五稜郭(ごりょうかく)

[MENU]

箱館戦争で明治新政府軍を相手に戦った旧幕府脱走軍の本拠となる稜堡式城郭

五稜郭に復元された箱館奉行所
五稜郭に復元された箱館奉行所

五稜郭は江戸時代末期に築かれた稜堡式(りょうほしき)城郭で、中心の箱館奉行所を守るための外堀が星型五角形の形状をしていることから五稜郭と呼ばれた。稜堡とは中世ヨーロッパで発展した城塞の防御施設のことで、星形要塞は多くの稜堡(三角形の突端部)を持ち、それぞれがお互いに連携して威力を発揮するように設計されている。重火器による戦闘においては、正面射撃だけでなく側面からの射撃を併用すると効果が上がる。この正面と側面からの火線を十字砲火というが、城郭の周囲はすきまなく火線で覆われるように設計しなければならない。稜堡式の城郭は、主郭から突き出た稜堡により、攻め寄せる敵軍に対して死角なく十字砲火を浴びせることができた。大砲が実戦に投入されると、城塞の形状も変化を迫られている。従来の高い城塞では大砲の標的になってしまうので、次第にその高さを低くしていった。しかし、箱館奉行所はそれに反していた。実際に箱館戦争のとき、箱館奉行所上部の太鼓櫓が新政府軍の艦砲射撃の格好の標的となった。それを知った旧幕府軍は慌てて太鼓櫓を撤去したが、すでに射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、砲弾が五稜郭の内部に次々と着弾したという。また城壁は石塁から土塁へと転換していった。石垣でできた城壁は、砲弾が命中したときの破片で城内の兵士を殺傷してしまうが、土塁の場合は砲弾が当たった時の衝撃を吸収する。五稜郭の場合は土塁を築こうにも寒冷な気候に適合せず、冬期に凍った土塁が温かくなると崩壊するという問題に直面した。このため石垣を築いて、その上に土を盛るという手間を掛けなければならなかった。五稜郭は費用不足もあって当初計画より縮小されており、半月堡(はんげつほ)も5箇所に計画していたが、大手口に1箇所しか造られなかった。箱館戦争ののち、五稜郭は明治政府の開拓使によって管理されることとなり、箱館奉行所の庁舎や付属の建物のほとんどは解体されてしまうが、白壁の土蔵である兵糧庫だけは現存している。平成22年(2010年)当時と同じ材料と工法で箱館奉行所が復元されている。函館一帯はかつて宇須岸(うすけし)と呼ばれていた。宇須岸という地名は、アイヌ語で「湾の端」を意味する「ウショロケシ」から転訛したものである。享徳3年(1454年)津軽の豪族である安東政季(まさすえ)が南部氏との戦いに敗れ、松前氏の始祖となる武田信廣(のぶひろ)らを従えて蝦夷地に渡った。その武将のひとりである河野政通(まさみち)が宇須岸に城館を築いて拠点とした。この宇須岸館(函館市弥生町)は箱館と呼ばれ、函館という地名の由来となる。一説によると、宇須岸館が七重浜(ななえはま)から見ると箱型をしていたためという。他にも、宇須岸館を築くときに鉄器の入った箱が出土したので箱館と呼ばれたという説もある。永正9年(1512年)アイヌとの抗争により、宇須岸館は陥落して河野一族は滅びた。寛政11年(1799年)江戸幕府はロシアの南下政策に対抗し、北辺警護のため松前藩の東蝦夷地を直轄地として、享和2年(1802年)箱館に箱館奉行を設置、翌年には宇須岸館跡に箱館奉行所を建てている。文化4年(1807年)松前藩は西蝦夷地も召し上げられ小名に降格、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。文政4年(1821年)幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地に戻されて松前に復帰している。これと同時に松前藩は北辺警備の役割を担わされることにもなった。嘉永6年(1853年)浦賀沖に現れたペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊は、アメリカ大統領からの国書を呈して、鎖国下の江戸幕府に対して開国を迫った。

