足助城(あすけじょう)

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戦国時代に足助地方を治めた足助鈴木氏5代の居城

本丸に建つ高櫓と長屋
本丸に建つ高櫓と長屋

足助城は標高301mの真弓山の山頂に築かれていた。このため真弓山城とも呼ばれるが、他に松山城、足助松山の城とも呼ばれたという。この足助城は真弓山の山頂一帯と、四方に張り出した尾根を利用した連郭式の山城であった。山頂を本丸として、南の丸、南物見台、西の丸、西物見台などの曲輪を配置しており、それらの曲輪にはいくつかの腰曲輪が付属している。また、北、南、西の尾根筋には幾段もの削平地が整備されずにそのまま残っている。往時の足助は、東美濃、信濃、尾張および三河を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった。この地域を守るために非常に多くの城砦が築かれており、足助城もこの要地を押さえるために築かれた城である。現在は城跡公園足助城として整備され、本丸跡を中心に高櫓、長屋、物見矢倉、厨(くりや)などの建物が復元されている。発掘調査の成果に基づく戦国時代の山城の整備は、全国で最も早い事例である。足助城の南の丸には、掘立柱の建物跡が2棟確認され、その周りには排水溝が設けられていた。また発掘時に柱穴に沿って大きめの石が見つかっているため、石置き屋根であったと想定されている。周辺には2ヶ所の井戸も存在していた。南の丸は台所の役割を持つ曲輪と考えられており、建物跡の他にカマドに使われた石や炭などが見つかっている。このため南の丸には、カマド小屋と作業場として用いられた2棟の厨が復元されており、入口には「はねあげ戸」も再現された。南の丸の背後には南物見台が配置され、南物見台に復元された矢倉からは、眼前に鶏足(けっそく)城(豊田市山谷町)を望むことができ、鶏足城への連絡を兼ねた矢倉であったと考えられる。山頂の本丸には高櫓と長屋が復元されている。この高櫓は近世城郭の天守に相当する建物であるが、礎石建物ではなく掘立柱建物であった。足助城の建物の礎石は、南の丸と西の丸を連結する本丸腰曲輪で発見されたのが唯一である。また高櫓は発掘された柱穴から2、3回の建て替えが判明しており、現在復元されている高櫓は、その最後の時期の姿であるという。本丸西側には西物見台と西の丸が配置されている。西物見台には2層の草葺きの矢倉が大きな岩盤の上に復元された。この矢倉も掘立柱建物である。西の丸には2棟以上の建物跡や塀、柵列跡などが発見されている。鎌倉時代から南北朝時代に活躍した豪族足助氏は、飯盛山城(豊田市足助町飯盛)を本城として、真弓山城、大観音城(豊田市足助町岩崎)、城山城(豊田市足助町城山)、成瀬城(豊田市足助町成瀬)、黍生城(豊田市井ノ口町)、臼木ヶ峯城(豊田市岩神町)を配置、これらの城砦は足助七屋敷と言われた。足助城(真弓山城)も足助七屋敷の一つと伝わっているが、発掘調査をおこなった地点からは、この時代の遺構を発見することができなかった。室町時代になって足助氏が没落すると、三河鈴木氏の一流である足助鈴木氏が足助地方を支配した。足助鈴木氏は足助城を本城として、八桑城(豊田市新盛町)、安代城(豊田市富岡町)、浅谷城(豊田市山谷町)、大沼城(豊田市大沼町)、阿須利城(場所不明)、田代城(豊田市下山田代町)といった有力支城を配置して、これらを足助七城と呼んだ。足助鈴木氏が足助城に入った時期は明らかになっていないが、発掘調査の結果から15世紀の後半と推定され、足助鈴木氏の初代と言われる鈴木忠親(ただちか)の頃と考えられる。室町時代から戦国時代にかけて、三河鈴木氏は寺部鈴木氏、酒呑鈴木氏、足助鈴木氏、則定鈴木氏などの諸家に分かれて、西三河山間部に盤踞した。

