茅ヶ崎城(ちがさきじょう)

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渦巻き紋かわらけ等で知られる扇谷上杉氏に関係した保存状態のよい中世城郭

茅ヶ崎城の中郭南西角の櫓台
茅ヶ崎城の中郭南西角の櫓台

横浜市営地下鉄ブルーラインとグリーンラインの2路線が乗り入れるセンター南駅付近は、かつて三角山と呼ばれる地形であった。往時の茅ヶ崎城は、鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)の中流南岸にあった三角山から東に連なる丘陵の先端部(標高35m、比高20m)に築かれた丘城である。北を早渕川とその沖積地による低湿地に、南を正覚寺谷・打越谷による湿地に囲まれた天然の要害上に立地していた。神奈川湊(横浜市神奈川区)から小机城(横浜市港北区)を経て、武蔵国府(東京都府中市)までを結ぶ往還(神奈川道)が、茅ヶ崎城の北側の外郭内(東北郭)を東西に通過していたようである。このため茅ヶ崎城は、早渕川および神奈川道を監視・防衛するための拠点として整備されたと考えられる。東西330m、南北200mとその面積は広く、大軍勢の駐屯にも耐えられる規模の城郭であり、同じ市内にある小机城に規模的にも構造的にも類似するものであった。中郭(主郭)を中心として、西郭・東郭・北郭・東下郭・東北郭の6郭と根小屋地区で構成される。主軸となる西郭・中郭・東郭が東西一列に並んで高い位置にあり、城の中心をなしている。その北側に一段下がって北郭および東下郭があり、さらに下の窪地を東北郭(外郭)としている。1970年代に始まった港北ニュータウンの開発により、周辺は宅地化されているものの、城跡の多くは造成による破壊を免れている。現在は茅ヶ崎城址公園として整備され、公園内には曲輪(郭)や土塁、櫓台、空堀など、中世城郭の遺構が良好な状態で保存されている。このため「茅ヶ崎城を見ずして、中世城郭を語ることなかれ」とまでいわれる。築城当初は東西2つの郭のみであったが、後に直列に連結した西郭・中郭・東郭・東下郭に造り替えられ、さらに北郭が付属するなど、少なくとも2期に渡って築城・改修されている。その時期は、おおむね1期目が14世紀末から15世紀前半、2期目が16世紀前半に比定される。平成2年(1990年)から数度にわたる発掘調査を実施、各調査地点で中世の遺構が検出され、北条流築城術の特徴である比高二重土塁が確認された他、横から矢を射かけるための「横矢」と呼ばれる構造や、屈曲した堀などの「折邪(おりひずみ)」と呼ばれる構造も見受けられる。一方、北条氏特有の堀底に障壁を設けた畝堀や障子堀は確認できなかった。空堀内には宝永火山灰が堆積しており、保存状況は極めて良好であった。空堀は両壁が約70度の急角度をなし、断面が逆台形の「箱堀」で、堀底はほぼ水平である。空堀の規模は土塁上端で最大幅15m、最大深10mで、総延長は約1,000mに達する。城の虎口(出入口)としては、西郭および北郭に開口部があり、土橋や木戸が確認されている。西郭・北郭とも北辺中央部が虎口で、西郭では土塁の切れ目が現存し、幅3mの土橋が設けられている。北郭は両側に溝を伴なう幅3尺の通路の延長上に土橋があり、土塁中央の位置に対をなす柱穴が掘られ、門を含む木戸が存在した。北郭土橋の案内板の裏側には台形のコンクリート擁壁があるが、これが土橋の断面であり、横切る道路は空堀の跡である。両郭は北方に開いていたことが分かり、両郭の北側を横切る神奈川−荏田往還(神奈川道)を意識したものと考えられる。西郭は南側が一段高くなった二段構造であり、北郭は中郭に対して馬出しのような機能を有した郭であった。中央の中郭は長軸100m程もあり、かなり広い郭である。周囲をとり囲む大きな土塁の南西角には平場が造成されており、櫓台と考えられている。土塁の側面には武者走りとか犬走りと呼ばれる連絡用の通路が添えられている。