江戸幕府はアメリカと日米和親条約を締結して、伊豆国下田と箱館の2港を開港、続いてイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を結んでいる。安政元年(1854年)江戸幕府は再び箱館奉行を設置し、安政2年(1855年)蝦夷地を松前藩だけでなく津軽藩、南部藩、仙台藩、秋田藩の5藩に分担警備させ、防衛力の強化を図った。そして箱館港入口の岩礁を埋め立て、不等辺六角形の弁天岬台場(函館市入舟町)の建設に着手、さらに箱館山麓の奉行所は港湾から近く防備上問題があるため、内陸の亀田の地に移転が決まった。このとき稜堡式築城法が採用され、弁天岬台場とともに武田斐三郎(あやさぶろう)が設計した。こうして弁天岬台場と五稜郭が元治元年(1864年)に完成している。五稜郭の北側一帯には、奉行所に勤める役人たちの役宅が建設され、整然と区画された屋敷町が誕生して、亀田柳野と呼ばれた原野は一大行政区に生まれ変わった。慶応3年(1867年)15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、大政奉還により江戸幕府が保持していた政権を朝廷へ返上し、薩長による武力倒幕を避けたが、慶応4年(1868年)薩摩藩の挑発に乗ってしまい、京都封鎖のために出兵を命じている。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩・桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。この鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩兵を主力とする新政府軍の5千に対して、旧幕府軍は1万5千の兵力を擁していながら、新政府軍に敗れてしまう。そして、新政府軍は、明治天皇から錦の御旗(にしきのみはた)が与えられて官軍となり、一方の旧幕府軍は「朝敵」としての汚名を受ける事になった。大坂にいた徳川慶喜は軍勢を見捨てて、大坂湾に停泊中の軍艦「開陽丸」で江戸に逃亡した。一方、新政府は東征軍を東海道・東山道・北陸道の三道から江戸へ進軍させた。そして、大総督府下参謀の西郷隆盛(たかもり)と、旧幕府代表として陸軍総裁の勝海舟(かいしゅう)が会談、江戸城を無血開城することに決まり、大総督府に接収された。徳川慶喜は助命されて謹慎のため水戸へ移っている。この無血開城は武器をすべて引き渡すことが条件であった。これに反発した海軍副総裁の榎本武揚(たけあき)は、軍艦引き渡しを断固拒否して、旧幕府海軍の主力艦8艦を率いて品川沖から千葉の館山沖に逃れた。しかし、新政府の要請を受けた勝海舟の説得で、艦隊の半分、観光(かんこう)、朝陽(ちょうよう)、富士山(ふじやま)、翔鶴(しょうかく)を引き渡すことを受け入れ、品川沖に回航した。勝海舟はその後も再三にわたり榎本に自重を求めたが、新政府と対立している奥羽越列藩同盟を支援するため、榎本武揚は品川沖を脱走して仙台に向かった。この脱走海軍の艦隊は、開陽(かいよう)を旗艦として、回天(かいてん)、蟠龍(ばんりゅう)、咸臨(かんりん)と、その後に加わった千代田形(ちよだがた)、神速(しんそく)、長鯨(ちょうげい)、三嘉保(みかほ)の8艦であった。この艦隊には、元若年寄の永井尚志(なおゆき)、元陸軍奉行並の松平太郎、渋沢成一郎が率いる彰義隊の残党、伊庭八郎が率いる遊撃隊など抗戦派の幕臣2千人余が乗り組んでいた。軍艦の開陽丸は、幕府がオランダに造船させた最新鋭艦で、新政府軍が保持する軍艦をはるかに凌ぐ性能を持っていた。オランダ海軍大尉ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言したという。また、咸臨丸は日本で初めて太平洋を往復した蒸気船で、そのときは勝海舟が艦長を務めている。太平洋横断後、咸臨丸は蒸気機関と大砲を外し、運送用帆船として使用された。