平安時代末期、尾張源氏の一流である浦野一族は尾張国一円に栄えた。その浦野氏の祖は浦野四郎重遠(しげとお)であるが、嫡男の浦野太郎重直(しげなお)は、尾張国山田郡山田荘に住したことから山田重直とも名乗っている。12世紀中頃、山田重直は三河国賀茂郡の足助荘司に任じられ、山田重直の六男である山田重長(しげなが)が、足助の地に移って賀茂六郎足助重長を称した。この足助重長が足助氏の祖である。初代の重長は、この付近の最高峰である黍生(きびゅう)山に黍生城を築いて本拠とした。治承5年(1181年)墨俣川合戦において、足助氏は源行家(ゆきいえ)に従って戦うが、平氏の軍勢に惨敗、足助重長は捕虜となり殺された。2代当主の足助重秀(しげひで)は、治承年間(1177-84年)飯盛山城を築いて黍生城から居城を移した。足助氏は2代重秀から8代重政まで飯盛山城を本城として勢力を拡大し、家の子(一族)を真弓山城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城、臼木ヶ峯城といった城砦に配置した。これら7つの城砦は足助七屋敷と呼ばれる。足助七屋敷のひとつである真弓山城こと足助城は、初代の足助重長によって築かれたと伝わっている。この足助氏で特筆すべき点は、一族を挙げて一貫して勤皇思想であった点である。承久3年(1221年)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた。世にいう承久の乱である。後鳥羽上皇は執権の北条義時(よしとき)追討の宣旨を発して諸国の御家人や地頭らに協力を呼びかけた。この時、足助重秀の嫡男である足助重成(しげなり)は後鳥羽上皇の呼びかけに応じて馳せ参じている。北条泰時(やすとき)を総大将とする幕府軍は、19万騎の大軍となって京都になだれ込み、後鳥羽上皇の軍勢は総崩れ、足助重成もこの戦いで討死したと伝わる。また、元弘元年(1331年)元弘の乱において、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のため山城国笠置山(京都府相楽郡笠置町)で挙兵すると、この笠置山に真っ先に駆けつけて後醍醐天皇に味方したのが、足助氏惣領家の7代当主であった足助次郎重範(しげのり)である。弓の名手として名高い足助重範は、後醍醐天皇の呼び掛けに集まった約2500名の総大将をつとめ、その勇敢な戦いぶりは『太平記』に記されている。籠城軍はよく戦って頑強な抵抗を続けたが、圧倒的な兵力を擁した六波羅探題の軍勢によって落城、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐島へ配流された。また総大将の足助重範は、京都の六条河原で斬首されている。元弘3年(1333年)足助一族は、新田義貞(よしさだ)の鎌倉幕府攻撃にも参加した。このとき、足助三郎太郎重信(しげのぶ)、足助卿房賢尊、足助佐渡四郎重連(しげつら)、足助孫三郎重成(しげなり)などが討死している。足助重範の処刑などによって足助氏の勢力はすっかり衰退してしまい、足助一族は全国に離散した。8代当主の足助重政(しげまさ)も南朝方として戦うが、興国年間(1340-46年)宗良親王と共に東国に去ったという。その後の足助地方は、三河鈴木氏の一流である足助鈴木氏によって支配された。足助城に本拠を置いた足助鈴木氏は、八桑城、安代城、浅谷(あざかい)城、大沼城、阿須利城、田代城といった足助七城と呼ばれる有力支城を中心に、多くの城砦を築いて領土を防衛した。また、松平氏、今川氏などの周辺勢力に囲まれて離反帰服を繰り返しながら半独立の勢力を保ちつづけた。足助鈴木氏は、初代忠親から始まり、2代重政(しげまさ)、3代重直(しげなお)、4代信重(のぶしげ)、5代康重(やすしげ)と続く。

