深溝城(ふこうずじょう)

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3代にわたり家康のために討死した、十四松平のひとつ深溝松平氏の居城

城跡に建つ「深溝城址」の碑
城跡に建つ「深溝城址」の碑

幸田町の最南端、三ヶ根山(さんがねさん)と遠望峰山(とぼねやま)に挟まれた交通の要衝に深溝の地がある。かつて、深溝は「ふこうぞ」と読んだという。JR三ヶ根駅から北方300m程にある丘陵が深溝城の跡地で、現在は住宅地、工場地となっており、平山城であったが構造は全く分からない。城跡には城址碑と説明板が建っているだけで、遺構として見るべきものはない。深溝城の南西方向に「札の辻」という地名があり、この地名が示すとおり、かつての高札場であった。他にも城跡周辺には「丸の内」、「騎兵野」といった深溝城に因む地名が存在する。札の辻からさらに先の向野(むかいの)には、旧平坂(へいさか)街道沿いに右手に源元公、左手に源照公と刻まれた2基の石碑がある。この源元公とは深溝松平氏の初代当主である忠定(たださだ)のことであり、忠定が建立した本光寺(ほんこうじ)は当初この地にあった。そして源照公とは2代当主の好景(よしかげ)のことであり、善明堤の戦い(西尾市吉良町)で戦死した際に、首を埋葬した首塚と伝えられている。また好景が戦死した下永良には胴塚(西尾市下永良町)が存在するという。あじさい寺として有名な曹洞宗瑞雲山本光寺(幸田町深溝内山)は、大永3年(1523年)松平忠定によって開基され、深溝松平氏累代の菩提寺である。本光寺の山門をくぐると、左手が初代忠定から5代忠利(ただとし)までと11代忠恕(ただひろ)が眠る西廟所、右手が6代忠房(ただふさ)から19代忠諒(ただあき)までが眠る東廟所、正面の梅林が本堂跡である。深溝城を本拠とした深溝松平氏は、吉田城(豊橋市)、刈谷城(刈谷市)、丹波福知山城(京都府福知山市)、肥前島原城(長崎県島原市)、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)、肥前島原城と移封していったが、当主が亡くなると必ず先祖発祥の地である深溝の本光寺に葬ることが家伝であった。亡くなった当主は御遺体船で蒲郡まで運び、行列を整えて本光寺に入った。本光寺の5代忠利の肖影堂の裏には、寛文12年(1672年)建立の願掛け亀がある。松平忠房が福知山藩主時代に作らせた亀趺碑(きふひ)で、これには深溝松平氏の発祥から6代忠房までの業績が漢文で刻まれおり、撰文は林羅山(らざん)の三男・林鵞峰(がほう)による。完成まで10年余の歳月を要したもので、この願掛け亀に刻まれた碑文を全部読むと、亀が動き出すと言い伝えられている。平成21年(2009年)東廟所にある7代忠雄(ただお)の霊廟を調査したところ、慶長小判を含む小判が43枚、享保・正徳などの一分金が117枚、西洋のガラス製グラスなどの副葬品が大量に発見されて大きく報じられた。深溝城は、寛喜3年(1231年)大場次郎左衛門朝満(ともみつ)によって築かれたとも、正慶元年(1332年)大場次郎左衛門朝泰(ともやす)によって築かれたともいわれている。この大場氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であった大場氏(大庭氏)の子孫であり、足利氏との深い関係から幡豆郡吉良に近い額田郡深溝の地に移り住んだ。そして、深溝に勢力を根付かせていき、深溝城を大場氏累代の居城として約200年間続いた。寛正6年(1465年)大場次郎左衛門兄弟が、額田郡牢人一揆と称される丸山・大場・高力・梁田・黒柳・片山・芦谷・尾尻氏など額田郡南部、幸田町周辺あたりを地盤とする地侍たちの一揆に参加した。そして、額田郡井ノ口村(岡崎市井ノ口町)に砦を構えて武装蜂起、東海道の往来を妨げる事件が起きた。このため大場兄弟は、幕命により室町幕府政所執事である伊勢貞親(さだちか)の被官であった松平氏の3代当主である信光(のぶみつ)によって討ち取られている。

