新井城(あらいじょう)

[MENU]

北条早雲によって滅ぼされた相模の名族三浦氏の終焉の地

二曲輪跡の傍らに立つ新井城碑
二曲輪跡の傍らに立つ新井城碑

三浦半島の南端、相模湾に突き出たリアス式海岸の岬に新井城跡が存在する。北に小網代湾、南に油壺湾の入江があるため三方を海に囲まれ、切り立った断崖の自然地形を生かした堅城であった。このあたりは安政大地震や関東大震災の際にかなり隆起したらしく、砂浜ができるなど地形そのものが変わったという。現在の城跡には、東大地震研究所、東大臨海実験所などの施設や、油壺マリンパーク等が建ち並んでいて、新井城の遺構はわずかしか残らない。本曲輪は東大地震研究所の敷地になっており、立ち入りは禁止されている。そして、油壺マリンパークが二曲輪にあたる。油壺湾に臨むハイキングコースの脇には土塁が残り、南端の空堀で囲まれた曲輪は御殿跡と伝承されている。東大臨海実験所の敷地内の崖に、広さ6、7坪あったという「千駄やぐら」と呼ばれる横穴がある。これは永正9年(1512年)三浦義同(よしあつ)が新井城に籠城したおり、兵糧を蓄えておいた大規模な食糧庫跡で、この千駄やぐらの存在によって3年間という長期的な籠城が実現できた。一駄とは米二俵のことで、米俵千駄を貯えられたという。嘉永6年(1853年)ペリー来航の際には、浦賀から密かに米俵が運ばれて、千駄やぐらに貯蔵されたといわれる。現在は東大臨海実験所の敷地にあるため見学はできない。千駄やぐらの南東側に弁天やぐらがあり、洞窟の一番奥には弁財天立像が祀られているという。この像は永正年間に三浦義同が新井城の守護神として勧請したものと伝わる。このほかに、6畳敷のやぐらが7つあった。主郭部の虎口には「内の引橋」と呼ばれた引橋が存在し、深い堀切に引橋が架かっていた。現在も引橋の下には堀切の跡がよく残っている。さらに主郭部から3km離れた外郭の大手口に「外の引橋」があり、「引橋」という地名や交差点名になっている。この付近が新井城のある台地への唯一の陸路であった。現在は地震による隆起のため当時の地形を想像するのは難しいが、引橋のあった内陸丘陵部には自然谷が入り込んで岬台地を断ち切る形となっていた。そのため戦闘の際に木橋を城内に引いてしまえば、新井城への侵入は不可能になったようである。この外の引橋から油壺に向かう途中、畑の中に2つの大きな塚がある。これは義士塚と呼ばれ、『新編相模国風土記』によると北条早雲(そううん)と三浦義同の戦いにおいて、85人力といわれた三浦義意(よしおき)の武勇に恐れをなした北条軍から、わずかに4人だけ義意に勝負を挑んだ武者がいた。しかし、4人は義意に敵わず討たれかけたところ、それを見ていた義同が「敵ながらあっぱれ」と命を助けて逃がしてやった。戦後、助けられた4人は義同に恩義を感じて殉死したという。村人はこの武士達のために塚を2つ築いて供養している。1つは4人の供養のもので、1つは刀剣を納めた刀塚という。また、もとは4つの塚があったともいわれている。油壺マリンパークの右手には、新井城の戦いで自害した三浦義意の供養塔がある。また、胴網海岸へ下る道の途中には、父の三浦義同の供養塔がある。伝承によると新井城は、鎌倉時代中期に三浦宗家が滅びた後、相模三浦氏を再興した佐原盛時(もりとき)が築いて居城にしたという。築城時期は不明である。三浦氏は桓武平氏良文流の大族で、坂東八平氏のひとつに数えられる。平良文(よしふみ)の曾孫である平忠通(ただみち)を三浦氏の祖とする。三浦半島を地盤に活躍した三浦一族は、強力な三浦水軍を擁しており、三浦半島から房総半島までの制海権を握っていた。鎌倉時代、三浦氏は御家人の筆頭として執権である北条氏に次ぐ勢力を保持していたという。

