田峯城(だみねじょう)

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奥三河に蟠踞した山家三方衆のひとつ、菅沼宗家である田峯菅沼氏の居城

復元された田峯城全景
復元された田峯城全景

奥三河の田峯城は、段戸(だんど)連峰を間近に控えた田峯台地の東端に位置し、寒狭川(かんさがわ)の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵に築城された山城である。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが、大蛇のようであったことから、別名として蛇頭城(じゃずがじょう)とも、龍ヶ城とも呼ばれた。約40m×20mの本丸から西側には、家老屋敷であった道寿(どうじゅ)曲輪、城主の奥方の屋敷があった御台様屋敷、狭い空間の畷(あぜ)曲輪、武器や兵糧などを保管する蔵があった蔵屋敷、水の手である井戸曲輪があった。そして、最下段には田峯城への入り口にあたる大手曲輪と表曲輪、その裏手に位置する裏曲輪がある。大手曲輪の右手には無名曲輪という曲輪があるが、これは史料や伝承からこの曲輪の名前が現れないことによる便宜的な名称である。また、本丸から東方に離れて仕置場があった。城址は良く整備されていて、一部の曲輪は墓地や茶畑になっているが、他は樹木も伐採されており、曲輪の形状も良くわかる。本丸には入母屋書院造りの御殿のほか、家臣の住居を兼ねた厩(うまや)、見張りのための板葺の物見台、本丸大手門・搦手門が中世・戦国時代の建築方法により復元されている。田峯城の遺構は見事に残っているものの、田峯城に関する史料は極めて少ないため、これらは他の中世城郭を参考に想定復元したものである。書院造りとは、それまでの公家文化にあった寝殿造りが変化して確立した建築様式である。中世の一時期には寝殿造りの略化したものを主殿と呼び、武家のあいだで一般化していた。田峯城の御殿は、この主殿を参考にしている。御殿は、梁間(はりま)6間、桁行(けたゆき)8間の大きさで、南に中門(ちゅうもん)が、北に色代(しきだい)が張り出している。屋根は板葺(いたぶき)の入母屋(いりもや)造り、中門と色代は切妻(きりづま)造りである。また、車寄(くるまよせ)に柿葺(こけらぶき)の唐破風(からはふ)を付けている。内部は、南側に18畳の上段の間、18畳の二の間、6畳の公卿(くぎょう)の間が、北側に12畳の鑓(やり)の間、4畳の畳廊下が続いている。厩は遠侍(とおざむらい)、草間(くさのま)、立場(たてば)から構成される。遠侍は家臣の控える間、草間は馬の手入れをするところ、立場は馬を繋いでおくところである。本丸大手門は板葺の棟門(むなもん)で、小規模な枡形も構成されている。搦手門は冠木や屋根がなく門柱のみの造りであったと想定され、旗竿等を立てたまま通行できる工夫であった。また、田峯城には土塁がないという特徴があるが、これは後世に破壊されたのではなく、初めから存在しなかったようである。田峯が集落として形成され始めたのは、嘉吉年間(1441-44年)菅沼新八郎定成(さだなり)が額田郡菅沼郷より移住した頃からと考えられる。菅沼氏は清和源氏の流れをくむ土岐氏の傍流である。美濃源氏の嫡流である土岐氏は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国を治める守護大名としてその勢力を誇った。菅沼定成の父である土岐新三郎定直(さだなお)が作手の菅沼を拠点としたことから菅沼を名乗るようになったと伝えられる。菅沼氏の家紋は釘抜き紋であるが、桔梗紋を使っていたことも知られている。桔梗紋は明智光秀(みつひで)をはじめ、土岐一族が用いていた家紋である。一方で、菅沼氏を名乗る経緯には諸説ある。永享6年(1434年)定直は室町幕府6代将軍である足利義教(よしのり)の命によって、三河国住人の菅沼信濃守俊治(としはる)を討ち、その戦功により菅沼氏の所領を与えられて菅沼を称したという。

