岐阜城(ぎふじょう)

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斎藤道三が本格的に築城し、織田信長が上洛の足掛かりとした天下布武の居城

金華山山頂に建つ岐阜城天守
金華山山頂に建つ岐阜城天守

濃尾平野の北端に独立してそびえ立つ金華山(きんかざん)、その標高329mの山頂を本丸とする岐阜城は、比高も308mという急峻な山城である。このため、難攻不落の名城として知られるが、実際には6回の落城を経験している。しかし、それは岐阜城の名を貶めるものではなく、それほど多くの武将が岐阜城を手に入れるため、争奪戦を繰り返した結果といえる。美濃国は交通の要衝で、「美濃を制すものは天下を制す」といわれるほどである。そのため、江戸幕府は美濃に大大名を置くことを恐れ、美濃国54万石のうち3割を幕府直轄領とし、残りを10万石以下の約30の小藩と、旗本領に細かく分割して互いに牽制させた。岐阜城は戦国時代後期における美濃国の府城であった。金華山は旧名を稲葉山といい、かつては一石山(いっせきざん)と呼ばれたように、全山がひとつの岩塊でできている。断崖絶壁な岩山なため、広い曲輪を設けることができず、山頂部を中心に小さな曲輪を多く配して、金華山全体を要塞化していた。慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城の天守は、加納城(岐阜市加納丸之内)に移され、二の丸御三階櫓に転用された。享保13年(1728年)この御三階櫓は落雷によって焼失してしまう。この時、由緒ある建物であるから失念しないうちにと、加納藩大工棟梁家によって『加納城御三階の図』が作られている。現在、岐阜城に建つ鉄筋コンクリート建築の3層4階天守は、昭和31年(1956年)名古屋工業大学名誉教授の城戸久氏によって設計されたもので、『加納城御三階の図』や、稲葉山城の古絵図、ルイス・フロイスの書簡などを基にして、池田輝政(てるまさ)による改修後の天守を推定復元している。昭和50年(1975年)米蔵跡には岐阜城資料館が建てられた。天守曲輪の南西方向の尾根筋に上台所(台所曲輪)跡があり、岐阜地方気象台の建物が建っている。上台所跡から一段下がったところに下台所(二の丸)跡がある。二の丸門跡には冠木門が建てられ、曲輪の周囲には白壁の城壁が再現されている。そして、松風橋が架かっている場所が堀切跡で、この堀切には部分的に石垣遺構が残っている。古絵図によると、二の丸から堀切を経て七間櫓まで土塀が描かれており、昭和61年(1986年)堀切から七間櫓へ向かう途中に土塀の一部が復元された。その先には七間櫓跡があり、南北18m、東西9mの平地に望楼のような建物の跡がみられるといい、現在は展望レストランになっている。白壁の土塀の下には馬場跡といわれる曲輪があり、その先に上格子門(あげこうしもん)跡のある狭い曲輪がある。この曲輪は、七間櫓のある曲輪の南東側の下にあり、侵入する敵を食い止める防御拠点となる。実際に関ヶ原の戦いでは、大手道である七曲口から福島正則(まさのり)、加藤嘉明(よしあき)、細川忠興(ただおき)の軍勢が、百曲口から京極高知(たかとも)らの軍勢が攻め上がり、この上格子門で激しい銃撃戦がおこなわれた。上格子門跡のあたりにも多少の石垣が残されている。また、ここから東に下がった尾根上に松田尾砦跡がある。他にも周辺の峰々には、丸山砦、稲荷山砦、稲葉山砦、権現山砦、相場山砦、上加納山砦、瑞竜寺山砦が存在した。そして、リス村のある場所が、かつての硝薬庫と言う。金華山に湧水は出ないため、籠城に備えた飲み水の確保は非常に困難であった。このため、雨水を溜める貯水池のような井戸を岩塊に掘削した。現在も山頂部には4ヶ所の井戸が残されている。山麓にある岐阜公園の千畳敷では、織田信長居館跡の発掘調査がおこなわれており、調査結果に基づいて巨石を使用した通路や虎口などの石垣が保存整備されている。