『今川記』によると、丸山中務入道父子、大場次郎左衛門、簗田左京亮らは、額田郡の井口砦(岡崎市井ノ口町)で牢人を集めて、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)の命令と称して、年貢米を略奪していた。幕府は三河国守護職である細川成之(しげゆき)に鎮圧を命じ、有力国人である牧野出羽守、西郷六郎兵衛が出動して、数百の兵で三日三晩攻撃を加えて砦を攻め落とした。しかし、大部分は逃走して狼藉を続けたので、幕府は松平和泉守入道(信光)、戸田弾正父子に討伐を命じており、丸山氏は大平郷にて戸田氏に討たれ、兄の大場次郎左衛門は深溝にて松平和泉守か、子の大炊助(忠景)に討たれたという。また、芦谷助三郎と弟の大場長満寺は、駿河国丸子に逃れたのを今川義忠(よしただ)に討ち取られた。松平信光は、七男の大炊助忠景(ただかげ)とともに、東西から山が迫る交通の要衝である深溝に進出して、この地の領主である大場氏と争った。この松平忠景とは、宝飯郡五井(ごい)郷を領し、五井松平氏の祖となる人物である。そして、ついに忠景の長男・元心(もとむね)と次男・忠定が大場氏を滅ぼしたという。松平惣領家の5代当主である松平長親(ながちか)は、その戦功を賞して深溝の地を五井松平元心に与えたが、元心は弟の大炊助忠定の働きによって深溝城を陥とし、大場氏を討つことができたとして、その功を忠定に譲った。これにより忠定は、深溝松平氏を発祥させることになる。大場氏が松平氏に討たれた年代については、寛正6年(1465年)説、永正2年(1505年)説、大永3年(1523年)説と諸説ある。永正2年説では、大場次郎左衛門美景(よしかげ)もしくは景紀(かげのり)が松平忠定に内通した家臣の稲吉惣助に毒殺されている。この時、息子の志麻之助は幡豆村の大獄氏にかくまわれ、のちに牧山大場氏の祖になったと伝えられている。なお、寛正年間、永正年間、大永年間のいずれも正しいとすれば、寛正年間の大場次郎左衛門は、松平信光・忠景父子に討たれたが、その後も大場氏は松平氏の勢力下で深溝城にあって、しばしば抵抗したため、永正年間には大場美景が毒殺され、大永年間になってついに松平元心・忠定兄弟に滅ぼされたことになる。いずれにしても14世紀の初めから深溝を領した大場氏は、16世紀の初めにはこの地から姿を消した。『深溝紀略』によると、大永4年(1524年)大場次郎左衛門主膳(しゅぜん)の家臣で兵九(ひょうく)という者が松平忠定に内応し、忠定を深溝城内に導き次郎左衛門の首をあげたという。この兵九の屋敷があった下あたりに「兵九下」という地名が残る。また、正慶元年(1332年)に大場次郎左衛門朝泰によって造立された大場家菩提寺の長満寺(幸田町深溝誉師)は、現在も深溝城跡の北西に存在する。大場氏を滅ぼした忠定は、十四松平のひとつ深溝松平氏の祖となる人物で、はじめ岩津城(岡崎市岩津町)に居て、大永4年(1524年)小美(おい)の米津四郎右衛門を破り、保母(ほぼ)を平定、さらに深溝を平定して大場氏の深溝城を居城とした。深溝松平氏は、初代忠定から始まって、2代好景、3代伊忠(これただ)、4代家忠(いえただ)、5代忠利と続く。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて今川義元(よしもと)が織田信長に討たれると、松平元康(のちの徳川家康)は駿河今川氏での人質生活から開放され、生まれ故郷の岡崎城(岡崎市康生町)に帰った。今川氏から独立した元康は、三河国の平定に乗り出したが、その手はじめとして西三河から今川勢力を一掃しなければならない。幡豆郡の吉良氏は今川一族で、元康の三河統一事業に抵抗していた。

