二俣城(ふたまたじょう)

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武田信玄の西上作戦を2ヶ月間も足止めさせた徳川家康の北遠の拠点

二俣城の本丸に残る天守台
二俣城の本丸に残る天守台

信濃・遠江・三河の国境山岳地帯を抜けてきた天竜川が、平野部に差し掛かるところに二俣の地がある。天竜川は二俣で大きくU字状に蛇行しており、二俣城は蜷原(になはら)台地の南端部に築かれていた。西側には天竜川の急流が流れ、往時は東側から南側にかけて二俣川が流れて天竜川に合流していた。天竜川と二俣川に囲まれた二俣城の三方は急崖で、北側の台地続きを断ち切れば、独立した山城となった。標高90mの切り立った山を階段状に削平し、北側から外曲輪、北曲輪、本丸、二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪がほぼ一直線上に配置された連郭式山城で、本丸から西側には西曲輪、水の手曲輪が派生していた。現在もこれら大小の曲輪跡がほぼ原形をとどめている。本丸は不整形な方形で、本丸東側の北と南にそれぞれ虎口を設け、北虎口は幅が約3.8mの喰違虎口、南虎口は約4.3mの枡形虎口となっている。発掘調査により、瓦葺屋根の中仕切門が存在したことが明らかになっている。本丸の周囲には土塁または石塁がめぐっていたようだが、現在は西側の一部が欠失している。本丸西側には、高さ4.5〜5m、基底部12.7×11.2mほどの小規模な天守台がある。おそらく5間四方の平面で、北側に付櫓を伴った3層または2層天守が造営されていたと思われる。天守台の築造時期については、徳川家の大久保忠世(ただよ)が武田勢と対峙していた天正3年(1575年)から天正10年(1582年)頃までと想定され、静岡県では数少ない中世戦国期の天守台として貴重な遺構とされている。家康による浜松城(浜松市中区元城町)の改修と同時期であり、多くの共通点が見られる。石垣は野面積みで、角の隅石組には井楼積みが用いられる。石垣には当地で掘り出される石灰岩が使用されており、加工が容易なことから、浜松城の石垣より丁寧に加工されている。この天守台だけでなく、二俣城の要所には石垣が用いられている。本丸の南側には1.5mほど低い段差で区画された二之曲輪があり、現在は城山稲荷神社が建てられている。周囲には土塁がめぐり、東側に石垣で挟まれた大手門の跡がある。この石垣の上には渡櫓門が存在していたと推定される。二之曲輪の南側には深さ7m、幅5〜6mほどの堀切がある。この堀切は、発掘調査によって箱堀であったことが分かっており、深さもさらに1.5mほど深いことが明らかになっている。この南側が蔵屋敷と呼ばれている区画である。蔵屋敷には土塁や井戸跡を有し、その南端の土塁の内側には石垣が積まれている。その先にも堀切があり、南曲輪の先にも堀切がある。一方、北曲輪は本丸の北側に位置し、現在は旭ケ丘神社の境内となっている。一部に土塁の跡を残し、その北側は二俣城と蜷原砦とを分断する大堀切になっている。さらに本丸、二之曲輪の東西断崖下にもいくつかの帯曲輪、腰曲輪群が存在する。城山の東麓にある清瀧寺(浜松市天竜区二俣町二俣)には、かつて二俣城にあったといわれている井戸櫓が復元されている。二俣城の廃城の際、井戸櫓は清瀧寺に移築され、明治年間(1868-1912年)に改築、現在のものは昭和37年(1962年)に再建されたものである。清瀧寺には、他にも徳川家康の長男である松平信康(のぶやす)の廟所もある。信康廟入口の宝筺印塔は、当時の二俣城主の大久保忠世、三方ヶ原の戦いで戦死した二俣城将の中根正照(まさてる)、青木貞治(さだはる)、信康の小姓で殉死した吉良於初(おはつ)である。なお、極楽寺(周智郡森町一宮)には「石づりの戸」と呼ばれる戸板が残されており、3枚の戸板に松が墨で描かれている。これは二俣城の松乃間にあった戸板で、松乃間は松平信康の切腹の間であった。