建仁元年(1201年)鎌倉幕府の政所別当である二階堂行政(ゆきまさ)が、京都への抑えとして稲葉山の山頂に砦を築いたのが岐阜城の始まりである。この稲葉山城は、二階堂行政の娘婿の佐藤伊賀守朝光(ともみつ)に譲られた。そして、朝光が伊賀守だったことから、次男の光宗(みつむね)は伊賀氏を称し、稲葉山城主を受け継ぐ。貞応3年(1224年)伊賀光宗は伊賀氏の変で信濃国に配流となり、弟の光資(みつすけ)が稲葉氏を称して城を守った。その後、稲葉光房(みつふさ)と続き、正元元年(1259年)二階堂行政の曾孫の二階堂行藤(ゆきふじ)が城主となり、行藤の死後に一旦廃城になったと伝わる。15世紀中頃になると、美濃守護代の斎藤利永(としなが)が、長らく使われていなかった稲葉山城を修築して居城とした。利永の死後、嫡男の斎藤利藤(としふじ)が守護代を継ぎ、叔父の斎藤妙椿(みょうちん)が後見した。応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発すると、美濃国守護職の土岐成頼(しげより)が西軍に属して上洛し、妙椿が留守を預かる。妙椿はよく戦い、東軍に属した国内勢力を駆逐し、近江から侵攻してきた京極氏を撃破、さらに近江、伊勢、越前、尾張、三河に出兵して東軍と戦った。永正7年(1510年)頃、小守護代の長井長弘(ながひろ)は、常在寺(岐阜市梶川町)の日運(にちうん)の推挙により、油商人であった松波庄五郎を家来に取り立てた。そして、断絶していた家来筋の西村氏の名跡を相続させ、西村勘九郎正利(まさとし)と名乗らせた。のちに長井姓を贈り、長井新左衛門尉と名乗る。この長井新左衛門尉が斎藤道三(どうさん)の父で、油商人の前は京都妙覚寺の僧侶で法蓮房といった。従来、斎藤道三のいわゆる「国盗り物語」は、道三一代の偉業とされてきたが、永禄3年(1560年)7月付けの『六角承禎書写』の発見により、新左衛門尉と道三の父子2代による集大成であることが通説となった。長井新左衛門尉は美濃国守護職の土岐政頼(まさより)の弟である頼芸(よりのり)に仕えていたが、大永5年(1525年)長井長弘と長井新左衛門尉が土岐頼芸を奉じて謀反を起こし、守護の土岐政頼、守護代の斎藤利茂(とししげ)らと戦い、主家である斎藤氏の稲葉山城を攻め取った。享禄3年(1530年)土岐頼芸は兄の政頼を越前に追放して実質的な守護となった。この時期に長井長弘、長井利安(としやす)、長井利隆(としたか)など、長井氏の有力者が相次いで死去しており、長井新左衛門尉または、嫡子の新九郎規秀(のりひで)によって殺されたといわれている。この長井規秀こそ「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三である。その後、長井新左衛門尉も死去し、長井家を継いだ長井規秀は、土岐頼芸から側室の深芳野を与えられるほど重用された。天文7年(1538年)前守護代の斎藤利良(としなが)が病没すると、頼芸は長井規秀にその名跡を継がせており、斎藤左近大夫利政(としまさ)と称して美濃の実権を握った。天文8年(1539年)利政の居城である稲葉山城は大改修され、井ノ口に城下町も整備された。そして、利政は斎藤山城守秀龍(ひでたつ)と改め、天文11年(1542年)邪魔な存在となった美濃国守護職の土岐頼芸を追放し、美濃一国を完全に支配するようになる。一方、頼芸は尾張国の織田信秀(のぶひで)に支援要請しており、天文13年(1544年)信秀は頼芸への協力を名目に西美濃に攻め込み、大垣城(大垣市)を攻略している。織田信秀は美濃攻めを再三敢行しているが戦果を挙げることができず、天文16年(1547年)加納口の戦いでは1万の軍勢で稲葉山城下まで攻め込むが、5千人の戦死者を出して大敗した。