この両勢力の接点に深溝があり、そのため戦いは絶えることがなかった。永禄4年(1561年)松平元康は吉良義昭(よしあき)が籠もる東条城(西尾市吉良町)を攻めたが、吉良氏はよく防ぎ、東条城を落すことはできなかった。深溝松平氏の2代好景は、今川方の板倉重定(しげさだ)を討ち取った戦功により、元康から中島、永良の両郷を与えられたので、深溝城を嫡男の主殿助伊忠に任せ自身は東条城を牽制するため中島城(岡崎市中島町)に移った。その後、吉良義昭は一計を案じ、家老の富永氏に数百騎を授け、酒井忠尚(ただなお)の上野城(豊田市)を取り囲ませた。元康から指示を受けた大炊助好景は、深溝城の伊忠に兵を与えて上野城の救援に向かわせ、自身は深溝城に入った。吉良義昭は、その隙を突いて中島城を襲った。急報に接した好景は、すぐに留守居の一族、家臣わずか50余騎を率いて中島城に向かい、散々に敵兵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃した。しかし、好景らは吉良軍を深追いし過ぎたため、善明堤に準備されていた伏兵に囲まれてしまう。敵の包囲を切り抜け中島城に戻ろうと奮戦したが、この善明堤の戦いで好景をはじめ一族の者21名、家臣等34名ことごとく討死して、生還するものはなかった。この戦いの場所には深い淵があり、淵の底に沈んだ将兵の鎧や武具がしばしば引き上げられたため、鎧ヶ淵古戦場と呼ばれるようになった。永禄6年(1563年)徳川家康が深溝城を訪れ、深溝松平氏の3代伊忠に甲斐武田氏の備えとして長沢城(音羽町)の守備を命じており、伊忠は長沢城で武田軍を撃退している。松平伊忠は戦略家として知られており、酒井忠次(ただつぐ)の組下として、永禄7年(1564年)吉田城攻め、永禄12年(1569年)遠江掛川城攻め、元亀元年(1570年)姉川の戦い、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い等、多くの合戦に従軍して活躍した。天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、松平伊忠は酒井忠次と共に鳶ケ巣山(とびがすやま)砦(新城市)を攻略し、激戦のすえ守将の武田信実(のぶざね)を討ち取ったが、小山田昌行(まさゆき)の部隊に包囲され討死してしまう。天正18年(1590年)4代家忠は家康の関東移封に従い武蔵忍城(埼玉県行田市)に1万石で入城し、深溝は吉田城の池田輝政(てるまさ)、岡崎城の田中吉政(よしまさ)らによって分割統治され、深溝城には輝政の家臣が入っている。主殿助家忠は、築城の名手として浜松城、駿府城、江戸城など多くの城郭普請や、『家忠日記』の著者としても有名である。『家忠日記』とは、天正5年(1577年)から文禄3年(1594年)までの17年間、その日の出来事を簡潔に書き綴った日記で、当時の政治情勢や家康の生活ぶり、大名の日常や習慣を知る上で重要な史料となっている。目を引く内容としては、天正九年四月条に、天正9年(1581年)正月20日に安土城下に人魚が出現したことが挿絵入りで記述されている。慶長5年(1600年)松平家忠は、鳥居元忠(もとただ)、内藤家長(いえなが)らと共に、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで討死する。この3代にわたる戦死の家柄こそ、家康の全国統一を成し遂げるための大きな礎石であった。父の討死によって家督を継ぐことになった5代忠利は、会津の上杉景勝(かげかつ)を討伐するため、徳川家康に従って下野国小山まで進軍していた。復仇のため石田三成(みつなり)との決戦を望んだが、家康から同行を許されず、上杉景勝の南下に備えて押さえとして残された。翌年、家康は家忠の死に報いるため、松平忠利に常陸国で大幅加増を約束したが、忠利はこれを謝絶して故郷の深溝への復帰を望んだ。