西三河の山間部に勢力を拡大した三河鈴木氏は、紀伊国藤白(和歌山県海南市)の藤白鈴木氏の支流を称する。藤白鈴木氏は全国に散らばる穂積姓鈴木氏の本家筋とみなされており、鉄砲集団雑賀衆の雑賀孫市(まごいち)で有名な雑賀鈴木氏も藤白鈴木氏の支流である。日本人に多い鈴木姓は、その多くが藤白鈴木氏の流れをくむと言われている。藤白鈴木氏は物部氏の支族である穂積(ほづみ)氏の後裔であり、熊野地方では収穫祭で稲穂を積むことを「スズキ」といい、これが鈴木の語源とされる。穂積姓鈴木氏は熊野三山信仰と関係が深く、元来は熊野神社の神官を務める家系であった。また鈴木氏の代表的な家紋は、穂積氏に因んだ「稲」で、熊野神社の神使である「烏(三本足の八咫烏)」も用いている。藤白鈴木氏の当主であった鈴木重倫(しげのり)の息子、鈴木三郎重家(しげいえ)と亀井六郎重清(しげきよ)の兄弟は、源九郎義経(よしつね)に従って平家追討に活躍した。戦いが終わると鈴木重家は熊野に戻るが、亀井重清は義経の側に仕え続けた。その後、源義経と源頼朝(よりとも)の確執が悪化すると、文治元年(1185年)後白河法皇から義経追討の院宣が出された。源義経は武蔵坊弁慶(べんけい)や亀井重清といった郎党とともに、藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州に逃れた。奥州藤原氏は源義経に好意的であったが、文治3年(1187年)藤原秀衡が亡くなると、状況が一変して義経の立場が危うくなった。文治5年(1189年)これを知った鈴木重家は、源義経の助けとなるべく、叔父の善阿弥こと鈴木七郎重善(しげよし)と奥州に向かった。しかし、途中の三河国に至って鈴木重善は足を患ってしまい、やむなく鈴木重家との同行を断念、三河国に残って療養した。藤原秀衡の跡を継いだ藤原泰衡(やすひら)は、源頼朝の圧力に屈して陸奥衣川館(岩手県奥州市)の義経主従を襲った。この衣川合戦では、義経側は、武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛(よしもり)、片岡八郎為春(ためはる)、鈴木重家・亀井重清兄弟、備前平四郎、増尾十郎兼房(かねふさ)、鷲尾三郎経春(つねはる)、従者の喜三太らのわずか10人に対し、藤原泰衡の軍勢は500余騎であったという。鈴木重家は多くの敵武者を斬り伏せるが、深手を負ったため自害、亀井重清も奮戦ののちに兄のそばで自害した。義経が持仏堂に籠って自害する間、弁慶は堂の入口で薙刀を振るって義経を守った。弁慶は無数の矢を受けて仁王立ちのまま絶命、いわゆる「弁慶の立往生」である。こうして義経主従は全滅してしまう。一方、療養のため三河国に逗留していた鈴木重善は、奥州で源義経や鈴木重家・亀井重清兄弟が討死したことを知り、奥州行きをあきらめて、そのまま賀茂郡高橋庄矢並に土着したという。この鈴木重善が三河鈴木氏の祖となったと伝わる。賀茂郡高橋庄の地頭は、鎌倉幕府評定衆、室町幕府奉公衆として幕府内で権勢のあった中条(ちゅうじょう)氏であった。鈴木氏は中条氏の被官として有力国人に成長していく。矢並を本拠として寺部、酒呑に勢力を伸ばし、南北朝の動乱によって足助氏が没落すると、足助にも進出、加茂郡一帯を勢力圏とした。一説によると、鈴木重則(しげのり)が足助重範の娘婿となり、足助氏の所領の譲りをうけて足助氏を称したともされるが確証はない。また、三河鈴木氏の別説として、鈴木重勝(しげかつ)の父は重員(しげかず)といい、足助重範と楠正成(まさしげ)の娘である真佐子との間にできた子供で、大和国高取で生まれたという。鈴木重員は父の志を継いで南朝に属し、嫡男の鈴木重勝と共に北朝方と戦ったという。

