備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)

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備中国の最重要拠点であり、毛利氏に滅ぼされた備中の戦国大名・三村氏の本城

2層2階で付櫓が附属する天守
2層2階で付櫓が附属する天守

備中国のほぼ中央に位置する備中松山城は、標高487mの臥牛山(がぎゅうざん)に築かれた連郭式山城である。古くは松山と呼ばれていたが、江戸時代の初め頃に西から見た山容が草の上に伏した老牛の姿に似ているとして老牛伏草山(ろうぎゅうふくそうざん)とか臥牛山と呼ばれるようになった。臥牛山というのは、南から前山(320m)、小松山(420m)、天神の丸(487m)、大松山(470m)と、南北に連なる4つの峰の総称である。近世の松山城は、このうちの小松山を中心に築かれており、天守が現存している山城としては唯一の存在である。中世で一般的だった根小屋式城郭を近世にまで踏襲した珍しい例で、江戸三百藩のうち山城を藩庁として幕末まで使い続けた藩は少ない。美濃岩村城(岐阜県恵那市)、大和高取城(奈良県高市郡高取町)と並んで日本三大山城に数えられている。松山城跡には、天守、二重櫓、三の平櫓東土塀と厩曲輪土塀の一部が現存しており、本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実に基づいて復元されている。小松山の主郭は、南から三の丸・厩曲輪・御膳棚(ごぜんだな)・二の丸・本丸・後曲輪・水の手門脇曲輪で構成されている。主郭の入口を守っていたのが櫓門形式の大手門であった。大手門跡の右手の岩盤上にあるのが厩曲輪土塀である。松山城には三の平櫓東土塀と厩曲輪土塀の2箇所に現存する土塀があり、江戸時代の土塀が残っているのは非常に珍しいため、大手門跡左手の三の平櫓東土塀が重要文化財に指定されている。この土塀の先に設けられたのが三の丸で、三の丸には番所があり、警備の足軽が詰めていたと考えられている。三の丸から細長い厩曲輪を通り、二の丸に至る。二の丸は城内最大の曲輪で、門前の石段や礎石も残されている。本丸は、正面玄関にあたる南御門と左右にある五の平櫓と六の平櫓で守られ、他に勝手口にあたる引戸の東御門、裏門にあたる腕木御門、埋門の路地門があり、これらは全て復元されている。現存する天守は2層2階で、西面に半地下のように付櫓が附属する複合式望楼型天守となっている。古文書によると、天守は三重櫓と呼ばれており、西からの外観は3重であった。天和3年(1683年)水谷勝宗(みずのやかつむね)の大改修によって現在の形になったと伝わる。高さは約11mで、現存12天守の中では最も小規模である。1階には囲炉裏と装束の間があり、2階には守護神を祀る御社壇(ごしゃだん)があるのが特徴である。本来の構造は、八の平櫓から廊下を経て入る連結式天守であったが、昭和15年(1940年)の大修理の際、荒廃がひどく原型への復帰が困難なため、やむなく切り離した経過がある。二重櫓は、天守の後方に建つ2層2階の櫓で、水谷勝宗による修築の際に建てられたものと考えられる。松山城には14基の櫓があったが、2階建の櫓は二重櫓のみであるため、天守に次いで重要な役割を担っていたと考えられる。本丸の北側には、九の平櫓があった後曲輪と、十の平櫓があった水の手門脇曲輪がある。ここまでが近世松山城の主郭であった。小松山の北側には戦国時代の天神丸跡や大松山城跡の遺構があるが、江戸時代にも防御のために利用されていたようである。天神の丸と大松山の間の谷部には大池という貯水池があり、山に降った雨が大池に溜まる構造になっていた。山城は往来が不便なため、臥牛山南西麓にあたる現在の高梁高等学校(高梁市内山下)の場所に、御根小屋(おねごや)という居館を置き、藩主の生活や政務の場に当てていた。御根小屋と山上の主郭とは下太鼓丸や中太鼓丸を中継して太鼓の音で連絡していた。

