福知山城(ふくちやまじょう)

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明智日向守光秀が築城して、女婿の明智左馬助秀満が城代を務めた丹波支配の拠点

伯耆丸公園から見た復元天守
伯耆丸公園から見た復元天守

福知山市街地の南方、福知山盆地の中央に突き出た横山丘陵の先端地に福知山城は存在した。現在は国道9号線やJR山陰本線・福知山線などで分断されてしまったが、かつては南方の山地からひと続きで蛇のように突き出す丘陵であった。その地形から臥龍城の別名を持つ。これは土師川(はぜがわ)・由良川(ゆらがわ)の流れによって削りとられた比高約20mの平坦な丘で、これを区画して福知山城の曲輪が構築された。丘の先端からは福知山盆地の全体を望むことができ、但馬・丹後あるいは山城への交通の分岐点に位置した要衝の地であることが分かる。福知山音頭では「明智光秀(みつひで)丹波を拡(ひろ)め、ひろめ丹波の福知山」と謡われる。明智光秀が福知山城を築城した時、多くの領民が石垣の石や木材を運び込んだが、巨石を運搬する際の音頭取りの「それ、ドッコイセ、ドッコイセ」という掛け声が福知山音頭の起源とされる。この地は光秀によって「福智山」と名付けられ、朽木氏の時代に「福知山」へ改められた。福知山城の縄張りを知るには、歴代城主の残した『城下絵図』が最適である。明智光秀時代まで遡る絵図は伝えられていないため、築城当初の様子を知ることはできないが、残された城下絵図を見ると、福知山城の縄張りと規模は、江戸時代初期からほとんど変わっていない事が分かる。松平忠房(ただふさ)時代の絵図が最も完成されており、これを見れば往時の姿が分かる。丘陵先端の最高所に本丸と天守台を置き、丘陵上に沿って二の丸、伯耆丸(三の丸)、内記丸(西の丸)が連郭式に西へ続く。二の丸南側の低地には御泉水(庭園)、蔵屋敷、馬屋を配置、北側の低地には対面所、左門丸、大膳丸を配置していた。この伯耆丸とは、有馬豊氏(とようじ)時代に弟・有馬伯耆守重頼(しげより)の屋敷があったことによる。他の曲輪も、有馬内記、有馬左門、有馬大膳から名付けられたと考えられている。これらのうち石垣を持つのは丘陵上の主郭部のみで、福知山城は山城的な石垣地区と平城的な水堀地区に分けられる。城下町は北方に町家、由良川沿いに寺町、南方に侍屋敷を配しており、その東側は法川を利用した大堀、西側は堀と土居、南側は堀切、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する、いわゆる惣構えの構造となっていた。従来、本丸と二の丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が台地ごと削り取られて消滅した。また、伯耆丸と内記丸も繋がっていたが、福知山線の建設に伴って、それぞれが独立丘陵となってしまった。現在、伯耆丸は伯耆丸公園(福知山市岡ノ)になっている。福知山城は本丸石垣の築造時期も分かっていないが、現存する絵図で最も古い有馬豊氏時代には、既に現在の姿が描かれていることから、城郭の中心部は早い時期に整備された可能性がある。福知山城の石垣は、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの転用石が大量に使用されているのが特徴である。その数はおよそ500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点、他に一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼などがあり、天守台付近に集中している。福知山城の築城時、明智光秀は治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊して石塔類を天守台の石垣に利用したという伝承があり、『丹波志』にも「礎石石塔ヲ惟任(明智光秀)築城時福智山ニ取リタニト云々、サモアリシヤ、今モ親ク見ル所、天守台ノ石垣ニ法名彫タル石塔或五輪臺石夥敷見ケル、荒木(荒木山にあった法興寺や宝積寺)ヨリ取集タリト云伝フ」とある。これは近隣での石材調達が困難なうえ、ひとつ山の向こうでは合戦をしており、時間的な余裕がなかったためといわれる。