仙台に向かった榎本艦隊は銚子沖で暴風雨に遭い、大量の軍需物資を積んでいた美嘉保丸は岩礁に乗り上げて沈没、また大破して漂流した咸臨丸は駿河の清水港で修理していたところを新政府軍に急襲されて降伏した。咸臨丸の乗組員は逆賊として新政府軍に虐殺されている。この時、小船を出して駿河湾に放置されている遺体を収容し、埋葬したのは清水次郎長(しみずのじろちょう)であった。この行為は新政府軍に咎められるが、次郎長は「死者に官軍も賊軍もない」として突っぱねたという。結局、榎本艦隊で仙台湾に着いたのは6艦である。しかし仙台藩が新政府軍に降伏したため、艦隊は蝦夷地を目指して箱館に向かった。新政府が決定した徳川家への処置は、徳川領800万石から駿河・遠江国70万石へ減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの者が路頭に迷うことになる。これを憂いた榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策したのである。仙台では、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた旧幕府脱走陸軍を収容している。桑名藩主の松平定敬(さだあき)、元幕府老中の板倉勝清(かつきよ)、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介(けいすけ)、新選組副長の土方歳三(としぞう)、遊撃隊長の人見勝太郎、衝鋒隊長の古屋佐久左衛門、仙台藩額兵隊長の星恂太郎(じゅんたろう)と、その隊士たちも乗船させた。幕府から仙台藩に預けてあった太江(たいこう)、鳳凰(ほうおう)、長崎(ながさき)を艦隊に加え、さらに気仙沼付近で海賊に奪われていた旧幕府の千秋丸(回春と改称)を奪回しており、榎本艦隊は10艦となった。このうち、千代田形と長崎丸を新政府軍と戦っている庄内藩の救援に向かわせたが、長崎丸は酒田沖で暗礁に乗り上げて沈没、庄内藩の降伏によって千代田形は遅れて箱館に到着した。榎本武揚は艦隊を鷲ノ木(茅部郡森町)に接岸させており、ここは新政府の拠点である箱館より10里ほど北に位置していた。江戸幕府の箱館奉行所は、新政府によって箱館裁判所(箱館府)となっており、知事として清水谷公考(しみずだにきんなる)が派遣されていた。箱館府兵100人余と松前藩兵1小隊のみであった箱館守備兵は、津軽藩兵4小隊、備後国福山藩兵700人、越前国大野藩兵170人が到着して兵力を増強している。鷲ノ木に上陸した脱走軍3000名は、清水谷府知事の派遣した箱館府兵を峠下・大野・川汲などで敗走させた。五稜郭にあって戦況を窺っていた清水谷府知事は、全軍敗北の報せを受けて五稜郭を放棄、カガノカミ号で箱館港を脱出した。逃げ遅れた津軽藩兵、福山藩兵、大野藩兵は、プロシアのタイパンヨー号を雇い上げて本州に脱出している。こうして脱走軍は無人の五稜郭へ入城して、これを占拠した。箱館港には回天丸、蟠龍丸の2艦が入港、箱館港および箱館を制圧している。そして、箱館港に入港してきた秋田藩の高雄丸は、警戒に当たっていた回天丸にだ捕されて脱走軍に没収されている。脱走軍は高雄丸を第二回天丸と改称して艦隊に加えた。さらに旗艦である開陽丸も箱館港に入港している。箱館を占拠した脱走軍の行動は早く、土方歳三を総大将とした脱走軍700名で松前城(松前町松城)を攻略、松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却している。脱走軍は松前藩兵を追って江差へ向かうが、途中で開陽丸から江差を占拠したとの報告が入った。陸軍の活躍によって肩身の狭かった海軍は、陸軍援護のために開陽丸を箱館から江差に航行させ、江差沖から艦砲射撃を加えた。しかし反撃がないので斥候を出すと、松前藩兵はすでに撤退していたという。