二俣城の起源は明確でないが、寛政元年(1789年)の『遠江国風土記伝』により、駿河国守護職の今川氏親(うじちか)の家臣であった二俣近江守昌長(まさなが)が文亀年間(1501-04年)に築いたというのが一般的である。遠江の国人であった二俣氏は、文明8年(1476年)今川義忠(よしただ)による侵攻を受け、今川氏に降って社山城(磐田市社山)に在城していたが、文亀3年(1503年)二俣昌長の代になり、今川氏に反抗する動きに出た。これを知った今川氏親は二俣氏を誅殺しようとするが、重臣達の取りなしにより二俣の地に移されたという。永正11年(1514年)昌長は再び謀反の疑いをかけられ、米倉城(周智郡森町一宮)の麓にある極楽寺に蟄居を命じられる。極楽寺の過去帳によると、昌長の没年は天文20年(1551年)とある。しかし、二俣昌長の二俣築城説は、その論拠が明らかでなく、信憑性が低いとされる。一方、文献においては、南北朝時代の建武5年(1338年)1月の内田孫八郎致景(むねかげ)の軍忠状に「二俣城の戦いで軍功を表す」とあるのが初見となり、文亀年間(1501-04年)以前より存在した可能性は高い。戦国時代初頭、遠江国をめぐって今川氏と遠江国守護職の斯波氏が争い、二俣城はその拠点として利用された。ただし、それは現在の二俣城の場所ではなく、北東の平坦地に存在したと推定されており、現在では区別のために二俣古城とも笹岡古城とも呼ばれている。遺構のほとんどは昭和42年(1967年)の旧天竜市役所建設の際に破壊され、現在では背後の本城山に土塁が残る程度である。発掘調査により山茶碗、青磁、白磁、井戸枠、柱根などが出土している。さらに、城郭として使用された上限は平安時代末期で、下限は戦国期まで下るがことが明らかになった。『小笠原文書』によると、文亀元年(1501年)斯波氏の援軍要請に応えて、信濃国守護職の小笠原貞朝(さだとも)が、斯波氏の拠る二俣城に入ったとあることから、この頃まで二俣城は斯波氏の拠点であったと考えられる。今川氏親の遠江侵攻は明応3年(1494年)頃から始まっており、この軍勢を率いたのは叔父の北条早雲(そううん)であった。これに対抗して斯波義寛(よしひろ)は、文亀元年(1501年)弟の義雄(よしかつ)を周智郡および北遠の押さえとして出陣させた。斯波義雄は社山城、天方本城(周智郡森町大鳥居)、二俣城を拠点に今川軍と対峙している。同年(1501年)社山城の斯波義雄は今川軍に敗れて二俣城に退去したという史料もあり、この年は今川氏の遠江侵攻が激化した年であった。永正3年(1506年)には今川一門の瀬名一秀(かずひで)が二俣城に在城したことが『小笠原文書』に記されていることから、この頃から今川氏の拠点となったようである。その後になって二俣昌長が二俣城に配されたと考えられる。永正11年(1514年)には、松井貞宗(さだむね)の長男である左衛門尉信薫(のぶしげ)が二俣氏に替わり二俣城に配置された。享禄元年(1528年)信薫が病没すると、弟の左衛門佐宗信(むねのぶ)が二俣城を継いでいる。宗信は今川義元(よしもと)の三河進出に従っており、天文年間(1532-55年)には三河国の各地で転戦、天文16年(1547年)には三河田原城(愛知県田原市)の攻略で「粉骨無比類」の働きにより今川義元から感状を受けている。ところが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、宗信の率いる部隊は本陣の前備えに配置されており、織田軍が強襲した際には本陣を守るために手勢200名を率いて馳せ戻り、懸命に奮戦したが、宗信を始めそのほとんどが討ち取られたと伝えられる。

