伏見城(ふしみじょう)

[MENU]

豊臣政権の中枢となる城で、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いの舞台

伏見桃山陵となった本丸跡
伏見桃山陵となった本丸跡

山城国紀伊郡伏見の地は、摂津大坂城(大阪府大阪市)から10里(約40km)、京洛から2里(約8km)の距離である。関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで知られる木幡山(こはたやま)の伏見城は、豊臣秀吉によって築かれた豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失後に徳川家康によって再建された徳川期のもので分けられる。伏見城の範囲は東西約3.3km、南北約2.2kmとされる。豊臣期の伏見城は、木幡山の最高所(標高約105m)となる本丸を中心に、西に西の丸(二の丸)、東に名護屋丸、北東に松の丸を配し、それぞれ空堀で隔てられていた。これら曲輪の北側を、治部池から紅雪堀まで堀が取り囲み、その中央部に角馬出の出丸を配していた。主郭部の南側に西から治部少丸・三の丸・四丸、山里丸が、北側に西から御花畑山荘・徳善丸・大蔵丸・弾正丸が取り巻いている。これら12の曲輪が配置された梯郭式平山城で、本丸の北西隅に金箔瓦葺きの独立式望楼型5層天守が立ち、大手門は治部少丸の南側にあった。豊臣政権の中枢であった五奉行は伏見城内に敷地を与えられ、浅野長政(ながまさ)は弾正丸、前田玄以(げんい)は徳善丸、石田三成(みつなり)は治部少丸、増田長盛(ましたながもり)は四丸、長束正家(なつかまさいえ)は大蔵丸に屋敷を構えた。山里丸の学問所には、秀吉が千利休(りきゅう)を偲んで造らせた傘亭(からかさてい)と時雨亭(しぐれてい)という茶室があり、その南には宇治川に繋がる巨大な御船入があった。徳川期の伏見城は基本的に豊臣期の縄張りを踏襲したが、主郭部北側の御花畑山荘・徳善丸・大蔵丸・弾正丸は放棄された。他には、本丸と名護屋丸を結ぶ虎口が塞がれたり、天守台を本丸の塁線から離して複合式望楼型5層天守に改めるといった改変が推定されている。現在、伏見城の主郭部は、ほぼ全域が明治天皇の伏見桃山陵および昭憲皇太后の伏見桃山東陵に含まれるため、城跡への立ち入りは宮内庁により規制されており、今まで研究が進んでいなかった。一方で、そのために都市開発から免れることができ、廃城時の遺構が良好に残されているという。近年、宮内庁の異例の許可により調査が実施され、本丸と西の丸を渡る巨大な土橋(長さ約40m、幅約5m)や、幅数十mの堀、一辺十数mで高さ約5mの天守台など、多数の遺構が確認された。野面積みの石垣も高さ約7m、長さ約20mが残存していた。現在、御花畑山荘(京都市伏見区桃山町大蔵)に模擬天守が立つ。また、大蔵丸・弾正丸の北側の幅100mにおよぶ堀跡(伏見北堀公園)と治部池がわずかに原形をとどめる。伏見城から移築されたと伝わる建築物は、京都市内のみならず全国各地に残されている。京都市伏見区では、御香宮(ごこうのみや)神社(御香宮門前町)の表門が大手門を移築した現存門であり、元和8年(1622年)水戸徳川家初代当主で家康の十一男の徳川頼房(よりふさ)が拝領して寄進したと伝わる。境内には石垣の残石も存在する。源空寺(瀬戸物町)の2層から成る珍しい山門は、巽櫓の2層鐘楼門を移築して寺風の楼門に改修したものという。醍醐寺三宝院(醍醐東大路町)の黒漆に菊と五七桐の金箔の装飾を施した檜皮葺の唐門(国宝)は、慶長4年(1599年)豊臣期の伏見城から移築されたという伝承があるが確証はない。しかし、『大坂城図屏風』に描かれた大坂城天守の壁面を彷彿させる意匠である。東山区では、養源院(三十三間堂廻り町)の本堂は、中ノ御殿を移築したもの。高台寺(高台寺下河原町)の三間一戸の薬医門形式である表門、屋根つきの廊下橋の中央に位置する唐屋根の観月台、茶室の傘亭と時雨亭が移築現存している。