大永3年(1523年)松平次郎三郎清康(きよやす)が13歳の若さで松平惣領家の7代当主となると、大永4年(1524年)岡崎城(岡崎市)の松平信貞(のぶさだ)を降し、大永5年(1525年)加茂郡を北上して足助城に2000余の軍勢で攻め寄せた。2代当主の鈴木重政は松平清康に降伏して松平氏に服属した。この際、松平清康は、妹の久子を鈴木重政の嫡男である越後守重直に嫁している。破竹の勢いで東三河に進出した松平清康は、吉田城(豊橋市)の牧野氏や、田原城(田原市)の戸田氏といった有力な国人領主も服属させて、享禄4年(1531年)には三河国の統一をほぼ完了させた。ところが、天文4年(1535年)尾張国の織田信秀(のぶひで)と対戦した守山の陣で、松平清康は家臣に殺害されてしまう。いわゆる「守山崩れ」である。この時、足助鈴木氏3代当主の鈴木重直は松平氏から離反して独立、正室の久子は松平氏の本拠である岡崎城に戻された。のちに久子は、3才で母と離された松平竹千代(のちの徳川家康)を6才で駿河今川氏に人質として出されるまで養育したという。天文18年(1549年)松平氏8代当主の松平広忠(ひろただ)も家臣に殺害されてしまい、人質の竹千代は本国不在のまま9代当主となった。この頃から岡崎城は今川軍の前線基地となっており今川氏の城代が管理していた。天文23年(1554年)今川氏家臣の馬場幸家(ゆきいえ)、堀越義久(よしひさ)等が、岡崎城から3500余の軍勢で足助城に来攻、このとき鈴木重直は今川氏に降っている。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元(よしもと)が敗死すると、今川氏の支配から独立した松平元康(のちの徳川家康)は、三河国の統一に乗り出した。永禄7年(1564年)松平家康(のちの徳川家康)は3000余の軍勢で足助城を攻撃、鈴木重直は嫡男の信重を人質に差し出して降伏した。再び松平氏の軍門に降った足助鈴木氏は、徳川軍団に編入されて姉川の戦いなど数々の合戦に従軍している。元亀2年(1571年)甲斐国の武田信玄(しんげん)は、2万5千の兵を率いて伊那口より三河国に乱入、足助城の攻撃がおこなわれた。足助城主の鈴木重直はこれに抵抗できず、城を捨てて岡崎に退去する。足助鈴木氏の本城である足助城は落城し、周辺の諸城もすべて落城、奥三河は武田軍に蹂躙された。武田軍はさらに兵を進めて東三河に侵入、野田城(新城市)を奪取し、二連木で酒井忠次(ただつぐ)の部隊と戦った。この間、徳川家康は援軍を率いて吉田城に入城している。酒井忠次は2000余名を討ち取られ吉田城に退いた。追撃する武田信玄は吉田城を包囲するが、持病の労咳(肺結核)が悪化したため甲斐国に帰還している。足助地方は甲斐武田氏の支配下に入り、足助城には城代として下条伊豆守信氏(のぶうじ)が置かれた。元亀4年(1573年)武田信玄が上洛なかばで病没すると、家康の嫡男である松平三郎信康(のぶやす)が武田方の守備する足助城を3000余の軍勢で攻撃、武田氏の勢力を駆逐した。家康は奪取した足助城を旧城主である鈴木信重に与えており、足助地方は再び足助鈴木氏の領有するところとなった。天正9年(1582年)高天神城の戦いにおいて、徳川軍の討ち取った武田軍の首級688のうち、鈴木喜三郎信重と同族で市場城主の鈴木越中守重愛(しげよし)が138級をあげるという大手柄をたてている。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い、鈴木康重も関東に移っている。この時点で足助城は廃城となったと考えられる。鈴木康重はまもなく徳川家から離れて浪人した。理由は、本多忠勝(ただかつ)の配下にされたことが不服であったためとも言われるが、詳細は不明である。(2007.08.04)

南の丸のカマド小屋と厨
南の丸のカマド小屋と厨

西物見台の草葺きの矢倉
西物見台の草葺きの矢倉

2棟の厨と南物見台の矢倉
2棟の厨と南物見台の矢倉

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