これは、正長元年(1428年)小倉宮聖承(せいしょう)が皇位継承に不満を抱き、伊勢国司北畠満雅(みつまさ)を頼って伊勢に下ったことに始まる。北畠満雅は、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と連合し、室町幕府に対して挙兵した。菅沼俊治もこれに従って伊勢で戦うが敗れており、三河の居城へと退却した。この菅沼氏の居城とは、上前田にあった菅沼古城(新城市作手菅沼)である。足利義教は、土岐大膳興安(おきやす)、富永伯耆守久氏(ひさうじ)、土岐孫太郎頼房(よりふさ)、および頼房の弟である新二郎光貞(みつさだ)と新三郎定直らに菅沼俊治の討伐を命じた。土岐大膳ら幕府方の軍勢は菅沼古城を囲んで攻撃、この戦いで土岐定直は搦手口を受け持ち、出撃してきた菅沼俊治の首を見事に討ち取ったという。菅沼郷に本拠を移した定直は、守りの弱い菅沼古城には入城せず、北側の菅沼川が流れている台地に新しく城を造った。これが経蔵にある菅沼城(新城市作手菅沼)である。しかし別説によると、この定直は、当初は資長(すけなが)といい、土岐三郎次郎光兼(みつかね)の次男とされる。そして、設楽郡を支配する野田の富永信資(のぶすけ)に養われ、のちに菅沼九郎左衛門忠通(ただみち)の養子となり、菅沼定直に改めたとされる。いずれにしても、その始まりは不明な点が多い。また地元には、定直の菅沼城は、三河松平氏の祖となる世良田親氏(せらだちかうじ)の軍勢に攻められて降ったという伝承が残るが、時代が少し合わない。このように作手を拠点とした菅沼定直であったが、やがて長男の新八郎定成が田峯に拠点を移す。田峯に本拠を置いた菅沼氏は、現在の設楽町だけでなく、旧鳳来町のほぼ全域から北の旧稲武町の辺りまでの広域を領した。菅沼定成は、現在の田峯観音の地に居館を構えたという。定成の弟・三郎左衛門満成(みつなり)は長篠に居を構えて長篠菅沼氏の祖となった。のちに定成は、正室の子で次男の三郎左衛門定信(さだのぶ)に田峯の地を譲り、長男ではあるが側室の子であった伊賀守貞行(さだゆき)とともに島田(新城市愛郷)に移った。これにより貞行は島田菅沼氏の祖となっている。このように菅沼氏は息子たちを分家させ、その勢力を伸ばしていった。奥三河の地に蟠踞した田峯の菅沼氏は、長篠・島田・野田菅沼氏の宗家として田峯菅沼氏と呼ばれている。田峯菅沼氏の祖となった菅沼定信は、文明2年(1470年)田峯城を築城して拠点としている。また、それまで居館のあった場所には、田峯城の鎮護と父・定成の菩提を弔うために高勝寺(設楽町田峯)を建立、田峯観音として知られる十一面観世音菩薩を祀る。他にも定信は、荒廃していた日光寺(設楽町田峯)も再建した。田峯観音の霊験については、江戸時代の逸話が残っている。正保元年(1644年)田峯の日光寺が焼失してしまい、村人たちが再建のために段戸山から木を伐り、承応3年(1654年)日光寺が完成した。ところが段戸山は幕府直轄の山林で、村人たちは御林の木を誤って伐採したのである。これを聞いた御油赤坂(豊川市)の代官・鳥山牛之助が御林検分に来ることになった。村人たちは田峯観音に助けを求め、たとえ村が3軒になっても歌舞伎を奉納することを誓った。すると検分の日、真夏にも関わらず大雪が降って代官たちは山に入れず、こんな寒いところに木を伐りに来るはずがないと引き返したという。こうして田峯の人々は、今日に至るまで奉納歌舞伎を絶やすことなく続けている。2代城主の新三郎定忠(さだただ)の代になると、戦国大名化した駿河の今川氏親(うじちか)の勢力が三河に達しており、今川氏に属することになる。