年号が刻まれた転用石もあり、一番古いものは延文4年(1359年)、最も新しいものは天正3年(1575年)で、いずれも明智光秀が福知山に入る前のものばかりである。本丸に移築現存する銅門番所(あかがねもんばんしょ)は、二の丸登城口の銅門の脇(市役所の東側)にあった門番の詰所である。一辺が4.5mの単層入母屋造を中央で連結した形式で、両側の壁は白漆喰塗寵で格子窓を付け、まるで隅櫓のようである。屋根は本瓦葺、棟の四隅と鏡瓦には朽木氏の定紋である四ツ目結(よつめゆい)を入れている。大正5年(1916年)銅門番所は天守台の上に移築され、さらに天守再建に伴って現在の場所に移された。銅門についても、明治31年(1898年)城下の正眼寺(福知山市寺)に移築され現存している。『平面古図』によると、天守は3層4階の大天守と、北側に2層2階の小天守、南側には櫓門を介して2層2階の菱櫓と連結していた。昭和61年(1986年)望楼型の大天守と小天守、それらを連結する続櫓が復元され、福知山市郷土資料館となっている。外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造である。本丸東側には、明治時代まで存在した釣鐘門(つりがねもん)が復元されているが、これは松平忠房時代の城下絵図などを基に設計された。本丸北側には下り桑門が復元されている。本丸の天守東側に豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる大きな井戸が残る。井戸の直径は2.5m、深さは50mを誇り、高所に関わらず水深は37mもある。井戸底は由良川の河床よりも深く、海面下7mに達している。朽木氏時代に掘られたものと考えられているが、当時の井戸掘り技術の高さを示す。伝承では、この井戸に抜け穴があり、二の丸北側の対面所裏の横穴に通じていたという。城門は、照仙寺(福知山市堀)、明覚寺(福知山市呉服)、法鷲寺(福知山市下紺屋)、正眼寺、観瀧寺(福知山市榎原)に移築されたと伝わっている。福知山城の前身となる横山城は、16世紀前期に天田(あまだ)郡の国人領主・塩見頼勝(しおみよりかつ)によって築かれた。それ以前には荒木氏の山城があったともいう。清和源氏小笠原氏流の小笠原長清(ながきよ)の後裔である塩見氏は、猪崎城主・小笠原政信(まさのぶ)の嫡男である大膳大夫頼勝が祖となる。猪崎城(福知山市猪崎)を本拠としていた塩見頼勝は、朝暉ヶ丘(あさひがおか)の丘陵に横山城を築城したのをはじめ、多くの掻き揚げ城を築いて横山城を本城とした。そして、長男・塩見頼氏(よりうじ)を横山城に配置して、次男・奈賀山長員(ながやまながかず)を奈賀山城(場所不明)、三男・塩見利勝(としかつ)を猪崎城、四男・和久長利(ながとし)を和久城(福知山市厚)、五男・牧利明(としあき)を牧城(福知山市牧)にそれぞれ配置して、天田郡全域を支配した。その後、塩見頼氏は横山大膳大輔と称した。当時の丹波国には強大な戦国大名は存在しておらず、黒井城(兵庫県丹波市春日町)を本拠とした赤井氏、八上城(兵庫県篠山市)を本拠とした波多野氏、横山城を本拠とした横山頼氏らが割拠していた。永禄6年(1563年)から永禄8年(1565年)頃、氷上郡の黒井城主・赤井悪右衛門直正(なおまさ)こと荻野直正は、天田郡への侵攻を開始した。『曽我井伝記横山硯』によると、永禄8年(1565年)3月、塩見一族によって赤井氏を撃退したが、この赤井氏の天田郡侵入を、丹波守護代の内藤蓬雲軒宗勝(そうしょう)は黙って見過ごす事ができず、天田郡馬廻衆を支援するために出陣した。この内藤宗勝とは、畿内・阿波国の戦国大名・三好氏の重臣で、松永弾正久秀(ひさひで)の弟・松永長頼(ながより)である。

