足利氏館(あしかがしやかた)

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室町幕府初代将軍・足利尊氏を輩出した清和源氏嫡流・足利氏の鎌倉期の居館

南側の水堀を跨ぐ反橋と楼門
南側の水堀を跨ぐ反橋と楼門

JR足利駅の北西側、真言宗大日派の本山である鑁阿寺(ばんなじ)は、もともと鎌倉時代の足利氏の居館跡である。寺の周囲には土塁が方形に構築され、その外側に水堀がめぐり、四方に門が設けられている。そして、土塁の内側は全域が鑁阿寺の境内となる。土塁は、東辺146m、西辺177m、南辺189m、北辺198mの不整形な四角をなし、幅は基底部8m〜9m、上部約2m、高さ2.5m〜3mとなる。水堀の幅は約4mあり、典型的な鎌倉期の武士の方形館の面影が残されている。現在の遺構は単郭であるが、鑁阿寺に残された絵図などによると、往時は一辺が500m前後の方形をなし、広大な複郭の館であったようである。建久7年(1196年)足利氏館の敷地内に創建された持仏堂が鑁阿寺の前身となる。鑁阿寺は、大正11年(1922年)に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されているほか、建物では、本堂、鐘楼、経堂が国指定重要文化財で、太鼓橋、仁王門、東門、西門、多宝塔、御霊屋が栃木県指定有形文化財である。本堂(大御堂)は、正安元年(1299年)に再建された鑁阿寺の中心的な建物で、従来の和様に禅宗様を取り入れて折衷とするなど、鎌倉時代初期の代表的な寺院建築である。鐘楼は創建時に建立され、鎌倉時代後期に再建されたと推定される建物である。瓦葺きで2層目には高欄が廻り、1層目には袴腰が付いている。経堂は足利義兼(よしかね)が正室の菩提を弔うため創建したといわれ、応永14年(1407年)鎌倉公方である足利満兼(みつかね)が再建し、江戸時代初期に改修されたものである。南側の正面入口に掛かる太鼓橋は、幕末の安政年間(1854-60年)に再建されたものであるが、水堀を渡るために建てられた屋根付きの反橋(そりばし)で、正面は唐破風状で細部には精巧な彫刻が施されている。そして、その奥の楼門は、創建時に建立されたのだが、室町時代に兵火によって焼失し、永禄7年(1564年)に室町幕府13代将軍の足利義輝(よしてる)によって再建された。入母屋造り本瓦葺きの八脚門で、2層目には高欄が廻り、両脇には鎌倉時代の運慶(うんけい)作の仁王尊像が守護している。このため、仁王門とも呼ばれる。東門と西門は同形式となり、切妻造り本瓦葺きの四脚門で、正和年間(1312-17年)の伽藍配置図に記載がある。多宝塔は、元禄5年(1692年)江戸幕府5代将軍の徳川綱吉(つなよし)の生母である桂昌院(けいしょういん)が再建したものである。御霊屋(赤御堂)は鎌倉時代の創建といわれ、正和年間(1312-17年)の伽藍配置図にも境内北西に描かれている。現在の御霊屋は江戸幕府11代将軍の徳川家斉(いえなり)の寄進によって再建されたもので、本殿の裏には鑁阿寺の開基である足利義兼の父(義康)と祖父(義国)の墓がある。不動堂(中御堂)は、文禄元年(1592年)小弓公方の流れをくむ足利国朝(くにとも)によって再建された。右側には足利氏が使用したという鎌倉時代の古井戸が残る。大酉堂(おとり様)は室町時代に建てられたもので、元々は足利尊氏(たかうじ)を祀る御霊屋であった。校倉(あぜくら)は、宝庫、大黒堂とも称し、永享4年(1432年)に公文所奉行の再建と伝えられているが、棟札によると、宝暦2年(1752年)に満慶(まんけい)上人が建てたとされる。また、隣接する足利学校(足利市昌平町)には、孔子廟(聖廟)、入徳門、学校門、杏壇門(きょうだんもん)、稲荷堂の建物、土塁の一部などが現存する。方丈、庫裡、書院、裏門、衆寮、木小屋、土蔵は復原である。主屋は、方丈と庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物で、他にも23代続いた歴代庠主(しょうしゅ)の17基の墓石がある。