承久3年(1221年)承久の乱の後、相模国より秋庭三郎重信(しげのぶ)が新補(しんぽ)地頭として有漢(うかん)郷へ着任し、台ヶ鼻城(高梁市有漢町)を築いて約18年間ここを居城とした。この秋庭重信は相模国の三浦氏の一族と伝えられるが、その出自はほとんど知られていない。そして、延応2年(1240年)臥牛山の主峰・大松山に初めて城砦が築かれたと『備中誌』が伝えている。この松山城には秋庭氏が5代続くが、元弘元年(1331年)秋庭氏に替わって備後三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康(むねやす)が備中の守護として入城、この頃に縄張りを小松山まで拡張し、小松山には弟の大五郎を居城させたようである。『備中誌』によると、この頃まで城下を「高橋」と称していたが、次の高橋又四郎範時(のりとき)の時代に山の名から「松山」に改めている。高橋氏は4代続いて窪屋郡の流山(るざん)城(倉敷市酒津)に移り、正平10年(1355年)高師直(こうのもろなお)の兄である高越後守師秀(もろひで)が備中国守護職として入城する。しかし、正平17年(1362年)高師秀は器量不足のために執事であった秋庭備中守重明(しげあき)に城を追われ、以後は再び秋庭氏が5代居城することになる。このように松山城主の入れ替わりは激しい。興福寺大乗院の僧正・尋尊(じんそん)の『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』の文明9年(1477年)12月10日の記事によると、「サテ公方(くぼう)御下知(げち)の国々ハ播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国等也。一切御下知に応じず。守護の躰(てい)、即躰に於ては、御下知畏(かしこま)り入るの由申し入れ、遵行(じゅんぎょう)等これを成すといえども、守護代以下、在国のもの中々承引する能(あた)わざる事どもなり。よって日本国は悉(ことごと)く以て御下知に応ぜざるなり」とある。播磨以下の国々は一応は足利将軍の下知のおよぶ国々で、守護は将軍の下知を恐れ入って聞き、領国へ伝えはするが、守護代以下の領国の者がこれを聞き入れない、それゆえ日本のどこにも将軍の命令に従う国はないという。下剋上の始まりを的確に表現した内容である。実際、管領細川氏の支流・備中守護家の領国であった備中では、延徳3年(1491年)守護代の庄元資(しょうもとすけ)が反乱を起こした。京都にいた細川勝久(かつひさ)は急きょ備中へ向かい、翌明応元年(1492年)激しい戦いの末、一応反乱を鎮圧したが、こののち備中の実質的な支配権は守護職の細川氏から離れ、猿掛城(倉敷市真備町)の守護代・庄氏、幸山(こうざん)城(総社市清音三因)の石川氏、鬼邑山(きむらさん)城(総社市八代)の上野氏や、成羽(なりわ)の鶴首(かくしゅ)城(高梁市成羽町)の三村(みむら)氏、備中北部の楪(ゆずりは)城(新見市上市)の新見氏、塩城山(しおきやま)城(新見市上熊谷)の多治部(たじべ)氏などの国人領主が台頭してくることになる。永正6年(1509年)頃、秋庭氏に代わり上野兵部少輔頼久(よりひさ)が松山城に入り、その跡は嫡子の上野伊豆守頼氏(よりうじ)が継ぐが、天文2年(1533年)庄元資の子・備中守為資(ためすけ)の攻撃によって討ち取られ、小松山にいた弟の上野右衛門尉も討たれた。上野氏を滅ぼした庄為資は、本拠を猿掛城から松山城に移し、備中最大の勢力に成長している。まもなく北から出雲の戦国大名・尼子晴久(はるひさ)の軍勢が進出し、石川氏を除いて庄氏・三村氏をはじめ備中の中北部の国人らはことごとく尼子氏の麾下に属した。こうして、尼子氏は美作・備中をほぼ掌握することになった。