三浦義村(よしむら)は北条一門と血縁を結び、幕府内における地位を築きあげていた。しかし、次の泰村(やすむら)の代になると北条氏と対立関係が生じ、宝治元年(1247年)ついに宝治合戦が勃発する。三浦泰村とその一族は鎌倉の三浦泰村館(鎌倉市雪ノ下)で北条勢を相手に頑強に戦ったが、精強で知られた三浦武士団もついに源頼朝を祀る法華堂に逃れ、一族郎党および味方する御家人達500余人が自害することにより三浦宗家は滅亡した。この戦いで、三浦一族でありながら唯一北条氏に味方した佐原盛時は、三浦介を継ぐことを許されているが、領地は全盛期から大きく削られて三浦半島南部に限られたため、三浦氏の本拠である衣笠城(横須賀市衣笠町)は廃城となった。そして、盛時は新たな居城として新井城を築いて本拠にしたと考えられている。盛時によって再興された相模三浦氏は、北条得宗家の被官のひとりに過ぎず、かつての三浦氏の権勢とは比べものにならない。以後、新井城には三浦一族が居城している。やがて、鎌倉幕府は滅びて、室町幕府が成立するが、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)の対立によって、正平5年(1350年)に観応の擾乱が勃発する。この戦いで相模国守護職にまで勢力を回復していた三浦高通(たかみち)は、直義方の有力者である山内上杉氏に属して、その先陣として活躍した。窮地に陥った尊氏は南朝と和睦して後顧の憂いを断つと、直義を追って東海道を下った。直義方は駿河国さった山で迎え撃つが敗北、ここで三浦高通は尊氏に降っている。尊氏は直義を鎌倉に追い詰めて降伏させた。その後、足利直義は幽閉先で病死しているが、これは尊氏による毒殺ともいわれる。足利尊氏の勝利によって、三浦高通は相模守護を剥奪された。しかし、正平18年(1363年)山内上杉憲顕(のりあき)が鎌倉府に復帰して関東管領に就任したことを契機に、三浦高通もまた相模守護に復帰している。以後、相模守護は高連(たかつら)、高明(たかあき)と世襲された。応永23年(1416年)上杉禅秀の乱が勃発すると、三浦高明は鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に属し、守護職として相模の武士団を率いて参戦した。それにも関わらず、応永33年(1426年)相模守護は解任されて一色持家(もちいえ)に与えられた。持氏の母は一色氏の出身であり、足利持氏は上杉禅秀の乱を教訓として周囲を親族で固めたのである。以後、三浦氏が相模守護に復帰することはなかった。この出来事は、三浦高明の跡を継いだ時高(ときたか)の代に起こった永享の乱において、足利持氏を裏切る結果となる。永享10年(1438年)足利持氏は関東管領の山内上杉憲実(のりざね)討伐のため武蔵国高安寺に入った。いわゆる永享の乱の始まりである。この時、三浦時高は持氏から鎌倉警固を命じられている。上杉憲実は室町幕府に救援を請い、上杉氏を支援する幕府により鎌倉公方の討伐が実行された。三浦時高は幕府方に寝返り、鎌倉の守備を放棄して一旦退き、あらためて三浦半島から軍勢を率いて鎌倉に攻め込んだ。三浦党は御所に放火し、鎌倉を占領している。この時高の裏切りは持氏にとって致命的な打撃となり、足利持氏・義久(よしひさ)父子を自害に追い込んでいる。その後、永享12年(1440年)結城合戦においても、三浦時高は慣例によって鎌倉の留守の警護に当たっている。永享の乱ののち、三浦氏は扇谷上杉氏に従った。そして、三浦時高は子供に恵まれなかったため、扇谷上杉持朝(もちとも)の次男である高救(たかひら)を養嗣子に迎えており、高救は小田原城主の大森氏頼(うじより)の娘を娶っている。

