伏見城(ふしみじょう)

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関白職を譲った太閤秀吉の豪華な隠居城

伏見城の模擬天守
伏見城の模擬天守

山城国紀伊郡に存在した伏見城は、摂津大坂城(大阪府大阪市)から十里(約40km)、京都から二里(約8km)の距離にあった。南東に川を帯び、北東に渓谷を控えた堅固な要塞であった。伏見の地には、短期的に三つの伏見城が築かれた。関ヶ原の前哨戦で有名な木幡山の伏見城は、明治天皇の伏見桃山陵にあり、本丸の北西に金箔瓦葺きの五層大天守をあげて、西に二の丸(西の丸)、東に名護屋丸、南に三の丸、増田曲輪、山里丸、北に松の丸、出丸、これを囲む御花畑曲輪、長束大蔵曲輪、弾正曲輪など12もの曲輪があった。宇治川を北に迂回させ外堀とし、西側の湿地帯を埋め立てて城下町とした。現在は伏見城御花畑曲輪のあった地に模擬天守が建つ。麓の御香宮(ごこうのみや)神社の表門(重要文化財)は秀吉時代の伏見城大手門を移築した現存門であり、伏見城石垣の残石も存在する。西本願寺の唐門(国宝)も伏見城からの移築現存門と伝わる。

天正19年(1591年)豊臣秀吉は関白職を甥の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲り、聚楽第(京都市上京区)もまた秀次の居所とした。秀吉は翌文禄元年(1592年)木幡山(伏見山)南西の指月の森に、隠居所の築城を命じる。普請奉行で京都所司代の前田玄以(まえだげんい)に「利休好み」に造営するよう指示があったという。この年は朝鮮出兵(文禄の役)開始の年でもあり、朝鮮に出兵しなかった諸大名から軍役を徴発して、昼夜兼行の過酷な普請が行われた。これが、指月城とも呼ばれた最初の伏見城である。文禄3年(1594年)伏見城が一応完成し秀吉が入城するが、慶長元年(1596年)慶長の大地震で全壊してしまう。秀吉はすぐに木幡山への伏見城の再城を命じ、慶長2年(1597年)には天守、殿舎が完成した。廃城となった聚楽第や淀古城(京都市伏見区納所北城堀)から多くの建物が移築されたという。これが二つ目の木幡山城とも呼ばれた伏見城である。この木幡山は江戸時代に桃が植えられ桃山と称される。後世に桃山時代や桃山文化と呼ばれるように、再築した伏見城は前にも増して金殿玉楼を呈した。慶長3年(1598年)完成まもない伏見城で秀吉は没し、遺言によって子の秀頼(ひでより)は大坂城に移った。慶長4年(1599年)伏見城の出城というべき向島城(京都市伏見区向島本丸町)にあった徳川家康が伏見城に入城し、さらに大坂城西の丸に乗り込んだ。