松井宗信の死後、兄の信薫の子である宗親(むねちか)が二俣城主となったが、永禄6年(1563年)曳馬城(浜松市中区元城町)の飯尾連竜(つらたつ)が反乱を起こすと、連竜の姉婿であった宗親も疑われ、駿府で謀殺されている。このため、宗信の嫡子である八郎宗恒(むねつね)が二俣城主を継ぐ。桶狭間の戦いによって遠江の状況は一変しており、三河徳川氏と甲斐武田氏によって脅かされるようになった。特に浜名湖、天竜川地域では徳川氏の進攻に対処するため、今川氏真(うじざね)の指示によって境目城(湖西市吉美)、宇津山城(湖西市入出)、中尾生城(浜松市天竜区龍山町)、二俣城の築城・改修作業が急速におこなわれている。このとき松井氏は、天竜川と二俣川を利用した現在の二俣城の地に新城を築いて、拠点を移したといわれる。しかし、永禄11年(1568年)二俣城は徳川家康の侵攻を受け、城将の鵜殿三郎氏長(うじなが)、松井一族の松井和泉守某、松井八郎三郎某らは降参して徳川氏に服属した。この時の松井宗恒の動向は不明であるが、後に武田氏に帰属し、元亀3年(1572年)武田氏より2千貫文の知行を宛われている。家康は鵜殿氏長を二俣城番に任じたが、武田信玄(しんげん)の来襲に備えるため、中根正照を主将、松平康安(やすやす)と青木貞治を副将として入城させた。元亀3年(1572年)武田信玄は3万の大軍を率いて上洛を志し、信濃から青崩(あおがれ)峠を越えて遠江に進攻した。武田本隊と馬場信春(のぶはる)の率いる別働隊は二俣城を包囲している。信玄は武田勝頼(かつより)に二俣城攻めを命じており、城兵の数は1200人ほどであったが、天然の要害である二俣城は簡単には落城しなかった。この時、信玄の本陣となった合代島(ごうたいじま)とは亀井戸城(磐田市下野部)と推定され、二俣城からは約5kmの距離にある。武田軍は二俣城の孤立を狙い、馬場信春と小田原北条氏の援軍が徳川家康の後詰に備えて社山城山麓の神増(かんぞ)に布陣、穴山信君(のぶきみ)が徳川方の石川家成(いえなり)の掛川城(掛川市掛川)、小笠原氏助(うじすけ)の高天神城(掛川市上土方)を牽制して匂坂(さぎさか)に布陣、山県昌景(まさかげ)が別働隊として東三河の各地を制圧し、二俣城への連絡を断ち切ることに成功している。しかし、二俣城の攻め口は北東の大手口しかなく、しかも大手口は急な坂道になっており、攻めのぼる武田兵は次々と矢弾の餌食となった。寄せ手の大将である勝頼は二俣城を攻めあぐみ、2ヶ月が経過した。二俣城の台地斜面は川に削られた岩盤むき出しの天然の要害であるが、切り立った岩盤上に立地しているため二俣城には井戸がなく、天竜川の断崖に井楼(井戸櫓)を設け、滑車に縄をかけて釣瓶で水を汲み上げていた。それを知った勝頼は、大量の筏を作らせて天竜川の上流から流し、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという作戦を実行した。この作戦は見事に成功し、井楼は崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれた。水が補給できなくなった城兵は戦意を喪失、二俣城での籠城は不可能と判断した中根正照は、武田軍に人質を差し出して降伏し、二俣城を明け渡した。これにより家康の本拠である浜松城は完全に孤立、その後の三方ヶ原の戦いで信玄に挑んだ家康であったが大敗を喫し、二俣城の戦いの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治を始め、多くの将兵をことごとく失ってしまった。『伊能文書』によると、信玄は越前の朝倉義景(よしかげ)に戦勝報告するとともに、織田信長を討つよう出陣の催促をしているが、この手紙の中に二俣城が修築中であることも記されている。