天文17年(1548年)斎藤秀龍は織田信秀と和睦し、信秀の嫡子である信長と、秀龍の娘である帰蝶(濃姫)が縁組した。天文23年(1554年)秀龍は稲葉山城と家督を長男の義龍(よしたつ)に譲り、剃髪して道三と号した。しかし、道三と義龍の関係は良好ではなく、弟の孫四郎や喜平次らを偏愛し、次第に義龍の廃嫡を考えるようになった。斎藤義龍の生母は深芳野であり、実父は土岐頼芸とも伝えられ、そのことが父子不和の原因と語られる。弘治元年(1555年)将来に不安を感じた義龍は、叔父の長井道利(みちとし)と共謀して、日根野弘就(ひろなり)に弟の孫四郎、喜平次らを殺害させ、両者の衝突は回避できないものとなった。弘治2年(1556年)長良川の戦いで道三は義龍と戦ったが、家中の大半は義龍を支持し、義龍軍1万7千余に対して道三が動員できたのはわずか2千余であった。この時、道三から「国譲り状」を受け取った娘婿の織田信長は、道三の救援に向うが国境で美濃勢に阻まれて助けることができなかった。道三を討ち取った斎藤義龍は、それなりの器量をもった武将で、宿老による合議制を導入するなど家中をよく統率し、「国譲り状」を大義名分として執拗に攻め込む織田信長をことごとく撃退している。しかし、永禄4年(1561年)義龍が35歳で病死し、嫡子の龍興(たつおき)が13歳で家督を継ぐと、斎藤氏は衰退し始める。斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、側近の斎藤飛騨守のみを重用して他の家臣を遠ざけていた。このため、家臣の信望を失っていったが、信長の侵攻を何とか防いでいた。これは竹中半兵衛重治(しげはる)の知略によるものであった。しかし、龍興の行状が改まることはなかったため、永禄7年(1564年)竹中半兵衛と、その舅で西美濃三人衆のひとり安藤守就(もりなり)が挙兵、稲葉山城を占拠して龍興を追放するという事件が発生した。この時、斎藤飛騨守は斬殺されている。これを聞いた信長は、半兵衛に美濃半国を与えるので稲葉山城を譲るよう交渉したが、半兵衛は主人を諌めることが目的なので応じず、半年後に城を龍興に返還して国外に逐電した。その後の斎藤氏は衰退の一途をたどり、多くの家臣が信長に通じるようになった。永禄10年(1567年)西美濃三人衆の稲葉一鉄(いってつ)、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就が信長に内応、木下藤吉郎などの活躍もあり、ついに稲葉山城は信長によって落城した。この稲葉山城の戦いに敗れた龍興は、長良川を船で下り、伊勢国長島に逃れる。永禄10年(1567年)織田信長は本拠を尾張小牧山城(愛知県小牧市)から稲葉山城に移し、井ノ口の地名を岐阜へ改称した。これは、尾張政秀寺(愛知県小牧市)の沢彦宗恩(たくげんそうおん)に案を作らせたもので、古代中国の周王朝が岐山より天下を平定した故事に因む。また信長は、永禄10年(1567年)11月に発給した文書から、「天下布武」の印判を使い始めた。この印文も沢彦に選ばせたもので、天下統一の意気込みが伝わる。信長は岐阜城を大改修しており、永禄12年(1569年)岐阜城を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』や、公家の山科言継(ときつぐ)の『言継卿記』に記されるように、2つの天守建築が造営された。1つは山麓の千畳敷きに造られた「天主」と呼ばれる壮大な御殿で、大入母屋の上に望楼を乗せたと想定される4階建ての建物である。もう1つは、金華山の山頂に造られた「天守」と書く高欄廻縁の望楼を伴う建物である。ちょうどこの頃、室町幕府14代将軍足利義輝(よしてる)の弟である義昭(よしあき)から幕府再興の依頼を受け、義昭を立政寺(岐阜市西荘)に招いている。