三好長慶(ながよし)から丹波方面を任されていた長頼は、前守護代の内藤国貞(くにさだ)の娘を娶っており、丹波一国を預かり半独立国として支配していた。永禄8年(1565年)8月、内藤宗勝と赤井一族は、和久郷において合戦におよんだ。結果は赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は討死、壊滅した内藤勢は鬼ヶ城(福知山市大江町南山)に退却した。そして、横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏ら天田郡馬廻衆は、赤井氏側に一斉に寝返って鬼ヶ城を落城させた。この鬼ヶ城は、酒呑童子(しゅてんどうじ)の家来・茨木童子(いばらきどうじ)が籠もっていたと伝承される山である。和久郷の合戦により、天田郡のほぼ全域は赤井氏の傘下に入り、塩見・横山氏も直正に従った。こうして丹波は、三好氏の分国から離脱する。永禄11年(1568年)天下布武をめざす織田信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて京都に入り、義昭を室町幕府15代将軍に就かせた。上洛直後、信長は三好三人衆が籠城する摂津芥川城(大阪府高槻市)を落城させており、『永禄以来年代記』によると、この時に丹波衆が信長のもとに罷り出たとある。また、『二条宴乗(にじょうえんじょう)日記』の元亀元年(1570年)2月15日条では、信長の入洛に備えて北畠具教(きたばたけとものり)や徳川家康、さらに但馬の山名祐豊(やまなすけとよ)・氏政(うじまさ)父子などとともに丹波国衆が洛中を警備している。元亀元年(1570年)3月、赤井一族を率いる荻野直正と甥の赤井忠家(ただいえ)は上洛して織田信長に降り、信長から丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿郡)の所領を安堵された。ところが、翌元亀2年(1571年)11月、但馬此隅山(このすみやま)城(兵庫県豊岡市)の山名祐豊が、突如として氷上郡に侵攻して山垣(やまがい)城(兵庫県丹波市青垣町)の足立氏を攻めた。ただちに黒井城の荻野直正と赤井忠家は山垣城の足立氏を救援して山名勢を撃退するとともに、余勢を駆って但馬国まで侵攻して、但馬竹田城(兵庫県朝来市)を攻略、山名氏の本拠である此隅山城へ迫った。この事態に窮した山名祐豊は、織田信長に援軍を求めたのであった。しかし、この時期の信長は、石山本願寺、三好三人衆、近江浅井氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、甲斐武田氏などの反織田信長連合のために各地で戦闘中であり、とても丹波・但馬方面に兵力を動員できる余裕はない。信長が山名氏の要請に応えるべく丹波に明智光秀を派遣して、赤井一族の討伐を開始したのは、天正3年(1575年)になってからのことであった。竹田城を占拠していた荻野直正は、急ぎ黒井城へ帰城して戦闘態勢を調えている。明智光秀は、八上城の波多野秀治(ひではる)ら多くの丹波国人衆を味方につけていた。明智軍は、荻野直正が籠城する黒井城の廻りに12、3ヶ所の付陣を敷いて包囲していたが、天正4年(1576年)1月15日になって、波多野秀治が光秀の陣を急襲して赤井方に寝返った。この展開に驚いた明智軍は大敗しており、総退却するしかなかった。これは「赤井の呼び込み軍法」といわれている。この頃の横山城は、横山頼氏の子・塩見信房(のぶふさ)が城主である。信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。明智光秀は総退却の翌月から丹波攻めの準備を進め、天正5年(1577年)10月から再び丹波攻略を開始した。細川藤孝(ふじたか)・忠興(ただおき)父子らとともに口丹波の諸城塞から攻めて、多紀郡の八上城と氷上郡の黒井城へ迫った。こうした中、光秀の丹波攻めの天敵ともいうべき「丹波の赤鬼」と称された荻野直正は、天正6年(1578年)3月9日に病没してしまう。