天文21年(1552年)尼子晴久は13代将軍・足利義藤(のちの義輝)から出雲・伯耆・因幡のほか美作・備前・備中・備後の守護に補せられた。しかし、尼子氏の覇権は長くは続かなかった。安芸吉田郡山城(広島県安芸高田市)に本拠をおいた毛利元就(もとなり)が次第に勢力を拡大、弘治元年(1555年)周防・長門を支配する陶晴賢(すえはるかた)を安芸国厳島で滅ぼし、永禄5年(1562年)には軍勢を出雲へ進めて尼子氏の諸城を攻め落とした。このような状況の中で、美作・備中における尼子氏の勢力は急速に後退し、永禄初頭から毛利氏の勢力が進出、備中の国人たちも尼子氏にかわって毛利氏に属するものが多くなった。尼子氏は吉田左京亮義辰(よしたつ)を加番として松山城に送りこみ、庄氏を監視させた。耐えられなくなった庄高資(たかすけ)は松山城を捨てて、猿掛城へ逃れている。永禄4年(1561年)毛利元就の支援を得た鶴首城の三村修理亮家親(いえちか)が松山城を攻め、吉田左京亮を討ち取り松山城主となった。その後、三村家親・元親(もとちか)父子は毛利氏と結んで勢力を拡大、備中を支配する戦国大名に成長し、毛利氏の先鋒となって備前・美作へ進攻するにまで至る。三村氏は元弘の乱のとき、伯耆国船上山の後醍醐天皇のもとに馳せ参じた備中の武士である。もとは常陸国新治(にいはり)郡三村郷に住んで三村を称し、のち信濃国に移住した。鎌倉時代に信濃から新補地頭として備中に移り、南北朝時代には成羽荘を領し、その後は備中西部の国人に勢力拡大した。毛利氏と結んだ三村家親は、永禄6年(1563年)備前松田氏配下の須々木豊前の備前舟山城(岡山市北区原)を、永禄8年(1565年)には美作へ進攻して後藤勝基(かつもと)の美作三星城(美作市)を攻め、美作西部に最大の勢力を築いていた三浦貞勝(さだかつ)の美作高田城(真庭市)を攻略して美作西部を掌握した。家親はさらに兵を東へ進めて、備前児島地方までも勢力下に収めた。ここに、備前守護代・浦上宗景(むねかげ)配下から自立しつつあった宇喜多直家(なおいえ)と衝突することとなり、永禄9年(1566年)宇喜多直家の命をうけた遠藤又次郎兄弟に久米郡籾村の興善寺(久米南町)の陣中において鉄砲で狙撃されて没した。三村家親の跡は次男・修理進元親が継ぎ、石山城主・金光与次郎、中島城主・中島大炊、舟山城主・須々木豊前らを味方に付けて宇喜多氏への復讐を開始する。三村元親の反撃を予想した直家は、上道郡沢田の明禅寺跡(岡山市沢田)に城を築いて前線としたが、これを三村方に奪われたため、ひとまず三村方に味方した金光氏、中島氏らを策略と賄賂(わいろ)で味方につけ、そのうえで三村元親と決戦した。『妙善寺合戦記』によると、永禄10年(1567年)三村方は弔い合戦と称し、元親の実兄で猿掛城主・庄元祐(もとすけ)が率いる先陣7千、幸山城主・石川久智(ひさとも)の中軍5千、元親本隊の1万余の軍勢で侵攻したが、宇喜多軍5千に大敗して松山城へ引き揚げた。これは宇喜多直家の生涯で唯一の正攻法による戦いであったと評価されている。この戦いを契機に三村氏と宇喜多氏の勢力関係が逆転することになり、この合戦は「明禅寺崩れ」と呼ばれた。これにより三村氏の勢力は大きく後退し、元亀元年(1570年)宇喜多直家に通じた庄高資・勝資(かつすけ)父子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に毛利氏の加勢を得て庄高資を討ち、松山城を回復している。天正2年(1574年)宇喜多直家は、備後国鞆(福山市)にいた15代将軍・足利義昭(よしあき)の仲介で毛利氏と和議を結んだ。

