武州松山城(ぶしゅうまつやまじょう)

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北条氏康、上杉謙信、武田信玄による争奪戦の舞台

物見櫓跡に建つ城址碑
物見櫓跡に建つ城址碑

武州松山城は、市野川が形成した広大な低地に突き出た吉見丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって連郭式に配置され、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。松山城跡に隣接して吉見百穴(よしみひゃくあな)が存在する。吉見百穴とは古墳時代後期の横穴墓群の遺跡で、墓穴の数は日本最多の219個とされており、これほど高い位置まで重層的に形成されたものは珍しい。明治20年(1887年)に発掘され、人骨のほかに、勾玉、刀剣、土器類が出土している。当初は土蜘蛛人(コロボックル)の住居説が提唱された。一方、吉見百穴には太平洋戦争末期にトンネルが掘られて、ゼロ戦の部品を作る軍需工場になっていたという歴史もある。ダイナマイトを使って墓穴の一部を破壊し、3ヶ所の坑口を掘って遺跡のある丘の中にトンネルを碁盤の目のように走らせ、広さは1万坪ともいわれるが詳細は不明である。

松山城の起こりは、正慶2年(1333年)新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府の北条高時(たかとき)を攻撃したおり、要害を構えて兵を駐屯させたことに始まり、本格的な築城は、応永6年(1399年)安戸城主の上田左衛門尉友直(ともなお)によって行なわれたと伝えられる。『鎌倉大草紙』には、応永23年(1416年)鎌倉六本松の合戦において、上杉禅秀方の「松山城主上田上野介討死」とあり、この頃の松山城主が上田上野介という者であったことが知られる。天文6年(1537年)北条氏綱(うじつな)は河越城(川越市)を攻撃して扇谷上杉朝定(ともさだ)を敗走させた。朝定は有力家臣である上田又次郎政広の松山城に逃げ込み、松山城を一気に落とそうと攻め寄せる北条軍を何とか退けた。このとき、扇谷側の大将難波田弾正善銀(よしかね)に北条側の山中主膳が「あしからじよかれとてこそ戦わめ、など難波田の崩れゆくらん」と一首を問うたところ、善銀は「君をおきてあだし心を我もたば、末の松山波も越えなん」と答歌を返したという。これが俗に言う「松山城風流歌合戦」である。