平安時代後期、清和源氏の一族であり、河内源氏3代棟梁である八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(よしいえ)は、長男の義宗(よしむね)が早世し、次男の義親(よしちか)が西国で反乱を起こすなど嫡男に恵まれなかった。一時期は四男の義国(よしくに)も三男の義忠(よしただ)とともに、4代棟梁の候補として期待されたこともあった。しかし、この源義国は後年に「荒加賀入道」と称されるほど性格が粗暴で、嘉承元年(1106年)常陸国の覇権をめぐって、叔父の新羅三郎(しんらさぶろう)こと源義光(よしみつ)と常陸合戦を起こしている。事態を憂慮した朝廷は、父の義家に義国の召喚を命じた。同時に、義光の捕縛も各地の国司に命じている。その頃、病床にあった八幡太郎義家は、朝廷の命令を果たせぬまま同年に死去した。当時、義家は西国で反乱を起こした義親の追討令も受けており、2人の息子をみずから追討するという憂き目だけは避けられたといえる。そして、朝廷より勅勘を蒙った義国は、妻の出身である下野国に蟄居した。ちなみに、河内源氏4代棟梁は三男の義忠が継承するが、天仁2年(1109年)叔父の新羅三郎義光の謀略により暗殺されている。義国の妻は、下野国足利を本拠とする足利成綱(なりつな)の娘で、藤原秀郷(ひでさと)の後裔である藤原姓の足利氏であるため、藤姓足利氏と呼んで区別される。下野国に下向した義国は、この地を基盤として勢力の扶植に努め、足利荘を成立させた。そして、義国の次男である源義康(よしやす)が足利荘を相続し、足利氏を称して足利氏の祖となっている。こちらは藤姓足利氏と区別して、特に源姓足利氏と呼ぶ場合がある。また、長男の源義重(よししげ)は父の義国とともに上野国新田荘を開墾して新田氏の祖となっている。このため、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍する足利氏と新田氏は同祖の関係にあった。また義国は、兄の義忠が暗殺されると、義忠の長男である経国(つねくに)を関東へ呼び寄せて、武蔵北部へ進出させるなど勢力拡大を図った。このように、北関東における源氏の発展は、足利荘より始まったといえる。康治元年(1142年)足利義康は、鳥羽上皇が建立した安楽寿院(京都府京都市)に足利荘を寄進して、足利荘の下司職(げすしき)に任ぜられた。久安年間(1145-51年)義康が上洛すると、荘園の寄進がきっかけとなって鳥羽上皇に北面武士(ほくめんのぶし)として仕え、蔵人(くろうど)や検非違使(けびいし)に任官する。さらに陸奥守にもなり陸奥判官とも呼ばれた。当時の北面武士の同僚には、伊勢平氏の平清盛(きよもり)、美濃源氏の源光保(みつやす)などがいた。また、熱田大宮司である藤原季範(すえのり)の養女を娶っており、同様に季範の三女である由良御前を娶った源義朝(よしとも)とは相婿(あいむこ)となり、義兄弟の関係になっている。義朝は河内源氏6代棟梁となる人物だが、河内源氏の嫡流は5代棟梁の源為義(ためよし)から衰退しており、その長男であった義朝は関東に下向して、南関東の豪族を武力で従えて勢力を拡大していた。一方、北関東には同じ河内源氏の足利氏、新田氏が強大な勢力を持っていた。足利義康は中央にも顔が利くため、武蔵国の源経国を仲介して同盟関係を結んでいる。熱田大宮司家との婚姻もその一環であり、こうして義朝は北面武士として京都に復帰している。保元元年(1156年)保元の乱で、足利義康は後白河天皇側として参陣、『兵範記』によると平清盛3百騎、源義朝2百騎、源義康1百余騎が崇徳上皇の白河北殿を攻めたとある。翌保元2年(1157年)義康は31歳の若さで病没してしまう。