中郭では南東部が調査され、多数の建物・土坑・中堀の存在が明らかとなった。中郭には合わせて7棟の時期の異なる建物跡があり、掘立柱建物は3群に分れ、北群は東西方向、東・西群は南北方向で、南土塁との間を塀で区切っていた。北・東群は内部に土坑があり、その一部は銭貨収納を含む倉庫とみられる。西群は総柱式建物の後に、台石配置の竪穴を内包する掘立柱建物が構築された。この建物は下層土壁・上層板壁の二階造り倉庫で、茅ヶ崎城の中心的な建物であったと考えられる。建物の礎石や壁土の一部には被熱痕があり、火災もしくは外からの攻撃によって被災した可能性がある。中郭の南東部は倉庫地区で、これら倉庫群の東部を後に中堀が切断しており、6〜7段階にわたる変遷が確認された。中郭の東側にあるのが東郭である。中郭よりも3mほど高く、城内での最高所にあたり、有事の際は最後の拠点となる詰の丸に推定される。東側の中原街道や西側の矢倉沢街道(大山道)を見渡せるほど見晴らしがよい場所である。中郭と東郭は上幅14m、深さ7mの空堀で隔てられており、中央部は土橋によって連結されているが、これは廃城後に土塁を崩して造られた通路であることが調査により分かった。中郭の南側下には平場があり、そのさらに下が根小屋地区となっている。この時代の城主・家臣は、平時は城内に居住せず、麓につくられた根小屋で生活し、有事の際にのみ城に籠った。茅ヶ崎城では南・東の崖面裾に幅10mから20m、東西600mにおよぶ平場が展開している。根小屋では井戸・20点の板碑・火葬蔵骨器が確認され、14世紀から15世紀の墓地を伴う居住地区に比定される。茅ヶ崎城に関する古文書・記録類が皆無のため、築城者・築城時期などは不明のままであった。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、平安時代末期の多田摂津守頼盛(よりもり)の子である多田太郎が城主と伝えており、近世以降では源平合戦で知られる武将・多田太郎行網(ゆきつな)の館跡と考えられていた。このため多田山城守塁ともいう。多田行綱は源行綱ともいい、摂津国多田の地に武士団を形成した多田源氏の嫡流で8代当主である。安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀では、平清盛(きよもり)に密告した人物として知られる。治承・寿永の乱において、当初は平家に属していたが、木曾義仲(よしなか)の快進撃に呼応する形で、寿永2年(1183年)摂津・河内両国で挙兵して平家に反旗を翻した。義仲の敗亡後は源頼朝(よりとも)方に付き、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは源義経(よしつね)軍の一翼として活躍している。一ノ谷の戦いで有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」については、実は鵯越から攻撃した別働隊とは多田行綱の軍勢であり、これが後に義経の軍功とすり替わったとする説もある。平家滅亡後の元暦2年(1185年)多田行綱は、所領の多田荘を頼朝に没収され追放処分となった。これについては、頼朝と対立した義経との関係性や、頼朝が多田荘を欲したことなどが理由と考えられている。追放から5か月後の文治元年(1185年)11月、義経一党が都落ちすると、多田行綱は摂津国河尻で迎え撃った。この行動は失った多田荘を回復するためのものと考えられているが、これにより処分が解かれることはなかった。この河尻の戦い以後の多田行綱の消息は不明である。茅ヶ崎城の西隣には、寿福寺の境外仏堂である茅ヶ崎観音堂(横浜市都筑区茅ケ崎東)がある。飛鳥時代から奈良時代の僧である行基(ぎょうき)が関東に下向したおりに1寸8分(5.5cm)の金無垢の観音像を八葉八谷(横浜市都筑区茅ケ崎南)に安置したのが始まりである。