光秀は波多野氏が本拠とする八上城から攻め、天正7年(1579年)6月1日まで1年余りにおよぶ籠城戦を経て開城させた。黒井城も同年8月9日に落城し、直正の子・赤井直義(なおよし)や赤井忠家など赤井一族は敗走した。8月20日より、明智軍の金山城(兵庫県丹波市柏原町)の城代であった矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らに、四王天政春(しおうてんまさはる)、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟・塩見信勝(のぶかつ)は防戦に努めたが、衆寡敵せず自刃して果てた。また、猪崎城の塩見利勝は自ら城に火を放ち、落ち延びる途中に林半四郎らに討たれた。光秀は10月に丹波平定を復命することができ、『雨森善四郎文書』によると「ようやく3年間の鬱憤を散らすことができた」と述べている。天正8年(1580年)光秀は丹波・丹後平定の功績により、従来の近江国志賀郡5万石に丹波一国29万石を加増され計34万石を領している。この頃、横山城を大改修して福智山城(福知山城)と改名、城代は藤木権兵衛、次に明智左馬助秀満(ひでみつ)が務めた。明智秀満は光秀の重臣で、当初は三宅弥平次と称していたが、後に光秀の女婿となった人物である。福知山音頭の「福知山出て長田野越えて、駒を早めて亀山へ」とは、福知山城と光秀の本拠である亀山城(亀岡市荒塚町)の間を、それぞれの使者が長田野を越えて往来した当時の情景を伝える歌詞である。天正10年(1582年)本能寺の変では、明智秀満が先鋒となって本能寺(京都市中京区)を襲撃した。その後、山崎の戦いには参加しておらず、柴田勝家(かついえ)や滝川一益(かずます)らの備えとして、近江安土城(滋賀県近江八幡市)を守備した。しかし、山崎の戦いでの明智軍の敗北を知った秀満は、守備していた安土城に火をかけて撤退したといい、光秀の居城・近江坂本城(滋賀県大津市)で自害した。福知山城は明智秀満の父(名は不明)が留守居役を務めていたが、羽柴秀吉軍が福知山城に押し掛け、明智秀満の父を捕えて京都に連行、同年7月2日に粟田口で処刑された。こうして明智光秀による丹波統治は、わずか3年で終わった。その後の福知山城は、秀吉の代官として杉原家次(いえつぐ)が預かった。家次は秀吉の正室・寧々の伯父に当たり、天正11年(1583年)頃から1年ほど福知山を治めている。家次は羽柴秀長(ひでなが)を助けて大坂城普請を成し遂げたが、秀長には大和一国が与えられたのに対し、自分には名物の茶碗と刀剣が一振りしか与えられず、その不満から下賜された品物を石に叩きつけて壊した。これを知った秀吉は激怒、天正12年(1584年)9月に杉原家次は自害して、杉原家は四散したという。天正15年(1587年)秀吉の大母衣衆であった小野木重勝(しげかつ)が4万石で福知山城主となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に属した小野木氏は、東軍の丹後田辺城(舞鶴市)を攻めた。この時、細川忠興は関東に出陣中で、隠居の細川幽斎(藤孝)が固く守り、後陽成天皇の勅令により和睦となった。その2日後の関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、細川忠興は徳川家康の許しを得て福知山城を攻撃した。福知山城は要害のため苦戦したが、山岡道阿弥が仲裁に入り、助命と所領安堵を条件に重勝を降伏させる。小野木重勝は亀山城下の寿仙院(亀岡市本町)で剃髪したが、家康の厳命により切腹させられた。慶長5年(1600年)12月、関ヶ原の戦いの論功行賞により有馬豊氏が福知山城に入る。その後は、岡部長盛(ながもり)、稲葉紀通(のりみち)、松平忠房、朽木稙昌(たねまさ)と目まぐるしく替わり、以後は朽木氏が13代世襲して幕末を迎えた。(2018.08.11)

本丸東側に復元された釣鐘門
本丸東側に復元された釣鐘門

移築現存する二の丸銅門番所
移築現存する二の丸銅門番所

正眼寺に移築現存する銅門
正眼寺に移築現存する銅門

移築された長屋門形式の城門
移築された長屋門形式の城門

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