永禄11年(1568年)岐阜を発った信長は、6万の軍勢を率いて南近江の六角義賢(よしかた)を撃破、上洛を果たして義昭を室町幕府16代将軍に就任させた。そして、信長の岐阜と京都を往復する多忙な日々が始まる。当初、義昭と信長の関係は良好であったが、信長が政治の実権を握り、義昭の権限を制限すると、両者の関係は急速に悪化した。義昭は全国の有力大名に信長討伐の御内書を送り、このため信長包囲網ができあがり、岐阜城時代の信長は戦いに明け暮れた。天正4年(1576年)近江安土城(滋賀県近江八幡市)が完成すると、信長は拠点を岐阜城から移しており、岐阜城の在城期間は約9年であった。信長は長男の信忠(のぶただ)を岐阜城主とし、美濃・尾張の2ヶ国を与えた。天正10年(1582年)明智光秀(みつひで)が本能寺の変によって主家の織田信長・信忠父子を滅ぼすと、明智軍に呼応して斎藤玄蕃充利堯(としたか)が岐阜城を乗っ取り占拠した。斎藤利堯とは織田信忠の旗本であった人物で、『寛政重修諸家譜』には斎藤道三の子、『勢州軍記』には稲葉一鉄の甥とある。斎藤利堯は斎藤家の再興のため、美濃中部に勢力の拡大を目論むが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、信長の三男である織田信孝(のぶたか)に降伏している。同年の清洲会議により、織田信忠の嫡子である三法師がわずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続、信長の後継者となる。一方、織田信孝には美濃国が与えられて岐阜城主となり、三法師の後見役となった。信孝は、秀吉が幼い三法師を利用して織田家の実権を握ろうとしていることを察し、秀吉と対立する織田家筆頭家老の柴田勝家(かついえ)や滝川一益(かずます)らと盟約を結び、安土城に移すことになっていた三法師を岐阜城に留めた。これが原因となり、羽柴秀吉の軍勢が美濃国に攻め入り岐阜城に迫ったため、信孝はやむなく降伏して三法師を引き渡した。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再び挙兵する。秀吉は勝家との対陣が膠着状態になると、2万の軍勢を率いて岐阜城に押し寄せた。これを知った佐久間盛政(もりまさ)が秀吉の留守を衝いて攻撃を仕掛けるが、秀吉の美濃返しによって形勢は逆転、これが原因となり柴田勝家は敗北した。こうなると岐阜城からは逃亡者が相次ぎ、信孝が降伏したときの人数は27人しかいなかったという。同年、池田恒興(つねおき)が13万石で大垣城主になると、長男の元助(もとすけ)が岐阜城主となる。しかし、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで恒興・元助父子が戦死したため、次男の輝政が岐阜城主となった。この輝政の時代に岐阜城は大改修され、惣構えまで完成している。天正18年(1590年)池田輝政は三河国吉田に移封となり、岐阜城には秀吉の養子である羽柴秀勝(ひでかつ)が入城する。しかし、文禄元年(1592年)朝鮮出兵の際、秀勝が巨済島で陣没すると、織田秀信(ひでのぶ)に美濃国岐阜13万石が与えられて岐阜城主となった。織田秀信とは元服した三法師である。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成(みつなり)の挙兵に応じて西軍に属し、岐阜城は西軍の前線拠点の中核となった。しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城は東軍の先鋒に攻められて落城、秀信は高野山に追放された。慶長6年(1601年)徳川家康は、あまりに険峻な岐阜城の再利用を恐れて廃城とし、奥平信昌(のぶまさ)に10万石を与えて加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、石垣などは加納城に移されたという。江戸時代、岐阜は尾張藩の役所が置かれる陣屋町となり、金華山は尾張藩のお留め山として立ち入りが禁止された。(2011.01.24)

天守から眺めた上台所と下台所
天守から眺めた上台所と下台所

本丸井戸の上部に残る石積み
本丸井戸の上部に残る石積み

山麓に築かれた織田信長居館跡
山麓に築かれた織田信長居館跡

城下の妙照寺に現存する城門
城下の妙照寺に現存する城門

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