寛平2年(890年)新谷(あらやと)に堂宇を建立して観音像を移したが、治安2年(1022年)天災により堂宇は焼失するも、本尊の観音像のみは災いを免れた。その後、時の領主・多田山城守行綱が守護仏として堂を建立したのが茅ヶ崎観音堂であるという。また、茅ヶ崎城の東方にある寿福寺(横浜市都筑区茅ケ崎東)は、多田行綱の菩提所との伝承がある。平安時代初期、弘法(こうぼう)大師によって創建された真言宗の古刹であったが、鎌倉時代に入り、承元4年(1210年)多田行綱の子とも孫とも伝わる智空(ちくう)法師(多田福寿丸)によって寿福寺は浄土真宗に改宗されたという。このように茅ヶ崎城は平安時代末期の城館跡という伝承はあるが詳細は不明で、今日では室町時代の豪族による城郭とされる。この都筑郡一帯および神奈川湊は、室町時代には武蔵国守護職である関東管領・山内上杉氏の家宰・長尾氏の支配下にあった。4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)と関東管領・山内上杉氏が対立する中で、山内上杉氏を補佐する扇谷上杉氏も勢力を拡大し、15世紀半ばには相模国守護職を得ていった。武蔵国と相模国は、それぞれ山内上杉氏と扇谷上杉氏の支配するところとなる。享徳3年(1454年)5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領・上杉憲忠(のりただ)を謀殺したことにより享徳の乱が勃発、鎌倉公方と山内・扇谷両上杉氏の対立により、関東一円は約50年にわたる争乱状態に陥った。文明8年(1476年)6月、山内上杉氏の家臣・長尾景春(かげはる)の反乱が勃発し、景春に与する南関東の諸勢力も一斉に蜂起した。このとき小机城には景春の被官・矢野兵庫助が兵を挙げ、さらに練馬城(東京都練馬区向山)、石神井城(東京都練馬区石神井台)に豊島氏が蜂起するものの、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌(どうかん)に攻撃されて滅びている。小机城は、文明10年(1478年)に鶴見川を挟んだ亀甲山(横浜市港北区)の太田軍と2か月余りの対峙のすえ落城した。このとき茅ヶ崎城でもこれに連動した攻防戦があり、江戸城から中原街道を南下した太田軍によって攻め落とされたと考えられている。この長尾景春の乱とそれに続く山内・扇谷両上杉の争いである長享の乱によって、山内上杉氏の勢力は南関東からの撤退を余儀なくされた。長享の乱の後、神奈川湊には扇谷上杉氏の重臣・上田氏が置かれ、都筑郡域の支配も上田氏がおこなったようである。上田氏は武蔵七党のうち西党の系統とされている。南関東の支配が山内上杉氏から扇谷上杉氏に代わり、神奈川湊周辺および小机城で戦乱が繰り広げられる中、小机城に近い茅ヶ崎城も同様の戦火にさらされたと考えられる。茅ヶ崎城の出土遺物には、内底に反時計回りの渦巻き紋が施された土器がある。ロクロを用いて作られており、皿型で縁が薄くなっている武蔵型と呼ばれるものがほとんどだが、一部で縁が立ち上がって椀の形をした相模型と呼ばれるものが含まれる。これら、かわらけ等の土器は、中郭および北郭から数十点出土しており、大きさは直径15cmから18cmの大型なものから、直径12cmから15cmのものまであり、いずれも15世紀後半に位置付けられている。渦巻き紋かわらけの出土は、横浜市域では現在のところ茅ヶ崎城のみである。神奈川県下では相模丸山城(伊勢原市)から出土しており、県外では下総葛西城(東京都葛飾区)、江戸城(東京都千代田区)、深大寺城(東京都調布市)、河越城(埼玉県川越市)、岩付城(埼玉県さいたま市)、武州松山城(埼玉県比企郡吉見町)など、主に南関東の城郭から出土しており、これらはいずれも扇谷上杉氏の拠点となった城である。