天文15年(1546年)扇谷上杉朝定は、関東管領山内上杉憲政(のりまさ)、古河公方足利晴氏(はるうじ)と共に、北条綱成(つなしげ)の守る河越城を8万の大軍で包囲したが、北条氏康の夜襲に遭い、朝定をはじめ難波田弾正などが討死する(河越夜戦)。上田政広(朝直)はわずか9騎となって松山城へ逃れるが、北条軍が勢いを駆って攻め寄せたため、本貫地である安戸城(東秩父村)へ落ちた。しかし、朝直はただちに松山城奪回を謀り、岩付城主の太田資正(すけまさ)の援軍を得て、同年に奪回に成功する。この時、本丸には資正の家臣である太田下総守、広沢尾張守が置かれ、朝直は二の丸を守備した。そして、石戸城(北本市)と三ツ木城(桶川市)が、岩付城と松山城の連絡の城であった。北条氏が再び松山城を攻めた際、朝直が寝返り、二の丸に北条軍を引き入れたため、松山城はあえなく落城した。これより上田氏は松山城主として北条氏に仕え、「松山衆」という北条家臣団の筆頭として北武蔵の武士団を統括する。永禄4年(1561年)山内上杉憲政から関東管領職を譲り受けた上杉謙信(けんしん)は、9万の大軍をもって松山城を攻撃し、敗れた上田朝直は安戸城へ退いた。謙信が関東を引き揚げると、北条氏康、氏政父子は3万の兵で上杉憲勝(のりかつ)が守備する松山城を攻撃した。上杉憲勝は扇谷上杉氏の一族といわれるが、出自は深谷上杉氏あるいは山内上杉氏で扇谷上杉家の猶子であったともいわれる。扇谷上杉朝定が河越夜戦で戦死して扇谷上杉家の嫡流が途絶えると、太田資正に擁立されてその名跡を継いでいた。永禄5年(1562年)相甲同盟により武田信玄(しんげん)・義信(よしのぶ)父子が2万5千の兵を率いて松山城攻めに加勢した。武田逍遙軒(しょうようけん)は隣りの「吉見百穴」を見て坑道戦を思いつき、甲斐から金山衆(掘削部隊)を呼び寄せ、松山城本丸めがけて掘り進んだ。城将の上杉憲勝は鉄砲隊を用いて防戦に努めたが、徐々に松山城は掘り崩されていき、やがて2つの櫓が倒壊したといわれる。この状況に太田資正は、越後の上杉謙信や安房の里見義弘(よしひろ)らに救援を依頼しますが、城の大半が崩されるに至り、翌永禄6年(1563年)憲勝は武田氏の奉行・飯富昌景(おぶまさかげ)の斡旋を受けて北条・武田連合軍に降伏開城した。松山城の救援に向かっていた上杉謙信は、石戸城に到達したところで降伏の知らせを聞いた。謙信は憲勝の不甲斐なさに激怒して、人質に取っていた憲勝の子を斬り殺したという。他にも、謙信は腹いせに敵対する成田下総守長泰(ながやす)の弟・小田伊賀守家時(いえとき)の拠る騎西城(加須市根古屋)の攻略に向かい、騎西城を落として家時を自害させている。また騎西城の支城で、成田長泰の子・小田頼興(よりおき)の拠る鐘撞山城(加須市油井ヶ島)も落としている。松山城は再び上田朝直(安独斎)の居城となり、青山城(小川町下里)、腰越城(小川町腰越)と共に上田氏が守備した。『関東古戦録』には「小田原より松山城には上田安礫斎(安独斎朝直)、同上野介朝広を置き、青山、腰越の砦と共に守らしむ」とある。『慈光寺略誌及び伝』によれば、松山城主の上田氏は、北条氏の命により大規模な慈光寺(ときがわ町西平)攻めをおこない、都幾山一山は焼討・掠奪によって荒廃したとある。重要文化財の開山塔もこの頃、火災に遭っているので、上田氏による慈光寺攻めの伝承は信憑性が高いといえる。慈光寺の南方4kmのところに大築(おおづく)城(ときがわ町西平)があり、慈光寺の全容が見渡せる場所にある。『新編武蔵風土記稿』には大津久城蹟と記され、天正(1573-92年)の頃、松山城主の上田能登守朝直が築城したとされている。大築城の遺構は、山形を利用した粗雑な造りで、戦国期に築かれた一時的な城であったことを示している。慈光寺攻めに際し、急いで築かれた城と考えられている。

上田朝直の跡は長則(ながのり)が継いだ。長則は松山城下町の経営を押し進めたことで知られる。その後は憲直(のりなお)、憲定(のりさだ)と続いた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、城主の上田憲定は本城である相模小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したため、松山城は上田氏家臣で腰越城主の山田直安(なおやす)が守備した。北条氏の有力支城である松山城は、豊臣軍の攻撃の対象となっており、松山城に立て籠った城兵は5千人あまり、攻める豊臣軍は、総大将の前田利家(としいえ)をはじめ、上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)、大谷吉継(よしつぐ)などといった北国軍を中心とした強兵7万の大軍であった。江戸時代に描かれた『天正庚寅松山合戦図』には寄手と城方の主だった武将の配置が記されている。この合戦図には、寝古屋曲輪の城主・上田能登守朝広を中心に、滝不動のある惣曲輪、首塚羽黒のある広沢曲輪、北曲輪、外曲輪、三ノ丸、兵糧曲輪、二ノ丸、一ノ丸が描かれ、難波田弾正忠重次(しげつぐ)、木呂子(きろこ)下野守元忠(もとただ)、根岸帯刀直武(なおたけ)、若林和泉守直成(なおしげ)、波多野因幡守吉則(よしのり)、岡部越中守忠直(ただなお)、山田筑後守年次(としつぐ)、小高金兵衛などの名前が見える。松山城は大軍に取り囲まれ、戦いを交えることなく無血開城するが、多くの将兵は続く鉢形城(寄居町)攻めや八王子城(東京都八王子市)攻めの先兵として、そのまま駆り出されたようである。戦後の消息についてはほとんど知られておらず、多くは帰農して地元に留まったと思われる。その後、松山城には松平家広(いえひろ)が1万石で入封したが、慶長6年(1601年)跡を継いだ弟・忠頼(ただより)が遠江国浜松に転封されたのを最後に廃城となった。(2003.11.23)

武州松山城の遠望
武州松山城の遠望

本丸と二の丸を隔てる空堀
本丸と二の丸を隔てる空堀

武田軍が利用した吉見百穴
武田軍が利用した吉見百穴

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