慶長5年(1600年)美濃国不破郡関ヶ原にて天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するが、これは本戦であって、その前哨戦はいくつもあった。その一つに伏見城の戦い(伏見籠城戦)がある。徳川家康は、豊臣家五大老のひとりである会津の上杉景勝(かげかつ)を討伐するため大坂城を出陣した。従える軍勢は、徳川譜代衆3千余と、豊臣恩顧の諸将5万余である。家康一行は伏見城に入り、2日間逗留している。家康は伏見城の守備を老臣の鳥居彦右衛門元忠(もとただ)に命じ、1800の兵力を残した。さらに甲賀衆である甲賀作左衛門、岩間兵庫頭光春(みつはる)、深尾清十郎らにも籠城を命じ、その手勢は甲賀の忍びが約60名であった。しかし、伏見城の兵力が少ないことを心配した家康はさらに兵力を残そうとしたが、鳥居元忠は伏見城が攻められる事があれば敵は大軍であり、現在の10倍でも無駄であるため断った。62歳の老将は主人のために捨石になる覚悟であった。その後、家康の上杉討伐の間隙を突いて石田三成(みつなり)が挙兵する。三成は鳥居元忠が預かる伏見城に開城勧告するが拒絶され、攻城戦が開始された。伏見城本丸に主将の鳥居元忠、西の丸に内藤家長(いえなが)、内藤元長(もとなが)、佐野綱正(つなまさ)、三の丸に松平家忠(いえただ)、松平近正(ちかまさ)、治部少輔丸に駒井直方(なおかた)、名古屋丸に甲賀作左衛門、岩間光春、松の丸に深尾清十郎、太鼓丸に上林政重(かんばやしまさしげ)を配置、伏見籠城軍は少数であったが決死の覚悟で守りを固めていた。伏見城を包囲する西軍は、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)、毛利秀元(ひでもと)、島津義弘(よしひろ)ら4万の軍勢であった。この島津義弘は、家康から伏見城の留守を託されており、はじめ鳥居元忠に入城を要請したが拒絶され、やむなく包囲軍に加わっていた。緒戦は銃撃戦が続いた。鳥居元忠は家康から、もし事変が起こったら天守に貯蔵してある金銀塊を銃弾に鋳直してよいと言われており、弾丸は潤沢にあったことになる。なかでも甲賀衆には射撃の名人が多く、城壁をよじ登ってくる西軍を的確な狙撃で苦しめていた。伏見城を攻めあぐねる中、西軍諸将を激励するため、石田三成が近江佐和山城(滋賀県彦根市)から訪れた。この時、伏見城の甲賀衆の対策が講じられている。当時、西軍の長束正家(なつかまさいえ)の軍勢にも甲賀衆がいた。その一人である鵜飼藤助が伏見城の深尾清十郎に矢文を送り、返り忠(裏切り)を要求、同意しなければ甲賀に残している家族をことごとく磔にすると脅迫した。頭領の深尾清十郎はこれに応じなかったが、長束正家が甲賀衆の家族を数十人引き連れてきて、城内から見える場所で磔刑の準備を始めた。これを見て動転した小頭の永原十内と山口宗助が、手勢40名と西軍に内応することを決心してしまう。伏見籠城軍は大軍を相手に13日あまりも防戦したが、深尾清十郎が守備していた松の丸の甲賀衆が城に火を放ち、寄手を引き入れた。このため伏見城は灰燼に帰し、鳥居元忠は雑賀孫市重朝(しげとも)に首を渡し、その首は大坂城京橋口に晒されたという。この鳥居元忠の忠節は三河武士の鑑と称えられた。戦死者の中には甲賀衆も大勢いた。徳川家康は伏見城で犠牲になった甲賀衆の遺族や子孫に知行を与え、百人を取り立て、甲賀百人組を組織させた。甲賀百人組は山岡景友(かげとも)に預けられて、大坂の役では鉄砲隊として活躍している。

三つ目の伏見城は、慶長6年(1601年)家康が、小堀政次(こぼりまさつぐ)を作事奉行に、藤堂高虎(とうどうたかとら)を普請奉行に任命し再築した伏見城である。慶長8年(1603年)家康が、慶長10年(1605年)秀忠(ひでただ)が伏見城で将軍宣下を受ける。元和元年(1615年)大坂夏の陣で徳川方の本城となるが、豊臣右大臣家が滅びると軍略上の重要性は低下した。元和9年(1623年)家光の将軍宣下が伏見城で行われるが、これを最後に伏見城は廃城となり破却された。二条城(京都市上京区)に移築された天守は家康再築の天守で、大坂城にあった伏見櫓(焼失)や、江戸城(東京都千代田区)、福山城(広島県福山市)に現存する伏見櫓も家康再築の櫓が移されたものである。石垣は淀城、大坂城に転用された。(2004.03.13)

現存する移築大手門
現存する移築大手門

伏見城石垣の残石
伏見城石垣の残石

移築した唐門(国宝)
移築した唐門(国宝)

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