陣しているが、安東軍に迎撃されて一旦撤退している。光経は陣中に祭壇を設けて月山(がっさん)の神へ7日7晩、戦勝祈願した。そして満願の夜、光経と家臣の三上氏、橘氏、西沢氏の3人が、双鶴と九曜星が懐中に入る同じ霊夢を見ており、これを吉兆として光経軍の士気は高まった。そこに宝山正弥(ほうざんしょうちん)という僧が現れて、光経に安東軍が要所に伏兵を忍ばせていると伝えた。このため光経は、作戦を変更して安東軍に勝利することができた。長経・光経兄弟は、宝山正弥和尚の功に報いるため、大慈寺(八戸市松館)を建立して寄進している。三戸南部家の家紋に、輪の中に向いあう2羽の鶴、その胸に九曜星をあしらった向い鶴紋(むかいづるもん)がある。守行は光経の霊夢の話に感銘を受け、意匠化して家紋にしたという。根城南部氏は分家の立場上、向い鶴紋の外の輪を除いた紋を使用した。なお、根城へ凱旋した光経は、陣中で着用していた後村上天皇から下賜された甲冑を、戦勝を祝って櫛引八幡宮に奉納している。文安5年(1448年)北部王家5代当主の新田義純(にったよしずみ)は、重臣のひとり蠣崎蔵人信純(かきざきくらんどのぶずみ)によって船遊びに誘われ、一族・重臣とともに殺された。蔵人は北部王家の実権を握ることに成功し、この謀反の報せは根城南部氏13代の政経(まさつね)にもたらされた。政経は室町幕府に報告し、後花園天皇から追討の勅許を得ることにした。その間、蔵人は北部王家の財力をつぎ込み、居城の蠣崎城(むつ市川内町)を大改築している。また、蝦夷地・樺太・満州などから4万ものアイヌ兵などを雇い入れたという。康正2年(1456年)勅許を待つ根城南部軍は蠣崎軍に押されて、横浜・野辺地・七戸まで攻略されてしまう。同年末にようやく勅許が出たため、根城南部軍は反撃を開始して七戸の奪還に成功したが、アイヌ兵の毒矢攻撃などにより苦戦が続いた。根城南部軍は海上から蠣崎城を奇襲することとし、八戸から尻屋崎を経由して波多湊(大畑港)を目指して出港した。しかし、波多湊の間近で船団は大嵐に巻き込まれてしまった。根城南部軍の行動を察知していた蠣崎軍は迎撃の準備をしていたが、この大嵐で難破したものと思い込んで祝宴を張った。しかし、漂流した根城南部軍は奇跡的に1隻の軍船も失うことなく、大間崎を通り過ぎて奥戸(おこっぺ)湊にたどり着いた。この湊から下北半島を縦断して油断していた蠣崎城を襲い、蠣崎軍を潰走させた。蔵人は蝦夷地へ逃れているが、この蠣崎氏が後の松前藩松前氏につながるという。蠣崎蔵人の乱を平定した根城南部氏は、恩賞として北部王家の田名部3千石が与えられ、下北半島も領有することになった。その後、根城南部氏は三戸南部氏の家臣となり、寛永4年(1627年)三戸南部氏27代の利直の命により、八戸から遠野へ移封させた。

中館氏も根城南部氏に従って遠野へ移っており、その後の八戸地方は三戸南部氏の直轄地となった。慶安3年(1650年)から承応元年(1652年)にかけて、南部利直は中館跡に縄張りをおこなって城塁を築き、二重堀を巡らせて、八戸城の普請・作事をおこなったという。八戸城は、盛岡藩の政庁である盛岡城(岩手県盛岡市)の支城として機能し、代官が置かれた。寛永9年(1632年)利直が死去すると、三男の重直(しげなお)が盛岡藩の2代藩主を継いだ。そして、寛文4年(1664年)世継ぎを定めないまま没した。当時、嗣子なくして藩主が死去した場合、改易されるのが常であり、盛岡藩10万石も一旦改易となった。しかし、江戸幕府4代将軍の徳川家綱(いえつな)は、遺領10万石のうち盛岡8万石については、重直の異母弟で、利直の五男である七戸隼人重信(しげのぶ)に相続させた。そして、残りの八戸2万石については、同じく重直の異母弟で、利直の七男である中里数馬直好(なおよし)に与えて、新たに家を興させた。事実上の分割相続である。ここに八戸藩が誕生することになり、その領地は、三戸郡、九戸郡のうち79ヶ村と、飛び地として志和郡のうち4ヶ村であった。初代藩主となった中里直好は、名を南部直房(なおふさ)に改めており、この直房から始まる系統を八戸南部氏という。藩庁は、三八城山にあった盛岡藩時代の八戸城を引き継いで使用することとし、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。本徒士丁や六日町のように、武家町は丁(ちょう)、町人町は町(まち)と表記した。幕府の規定により、八戸南部氏は天守を備えた城を持てない「無城(むじょう)」という格式であった。その居城である八戸城は天守を持たない陣屋構えで、御屋敷と呼ばれていた。大名の格付けには、一国以上を領有する「国主(国持)」、国主に準ずる格を持つ「准国主」、国主・準国主以外で城を所有する「城主」、城は所有していないが城主に準ずる「城主格」、城を所有していない「無城」がある。一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持った。寛文8年(1668年)南部直房は没した。表向きは病死であるが、実際には盛岡藩士により暗殺されたという。わずか200石の盛岡藩士であった中里直好が八戸藩を立藩したため、盛岡藩10万石が8万石に減ったという逆恨みだった。2代の直政(なおまさ)は8歳で藩主となり、国許で危害を加えられぬよう江戸藩邸で生活し、儒学の勉強に励み、聡明で学識豊かな青年大名に成長した。ある時、5代将軍綱吉(つなよし)に朝鮮国王から屏風が送られたが、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されており、綱吉は高名な学者達に謎解きを命じたが果たせなかった。ところが、南部直政はこれを読み解いて、屏風を開けている。綱吉は感嘆し、直政に福島5万石を与えようとしたが固辞したため、ビードロ製の鏡を下賜した。その後、直政は異例の出世を遂げ、綱吉の御側用人にまで取り立てられている。39歳で死去した直政にも、盛岡藩士による毒殺説がある。天保9年(1838年)8代信真(のぶまさ)の代に北方沿岸警備の功が認められて「城主格」に昇格しており、再び八戸城と称されるようになった。八戸藩では天守の建築まで計画されたが、それが実現されないまま幕末を迎えている。八戸藩も奥羽越列藩同盟に参加しており、明治元年(1868年)戊辰戦争が敗北により終結した頃、新政府側の弘前藩が突如として盛岡藩の野辺地(のへじ)へ侵攻した。この野辺地戦争で、盛岡・八戸藩は弘前藩を撃退しており、列藩同盟軍で唯一の勝利となった。明治4年(1871年)廃藩置県とともに八戸城は廃城になった。(2014.09.06)

公園内の八戸城本丸跡の石碑
公園内の八戸城本丸跡の石碑

本丸御殿跡に建つ三八城神社
本丸御殿跡に建つ三八城神社

急崖となる本丸西側の城壁
急崖となる本丸西側の城壁

根城跡に現存する八戸城東門
根城跡に現存する八戸城東門

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