慶長6年(1601年)主殿頭忠利は加増なしで深溝を与えられ、1万石の深溝西郡藩が成立した。そして、慶長17年(1612年)忠利が3万石に加増されて吉田城に移ると、深溝城は廃城となる。その2年後、板倉重昌(しげまさ)に深溝の地が加増され、寛永元年(1624年)父の遺領の一部を相続して1万5千石の深溝藩が成立した。重昌の祖父・好重(よししげ)は、松平好景に仕えて深溝(ふこうぞ)村に住んだ。永禄4年(1561年)吉良義昭との善明堤の戦いに敗れ、兄弟・親族と共に42歳で討死した。家督は次男の喜蔵定重(さだしげ)が継ぐが、天正9年(1581年)松平家忠の配下に属して遠江高天神城(静岡県掛川市)を攻めたとき、板倉定重は先陣を切って進んで討死している。徳川家康はその功を惜しみ、中島村の永安寺(岡崎市中島町)に住んで香誉宗哲(こうよそうてつ)と号していた定重の弟・勝重(かつしげ)を還俗させ、板倉家を継がせて50石を与えた。その後、京都所司代として優れた手腕を発揮し、慶長14年(1609年)領地を1万6千石余に加増されて大名に列している。寛永元年(1624年)勝重が死去すると、その遺領は長男の重宗(しげむね)と次男の重昌で分割相続した。寛永14年(1637年)島原・天草の一揆が勃発、幕府は上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清(いしがやさだきよ)を派遣した。重昌が率いる九州諸藩による幕府軍は肥前原城(長崎県南島原市)を完全包囲して、総攻撃を仕掛けるが攻め落とすことはできなかった。原城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったのに対して、幕府軍は諸藩の寄せ集めで、さらに総大将である板倉重昌の禄が1万5千石と小さく、九州の諸大名はこれを侮って従わなかった。事態を重く見た幕府は、新たに老中・松平伊豆守信綱(のぶつな)を派遣することにした。松平信綱とは、「知恵伊豆」と呼ばれるほど頭脳明晰で、「信綱とは決して知恵比べをしてはならない、あれは人間と申すものではない」とまで言われた人物である。この信綱の派遣決定が重圧となって戦果を挙げられない重昌は焦り、信綱が到着する前に島原の乱を平定しようと、寛永15年(1638年)1月1日に無謀な突撃を敢行した。しかし、この攻撃も失敗に終わり、4千人の大損害を出しただけでなく、重昌自身も鉄砲に撃たれて戦死してしまう。重昌の辞世は「新玉(あらたま)の歳に任せて散る花の、名のみ残して先駆けと知れ」と伝わる。幕府は戦死した重昌の不手際を嫡子である重矩(しげのり)に問い、重矩は処罰として謹慎を命じられ、家督相続も許されなかった。12月になって重矩の謹慎は解かれ、寛永16年(1639年)家督を継ぐことも許されている。深溝藩主となった板倉重矩は、同年に藩庁を深溝から中島に移して三河中島藩が立藩した。その後の重矩は出世を重ねることになる。万治3年(1660年)大坂定番に任じられて1万石を加増され、寛文5年(1665年)老中に栄進して上野・武蔵などで2万石を加増された。寛文8年(1668年)朝廷の問題解決のため老中から京都所司代への異例の人事が行われ、寛文10年(1670年)には老中に再任されるなど要職を歴任しており、寛文11年(1671年)三河・上総などでさらに1万石を加増された。寛文12年(1672年)重矩は下野烏山藩に5万石で移封となり、ここに三河中島藩は廃藩となった。一方、寛永16年(1639年)重矩が深溝藩主となった際、弟の板倉重直(しげなお)が三河・山城・下総に8千石を分与されて旗本となり、深溝村の深溝城跡に陣屋を置いた。この深溝陣屋は幕末まで続き、明治元年(1868年)の陣屋廃止の際、陣屋門が幸田町六栗本郷の民家に移築されている。(2007.01.01)

向野にある深溝松平好景の首塚
向野にある深溝松平好景の首塚

忠定、好景、伊忠、家忠の墓
忠定、好景、伊忠、家忠の墓

兵九下の地名が残る屋敷付近
兵九下の地名が残る屋敷付近

移築現存する深溝陣屋の城門
移築現存する深溝陣屋の城門

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