豊国神社(茶屋町)の幅約6m、高さ約10.5mで檜皮葺の唐門(国宝)も移築城門である。他にも、正伝寺(京都市北区西賀茂北鎮守菴町)の本堂(方丈)は本丸の御成御殿を移築したもの、西本願寺(京都市下京区本願寺門前町)の四脚門形式の唐門(国宝)も移築城門である。竹生島の都久夫須麻(つくぶすま)神社(滋賀県長浜市)の本殿(国宝)も日暮御殿(勅使殿)の移築など、枚挙にいとまがない。文禄5年(1596年)閏7月12日の深夜に慶長伏見地震が発生、太閤秀吉が在城する指月伏見城(京都市伏見区桃山町泰長老)が倒壊する出来事が起こった。醍醐寺三宝院の義演(ぎえん)が記した『義演准后日記』では、「京都の在家顛倒し、死人其の数を知らず、鳥部野、煙断えず」、「伏見の事、御城御門殿以下大破す、或は顛倒、大殿守(大天守)悉く崩れ倒れ了んぬ、男女御番衆、数多く死ぬ、未だ其の数を知らず」とある。翌朝、秀吉は子の秀頼(ひでより)を連れて木幡山に避難している。指月城は大きな被害を受けたが火災は起きなかったらしく、櫓や殿舎の木材などがそのまま転用可能で、奥平松平忠明(ただあきら)が記した『当代記』には「十四日、伏見山(木幡山)山頂に御縄張仰せ付けられ、奉行衆罷り超す」とあり、地震の2日後には木幡山上での築城に着手している。これが2つ目の伏見城と呼ばれる木幡山伏見城であった。慶長2年(1597年)5月には天守と殿舎が完成し、豊臣秀吉・秀頼父子が伏見城に移った。指月城とは比べものにならない程の非常に大規模な城郭を新造している。豊臣期の天守の姿は不明である。これまで10点以上の伏見城を描いた屏風絵が確認されているが、白漆喰の天守であることから徳川期の伏見城と考えられている。ところが、平成22年(2010年)に初公開となった『洛中洛外図屏風』には、黒漆の壁面に金色の装飾となる天守が描かれており、豊臣期の天守である可能性が高いという。城内に三重塔が描かれているのも決め手で、これは秀吉が大和比曽寺(奈良県吉野郡大淀町)の東塔を移築したもので、山里丸南の御茶屋山にあった三重塔は、慶長6年(1601年)家康によって近江三井寺(滋賀県大津市)に寄進されて現存している。晩年の秀吉は大坂城より伏見城で過ごすことが多く、豊臣政権の中枢として機能していたことが分かる。慶長3年(1598年)8月18日、完成間もない伏見城で秀吉は没した。「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪花の事も夢のまた夢」という辞世の句を残しながら、大坂城ではなく伏見城でその人生を終えている点は特筆に値する。慶長4年(1599年)正月、秀頼は遺言に従って大坂城に移った。3月3日に五大老の前田利家(としいえ)は病死し、3月10日に五大老筆頭である徳川家康が石田三成を近江佐和山城(滋賀県彦根市)へ蟄居させると、3月13日に伏見城の支城である向島城(京都市伏見区向島本丸町)から留守居役として伏見城に入城した。『多聞院日記』には家康の伏見入城を「天下殿になられ候」と記しており、伏見城が天下人の城と認識されていたことが分かる。この時、いきなり本丸に入らず、西の丸に入ることで豊臣側の反感を抑えているが、次いで9月には、大坂城の西の丸に乗り込んでいる。慶長5年(1600年)美濃国不破郡関ヶ原にて天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するが、これは本戦であって、その前哨戦はいくつもあった。そのひとつに伏見城の戦いがある。徳川家康は五大老の上杉景勝(かげかつ)を討伐するため、6月16日会津に向け大坂城を出陣した。従える軍勢は、徳川譜代衆3千余と、豊臣恩顧の諸将5万余である。家康が率いる軍勢は伏見城に入り、2日間逗留している。