永正12年(1515年)菅沼定忠は、嫡子の新三郎定広(さだひろ)とともに遠江社山城(静岡県磐田市)に籠もって今川氏のために働いている。翌永正13年(1516年)定忠は武節(ぶせつ)に進出して武節城(豊田市武節町)を築いた。定忠の三男・新八郎定則(さだのり)は野田の富永氏の家臣・今泉四郎兵衛に懇請されて野田館(新城市野田)に迎えられ、野田菅沼氏の祖となった。3代城主の菅沼定広は、父とともに豊川に沿って積極的に勢力を拡大した。大谷城(新城市上平井)に嫡子の新太郎定継(さだつぐ)を配し、布里城(新城市布里)に三男・弥三右衛門定直(さだなお)、大野城(新城市大野)に五男・八右衛門定仙(さだのり)を配して郷村の支配を強化した。この頃、奥三河では、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏が結束しており、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれていた。山家三方衆は一般的な一揆と同様に相互の立場は平等で、互いに婚姻関係にあり、外敵に対しては一致団結して対抗していた。そして、戦国大名の大勢力に挟まれ、存続のために向背を繰り返した。はじめ駿河今川氏に仕えた田峯菅沼氏であったが、大永6年(1526年)今川氏親が没すると、享禄2年(1529年)東三河に侵攻した松平清康(きよやす)に属した。天文4年(1535年)守山崩れによって清康が討たれると、再び今川氏の麾下に復すという具合である。この頃、東は今川氏、北は甲斐武田氏、西は尾張織田氏と強大な戦国大名がせめぎ合っていた。弘治2年(1556年)4代城主の菅沼定継は、作手の奥平監物貞勝(さだかつ)に誘われ、今川氏を離反して尾張の織田信長に通じた。このとき定継に従ったのは、次弟の左衛門次郎と島田菅沼氏の孫太夫定孝(さだたか)、そして野田菅沼氏の当主・新八郎定村(さだむら)の弟である三右衛門定圓(さだまる)、伝一郎定自(さだより)くらいであり、宗家としての面目を失っている。『菅沼家譜』、『寛政重修諸家譜』、『南設楽郡誌』によると、定継の弟で布里(ふり)の定直、同じく弟で井代(いしろ)の八右衛門定成(さだなり)、一族で双瀬(ならぜ)の林左京亮(さきょうのすけ)らがこれに反対し、一族を二分した争いに発展する。緒戦において、定継は布里城を奪っているが、結局、今川義元(よしもと)の援軍を従えた定直と再び布里で戦って敗北、定継は黒ヌタという場所で自刃に追い込まれた。勢いに任せた定直の軍勢は田峯城に押し寄せている。このとき、定継の子で3才の小法師丸は、乳母に抱かれて田峯城を脱出、黒倉の竹やぶの中に隠れたが、小法師丸の泣き声によって定直の追手に発見され、乳母はその場で斬殺された。田峯字鍛冶沢に「乳母神様」という小さな祠があり、これは成人した小法師丸が乳母の墓を作って弔ったものである。もとは山中に存在したが、近年になって現在地に移転した。この混乱により田峯城は、田内城(設楽町田内)の島田菅沼定勝(さだかつ)・定清(さだきよ)父子に占拠されたが、のちに定直が小法師丸を伴って田峯城に入った。田峯城主となった定直は、さすがに小法師丸を殺すことはできずに養育している。桶狭間の戦いの後、松平次郎三郎元康(のちの徳川家康)が今川氏から独立すると、永禄4年(1561年)田峯菅沼氏は家康に属し、父の遺領相続を安堵された小法師丸が8才にして田峯城主となった。幼主の小法師丸には、弥三右衛門定直、十郎兵衛定通(さだみち)、八右衛門定成、林左京亮の4人が重臣として従い、これを支えた。小法師丸は元服して新三郎定忠(さだただ)と名乗り、正室には奥平氏から従妹を迎えたという。