元亀4年(1573年)武田信玄は持病が悪化して死去した。さらに、天正3年(1575年)長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に大勝すると、家康は失地回復のため大久保忠世を大将に任じ、二俣城の周囲に7つの付城を構築して包囲した。二俣城将の依田信蕃(のぶしげ)はよく戦い、半年間も籠城するが二俣城には後詰もなく、武田勝頼からの開城勧告により降伏している。二俣城といえば、松平信康(のぶやす)が非業の最期を遂げた地としても有名である。永禄2年(1559年)信康は家康の長男として駿府で生まれた。母親は正室の築山殿で、この女性は今川一門の関口刑部少輔親永(ちかなが)の娘であり、今川義元の姪にあたる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごした信康は、桶狭間の戦いの後に徳川氏の捕虜となった鵜殿氏長・氏次(うじつぐ)兄弟との人質交換により三河岡崎城(愛知県岡崎市)に移る。永禄10年(1567年)信康は信長の娘である徳姫と結婚し、元亀元年(1570年)家康が本拠を浜松城に移すと岡崎城を譲り受けた。信康は信長と家康の二字を諱としており、織田・徳川同盟の申し子のような存在であった。天正元年(1573年)15歳の信康は三河足助城攻めで初陣を飾り、天正3年(1575年)長篠の戦いに参加、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。ところが、織田信長は隣国の信康の武将としての成長に、将来の織田家への不安を感じていた。『三河物語』によると、徳姫は今川氏の血を引く築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)父の信長に十二箇条の手紙を書いた。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通していること等が記されていたという。この情報の信憑性は低いものであったが、使者で徳川家の家老である酒井忠次(ただつぐ)は弁明できず、信長は家康に2人の処断を求めた。家康は命令を受け入れるしかなく、信康を岡崎城から大浜に移し、そして堀江城(浜松市西区舘山寺町)に入れた。さらに二俣城に移して謹慎させた。その後、築山殿が浜松へ護送中の佐鳴湖畔で、徳川家の家臣である岡本時仲(ときなか)、野中重政(しげまさ)により首を刎ねられた。また、二俣城の信康も家康によって切腹を命じられた。介錯人は服部半蔵正成(まさなり)であったが、鬼半蔵といえども主筋に太刀を振り下ろすことができず、検使役の天方山城守道綱(みちつな)が代わって介錯したと伝わる。享年21歳であった。道綱は嘆き悲しむ家康を見て出家したという。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって廟と位牌堂が建立され、のちに家康が訪れた際に寺に清涼な滝があるのを見て清瀧寺と改めさせた。二俣城はそのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変の後、家康の領土拡大に伴い忠世自身が信州惣奉行として信濃国小諸に在番することが多く、二俣城にはあまり在城しなかった。天正18年(1590年)家康の関東移封にともない、堀尾吉晴(よしはる)が12万石で浜松城に入り、二俣城はその支城となった。酒井忠次の嫡子である家次(いえつぐ)の新たな所領は下総国臼井3万石と小禄であった。ちなみに徳川四天王といわれた他の3人は、本多忠勝と榊原康正が10万石、井伊直政(なおまさ)が12万石であった。このため、隠居していた忠次が家康に不満を訴えたところ、「お前も我が子が可愛いか」と暗に信康事件の不手際を責められ戦慄したという。二俣城には吉晴の弟である堀尾宗光(むねみつ)が入城した。その後、慶長5年(1600年)堀尾氏が出雲に転封すると二俣城は廃城となった。(2011.08.13)

本丸北東部の喰違虎口の遺構
本丸北東部の喰違虎口の遺構

清瀧寺に移築再建された井戸櫓
清瀧寺に移築再建された井戸櫓

清瀧寺にある松平信康の廟所
清瀧寺にある松平信康の廟所

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