江戸城(えどじょう)

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太田道灌築城の都にまで聞こえた名城

伏見櫓と二重橋
伏見櫓と二重橋

江戸城は太田道灌(どうかん)の築城時と、江戸幕府成立時の二時期に日本の城郭に大きな変革をもたらした。とりわけ戦国時代の地方城郭は江戸城をモデルとした伝承や記録が多く、太田道灌の築城技術の創意は特筆すべきものがある。この頃の江戸城は、江戸期の本丸部にあたり、子城(ねじろ)、中城(なかじろ)、外城(とじろ)の三郭で構成され、神田川を外堀としていた。三曲輪の大手口は、今日でいう汐見坂門付近である。江戸時代の江戸城は徳川将軍家15代の居城であり、江戸幕府の最高政庁であった。その規模は広大で、徳川家康の造営した内城域(本丸、二の丸、三の丸、西の丸)、それを取り囲む中城域(北の丸、吹上曲輪など)、その外側の外郭惣構え、出城の御浜御殿から構成される。江戸城の中心となる本丸御殿は、表・奥(中奥)・大奥の3つに分けられる。表は儀式と政治の場で、将軍宣下・年始・五節句などの儀式や、将軍との謁見に使用される大広間・白書院・黒書院と、諸大名の控の間、諸役人の詰所などで構成される。大奥は、将軍の大奥での寝所、御台所・将軍の生母や子供の居室、奥女中の詰所などがある御殿向、奥女中の住居にあたる長局向、大奥で事務や警護を担当する広敷役人(男子)の詰所がある広敷向に3区分される。奥は将軍が日常生活をして政務を執る区域である。大奥との境は銅塀によって区切られ、2本の御鈴廊下によって繋がっているが、表との境は明確な区切りはなく、構造上建物としては奥と表は一体となる。奥には将軍の居室と日常生活に必要な風呂や便所など、さらに側衆(そばしゅう)を筆頭とする奥勤務の諸役人の詰所などがある。現在も天守台、富士見櫓、伏見櫓、桜田二重櫓(巽櫓)、百人番所などが現存する。伏見櫓は関東大震災で倒壊したが復元されており、伏見櫓に接続する十四間多聞櫓と十六間多聞櫓も残っている。百人番所とは、甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎組の忍者が昼夜交代で100人ずつ詰めて警護したことによる。また、徳川家康の側近であった天海(てんかい)が住職を務めた川越の喜多院(きたいん)は、寛永15年(1638年)川越大火で山門を除くすべての伽藍を焼失するが、3代将軍の徳川家光(いえみつ)は、堀田加賀守正盛(まさもり)に命じて江戸城紅葉山の別殿を移築・復興させた。このため川越の喜多院(埼玉県川越市)には、江戸城の御殿が客殿、書院、庫裏として移築現存しており、豪華な家光誕生の間、春日局化粧の間を見ることができる。

平安時代末期、桓武平氏の流れをくむ江戸四郎重継(しげつぐ)が江戸の台地を利用して居館を築いたのが江戸城の始まりといわれる。江戸氏は秩父重綱(しげつな)の四男である重継が、武蔵国豊島郡江戸郷を相続し、江戸四郎を称したのが起源となる。武蔵秩父党の一族である江戸氏は、同族の河越氏、畠山氏とならび武蔵国の有力な豪族として栄えた。治承4年(1180年)源頼朝(よりとも)の挙兵に対し、平家方で同じ秩父一族である畠山重忠(しげただ)が、源氏方の三浦氏と合戦におよぶと、重忠の要請に応じて一族の惣領家である河越重頼(しげより)とともに、江戸重継の嫡子である太郎重長(しげなが)は武蔵国の武士団を率いて出陣する。そして、三浦氏の本拠である相模衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻め落として、当主の三浦義明(よしあき)を討ち取っている。安房国で再挙した頼朝が大軍を率いて武蔵国に入ると、江戸重長は畠山重忠、河越重頼とともに頼朝に帰属して鎌倉幕府の御家人に加わった。畠山重忠と河越重頼は、鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、江戸重長は「武蔵国棟梁」とも「関東一の大福長者」とも呼ばれ、江戸氏隆盛の礎を築いた。室町時代になると、延文3年(1358年)鎌倉公方足利基氏(もとうじ)の執事畠山国清(くにきよ)の命により、江戸遠江守が新田義貞(よしさだ)の子義興(よしおき)を多摩川の矢口の渡しで謀殺した。これにより江戸遠江守は雷神となった義興に祟たられ死んだとされ、江戸氏は勢力も人望も失って衰退する。のちに江戸へ進出したのは太田道灌である。このころ、扇谷上杉持朝(もちとも)は古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と対立しており、古河公方の南下を防ぐため、家臣の太田道真(どうしん)・道灌父子に江戸城、岩付城(埼玉県さいたま市)、河越城(埼玉県川越市)の築城を命じた。当時は利根川が江戸湾に注いでおり、利根川を境として東関東は下総古河城(茨城県古河市)を拠点とする古河公方が支配し、西関東は山内・扇谷の両上杉氏が掌握していた。長禄元年(1457年)太田道灌は、江戸郷を見渡す丘に江戸城を築き入部した。道灌の築いた江戸城は、子城、中城、外城という三つの独立した曲輪からなり、周囲には高さ2間ほどの土塁を築いていた。曲輪の間には空堀があり、飛橋(とびばし)と呼ばれる橋(跳ね橋)で連絡していた。のちに「道灌がかり」と呼ばれる築城法で、いずれかの曲輪が攻略されても、他の曲輪に拠って防戦することができるという独立性の高い縄張りであった。江戸城には江戸湾に接する丘の上に静勝軒(せいしょうけん)という高閣望楼建築があり、この天守のはじまりのような建物が、東国の守護・守護代クラスの城郭に大きな影響を与える。大石定重(さだしげ)は柏の城(埼玉県志木市)に万秀軒(ばんしゅうけん)、上杉顕定(あきさだ)は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に随意軒(ずいいけん)、太田道真は越生の居館(埼玉県入間郡越生町)に自得軒(じとくけん)を構えた。

