深谷城(ふかやじょう)

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深谷上杉氏五代の本城

深谷城跡の模擬土塀
深谷城跡の模擬土塀

深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に堀を二重にめぐらせて、川の水を引き入れ、高い土塁により堅固に構築されていた。往時は南北約600mという大規模な城郭で、紅色の五弁花を開く木瓜(ぼけ)の花や実の断面に似ているので木瓜城とも呼ばれた。本曲輪を中心に二曲輪、西曲輪、北曲輪、秋本越中曲輪、東曲輪、掃部屋敷が取り巻き、『武蔵志』では東西の2ヶ所に櫓が存在したことを示している。また、発掘によって北曲輪と越中曲輪の間に存在する堀跡は、障子堀であったことが確認された。現在、本曲輪、二曲輪跡は深谷小学校となっており、校内に城址碑が建つ。本曲輪から東曲輪にかけての間が深谷城址公園として整備され、模擬石垣、模擬土塀が作られている。東曲輪跡に建つ富士浅間神社をめぐる池と水路は、当時の外濠の遺構としてわずかに残っている。

深谷上杉氏は、室町幕府の関東管領となった上杉憲顕(のりあき)の六男憲英(のりふさ)から始まり9代当主氏憲(うじのり)まで約230年間続いた。憲英は庁鼻和(こばなわ)城(深谷市国済寺)を築いて、庁鼻和上杉氏とも呼ばれ、上野国守護、蔵人大夫、奥州管領などをつとめ、河越の平一揆の討伐や上野国の新田一族の平定に活躍した。この庁鼻和上杉氏は、憲英−憲光−憲長−憲信と続き、5代当主房憲(ふさのり)のとき、古河公方足利成氏(しげうじ)と、扇谷上杉持朝(もちとも)・関東管領山内上杉憲忠(のりただ)遺臣による両上杉連合軍の抗争が激しくなり、康正2年(1456年)上杉方に属する房憲は、武蔵国深谷に堅固な深谷城を築いて移る。同年、岡部原合戦にて古河公方軍が上杉軍を破った際、深谷上杉氏の家臣の多くが討ち取られた。『鎌倉大草紙』にも「上杉方岡部原へ出合火出るほどに戦ひける」と見え、両軍の戦いが激しかったことを物語っている。これら享徳の乱では、深谷城は古河公方との抗争に大きな役割を果たした。

長享2年(1488年)に勃発した長享(ちょうきょう)の乱にて山内上杉氏と扇谷上杉氏が争ったとき、6代憲清(のりきよ)は終始、山内上杉氏に属した。7代憲賢(のりかた)も山内上杉憲政(のりまさ)の命に従い、天文10年(1541年)上野那波城(群馬県伊勢崎市)の那波宗俊、上野厩橋城(群馬県前橋市)の長野賢忠、上野桐生城(群馬県桐生市)の佐野助綱、忍城(行田市)の成田親泰ら周辺領主と共に、上野金山城(群馬県太田市)の横瀬泰繁を攻めている。しかし、天文15年(1546年)河越夜戦で山内上杉憲政が小田原の北条氏康(うじやす)に敗れると、憲賢は氏康に通じた。8代憲盛(のりもり)は越後の上杉謙信(けんしん)の麾下として北条氏と戦ったが、天正元年(1573年)北武蔵に勢力を伸ばしてきた北条氏の攻勢に抗しきれず、嫡男氏憲に北条氏政(うじまさ)の娘を迎えて、北条氏の傘下に入った。そのため翌年、報復として上杉謙信により深谷城下が焼き払われている。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役のとき、9代氏憲は相模小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。深谷城は、前田利家(としいえ)を総大将とする上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)ら北国軍に攻められ、秋元長朝(ながとも)や杉田因幡(いなば)らが持ちこたえて善戦したが、本城である小田原城が開城すると、城下の焼亡を避けるため降伏開城した。秋元長朝は、しばらくは隠棲していたが、文禄元年(1592年)徳川家康の家臣となり、慶長6年(1601年)関ヶ原合戦の功により上野国総社の領主となっている。徳川家康の関東入封後の深谷城は、長沢松平康直(やすなお)が1万石で入城し、その後も松平忠輝(ただてる)、松平忠重(ただしげ)など松平一門が城主を歴任した。元和8年(1622年)酒井忠勝(ただかつ)が1万石で入封するが、寛永3年(1626年)忍城に5万石で転封となり、深谷城はそのまま廃城となった。(2002.08.17)

東曲輪跡の富士浅間神社
東曲輪跡の富士浅間神社

深谷城の外濠跡
深谷城の外濠跡

深谷城外濠跡の碑
深谷城外濠跡の碑

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