山内上杉氏、古河公方、小田原北条氏もそれぞれ特徴のある形状や内底面のデザインに顕著な差異があり、かわらけを調べる事でその勢力範囲や他地域との交流などが推測できるという。かわらけとは、平安末期から鎌倉期以降、主に都市部の儀式や饗宴の場で使われた、非日常的な道具であり、室町幕府の儀式の中でも頻繁に使用されて、武家儀礼の必須アイテムであった。やがてそれは全国の守護勢力の拠点に伝播して独自のかわらけを生んでいる。山内上杉氏と抗争を続ける扇谷上杉朝良(ともよし)は、駿河国守護職の今川氏親(うじちか)と伊豆国を平定した北条早雲(そううん)を味方に付けて山内上杉顕定(あきさだ)と戦った。この抗争に付け入られる形で相模国を北条氏に浸食され、永正13年(1516年)には相模における扇谷上杉氏の重臣・三浦道寸(どうすん)が討ち取られてしまう。やがて北条氏は南武蔵への侵攻を開始し、大永4年(1524年)扇谷上杉朝興(ともおき)は江戸城から河越城へ逃れることになる。こうして、都筑郡一帯は北条氏の支配下となった。茅ヶ崎城や小机城など鶴見川流域の城は、鎌倉・府中・江戸のほぼ中間に位置し、それらをめぐる抗争の渦中にあった。永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』によれば、小机衆被官は29人と規定されており、これは北条氏の軍制の中では中規模の軍団勢力であった。茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと考えられる。座間豊後は小机茅ヶ崎に50貫200文とあり、座間新左衛門は10貫文で小机折本と見受けられる。また、座間弥三郎(坐間彌三郎)が、茅ヶ崎・折本・池辺のあたりを知行していたとされる。北条氏の勢力が、鶴見川流域から早渕川周辺へと伸びていく過程で、扇谷上杉氏の南下に備えるため茅ヶ崎城の2期目の改修がなされたと考えられ、やがて北条氏が相模国を統一すると茅ヶ崎城の重要性は薄れ、笠原氏が城代を務める小机城に重点が置かれたと考えられる。永禄3年(1560年)上杉謙信(けんしん)の小田原攻め、永禄12年(1569年)武田信玄(しんげん)の小田原攻めでは、茅ヶ崎城の名前は出てこないため、この時期には既に廃城となっていたとする説もある。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際、茅ヶ崎城を含む11ヶ村には、秀吉よって略奪や放火を禁止した禁制(きんぜい)が発布されている。茅ヶ崎城の南側にある正覚寺(横浜市都筑区茅ケ崎東)には、この時の禁制(制札)が寺宝としてが伝わっている。その宛名には「武蔵国小机之千ケ崎之郷総泰院同観音堂」と記されており、禁制には「軍勢の者による乱暴狼藉や放火は、堅く止めるように令する。若し違反する者があれば、その科者は厳しく処する」といった内容が記されている。神奈川県下における相模小田原城(小田原市)の有力支城は、玉縄衆が守備する相模玉縄城(鎌倉市)は徳川家康の説得により城主・北条氏勝(うじかつ)は無血開城、津久井衆が守備する相模津久井城(相模原市)は本多忠勝(ただかつ)の大軍に囲まれ落城した。一方、小机城主の北条氏光(うじみつ)は、小机衆と共に小田原城の籠城に加わった。小机城の僅かな兵では防衛体制を敷くことが出来ず、半ば放棄された形で開城しており、小机城の支城である茅ヶ崎城にも戦闘の記録は残っていない。その後、徳川家康の関東入府のときに小机城とともに茅ヶ崎城も廃城になったとされる。江戸時代には徳川氏の直轄領となり、村の入会地(いりあいち)として利用され、城山(じょうやま)という地名とともに現在まで保存された。(2023.02.26)

中郭南東部の倉庫地区の礎石
中郭南東部の倉庫地区の礎石

西郭と中郭を隔てる空堀跡
西郭と中郭を隔てる空堀跡

土橋の断面となる台形の擁壁
土橋の断面となる台形の擁壁

北西側からの茅ヶ崎城の遠景
北西側からの茅ヶ崎城の遠景

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