家康は伏見城の守備を老臣の鳥居彦右衛門尉元忠(もとただ)に命じ、1800の兵力を残した。さらに甲賀衆である甲賀作左衛門、岩間兵庫頭光春(みつはる)、深尾清十郎らにも籠城を命じ、その手勢は甲賀の忍びが約60名であった。出発の前夜、家康は50年来の忠臣である鳥居元忠と語り合った。伏見城の兵力が少ないことを不憫に思った家康はさらに兵力を残そうとしたが、鳥居元忠は断ったという。7月17日、家康の会津征伐の間隙を突いて石田三成ら西軍が挙兵する。この日、大坂城西の丸から家康の側室達を避難させた佐野綱正(つなまさ)が、500人程の兵を率いて伏見城に合流してきた。西軍は19日に伏見城を取り囲み、鳥居元忠に開城勧告しているが、西軍の使者が遺体となって返されたため攻撃を開始した。伏見城本丸に主将の鳥居元忠、西の丸に内藤家長(いえなが)・元長(もとなが)父子、佐野綱正、三の丸に深溝松平家忠(いえただ)、大給松平近正(ちかまさ)、治部少丸に駒井直方(なおかた)、名護屋丸に甲賀作左衛門、岩間光春、松の丸に深尾清十郎、太鼓丸に上林政重(かんばやしまさしげ)を配置、伏見籠城軍は少数であったが決死の覚悟で守りを固めていた。伏見城を包囲する西軍は、宇喜多秀家(ひでいえ)を総大将に、小早川秀秋(ひであき)、大谷吉継(よしつぐ)、毛利秀元(ひでもと)、島津義弘(よしひろ)ら西軍の主力軍4万であった。この島津義弘は、家康から伏見城の留守を託されており、はじめ鳥居元忠に入城を要請したが拒絶され、やむなく西軍に加わっている。緒戦は銃撃戦が続いた。鳥居元忠は家康から、もし事変が起こったら天守に貯蔵してある金銀の塊を銃弾に鋳直してよいといわれており、銃弾は潤沢にあった。なかでも甲賀衆には射撃の名人が多く、城壁をよじ登ってくる西軍を的確な狙撃で苦しめていた。伏見城を攻めあぐねる中、29日に西軍諸将の奮起を促すために佐和山城から石田三成が訪れた。これ以上、伏見城に手こずると家康迎撃の計画が狂ってしまうため、このときに伏見城の甲賀衆の対策が講じられた。当時、甲賀郡を領していた西軍の長束正家の軍勢にも甲賀衆がいた。その1人である鵜飼藤助(うかいとうすけ)が伏見城の深尾清十郎に矢文を送り、返り忠(裏切り)に同意しなければ甲賀に残している家族をことごとく磔にすると脅迫した。頭領の深尾清十郎はこれに応じなかったが、長束正家が甲賀衆の妻子を数十人引き連れてきて、城内から見える場所で磔刑の準備を始めた。これを見て動転した小頭の永原十内(とない)と山口宗助(そうすけ)が、手勢40名と西軍に内応することを決心してしまう。伏見籠城軍は大軍を相手に13日あまりも防戦したが、深尾清十郎が守備していた松の丸の甲賀衆が城内に火を放ち、寄手を引き入れた。このため伏見城は8月1日に落城して灰燼に帰した。鳥居元忠は本丸で奮戦ののち、自刃して西軍の雑賀衆の頭領・雑賀孫市重朝(しげとも)に首を渡している。享年62歳であった。鳥居元忠、松平家忠、松平近正の3将の首級は大坂に送られて、京橋口にて晒された。だが、石田三成は敬意を込めてその首を公卿台に据えたといわれている。家康は石田三成ら敵対勢力と戦うための大義名分として、わざと上方を離れて三成らの挙兵を誘った。三成が伏見城の奪取に大軍を送ることも想定内で、鳥居元忠は家康の天下取りのために捨て石となる覚悟で伏見城の守備を引き受けた。3日程度で落城すると見られていた伏見城を2週間も守り抜いたことで、家康のために十分な時間を稼いでいる。西軍は伏見城を落とすのに3千余の死傷者を出したという。伏見籠城軍の奮戦であった。