大永4年(1524年)相模を平定した北条氏綱(うじつな)は、武蔵進出のために扇谷上杉朝興(ともおき)と高縄原で衝突した。高縄合戦に敗れた朝興は江戸城に退却するが、江戸城を取り仕切っていた太田資高(すけたか)が北条氏に内応して、北条軍を江戸城内に導き入れたため、朝興は江戸城を放棄し河越城に落ち延びた。入城した氏綱は、本丸に富永政直(まさなお)、二の丸に遠山直景(なおかげ)、香月亭に太田資高・康資(やすすけ)父子を配置し、その後は北条氏の有力支城として機能した。北条氏の時代にも道灌の静勝軒は存在し、「富士見の亭」と呼ばれる。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、江戸城代の遠山景政(かげまさ)は相模小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。江戸城は景政の弟である川村秀重(ひでしげ)が守備したが、浅野長吉(ながよし)、前田利家(としいえ)、徳川氏家臣の戸田忠次(ただつぐ)らの包囲軍に開城した。小田原城も開城し、北条氏は滅びている。小田原の役で最大の功績功労者は徳川家康であった。秀吉は恩賞と称して、家康の領地と引き換えに北条氏の旧領を与えた。家康の実力を恐れた秀吉が、家康を上方から離れた関東に封じ込めたと考えられている。家康は秀吉の命令に従うしかなかった。本拠をどこにするかという点も、難攻不落の小田原城がそのまま残っていたり、武家の古都である鎌倉という選択肢もあったが、秀吉の勧める江戸という寒村を選ぶしかなかった。家康は江戸に本拠を置くことを決断し、家臣団を引き連れて江戸に向かう。この時の緊迫した様子から「江戸御討入(えどおうちいり)」と呼んだ。そして、初めて見た江戸に家康は愕然とする。東側の平地の大部分は海につかった葦の茂る野原で、町や屋敷を建てる余裕もない状態であった。当時の江戸は、現在の大手町あたりまで日比谷入江と呼ばれる海が深く入り込み、平地といえば江戸前島(えどまえしま)という小さな半島くらいで、中央区・江東区の大半は海や湿地であった。史料にも「いかにも粗相(そそう)」、「町屋なども萱葺きの家が百ばかり」、「ここもかしこも潮入りの芦原(あしはら)」と記されている。当時の関東平野は、江戸湾に利根川・荒川・多摩川が流れ込み、見渡す限りの大湿地帯であった。家康が入った江戸城は、丘陵上に3つの曲輪が空堀で区画され、平河方面に外曲輪があった。土塁は芝土居で、城内の建物は柿葺き(こけらぶき)はなく、ほとんどが木端葺き(こっぱぶき)で、台所のみが萱葺き(かやぶき)であったと伝わる。本城の主殿は傷みがひどく、畳や床が雨漏りで朽ちていたという。関八州の太守となった徳川家康は江戸城を居城と定めて、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。家康は江戸湾に流れていた利根川の流れを徐々に変えていき、千葉県の銚子に向かわせる「利根川東遷」の治水工事に着手、これにより関東平野の湿地帯は肥沃の大地に変わっていく。家康は江戸城を天下普請により整備し、道灌の静勝軒の場所には富士見櫓を築いた。静勝軒は土居利勝(としかつ)が貰い受け、下総佐倉城(千葉県佐倉市)に移築し、本丸の銅櫓として存続した。家康の造営した天守は、2代将軍秀忠(ひでただ)、3代将軍家光がそれぞれ建て直した。特に、寛永15年(1638年)家光が造営した5層6階の天守は、天守台も含めた高さが約60メートルもあり、現在の20階建てビルに相当、日本最大の木造建築物であった。しかも、天守の壁には、当時は高価であった銅を貼り付けていた。明暦3年(1657年)僧侶たちが火を焚き、棺から取り出した遺品の振袖を焼こうとした時に、炎にまみれた振袖が強風にあおられ、寺の本堂の柱に巻きつく。それが原因となり、江戸時代で最悪といわれる大火がおこった。