義康の長男である足利義清(よしきよ)は矢田判官代と呼ばれ、治承4年(1180年)後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉じて源頼政(よりまさ)が挙兵すると、これに加わった。そして、頼政と行動を共にしたが、頼政が宇治平等院の戦いで敗死すると京都から逃げ落ちている。さらに、治承4年(1180年)源義朝の嫡男で河内源氏7代棟梁である頼朝(よりとも)が伊豆国で平家打倒のために挙兵すると、諸国の源氏が一斉に蜂起し、義康の三男である足利義兼はいち早く馳せ参じて頼朝に協力している。一方、義清は木曽義仲(よしなか)の挙兵に加わっている。破竹の勢いで進軍する義仲が入京を果たすと、西海に逃れた平家を追討するため、足利義清を義仲軍の総大将として、侍大将の海野幸広(うんのゆきひろ)とともに京都を出発させた。そして、備中国水島(岡山県倉敷市)において、平家の本隊である平知盛(とももり)・重衡(しげひら)兄弟や、搦手の平通盛(みちもり)・教経(のりつね)兄弟が率いる軍勢と激突した。総大将の義清は、船戦に慣れた平家軍に大敗を喫し、この水島の戦いで義康の次男である足利義長(よしなが)や海野幸広とともに討死してしまった。そして、鎌倉の源頼朝の麾下に加わっていた足利義兼は、兄たちの死後、足利氏の家督を継ぐことになる。頼朝と義兼は従兄弟の関係にあったが、養和元年(1181年)頼朝のはからいにより、頼朝の妻の政子(まさこ)の妹で、北条時政(ときまさ)の娘である時子(ときこ)を、義兼の妻として迎えることになった。義兼は武勇に優れ、源範頼(のりより)の軍に属して治承・寿永の乱において平家と戦い、文治5年(1189年)奥州藤原氏征伐にも従軍するなど、数々の戦功をあげた。平家政権を打倒した頼朝は、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く。そして、義兼は鎌倉幕府の有力御家人として高い地位を獲得し、源氏の「御門葉」として将軍家一門としての処遇を受けている。この門葉は一門の中でも特に鎌倉殿への忠勤の目覚しい者のみが認められるもので、頼朝の実弟である範頼や義経(よしつね)でさえ認められず、格式では将軍家に次ぐ扱いを受け、他の御家人とは一線を画した。足利氏館は、平安時代末期から鎌倉時代初期にあたる元暦2年(1185年)〜文治5年(1189年)頃に足利義兼によって築かれたとする説が有力である。一説によると、祖父の義国が造営し、義康、義兼の3代の居館であったとも、12世紀の中頃に義康が構築したとも考えられている。いずれにしても、鎌倉時代の武士の居館跡が良い状態で残されており、非常に貴重な遺構である。建久6年(1195年)大和東大寺(奈良県奈良市)で平家に焼かれた大仏殿の再建を祝う法要が営まれ、頼朝も出席しており、義兼はこれに従った。その際、義兼は東大寺において出家したという。法名を鑁阿房義称(ぎしょう)と称した。この出家は、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったといわれる。鑁阿寺の蛭子堂(ひるこどう)は、義兼の正室である時子を祀り、その法名から智願寺殿とも呼ばれている。建久7年(1196年)義兼の鎌倉滞在中、時子が花見に出かけ生水を飲んだところ、次第に腹部が膨らんで妊娠したような姿になったという。義兼が鎌倉から戻ると、侍女の藤野は時子が藤姓足利氏の足利又太郎忠綱(ただつな)と不義密通したと讒言し、義兼は時子を疑った。そして、忠綱は義兼の追手によって、入飛駒の皆沢にて討ち取られた。この際、馬打峠、落窪、忠綱、札張(さっぱれ)、自害窪(じげっくぼ)、赤雪山(あけきやま)などの地名を残している。