これに反発した三村元親が毛利氏から離反して織田信長と結ぶと、毛利輝元(てるもと)・小早川隆景(たかかげ)の8万の軍勢が備中に進攻、三村方の国吉城(高梁市川上町)、楪城、鬼身(きのみ)城(総社市山田)などをつぎつぎと攻め落とし、三村氏の本城である松山城を囲んだ。天正3年(1575年)1月、ついに松山城は落城、元親は城下の松蓮寺(高梁市上谷町)での切腹が許され、自害して果てた。元親の辞世は「人といふ名をかる程や末の露、消えてぞ帰る本の雫に」である。現在の松蓮寺は、明暦3年(1657年)水谷勝隆(かつたか)により、松山城の砦の役割を兼ねて改修されたものである。三村一族の最後の戦いとなったのは、児島の常山城(玉野市)の三村上野介高徳(たかのり)であった。毛利方との決戦となった常山合戦では、鶴姫と女軍(じょぐん)の奮戦が知られる。この戦いで全員が自刃するという壮絶な最期を遂げ、ここに三村氏は滅亡した。三村元親と毛利氏・宇喜多氏の戦いである備中兵乱(びっちゅうひょうらん)の頃、松山城の本城は小松山に移っていたようである。また、臥牛山一帯には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木(あしび)丸など砦二十一丸と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、全山が一大要塞となっていた。三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の番城となり、家臣の天野氏・桂氏などが在城した。天正7年(1579年)今度は宇喜多直家が織田信長と結んで、毛利氏に反旗を翻した。備前・備中・美作の各地で毛利・宇喜多両軍の激戦が展開されるが、毛利輝元はその前線基地として松山城を選んでいる。天正10年(1582年)備中高松城(岡山市北区高松)の水攻めを契機に織田氏と毛利氏の攻防は終了し、高梁川以西を毛利氏が、以東を織田氏が領有することになるが、松山城だけは高梁川以東にも関わらず毛利氏が固執して領有している。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、徳川家康は没収した毛利領のなかで最も東にある松山を天領とし、西国目付として備中国奉行を設置した。ここに1万4千石で赴任したのが小堀正次(まさつぐ)・政一(まさかず)父子である。小堀政一は小堀遠州の名で知られる。松山城が荒廃していたため、当初は頼久寺(高梁市頼久寺町)において政務を執っていたが、慶長11年(1606年)頃から政一によって御根小屋(下屋敷)と松山城の修築が進められた。慶長13年(1608年)政一は従五位下遠江守に叙任された。元和3年(1617年)因幡国鳥取藩より池田長幸(ながよし)が6万5000石で入封し、備中松山藩を立藩した。2代藩主・長常(ながつね)に嗣子がなく廃絶となり、寛永19年(1642年)成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。その後、天和元年(1681年)から3年かけて勝隆の子・勝宗によって大改修がおこなわれ、この時に二重櫓やその他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門、三の丸上番所、足軽番所などが建てられて現在の備中松山城の全容が完成したと考えられている。しかし、元禄6年(1693年)3代の勝美(かつよし)が若くして急逝、跡継ぎがおらず水谷氏は改易となった。このとき『忠臣蔵』で有名な播州赤穂藩の浅野内匠頭長矩(ながのり)が城の受け取りにあたり、家老の大石内蔵助が1年半ものあいだ松山城に留まっている。その後は安藤氏2代、石川総慶(ふさよし)を経て、延享元年(1744年)伊勢国亀山から板倉勝澄(かつずみ)が5万石で入封する。板倉氏は7代続き廃藩置県を迎えた。廃城令により松山城も他の城と同様に競売にかけられたが、山上の建物は解体費用もかさむため落札者により放置された。こうして天守と二重櫓が現存している。(2019.10.05)

復元された五の平櫓と六の平櫓
復元された五の平櫓と六の平櫓

天守後方の岩盤に建つ二重櫓
天守後方の岩盤に建つ二重櫓

江戸期から残る三の平櫓東土塀
江戸期から残る三の平櫓東土塀

南西麓に残る御根小屋の石垣
南西麓に残る御根小屋の石垣

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