城兵の血に染まった伏見城の床板は、後に京都市内の養源院・正伝寺・宝泉院(左京区大原勝林院町)・源光庵(北区鷹峯北鷹峯町)などの寺に運ばれ、現在も「血天井」として現存している。この血天井は養源院のものがもっとも壮絶で、切腹した武士たちが悶え苦しみながら這いまわった跡や、手形などを確認することができる。鳥居元忠の忠節は三河武士の鑑(かがみ)と称えられ、息子の忠政(ただまさ)に父の戦功として陸奥国磐城平10万石が与えられた。戦死者の中には甲賀衆も大勢いた。家康は犠牲になった甲賀衆の遺族や子孫に知行を与え、100人を取り立てて甲賀百人組を組織させた。甲賀百人組は山岡景友(かげとも)に預けられて、大坂の陣では鉄砲隊として活躍している。一方、伏見城で内通した永原十内、山口宗助ならびに甲賀衆18人は追捕され、10月1日に京都栗田口にて磔に処された。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、翌慶長6年(1601年)に伏見城の再建に取り掛かり、藤堂高虎(とうどうたかとら)を普請奉行に、小堀政次(こぼりまさつぐ)を作事奉行に任命している。これが3つ目の伏見城である。慶長8年(1603年)2月、家康は伏見城にて将軍宣下を受け、慶長10年(1605年)4月、秀忠(ひでただ)も伏見城で将軍宣下を受ける。慶長10年(1605年)3月、家康は伏見城で朝鮮使節と会見し、文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮との和議を成立させている。豊臣秀頼が大坂城に健在である状況において、京都を守護する伏見城の政治的・戦略的な位置付けは必然的に高くならざるを得ず、慶長12年(1607年)まで家康は伏見城を居城としていた。慶長12年(1607年)家康が駿河駿府城(静岡県静岡市)を居城と定めて移ると、異父弟で遠江国掛川藩3万石の久松松平定勝(さだかつ)を伏見城代に任じた。2万石の加増を受けての転封で、伏見周辺と近江国内に5万石を領しており、これを伏見藩の成立と捉える考え方がある。元和元年(1615年)大坂夏の陣で大坂城が落城し、豊臣右大臣家が滅びると伏見城の重要性は低下した。元和3年(1617年)定勝は伊勢国桑名藩6万石へ転出し、これにより伏見藩は廃藩となる。しばらくは儀典用に二条城(京都市上京区)、居館用に伏見城を使用していたが、元和5年(1619年)一国一城令の主旨により伏見城と向島城の廃城が決定する。元和6年(1620年)から大坂城の再建が始まると、伏見城の城割が開始され、大坂城の石垣の修築には伏見城の石垣が転用されたとされる。大坂城、摂津尼崎城(兵庫県尼崎市)、和泉岸和田城(大阪府岸和田市)、近江膳所城(滋賀県大津市)の伏見櫓(非現存)や、武蔵江戸城(東京都千代田区)、備後福山城(広島県福山市)に現存する伏見櫓は、元和8年(1622年)に伏見城から移築されたもので、福山城伏見櫓の梁には「松ノ丸ノ東やく(ら)」と記されている。元和9年(1623年)徳川家光(いえみつ)が伏見城で将軍宣下を受けることになるが、解体がかなり進んでいたため、残されていた本丸御殿で執りおこなわれた。『義演准后日記』には「伏見城跡を見物す、浅ましき体なり」と記されており、既にこの時期には城としての機能を失い、石垣の大半が撤去されていたものと考えられる。そして、寛永元年(1624年)には完全に破却された。伏見城の天守は二条城に移築され、元々の二条城の天守は淀城(京都市伏見区淀本町)に移築されたという。山野に戻った木幡山には桃の木が植えられ、一帯は「桃山」と呼ばれるようになった。寛永元年(1624年)幕府の直轄領だった伏見には伏見奉行所(京都市伏見区西奉行町)が置かれ、伏見奉行には小堀遠州が任ぜられた。(2004.03.13)

大蔵丸・弾正丸北側の水堀跡
大蔵丸・弾正丸北側の水堀跡

御花畑山荘跡に立つ模擬天守
御花畑山荘跡に立つ模擬天守

西本願寺に現存する国宝唐門
西本願寺に現存する国宝唐門

豊国神社に移築された国宝唐門
豊国神社に移築された国宝唐門

[MENU]