一方の時子は「死後わが身体を改めよ」と言い残して自害してしまう。そして、時子の遺体を調べると、腹部から血ぶくれして太った無数の蛭(ひる)が出てきた。山野で飲んだ水が原因であったといわれ、義兼は大いに悔やむと、侍女の藤野の両足を2頭の牛の角に縛り、「牛裂きの刑」に処した。その後、時子の菩提を弔うために寺院が建立され、智願院法玄寺(足利市巴町)と名付けられた。この悲話について史実なのか不明であったが、昭和6年(1931年)法玄寺から伝承を裏付ける鎌倉時代の五輪塔が発見されたという。この五輪塔は「お蛭子さま」と呼ばれ、足利市の重要文化財になっている。建久7年(1196年)義兼は足利氏館の一角に大日如来を祀った持仏堂を設け、念仏三昧の日々を送ったといわれる。さらに理真(りしん)上人を招いて開山とし、鑁阿寺の前身となる堀内御堂(ほりのうちみどう)が誕生した。その後は樺崎寺(足利市樺崎町)に隠棲し、正治元年(1199年)に死去して樺崎寺に葬られた。生入定であったとも伝えられる。義兼の跡は三男の足利義氏(よしうじ)が継いだ。承久3年(1221年)承久の乱の戦功により三河国守護職となった義氏は、本拠を三河に移したため、足利氏館の居館としての役目は終わった。そして、義氏は堀内御堂を鑁阿寺と改め、文暦元年(1234年)伽藍を整備して足利一門の氏寺としている。足利氏は北条得宗家と婚姻を結ぶことにより鎌倉幕府での勢力を保った。また、将軍家が跡絶えると、源氏の嫡流と見なされるようになる。斯波氏、細川氏、畠山氏、今川氏、渋川氏、吉良氏、一色氏、仁木氏などの庶流を分出し、その勢力は全国に広がった。さらに嫡流では室町幕府を開いた足利高氏(尊氏)を排出しており、足利将軍家として君臨する。鑁阿寺は足利氏の氏寺として、足利氏発祥の地として崇敬を集め、手厚い保護を受けて発展した。足利氏館跡の南東隣には足利学校が存在する。足利学校の創建時期について明確ではないが、奈良時代の下毛野国(下野国)の国府に併設して国学が置かれたという8世紀説、『鎌倉大草紙』に基づいて平安時代の小野篁(おののたかむら)が承和6年(839年)頃に創設したという説などあるが、12世紀末となる鎌倉時代初期に足利義兼が一族の学問所として興したとする説が有力とされている。その後、室町時代に一時衰退に向かったが、永享4年(1432年)関東管領の上杉憲実(のりざね)が庠主制度を設け、鎌倉円覚寺(神奈川県鎌倉市)の僧である快元(かいげん)を庠主に招き、蔵書を寄贈するなどして中興した。教育の中心は儒学であったが、易学、兵学、医学も教えられた。享禄年間(1528-31年)に発生した火災で衰微するが、第7代庠主の九華(きゅうか)が北条氏政(うじまさ)の保護を受けて学校を再興している。天文年間(1532-54年)の頃には、全国から集まった学生数は3千人を越えており、宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と、足利学校の名は海外にまで伝えられた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、足利学校の所領も奪われた。また、豊臣秀次(ひでつぐ)によって蔵書が持ち出されそうになったが、新領主の徳川家康の保護を得て、足利学校は江戸時代を通して存続することができた。明治5年(1872年)足利学校が廃校となると、敷地の東半分が小学校に転用され、建物の多くが撤去されてしまう。大正10年(1921年)足利学校の敷地と、孔子廟や学校門などの現存する建物が国の史跡に指定され、平成2年(1990年)江戸時代中期の姿で建物と庭園の復元が完了している。(2012.05.20)

館跡の周囲を廻る水堀と土塁
館跡の周囲を廻る水堀と土塁

鎌倉時代後期に再建された鐘楼
鎌倉時代後期に再建された鐘楼

法玄寺の伝北条時子姫五輪塔
法玄寺の伝北条時子姫五輪塔

復元した足利学校の方丈と玄関
復元した足利学校の方丈と玄関

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