このように三浦氏は、大森氏らと共に扇谷上杉氏の重臣に数えられる存在となり、その勢力は三浦郡だけでなく鎌倉郡にまでおよんだ。その後、三浦時高は隠遁して家督は高救に譲られた。ところが、時高に実子である高教(たかのり)が生まれてしまい、高教を高救の後継にしようと図ったため、高救・義同父子と対立する。文明18年(1486年)太田道灌(どうかん)が扇谷上杉定正(さだまさ)に暗殺されると、高救は息子の義同に相模三浦氏の当主を譲り、扇谷上杉家に復帰して当主になろうとした。上杉定正は三浦高救の弟にあたる。しかし、これに激怒した三浦時高は、上杉定正とともに高救父子を追放した。三浦高救は安房国に逃れたとされ、三浦義同は母方の祖父である大森氏頼を頼り、大森氏領内の総世寺(小田原市久野)で出家して道寸(どうすん)と号している。明応3年(1494年)道寸は大森氏の支援を受けて新井城を攻めており、三浦時高・高教父子を滅ぼして、三浦家当主と相模守護代の地位を手に入れた。ただし、この内訌については、道寸の軍事行動はなく、時高が没した際の混乱に乗じて道寸が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする説もある。その後、実子の荒次郎義意に家督を譲って新井城を与え、自らは大住郡の岡崎城(平塚市岡崎)にて領国の拡大を図った。明応3年(1494年)大森氏頼が没すると次男の藤頼(ふじより)が大森氏の家督を継いだ。しかし、小田原城(小田原市城山)は伊豆国から勢力を伸ばしてきた北条早雲によって攻略されている。三浦道寸は大森藤頼を保護して真田城(平塚市真田)に迎え、北条氏に対抗した。道寸は北条氏の住吉城(逗子市)を攻略し、弟の道香(どうこう)を配置している。しかし、永正9年(1512年)北条早雲は大軍で三浦道寸の岡崎城を急襲、三浦氏は懸命に防戦したが敗れて鎌倉郡の住吉城に逃れる。北条勢の追撃は厳しく、この住吉城も猛攻を受けており、城主の道香が深手を負って自害、住吉城も陥された。脱出した道寸らは三浦郡長坂、黒石、佐原と防戦しながら南下し、多くの兵士を失いながらも最後の拠点となる新井城まで撤退した。新井城は、引橋を引いて籠城すれば、容易に落せる城ではなかった。北条早雲は三崎高校東の通称「陣場」と呼ばれるあたりに陣所を構えて引橋と対峙した。さらに長期戦を覚悟し、三浦半島の入口に玉縄城(鎌倉市城廻)を築城して次男の北条氏時(うじとき)を配置、三浦氏の退路と補給路を断った。三浦道寸は扇谷上杉氏に援軍を要請するが、永正10年(1513年)救援に向かった武蔵江戸城(東京都千代田区)の太田資康(すけやす)が玉縄城付近で北条勢に迎撃されて討死してしまう。補給路を断たれた新井城であったが、三浦水軍による海路からの補給がおこなわれ、3年間にわたって籠城戦が繰り広げられた。しかし、ついに兵糧は尽き、永正13年(1516年)三浦道寸・義意父子は新井城の城門を開いて、北条勢に打って出て、華々しい最期を遂げている。三浦道寸は「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ 砕けて後(あと)は元の土塊(つちくれ)」という辞世を残して自刃している。一方、21歳の三浦義意は、身長が七尺五寸(約220cm)もあったようで、筋骨たくましく85人力の大力を誇っていた。軍記物によると、義意は白樫の八角棒を持ち、喚きながら敵中に打ち入り、四方八方へ逃げる者の頭部を狙っては散々に振り回した。ひと払いに5人10人、その有様は、およそ夜叉羅刹のごときで、死者500余人という。そして、義意は自らの首を掻き斬った。その形相は牙をむき、眼は逆さに裂け、鬼髪は針の如く立っていたという。