元亀2年(1571年)甲斐の武田信玄(しんげん)の勢力が三河に伸び、秋山伯耆守信友(のぶとも)が2千3百の軍勢を率いて奥三河に襲来した。秋山信友は、まず田峯城の主席家老・城所道寿信景(きどころどうじゅのぶかげ)に目を付け、調略に成功している。田峯城では叔父の菅沼定直や次席家老の今泉孫右衛門道善(どうぜん)らが反対したが、菅沼定忠は城所道寿を信頼しており武田氏に属することになった。続いて道寿は、長篠城(新城市長篠市場)の菅沼新九郎正貞(まささだ)、亀山城(新城市作手清岳)の奥平九八郎貞能(さだよし)を取り込み、さらに島田菅沼氏や野田菅沼氏にも働きかけ、野田の新八郎定盈(さだみつ)には失敗するが、島田の久助三照(みつてる)の取り込みには成功している。人質が甲斐へ送られることになり、田峯菅沼氏からは道寿の娘と、家老のひとり伏木久内(ふしきくない)の弟が出されたと記されている。奥三河に滞陣していた信玄は、菅沼定忠率いる田峯衆を先手として、山県三郎兵衛尉昌景(まさかげ)、相木市兵衛らの軍勢に菅沼定盈の大野田城(新城市野田)を攻めさせた。しかし、武田軍来襲の報を受けた定盈は、城を捨てて逃走している。こうして山家三方衆は武田氏に属することになる。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなどで、山家三方衆は武田方として大いに活躍した。天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、菅沼定忠は城所道寿ら軍勢200を率いて武田方に従軍する。田峯菅沼氏は山県昌景隊に属し、徳川勢と死闘を演じた。しかし、山県昌景をはじめ武田家の名だたる武将が次々と討死、武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫する。定忠と道寿は、大将である武田勝頼(かつより)の退路を開くために田峯衆を戦場から引き上げさせ、火灯山麓に向かった。そして、敗走する勝頼一行を道案内して田峯城まで辿り着いた。ここで勝頼に休息してもらうつもりであったが、城門は閉ざされたまま開くことはなかった。武田軍の敗報を受けた留守居の菅沼定直と今泉道善らが謀反をおこし、城門を堅く閉ざして入城を拒絶したのである。定忠は勝頼とともに支城の武節城を経由して信濃国飯田に逃れた。復讐を誓った定忠は、自身が自害したという噂を流して油断させておき、天正4年(1576年)7月に軍勢を率いて勝手知ったる田峯城を急襲した。14日未明、まだ寝静まっている田峯城に斬り込み、老若男女を問わず謀反に加担した一族郎党96名を惨殺、首謀格の今泉道善は捕縛された。道善は定忠の手習いの師匠であったが、道善への恨みは凄まじく、生きたままノコギリで首を切り落とすという「鋸引きの刑」に処された。田峯城のすぐ西の丘には、今泉道善処刑の地である道善塚(道善畑)が残る。また、殺害した96名の生首を作手街道の辻に晒した。この場所は首塚(設楽町田峯)と呼ばれるようになり、一石五輪塔など古石塔が20基あるが誰のものか定かではない。天正10年(1582年)織田信長により武田氏が滅亡すると、菅沼定忠は徳川氏に帰参を願い出るが許されず、信濃国伊那郡知久平にて牛久保城(豊川市)の牧野康成(やすなり)に誅殺された。その後、田峯の遺領は道目記(どうめき)城主の菅沼小太郎定利(さだとし)が継ぐことになった。この定利は、定忠に討たれた菅沼定直の長男で、菅沼宗家の家督も継承している。天正11年(1583年)定利は徳川氏の伊那郡代として信濃知久平城(長野県飯田市)に入城しており、このとき田峯城は廃城になった。天正18年(1590年)菅沼定利は、家康の関東転封に従って関東に赴き、上野国吉井に2万石を与えられた。そして、上野吉井藩の初代藩主となっている。(1997.02.23)

城址碑と本丸大手門
城址碑と本丸大手門

書院造りの御殿と物見台
書院造りの御殿と物見台

御殿と本丸大手門
御殿と本丸大手門

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