ところが、夜になって天候が急変する。開陽丸はタバ風と呼ばれる風波に押されて座礁。艦内の大砲を陸側に向け一斉射撃して離礁させようと試みたがうまくいかず、ついに沈没した。救援に駆け付けた運送船の神速丸も荒波の中に引き込まれている。主力艦の喪失は、脱走軍の海軍力を大きく低下させただけでなく、彼らの士気をも大きく落ち込ませる結果となった。現在、江差の鴎島に開陽丸が復元されており、船内には海底から引き揚げられた開陽丸の遺物が展示されている。松前藩主の松前徳廣(のりひろ)は津軽に脱出、蝦夷地の制圧を終えた脱走軍は五稜郭へ凱旋した。そして、蝦夷島政府(蝦夷共和国)の総裁を決めるため、日本で初めて公選入札(選挙)が行われた。この投票結果によって榎本武揚が蝦夷島総裁となり、蝦夷地領有宣言式をおこなった。副総裁は松平太郎と決まり、箱館奉行には永井尚志が就任している。彼らの要求は、大政奉還により生活の糧を失った徳川家臣団を蝦夷地に移住させ、開拓に従事しながら日本の北の守りを固め、明治天皇を中心とした新しい日本の発展に貢献したいというもので、いわゆる蝦夷共和国と呼ばれるような明治政府に対抗する独立国家を目指したものではなかった。明治2年(1869年)明治新政府は箱館征討のため、甲鉄(こうてつ)、陽春(ようしゅん)、春日(かすが)、丁卯(ていぼう)、飛龍(ひりょう)、戊辰(ぼしん)、晨風(しんぷう)、豊安(ほうあん)の8艦で品川沖を出航した。宮古湾海戦では、脱走軍の回天、蟠竜、高雄の3艦がアメリカ国旗を掲げて新政府軍の艦隊に近づき、甲鉄艦に乗り移って奪い取ろうとしたが失敗、高雄丸は新政府軍の艦隊にだ捕されている。新政府軍は日本海側の乙部から上陸して、二股、木古内、松前の3方面から攻め、甲鉄、陽春、春日、丁卯、朝陽の5艦による砲撃もあり、松前城の奪還に成功している。二股、木古内から箱館を目指す新政府軍は、脱走軍の頑強な抵抗に遭いながらも徐々に前進していき、脱走軍の占拠地は箱館と五稜郭を残すのみとなった。新政府軍は箱館総攻撃を決行、これにより四稜郭(函館市陣川町)、権現台場(函館市神山町)が陥落している。一方、脱走軍の艦隊は、これ以前に座礁した千代田形が新政府軍にだ捕され、機関をやられた回天が沖ノ口近くの浅瀬で浮台場となっていたため、軍艦として機能するのは蟠龍のみとなっていた。そして、箱館港にて蟠龍は新政府軍の朝陽と激しい砲撃戦を展開しており、朝陽は火薬庫に被弾して轟沈した。その後、新政府軍の軍艦に追われた蟠龍は弁天岬台場脇の浅瀬に乗上げてしまうが、それでも砲弾を撃ち尽くした。脱出した乗組員は蟠龍、回天の両艦に火を放ち、五稜郭に退却している。のちに、函館では「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったという。新選組隊士の守備する弁天岬台場が新政府軍に包囲されて孤立したため、土方歳三は額兵隊2小隊を率いて救援に向かい、一本木関門で七重浜より攻め来る新政府軍に応戦して馬上で指揮を執った。この乱戦の中、松前藩士である米田幸治(まいたこうじ)の銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近がすぐに駆けつけたが鬼の副長は絶命していた。箱館市中は新政府軍に制圧され、箱館山からの砲撃と軍艦による艦砲射撃を受けていた弁天岬台場は降伏した。いよいよ敗北を意識した榎本武揚は、『万国海律全書』は日本に一冊しかない貴重な本で、これが失われるのは国家の損失として新政府軍に贈った。そして、その返礼として五稜郭に酒樽と肴が贈られたという。ここに至って、五稜郭もついに降伏しており箱館戦争は終結した。(2010.11.23)

五稜郭に唯一現存する兵糧庫
五稜郭に唯一現存する兵糧庫

半月堡の武者返しの付く石垣
半月堡の武者返しの付く石垣

展望台から見下ろした五稜郭
展望台から見下ろした五稜郭

江差の鴎島に復元された開陽丸
江差の鴎島に復元された開陽丸

[MENU]