伝説によると、義意が自分の首を勢いよく斬ると、その首級は小田原まで飛んでいき、海岸の松の枝に掛かった。胴体は下の入江に落ちたといわれ、その場所を胴網海岸と呼び、この浜に網を干しにきた人が昼寝をすると必ずうなされたと伝わる。小田原の首は眼を開いたまま睨み続け、腐ることもなく、まるで生きているようであった。北条氏はこの生きる生首を供養しようと高僧を呼んでいるが、効果もないまま3年が過ぎた。この話を聞いた総世寺の忠室(ちゅうしつ)が、生首に「うつつとも夢とも知らず一眠り 浮世の隙(ひま)をあけぼのの空」と詠んで手向けたところ、たちまち生首は白骨になって松の枝から落ちたという。この時、空から「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたといい、その松の下に祠を建て義意の霊を祀ったのが現在の居神神社(小田原市城山)であると伝えられる。そして、新井城跡の近くにある海蔵寺(三浦市三崎町小網代)の本堂には、この飛首伝説を描いた絵馬が奉納されている。三浦氏の滅亡により、相模一国は北条氏によって平定された。この新井城の戦いで命を落とした城兵の血汐によって湾が赤く染まり、まるで油を流したような状態になったことから油壺(あぶらつぼ)の地名が付いたといわれる。その後も三浦水軍の残党である亀崎氏、鈴木氏、下里氏、三富氏、出口氏などが城ヶ島に立て籠もって抵抗を続けた。彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、北条軍は攻めあぐねた。『北条五代記』によると、早雲は建長寺(鎌倉市山ノ内)、円覚寺(鎌倉市山ノ内)に調停を頼んで、ようやく和睦したという。北条氏はこれら三浦氏の遺臣を取り込み、三崎十人衆として三崎周辺を領有させた。こうして三浦水軍は北条氏傘下の水軍として組織された。一方、新井城は早雲によって大規模な改築がおこなわれ、玉縄城の管轄下として玉縄衆に組み入れられて、安房国の里見氏に対する備えとした。新井城には城代として横井越前守が配置され、水軍基地のひとつとして存続したが、第一線としての役割は里見水軍と直接対峙する支城の三崎城(三浦市城山町)に移っていった。大永6年(1526年)里見実堯(さねたか)は里見水軍の数百艘の兵船を率いて三浦半島に侵攻、城ヶ島沖での海戦ののち、三崎付近に上陸して三崎城、新井城を攻略した。さらに、鎌倉に進軍して北条氏と戦った。この際に鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)は兵火で焼失している。また、弘治2年(1556年)里見義弘(よしひろ)は兵船80余艘を率いて、三浦半島の三崎に上陸して城ヶ島に陣を張った。これに対し北条氏も三浦水軍を繰り出すが、三崎城、新井城などが占拠され、一時は三浦四十郷を領有されたという。そして、新井城代に里見右京を置き、新井城を修復したと『房総軍記』に記述される。このように北条氏と里見氏は江戸湾を挟んで互いに侵攻を繰り返していた。3代当主の北条氏康(うじやす)は五男の氏規(うじのり)を三崎城主とした。北条氏規は三浦郡三崎宝蔵山のあたりに領地を持っていたことが分かっており、地理的要因から三浦水軍に対する担当であったと考えられている。さらに、紀伊国の海賊衆である梶原景宗(かげむね)を船大将として招き三浦半島に配置していた。三浦水軍は北条氏規の指揮下で北条氏の主力水軍として活躍している。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役で北条氏は滅亡、この機に乗じて里見義康(よしやす)は三浦半島に上陸して独自の禁制を出すが、これが秀吉から関東惣無事令違反として咎められ、上総・下総の2国を没収された。新井城は秀吉の関東平定によって廃城となった。(2011.09.25)

現在の「内の引橋」のあたり
現在の「内の引橋」のあたり

畑地に残された2つの義士塚
畑地に残された2つの義士塚

城兵の血汐に染まった油壺湾
城兵の血汐に染まった油壺湾

[MENU]