80日間まったく雨が降っていなかったため、火は3日3晩燃え続け、江戸の街を焼き尽くした。焼死者は10万人を超えたという。この振袖火事とよばれる大火で江戸城の天守も焼失し、以後再建されることはなかった。江戸城の本丸に大奥(おおおく)跡が存在する。大奥とは将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所で、江戸城天守台の近くにあり、本丸の約6割を占めるという広大さである。この場所には最盛期で3000人の女性が暮らしていた。大奥の年間予算は、江戸幕府の年間予算の1/4もあり、その予算の半分は女性の着物などに使われるという華やかさであったという。この江戸城大奥の礎を築いたのは春日局である。春日局こと斎藤福(ふく)は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母であった。天正7年(1579年)お福は丹波黒井城下館(兵庫県丹波市)で斎藤利三(としみつ)の娘として誕生した。父の斎藤利三は明智光秀(みつひで)の重臣であり、光秀の従弟にあたる人物でもある。天正10年(1582年)明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒すことに成功するが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れると、斎藤利三も捕らえられて処刑された。お福は親類縁者を頼って各地を転々とし、小早川秀秋(ひであき)の家老である稲葉正成(まさなり)の後妻となる。その後、徳川将軍家の乳母となるために正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)江戸幕府2代将軍徳川秀忠と正室お江与との間に次男の竹千代が誕生すると、お福が竹千代の乳母に任命された。この将軍家の乳母の仕事は、京都所司代板倉勝重(かつしげ)が一般公募したものという話も伝わる。ちなみに長男の長丸は既に早世しており、竹千代が世子として扱われた。慶長11年(1606年)三男の国松が誕生、乳母になつく竹千代を疎んでいたお江与は国松を溺愛し、乳母に任せずに自分自身で育てた。通常であれば兄の竹千代が将軍になるはずであるが、徳川秀忠は恐妻家で知られており、お江与が国松を次期将軍に推せば、秀忠はこれに同調する可能性があった。さらに、江戸城内でも国松を世継ぎにという声が次第に高まってきた。これらに悲観した竹千代は自害を試みたともいい、乳母のお福は非常に危機感を募らせていた。慶長16年(1611年)お福は伊勢参りと称して江戸城を出て、徳川家康が隠居している駿河駿府城(静岡県静岡市)に向かった。お福は決死の覚悟で家康に直訴する。これが世に言う春日局の抜け参りであった。この努力により次期将軍は竹千代に決まり、後にお福には将軍の乳母として3千石が与えられている。現在の東京都文京区全体がお福の領地であり、文京区には春日町という地名も残っている。元和9年(1623年)徳川家光が3代将軍に就任すると、お福は家光のために大奥を組織的に整備した。大奥は将軍の世継ぎを絶やさないために機能し、これによって家光に世継ぎが誕生、それが4代将軍徳川家綱(いえつな)と5代将軍徳川綱吉(つなよし)であった。寛永6年(1629年)幕府内で絶対的な権力を築き上げたお福は、将軍に代わって後水尾天皇に拝謁するということまでこなしていた。この時に朝廷から従三位の位と春日局の称号が与えられた。その後、官位は従二位にまで昇叙している。のちに大奥では、乳母が授乳する際は黒子のように覆面をする奇習ができた。これは春日局のように、将軍と乳母のつながりが深くなり、政治に介入されるのを避けるためだったと伝わる。明治元年(1868年)江戸城は明治政府に明け渡され、東京城と改めたが、翌明治2年(1869年)には皇居となった。(2004.07.08)

三層の富士見櫓
三層の富士見櫓

江戸城の天守台
江戸城の天守台

桜田二重櫓と桔梗門
桜田二重櫓と桔梗門

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